事故災害研究室・目次

本邦あるいは海外の事故・災害事例をまとめています。

火災
炭鉱事故
バス事故
鉄道事故
山岳事故
爆発事故
水害
その他
東日本大震災体験記
水難事故
群集事故
航空機事故

すべて無料で読めますが、有料のPDF版もこちらのサイトで購入可能です。

◆最新記事◆
2023/06/17 【加筆修正】岡山県真庭バス踏切事故

 ◆お読みになる前に◆
​ ※このルポ作成は、アマチュアの著者が「趣味」でやっています。専門性は期待しないで下さい。
 ※情報源は専門書や当時の新聞・裁判資料からネット上の噂話までさまざまです。
 ※よって、記事内容の厳密性と情報の網羅性についても期待しないで下さい。
​ ※基本「まとめサイトに毛が生えた」程度のものと思ってお読み下さい。
 ※全ての記事の文章は「無断転載・無断引用・パクリ」全部OKです。お好きにどうぞ。
 ※ただし、情報の正確さや信憑性については保証しません。
 ※それでも、ご使用の際は、引用元として示して頂けると嬉しいです。その点はお任せします。
 ※著作権は放棄していません。
 ※更新は超スローペースです。

◆秩父夜祭事故②(1947年)

 埼玉県秩父町(現・秩父市)の秩父神社を中心として、毎年123日に行われる秩父夜祭。

 このイベントで1935(昭和10)年に17名の死傷者が出る事故が起きたことは、先に「秩父夜祭事故①」で簡単に説明した。

 もともとこの秩父夜祭は、小規模な事故が起きることは珍しくなかったらしい。

 確かに、山車を担いで町内を練り歩く系のお祭りでは、ぶつかって壊しただのケンカになっただの、下敷きになって死傷者が出ただのという話はよく耳にする。

 よって秩父夜祭でも小規模な事故はたくさん起きているのだが、今回ご紹介する「②」は、この祭りがらみで発生した事故の中でも最悪のものだ。

 1947(昭和22)年123日、いつもの秩父夜祭の日のことだった。

 この年は、どんな理由からなのか、笠鉾・屋台の曳行は行われていなかったらしい。後述するが、前年にトラブルが起きていたので自粛していたのかも知れない。

 だが祭りの最後には、毎年恒例の仕掛け花火が打ち上げられた。

現在も行われる秩父夜祭の花火
現在も行われる秩父夜祭の花火

 この花火には数万人ほどの見物人が集まったらしい。資料に載っている数字がまちまちなのだが、とりあえず三万人~十五万人くらいは会場の秩父公園に集まったようだ。

 そして花火が終わったのが2245分頃。終了と同時に来場者たちはぞろぞろと動き出し、ほど近い御花畑駅を目指して一斉に団子坂を北へと進み始めた。

現場周辺の現在の位置関係。✖印が事故現場

 しかしこの途中、駅の東側にあった踏切の遮断機が下りてしまった。ちょうど、御花畑駅の周辺で電車が出入りするタイミングだったらしい。

 これによって群集の流れがせき止められてしまった。遮断機が下りているのだからと、そこで気持ちよく人の波がストップすればよかったのだが、押し寄せてくる人々は押し合いへし合い。ついに将棋倒しになってしまったのだった。

 行き場を失った人たちは道端の商店へ雪崩れ込み、店内を破壊してしまったという。

 とりあえず、踏切に人が押し込まれてそこへ電車がやってきて……などという大惨事にはならずに済んだようだが、結果としてこの事故によって6名が圧死し、20名ほどが重軽傷を負った。

 遮断機が下りているのに、どうして群集は大人しくストップせずに押し合いへし合いに至ってしまったのだろう? その点だけ疑問が残るが、まだ終戦から二年しか経っていない頃である。これは想像だが、現在のように踏切に警報機がついておらず、後ろから押し寄せてくる人々が、前方で人の流れがせき止められていたことに気付かなかったとしても不思議はない。

事故が起きた踏切

 なんとも不運な事故だが、祭りそのものにとってもこの事故は不運なものだった。

 実は、秩父夜祭の花火大会はもともとは秩父公園で行われていたのだが、1936(昭和11)年に一度会場を羊山公園に変更したという経緯があった。仕掛け花火で家屋が焼失したり死者が出たりする騒ぎになってしまい、秩父公園での花火の打ち上げが禁止されてしまったのだ。

 で、変更後の羊山公園で十年間ほど花火大会が行われたのだが、今度は1946(昭和21)年の祭りの際、公園付近の農作物が荒らされるという事件が発生。これを受けて、翌年1947(昭和22)にはまた会場が秩父公園へと戻ったのだった。

 そうしたら、秩父公園に会場を戻した途端に今度のような事故が起きてしまったのだ。事故防止のために会場を変えたのに、また事故が起きたのだから実に不運な話である。

 というわけで、主催者側も「やっぱり秩父公園はイカン」という結論に達したのだろう。この事故が起きた翌年の1948(昭和23)年には打ち上げ場所が再び羊山公園に移り、現在に至っている。

 なんかもう、ここまでくると会場がどこだろうと何かしらの事故は起きるのでは? と心配になるのだが、それでもその後、このお祭りで目を覆いたくなるような惨劇は起きていないようだ。

【参考資料】
秩父まつり会館
秩父夜祭の基礎知識「事故と規制」

back

◆秩父夜祭事故①(1935年)

  日外アソシエーツから出ている『昭和災害史事典』をよく参照する(ぼんやり眺めるともいう)のだが、1935(昭和10)年の項目の中に興味深い事例を見つけた。以下の通り書かれていたのだ。

12.3 夜祭見物客死傷 (埼玉県秩父郡秩父町)
123日、 埼玉県秩父町の秩父神社で夜祭の見物客17名が死傷した。
《データ》 死傷者17

  実にそっけない文章だが、17名死傷というとかなりの大惨事である。文章のそっけなさにかえって想像が膨らみ、かるく調べてみた。それで行き当たったのが秩父夜祭というイベントである。

 このお祭りはユネスコ無形文化遺産や国の重要無形ならびに有形文化財にも登録されており、全国的にも有名なものらしい。筆者は寡聞にしてぜんぜん知らなかった。

 イベントの内容は、「笠鉾(かさぼこ)」という豪華な山車を二基、それから屋台四基を曳いて町中を廻るというものらしい。

↑秩父夜祭の山車

 で、この秩父夜祭では、確認できるものとしてはこれまで五回、死傷者が出る事故が発生している。簡単にまとめると以下の通りである。 

1914(大正3)年123日…屋台の転覆で5名が負傷
1935(昭和10)年123日…17名が死傷(サイトによっては負傷者10数名とも)
1947(昭和22)年123日…花火見物帰りの人々による群集事故で6名が死亡、数十名が重軽傷
1965(昭和40)年…「中近笠鉾」の曳き手が轢かれて死亡
1969(昭和44)年…「中町屋台」の曳き手が轢かれて死亡

  とにかく情報が乏しいので、ネットで検索してすぐにある程度の詳細が分かるのは1947(昭和22)年のケースくらいである。それについては②として稿を改めてまとめておきたい。

 最初にご紹介した1935(昭和10)年の事故については、上記の通り、確かにネットでもちょこっとだけ情報があった。ここでは「詳細は不明だが、とにかく事故があったらしい」という程度の説明にとどめておく。

 【参考資料】
秩父まつり会館
秩父夜祭の基礎知識「事故と規制」

back

◆戦艦「リベルテ」爆発事故(1911年・フランス)

  『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』で紹介されている爆発事故である。

 世界初の無煙火薬である「プードルB」の危険性については、1907年に起きた戦艦「イエナ」の爆発事故の中で説明した。今後は、同じプードルBによって引き起こされたもう一つの戦艦爆発事故だ。

 1911929日のことである。

 フランスのツーロン港に停泊していた戦艦「リベルテ」は、1908年に竣工した戦艦で、地中海艦体に所属する前弩級戦艦だった。

 で、当日停泊していたリベルテの弾薬室にはいくつものプードルBが保管されており、これが案の定自然発火した。

 前方の弾薬室から、黄色い煙がもくもくと噴き上がる。大変ヤバイ状況だった。このままでは火災の高温で鉄製弾薬棚が溶けてしまい、そこにある何百発もの火薬に引火するだろう。

 艦長は、艦尾にいる被害対策班の動員を発令。機関長と砲術長にこう命じた。

「火災が起きている弾薬室に海水を注入しろ」

 命じられた二人は、ただちに海水バルブを開けに行く。しかしバルブは当の弾薬室の真上にあり、火炎と煙と小爆発がひどくて前に進めない。

 彼らは決死の覚悟で二回バルブへの接近を試みたが、いずれも失敗した。弾薬室は喫水線よりも下にあるので、バルブさえ開けば海水が流れ込んで消火できるはずだった。さぞもどかしかったことだろう。

 そのうち艦内は停電し、海水バルブがある下層甲板部分は真っ暗になった。どうしようもない状況で、機関長と砲術長は仕方なく艦長のところへ戻って報告する。

「とても無理です。バルブに近づくこともできません」

 しかし艦長は二人を罵った。

「バカモノ、すごすぐ引き返すとは何事だ。いかなる犠牲を払ってでも、現場に戻って任務を完遂せよ!」

 仕方なく、二人は再度弾薬室へ向かう。彼らは二度と帰ってくることはなかった。リベルテの艦体の前方三分の一が、ここで爆発して吹き飛んだのである。

 

 どぼずばああああああん。

 

 ウィキペディアでは、リベルテはこの時「事故により爆沈」とあるので沈んでしまったのだろう。爆発によって吹き飛んだ37トンの装甲板も、200メートル離れた場所に停泊していた戦艦「レピュブリク」にぶつかって大きな被害を出したという。レピュブリクにとってはとんだとばっちりだった。

 この爆発事故で、上述の機関長と砲術長を含む約200名が死亡した(艦長がどうなったのかは不明)。同年103日には、当時の大統領隣席のもとで国による葬儀が行われている。

 現在では、この大惨事は「予見可能で回避できた」とみられている。それもそのはずで、別稿で紹介した「イエナ」の事故を含み、プードルBによる海軍での爆発事故はそれまでにも複数回起きていた。またこの頃になると、同等の性能でより安全性の高い火薬も容易に入手できるようになっていたという。

 つまり、プードルBはこの時すでに時代遅れのブツであり、リベルテの爆発は危機管理上のミスによって発生したものだったのだ。ざんねんな事故である。

 

【参考資料】
◆ジェームズ・R・チャイルズ/高橋健次〔訳〕『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』草思社・2006
◆ウィキペディア

back

 

◆戦艦「イエナ」爆発事故(1907年・フランス)

  プードルBによって起きた事故である。

プードルはかわいい

 と、いきなり言われて「プードルBってなんじゃらほい、犬?」と、きょとんとしている読者諸君の顔が目に浮かぶ。実際、ただ単に「プードルB」と検索しても犬しか出てこない。まさか、この可愛い名前のブツが非常に危険な火薬のことだとは想像もつくまい。

 プードルBが発明されたのは1886(明治19)年のことである。作ったのはポール・ヴィエイユというフランス人化学者で、彼はこれによって当時の新型火薬だったニトロセルロースを安定化することに成功。歴史上初の無煙火薬の誕生で、それまでの火薬よりも強力だったことから軍事的にも重宝された。

 ちなみにプードルBのプードル(Poudre)はフランス語で「粉」のこと。またBはやはりフランス語で「白」を意味するブランシェ(Blanche)で、つまりプードルBは白い粉のことである。B火薬とか、発明者の名前をとってヴィエイユ火薬と呼ばれることもあるとか。

 ところがこのプードルBには欠点があった。貯蔵すると劣化し不安定になり、自然発火するのだ。これは時間が経つと、揮発性の高いアミルアルコールが放出されて窒素と混ざり合うためらしい。そうすると、低温でも引火しやすい亜硝酸アミルが生じるのだ。

 ……と、したり顔で説明しているが、お気付きの通り参考資料の受け売りである。だから間違った説明になっているかも知れない。とりあえずここでは、プードルBという火薬は自然発火することがある、とだけ覚えておけば十分である。

 1902(明治35)年に竣工したフランス海軍の戦艦「イエナ」が、このプードルBの発火によって爆発事故を起こしたのは1907312日のことである。

 まず34日、イエナはトゥーロンという港町のドックに入渠した(ドックとは大型船が入る施設のこと)。目的は船体の整備と舵軸の調査のためである。

トゥーロンの港町
 イエナはそこでしばらく停泊していたが、12日の昼過ぎに左舷100mm砲の弾薬庫で爆発が発生したのだった。

 どぼずばああああああん。

 この爆発は午前135分から245分の間まで続いた。爆発によって破壊されたのはイエナだけではなく、その周辺もだいぶやられたようだ。隣のドックに入っていた戦艦シュフランは、爆風にあおられて転覆寸前のところまでいっている。

 周辺に水があればよかったのだが、悪いことにそこは「ドライドック」で水がなく、火元の弾薬庫に注水できない。

「やばい、なんとかしろ!」

 そこで鎮火を試みたのが、近くに停泊していた戦艦「パトリエ」である。

「よし、俺に任せろ。ゲートをこじ開けてドックに水を流し込んでやる」
「一体どうやって?」
「砲撃に決まってるだろ」

 なかなかのびっくり大作戦である。パトリエはドックの門を砲撃し、そこから注水して浸水させようとしたのだ。しかしパトリエの砲弾ははじき返されて失敗した。みんな、さぞガッカリしたことだろう。

 その後、どうやったのかは不明だが、注水はド・ヴェソ・ルー(de Vaisseau Roux)少尉によって行われている。だが少尉は飛んできた船の破片に当たり殉職している。おそらく命がけの注水作戦だったのだろう。

 こうしてイエナは破壊された。この事故では民間人2名を含む120名が死亡した。

 イエナの艦歴はなかなかのものだったようだ。フランス領北アメリカの港を訪問したり、フランス大統領がイタリア国王を訪問する際に観艦式に参加したり、ベスビオ火山の噴火時にはナポリ救援のために派遣されたりしている。

 しかし、さすがにこの爆発事故で使い物にならなくなったのか、1908年には「標的艦」として砲撃訓練などの標的に用いられている。そして1912年にはスクラップとして売却された。

 それもこれも、弾薬で使用されていたプードルBのせいである。このイエナの一件は火薬スキャンダル(l'affaire des poudres)と呼ばれ、当時の海軍大臣は辞任する羽目になった。

 プードルBによる戦艦爆発事故はこれだけではなく、1911年にも「リベルテ」が砕け散っている。これについては稿を改めて説明したい。

 

【参考資料】
◆ジェームズ・R・チャイルズ/高橋健次〔訳〕『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』草思社・2006
◆ウィキペディア

back

 

◆ハンガリー炭酸製造会社爆発事故(1969年)

  『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』という本がある。

 著者はジェームズ・R・チャイルズ。チャイルズと言っても、ファミコンゲームの名作『チャイルズクエスト』とはもちろん何の関係もない。この本では世界のさまざまな事故事例がさらっといろいろ紹介されており、中にはスリーマイルアイランドの原発事故やチャレンジャー号の爆発事故など、事細かに解説されている事例もあって読んでいて飽きない。

 で、この『最悪の事故が起こるまで~』の冒頭で挙げられているのが、1969(昭和44)年にハンガリーで発生したというすさまじい爆発事故である。

 本で読む限りでは本当にすさまじい、想像を絶する事故なのだが、どちらかというとマニアックな事故事例に入るらしくググッてもなかなか情報が見つからない。皆無ではないが、ほんの数行程度だ。

 また『最悪の事故が起こるまで~』でも、冒頭で簡単に経緯が書かれている程度である。それでもないよりはマシなので、これに依拠しながらご紹介しよう。

 

   ★

 

 1969(昭和44)年11日に、この事故は起きた。

 場所はハンガリーのレプツェラクという場所である(このレプツェラクという地名自体、検索しても出てこない。なんなんだ?)。ここには、天然ガスから二酸化炭素を取り出して販売している炭酸製造会社があった。

 この会社には、アンモニアによって冷却されている巨大タンク四基と小型ボンベがあり、両方に液体二酸化炭素が貯蔵されていた。

 ここで、液体二酸化炭素について簡単に説明しておこう。と言っても、筆者もよく知らないので単なる知ったかぶりだが。

 液体二酸化炭素とは、要するにドライアイスの「もと」である。

 知っての通り、二酸化炭素は通常は気体である。が、これに強い圧力をかけると液体になる。これが液体二酸化炭素で、さらにこれを空気中へ急激にブシューッと噴出させると、今度は一気に圧力が下がって、気化熱と急激な膨張によってすぐに凍結し、固体になる。

 この段階では、凍結した二酸化炭素はまだ「雪」のようなものである。これをプレス機などで圧縮するとドライアイスになるのだ。この圧縮のやり方によって、さまざまな形のドライアイスを作ることが可能になる。

 我々の最も身近にある液体二酸化炭素といえば、生ビールの押出し用に使われる緑色のボンベだろう。あれには液体二酸化炭素が詰まっており、外に出てくる時はおよそマイナス60度の状態になっているのだ。

 さて先述の通り、このレプツェラクの工場では、天然ガスから二酸化炭素を採取していた(副生ガスからも二酸化炭素は取れるらしい)。ところで、こうしたガスはプラントに到着した時点では僅かな水分を含んでいるもので、これは取り除かなければならない。しかし、ガスにたまたま水分が残ることもある。そうなると、計器や機器、残量計や安全弁まで凍結してしまうこともあったという。

 素人の解釈だが、液体二酸化炭素はとても冷たいから、一緒になっていた水分も凍ってしまうということだろう。

 ここまで見ただけでも、この工場のボンベにはとても恐ろしいものが詰まっていたことが分かる。

 ちなみに、水に炭酸ガスを入れたいわゆる「ソーダ水」の大量生産が可能になったのはハンガリーが最初らしい。なんでも当地ではワインを炭酸水で割る飲み方が好まれているそうで、それだけ炭酸水および炭酸ガスは需要というか作り甲斐があるのかも知れない。

 この工場では11日の深夜に操業を開始した。その中で、オペレーターが「Cタンク」なるタンクへ液体二酸化炭素を送る操作を行っている。これは参考資料によると「液体二酸化炭素をたくわえておくボンベが足りなくなった」ことが理由だったそうで、ここらへんの因果関係はよく分からない。

 問題は、オペレーターが液体二酸化炭素を送り込んだ「Cボンベ」が、およそ30分後に爆発したことである。前日の1231日にプラントを閉めた時には、各タンクには少なくとも20トンの液体二酸化炭素が入っていたというから、タンクはすでに満タン状態だったのかも知れない。ここらへんの詳しい錯誤の内容や原因も定かでない。

 とにかく「Cタンク」は爆発し、その破片によって「Dタンク」も破裂してしまった。

 どぼずばああああああん。

 ここからがピタゴラスイッチである。二基のタンクが爆発したことで、まず周囲にいた四名が死亡。さらに「Aタンク」も基部固定ボルトから外れてしまい、直径約30センチの穴が開いた。すると今度は、その穴から高圧の液体二酸化炭素が噴出し、なんと「Aタンク」はロケットよろしく地上から飛び立ってしまったのだ。

 離陸したAタンクは建物の壁を突き破り、大量の液体二酸化炭素が洪水のように床にまかれた。

 これにより、近くにいた五名が瞬間冷凍された上に、室内の温度は摂氏マイナス78度まで低下。たちまち部屋中が壊れた冷凍庫のように分厚いドライアイスで覆われ、もはや呼吸するのも不可能な状態となった。漫画『ワンピース』のヒエヒエの実の能力者による技「アイスエイジ」のような状態が、現実世界に出現してしまったのである。

 瞬間凍結してしまった五名は無事だったのだろうか……。だがとにかく最初に述べた通り、この事故はこれ以上詳しい情報がないので、その後のことはまるきり不明である。そもそも事故が起きた会社名すらも分からない。モヤモヤする話だ。

 

【参考資料】
◆ジェームズ・R・チャイルズ/高橋健次〔訳〕『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』草思社・2006
ドライアイスのつくり方は?│コカネット
炭酸ガスのつくられ方|一般社団法人日本産業・医療ガス協会
炭酸ガス圧力調整器 [ブログ] 川口液化ケミカル株式会社
炭酸ガス容器の特徴 CO2 [ブログ] 川口液化ケミカル株式会社

back

 

◆東海道線「列車見送り客」接触事故(1938年)

 日外アソシエーツの本で『昭和災害史事典』という、まるで当研究室のために書かれたとしか思えないシリーズが存在している。

 筆者の手元には1996年発行の第二版があり、時間があるとパラパラ眺めたりしている。事典なので、書かれているのは各災害の名称と簡単な説明だけなのだがとにかく興味深い。

 で、そのうちの「①昭和2年~昭和20年」編を紐解くと、1938(昭和13)年1月に発生したという、日付も分からない鉄道事故が紹介されている。引用すると、以下の通りだ。

 

東海道線列車見送り客接触事故(愛知県西春日井郡西枇杷島町)
1月、愛知県西枇杷島町で、出征兵士を見送ろうとした客が国鉄枇杷島駅近くの線路わきに集まった際、東海道線の列車にはねられて30名余りが死傷した。

 

 分かるのは、これだけである。30名余りが死傷したというほどだから大惨事なのだが、発生した日付も、正確な死傷者数も不明というのは奇妙な話だ。もちろんググッてもこの事故の情報は一切見当たらない。

 引用した『昭和災害史事典①昭和2年~昭和20年』の編集後記にも、この期間に発生した災害は記録の発掘が難しいとあった。

 また戦争末期にもなると、言論統制化・戦時下という特殊な状況だったため、報道管制などによって公表されなかったものもあるという。

 上記の事故の詳細な情報が不明である理由が何なのかは分からないが、簡単に記録が見つからないのも仕方ないことなのかも知れない。

 もちろん情報が揃っている事例はできるだけきちんと執筆するつもりだが、これからはこういう詳細が不明な「小ネタ」もどんどん出していこうと思う。

【参考資料】
◆日外アソシエーツ『昭和災害史事典①昭和2年~昭和20年』1995

back

スポンサー