まえがき
事故災害の歴史が好きな人には言うまでもない前置きだが、紫雲丸事故は1955(昭和30)年5月11日に発生した、船舶の衝突・沈没事故である。「国鉄五大事故」のひとつとしても有名だ。
国鉄はこの前年に青函連絡船・洞爺丸の遭難事故も起こしている。それから一年も経たないうちに、また海上での大規模な事故が発生したわけだ。
このように、似たようなタイプの大惨事がなぜか短期間に集中して頻発するという現象は珍しくなく、火災でも鉄道事故でも航空機事故でもそういうのは存在する。洞爺丸事故と紫雲丸事故はその海難事故バージョンと言えるだろう。
宇高航路とは
まず最初に、事故が発生した宇高連絡船の簡単な歴史について(興味がないなら読み飛ばしてもよい)。
近代日本において、宇高連絡船は、瀬戸内海を横断して本州と四国を結ぶ交通の大動脈でもあった。
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瀬戸大橋 |
山陽本線の岡山から宇野までの鉄道(国鉄宇野線) が開通したのは1910年(明治43)年のことで、これと同時期に宇高連絡船も開通している。昭和までは旅客専用・車両運送用の連絡船がそれぞれ航行していた。
しかし双方を分けて運送するのはやっぱり不便である。そんなこともあって、戦後はどっちも同時に運搬できるように変更された。
この変更にあわせて、1947(昭和22)年~1948(昭和23)年にかけて完成したのが新型の宇高連絡船だったのだ。
建造されたのは紫雲丸・眉山丸・鷲羽丸の三隻。これらはいわゆる姉妹船であり、メインは紫雲丸だったようでいずれも「紫雲丸型」と呼ばれたという。総トン数1,449トン、全長76メートル、全幅13.2メートルのこの三姉妹は、どれも大型客船として活躍した(とはいえ、洞爺丸に比べるとひと回り小ぶりである)。
ただし、この姉妹船のうち、たぶん「長女」と言ってもいいであろう紫雲丸は以下の通り何度も事故を起こしている。
・1951年(昭和26)8月……高松港内で「第二ゆす丸」と衝突
・1952(昭和27)年4月……高松港外で石に接触
・同年9月……高松港内で小型船と衝突
不吉すぎる。
後でちらっと触れるがこの「長女」、先に挙げた「紫雲丸型」の三隻の中では最も縁起の悪い船でもあったのだ。
さて、事故が起きた当時の日本は終戦直後の混乱もようやく落ち着き始めた頃だった。
朝鮮特需のおかげで、にわかに人や物の移動も活発化。そんな中で宇高航路は、前述のとおり四国と本州を結ぶ海運の大動脈のひとつとして大きな位置を占めるようになり、一日往復約60便が運航されていた。
紫雲丸の構造
これはおまけみたいな章だが、紫雲丸の構造についてもう少しだけデータを掲載しておこう。以下で簡単に箇条書きにしておくので、これで分かる人はうまくイメージしてほしい。雑な書き方だが、つまり紫雲丸はこういう船だったということだ。
◆客室の特徴
・客室は、上甲板に組み上げられた三層の客用甲板に配置されていた
・一等・二等客室が配置された最上階の甲板は、船体全幅にまたがっていた
・一方、三等客室が配置された二層目と上甲板の客室は、両舷側に沿った幅の狭いものだった(真ん中に車両甲板の空間があったため)
◆機関
・最大出力2,150馬力の蒸気タービン
・最高速力14.7ノット
◆旅客定員:合計1,500名
・一等客室:20名
・二等客室:167名
・三等客室:1,313名
◆航海時間
・片道1時間15分
・一日8往復半
紫雲丸の出航
1955(昭和30)年5月11日の早朝、瀬戸内海は深い霧に包まれていた。
もともと瀬戸内海は海霧が発生しやすい。午前5時30分、高松地方気象台は宇高航路に対して気象通報を発表した。
「視程50メートル以下の濃霧が発生するよ~」
しかしこの時、紫雲丸の周辺の状態はそんなに悪くなかった。船橋から400~500メートル先の漁船が目視できたのだ。
「あれっ、これなら出港できるんじゃね?」
というわけで、紫雲丸のN船長は定刻通り午前6時40分に紫雲丸を出港させた。この日の第一便である。
だいたい予想がつくと思うが、この時の判断が後の悲劇へとつながっていく。
この時の乗客は781名と、早朝にしては人数が多かった。それには理由があり、うち349名は修学旅行の生徒と引率の先生だったのだ。内訳は以下の通り。
◆広島県と島根県の小学校……155名
◆愛媛県の小学校……77名
◆高知県の中学校……117名
また、車両甲板には12両の貨車と荷物車、そして郵便車2両が搭載されていた。
第三宇高丸の出航
さて、この事故のもう一人の主役が第三宇高丸である。
紫雲丸と衝突することになる第三宇高丸は、まだ就航後間もない新鋭の連絡船で、レーダーや無線電話などの最新航海計器を備えていた。
この船に限らず、紫雲丸も含めて、当時は霧の中でもレーダーを頼りに進むのがトレンドだったのだ。
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第三宇高丸(Wikipediaより) |
そんな第三宇高丸は午前6時10分に宇野桟橋から出港。紫雲丸が高松港を出るよりも30分早い。港のあたりは霧もなくただの曇り空で、順調な滑り出しである。1282総トン、貨車18両を載せた同船は12.5ノット(時速約23キロ)で高松港を目指した。
しかし出港から10分後の午前6時20分、高松地方気象台発表の濃霧警報が無線で届く。
「濃霧が発生するよ~」
6時35分、これを受けて第三宇高丸はレーダーを待機させた。
この頃には周辺海域で薄い霧が広がり始め、あっという間に視界は400~500メートルまで落ちた。ここで第三宇高丸は、ルール通り断続的な霧中汽笛を鳴らし始める。
出港から41分が経った6時51分には、霧はさらに濃くなっていた。
高松港まではあと34分。
二隻の位置関係
さて、事故当時に両船がどういう位置関係にあったのか、ちょっと整理してみよう。
結論をざっくり言えば、紫雲丸が「上り航路」で第三宇高丸が「下り航路」である。両船は途中ですれ違って、紫雲丸は宇野港へ、第三宇高丸は高松港へ到着する予定だった。
で、船の世界では「右側通行」が基本である。自動車とは反対だ。
さらにこの航路では、上り航路と下り航路が大きく離れるようにルールが決まっていた。
これは「分離航路」「分離通航方式」などと呼ばれ、このルールに従えば、両船がすれ違う際は大きく距離をとって、お互いが左側に見える形になるはずだった。
さらに瀬戸内海では衝突防止のために、視界が50メートル以下になるといったん船を止めて定期的に汽笛を鳴らさらなければならなかった。
それでも進むのであればスピードを落とし、見張りを増やして警戒を強めるべし、というのが鉄則だったのだ。これなら衝突のしようもない。
しかし現実に衝突は起きた。しかも先述した分離航路のルールは、1950(昭和25)年に起きた衝突事故が原因で定められたものだったのだが、この事故の当事者の一方が他ならぬ紫雲丸だったのである。
紫雲丸の事故が原因で定められたルールが紫雲丸によって破られ、しかも大惨事になってしまったのだからやり切れない話だ。
「すれ違い」を目論むも
さて紫雲丸の視点に戻ろう。同船は出港時の視界を信頼して出てきたのはいいものの、しばらく進む頃には濃霧に遭遇し、視界が50メートル前後まで落ちてきた。
「これはいかん。ストップ!」
機関両舷停止である。しかし、10.8ノット(時速約20キロ)の全速力で進んでいた船体は慣性で進み続けた――。
6時51分、一方の第三宇高丸のレーダーに紫雲丸らしき輝点が映った。場所は2.5キロ先である。ルール通りに距離を取ってすれ違えるように、右に舵を切る。
2分後の6時53分には、レーダーの点は1.7キロまで近づいていた。ただ霧が濃すぎて視認はできず、かろうじて紫雲丸の汽笛が聞こえるだけだ。
第三宇高丸は、両船の距離は十分だと判断して少しスピードを上げた。紫雲丸はといえば惰力で進みつつ、レーダーで第三宇高丸の位置を確認している。
「このままでは右舷側がぶつかりそうだ。よし、曲がって避けよう」
N船長はそう判断し、安全のため転舵した。そして15度ほど左へ曲がった。
ここで問題だったのは、なぜか紫雲丸が曲がった方向が「左」だった点である。この時は「右」に曲がるべきだった。
少し想像してもらうと分かるが、船は「右側通行(通航)」が原則だ。そこで左折すれば、相手の船の進路を遮る形になってしまう。悪ければ衝突だ。
にもかかわらず、なぜ紫雲丸が左折したのかは謎である。第三宇高丸を示すレーダーの輝点が、紫雲丸の船首よりやや右に見えたから……という説もあるが、本当にそうだったのか、見間違いはなかったのか、レーダーは正確だったのか、これらの疑問は謎のまま残ることになった。紫雲丸のN船長はこの事故で亡くなったからだ。
「その時」
午前6時56分。濃霧の中、紫雲丸と第三宇高丸は互いに100メートルまで接近していた。
第三宇高丸のブリッジからは、紫雲丸が突然船首を左に振ってこちらへまともに向かってくるのが見えた。メーデー民ならおなじみの「that son of a bitch is coming!」である。
二隻の船は、相対速度で言えば時速約40キロの勢いで接近していたことになる。紫雲丸はスクリューを逆回転させて急ブレーキをかけ、第三宇高丸は両航機停止で勢いを殺そうとした。
しかし衝突を避けることはできなかった。
第三宇高丸の船首が、紫雲丸の右舷後部に約70度の角度で突っ込み、船体に高さ4.5メートル、幅3.2メートルの大穴を開けた。
その穴から海水が毎秒数十トンもの勢いで流れ込み、機関室やボイラー室を直撃する。電源が遮断されて船内は真っ暗闇になり、紫雲丸の船尾はたちまち沈み始めた。
第三宇高丸の救助活動
まずい、このままでは紫雲丸が沈む――。衝突した第三宇高丸は、ただちに紫雲丸を「押す」作戦に出た。
船首は紫雲丸に突き刺さったままの状態である。ここで即座に船首を抜いたら、穴から海水がさらに流れ込むだろう。そこですぐには船首を抜かず、紫雲丸を高松港の岸壁か海岸まで押し続けることにしたのだ。
また、紫雲丸の乗員たちは救命胴衣を乗客へ手渡して、甲板伝いに第三宇高丸に移そうと誘導を始めた。
しかし簡単にはいかない。修学旅行中だった学生たちの中には恐怖で身体がすくんで動けない子もいた。特に女子生徒の中には、誘導されても恐ろしさのあまり第三宇高丸の甲板へ飛び移ることを拒否する子もいたという。
この時、船内にいたアメリカ人宣教師によって救助された当時の女子生徒の一人は、沈んでいく人を振りほどいて浮上したという記憶を後年になって明かし「あれより怖いものない、地獄というのはああいうものだ」と話している。
なお、救命胴衣は天井裏や客席側面に収納されており、子供の手が届きにくい場所にあったことも後の悲劇の一因となった。
当時の子供たちの証言は、こちらのサイトで今も読むことができる。
偶然現場を通りかかったイカ漁の小舟も救助に参加し、約50名を救出。
だが、衝突から5~6分経った午前7時2分頃には、紫雲丸は左側に横転した状態のまま水面下に消えてしまった。
結果、781名の乗客のうち168名が命を落とした。負傷者も、船客107名と乗組員15名あわせて122名に上った。
死者の内訳は以下の通りで、乗組員2名、一般乗客58名、そして修学旅行の生徒と教師たち108名。この108名のうち8名が教師で100名が子供、そのうち81名が女子生徒だった。
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沈没した紫雲丸(Wikipediaより) |
船長の消息
紫雲丸の乗員たちは最後の瞬間まで救助活動に尽力した。ではN船長はどうなったのかというと、先述の通り、彼は船と運命を共にしている。
少し遡るが、第三宇高丸と衝突した瞬間に、N船長は次席二等運転士に対して「やった!」と声を発していたという。字面だけ見ると、うっかり「何を喜んでいるんだ?」と思われそうだが、これはおそらく「やってしまった!」の意味だったのだろう。
沈没当時の状況から、彼は確実に救助されうる状況にあったようだ。だが気が付いた時には彼の姿はどこにもなく、どうやらブリッジに閉じこもって紫雲丸と運命を共にしたらしい。
一方、第三宇高丸は船首が破損した程度で済み、致命傷は免れている。
障害となった「船長の死」
神戸地方海難審判理事所はすぐに動き出し、高松へ職員を派遣すると第三宇高丸の船体を調査。もちろん乗組員からの聞き取り調査も行われた。
しかし、肝心の紫雲丸のN船長は自ら死を選び、船と一緒に沈んでいる。
この事故の一番のポイントは「なぜ紫雲丸は右折せず、わざわざ第三宇高丸の進路を遮る形で左折したのか」という点にあった。N船長が亡くなっている以上、その理由を確認するのは不可能だ。
ここまで読んだ読者の皆さんは、タイタニック号の事例などを思い出して、なるほどN船長はいわゆる「船長の最後退船」あるいは「船長は船と運命を共にする(The captain goes down with the ship)」という世界的な伝統に従って自決したのだろう、と考えるかも知れない。
読者の皆さんも聞いたことがあるだろう。船が沈没する際は、船長は船と運命を共にしなければならないというアレである。
だがこれは、どうも西欧の騎士道精神に基づきあくまでも「船長は最後に退船する」という慣習から派生したものに過ぎず、何も船と運命と共にしなければならないという掟があるわけではないらしい。
しかも船長がそういう形で自決するのは日本ならではの話で、明治時代以降に海軍の「美学」として定着したものだという節がある。そこには、船長はいわば戦国武将のような存在で、船を失うことは城を失うことに等しい、よって沈没イコール落城であるというイメージがあったのだろう。そこでは潔く死を選ぶのが美学だとされたのだ。
海外では、タイタニック号のケースのように、船長が船とともに死を選ぶことは珍しいのだとか。
とはいえ、「海外では船長は死を選ばない、日本では船長は死を選ぶ」と決めつけられるものでもなさそうだ。ウィキペディアを見ただけでもお腹いっぱいになるが、海外でも船長が船とともに亡くなったり、日本でも船長が死を選ばなかったケースはあるようである。何事も一概には言い切れないということだろう。
要するに「船長は沈没時に自決すべし」などというルールは明治時代の海軍が勝手に創造した、狭い世界の狭隘な「美学」に過ぎないということだ。
下手にそれを実践されると、いざ海難事故が起きた時に、事故の原因究明に支障を来たしかねないのである。紫雲丸事故がまさにそうで、N船長が責任を感じたのは分かるが、少なくとも現代の目線で見れば、彼は生き残って原因究明に協力すべきだったと言えるだろう。
海難審判による判断は?
さて、事故から一か月が経った6月11日には海難審判がスタート。結論から言うと、事故の原因は「紫雲丸と第三宇高丸、両方の船長の過失」ということになった。どちらの船長も海上衝突予防法に違反したと判断されたのである。
素人の視点だと、悪いのは第三宇高丸の前で急に左折した紫雲丸じゃないの? と思うところだが、それはもちろんのこと、第三宇高丸も速力を落とさずに走ったことが問題視されたのである。
さらに事故から八年が経った1963(昭和38)年3月19日には、高松高等裁判所で刑事裁判も開かれ、紫雲丸の航海士と第三宇高丸の船長に有罪判決が出ている。前者は禁錮二か月(執行猶予一年)、後者は禁錮一年六か月(執行猶予二年)となった。
海難事故の場合、安全確保のための懲戒処分として海難審判が行われ、それとは別に個人への法的責任追及として刑事裁判が行われることもある。船乗りは、事故を起こすと両方で裁かれるのだ。
左折の謎
この事故の一番の謎は、やはり、なぜ紫雲丸が左へ舵を切ったのかという点だろう。
N船長が亡くなっているので真相は不明だが、とにかくレーダーによって第三宇高丸の存在は確認していたはずだから、その上でN船長は「右折はできない」と判断したのだろう。その判断の理由が分からない。
上述の裁判では、第三宇高丸も紫雲丸もどっちも責任があるという結論になったが、事故が起きた決定打になったのがN船長の判断ミスだったのは明らかである。
相手を左舷側で見ながらすれ違うのが、航海のルールである。さらに先述の通り宇高連絡船の場合は、過去の事故の教訓から上り下りの航路を従来よりも大きく分離していた。だから普通に考えれば衝突はありえないはずだった。
しかし、濃霧で視界が極端に低下している状況では航路をきっちり守るのも至難の業だ。またレーダーも万能ではない。輝点によって相手の位置は分かっても、それがどっちに進んでいるかは即座には分からないという欠点もあった。
事故防止のための対策は取られていたが、そうした防止策もまた、船長の経験と勘によって運用されていたところがあったのだろう。そこで生じたミスが大惨事に繋がってしまったのだ。
その他の事故
さて最初に少し書いたが、紫雲丸は以前にも複数の事故を起こしていた。
最初の事故は1950(昭和25)年3月25日に発生。姉妹船である貨物船・鷲羽丸と衝突し、沈没して7名が死亡している。
その後、引き上げられて改装を経て再就航したものの、1951(昭和26)年8月に高松港内で小型船と接触。また1952(昭和27)年4月には航行中に海底の捨て石によって船底を損傷し、さらに同年9月にも高松港内で別の小型船と衝突した。
もともと備讃瀬戸の航行海域は狭く、船舶の往来が多い。よって衝突事故の確率も高いと考えられるのだが、それにしても短期間でここまで何回も事故を繰り返したのはちょっと異常である。
この事故歴から「紫雲丸は不吉だ」との評判が立っていたという。
もともとこの船名は高松市にある紫雲山から採ったものなのだが、実は「紫雲」の本来の意味は「人の臨終に際して仏が乗って迎えに来る紫の雲」らしい。しかもシウンという発音は「死運」にもつながるともされた。
そして発生した五回目の事故が、この第三宇高丸との衝突事故だったのである。
このように不名誉な事故歴を持つ紫雲丸だが、現在では「紫雲丸事故」と言えば最も犠牲者数が多いこの五度目の事故を指すのが一般的である。数ある紫雲丸絡みの事故の中でも最も代表的な、ザ・紫雲丸事故というわけだ。
そしてこのザ・紫雲丸事故の後、引き上げられた船体はその後も使用されている。さすがに名称は変えようということになったのか「瀬戸丸」と改名し、その後は事故を起こすこともなかった……と言いたいところだが、1960(昭和35)年には高松港で中央栄丸と衝突している。
いい加減にしろよ。もういっそ誰か引導を渡してやれよ。
という声もきっとあったと思うのだが、この紫雲丸改め瀬戸丸はその後もしぶとく航海し、終航を迎えたのは1966(昭和41)年3月30日のことだった(解体は6月)。
それから…
最後はざっくり、この大惨事がもたらしたいくつかの影響を説明しておこう。
多くの修学旅行生を含む168名もの人命が失われたことで、国鉄はかなり批判されたようだ。そこで採られた再発防止策と安全対策は以下の通り。
①船舶に頼らない輸送体制への転換
②宇高連絡船管理部の設置と管理体制の強化
③関係者の責任の明確化
④救命設備の充実
⑤船体構造の改良
⑥航路の上下便の基準航路の完全分離
⑦気象情報の収集体制の整備
⑧船員への教育
上記の①と大きく関わってくる話として、四国と本州を結ぶ「大橋」建設の具体化が挙げられる。先に起きた洞爺丸事故は青函トンネル建設を促進したわけだが、紫雲丸事故は1988(昭和63)年の瀬戸大橋の開通、また1998(平成10)年の明石海峡大橋の架橋を促したのだった。
前者の瀬戸大橋は、宇高連絡船の事故防止対策が尾を引いて、必要に迫られて開通したところもあったようだ。事故以来、同航路では悪天候時に出航を控えるようになったのである。この「出航控え」、事故防止対策としては立派なのだが、これによって輸送に支障が生じてしまった。それで、船に頼らない輸送体制が求められたというわけだ。
結局、こうしてだんだん使われなくなった宇高航路は、瀬戸大橋が開通したのと同じ年にその役割を終えた。航路開通から78年目のことだった。
それから、紫雲丸事故がもたらした影響としてよく挙げられる話に「公立小中学校でプール設置が進み、水泳授業が広まった」というのがある。
これは一見もっともらしい話ではあるのだが、実際に事故がどこまで直接的に影響したのかはよく分からない。少なくとも、例えばの話、紫雲丸事故の直後に学校での水泳授業が法律で義務付けられた、みたいな話はないようだ。
ただ、この事故のインパクトが人々の頭の中にずっと残っていて、やっぱり児童の水泳教育は大切だな……という意識がじんわりと社会的に醸成されたというのはあると思う。
ずっと下の世代になるともはやその由来は分からないが、当時の人々にとっては明言化されない次元で共有されていた意識があった――と書くとまるで民俗学の研究対象のような話だが、たぶん事故災害の話でもそういうものはあるのだろう。
紫雲丸事故の記憶を風化させないために、今でも高松市の西方寺では慰霊祭が開かれている。これは瀬戸内海を臨む場所で毎年実施されているという。
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高松市西宝町の紫雲丸慰霊碑 |
【参考資料】
◆大内建二『あっと驚く船の事件:自然の脅威と人間の過ちがもたらす出来事』 (光人社ノンフィクション文庫・2008)
◆運輸安全委員会『国鉄の宇高連絡船「紫雲丸」と「第三宇高丸」の衝突』
◆日本の重大海難(汽船紫雲丸機船第三宇高丸衝突事件)
◆スタディZ
◆紫雲丸事件追悼録 いでたちしまゝ
◆ウィキペディア