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谷川岳宙吊り事故(1960年)

よい山か、魔の山か

 魔の山といえばトーマス・マンだが(などと、いかにも教養がありそうなことを言ってみる)、あの小説における「魔の山」という言葉はあくまでも象徴的なものである。では現実の「魔の山」は存在するのかというと、実はあるのである。しかも日本に。

 おそらく若い世代は知らない人も多いだろう。かつて何百人もの登山者の命を奪い、「墓標の山」などとも呼ばれた世界一恐ろしい山が日本にはあるのだ。それが谷川岳である。

 谷川岳が、そんな不名誉な二つ名を与えられるに至った歴史は長い。

 かいつまんで言えば、その明文化された歴史は大正時代から始まる。1920年代に日本にアルピニズム(登山精神)がもたらされて以降、若い登山家たちは困難な山岳の制覇と開拓に精を出すようになった。

 その頃「日本三大いわば」と呼ばれたのが穂高岳、剣岳、そして谷川岳である。

 まあ多くの青年たちが谷川岳に挑んだわけだが、大きな歴史的転換点をもたらしたのが大島亮吉という人物である。多くの人にとっては「誰?」という感じだろうが、伝説の登山家だ。

 漫画『ワンピース』風に言えばこうである。「登山技術、名声、文才、これらの全てを手に入れた男・大島亮吉。彼の生前に放った一言は、登山家たちを谷川岳へと駆り立てた。『主として谷川岳の岩壁の下調べに行きたるなり。總ては尚研究を要すべし、近くてよい山なり』男たちは谷川岳を目指し、夢を追い続ける。世はまさに岳人時代!」

 これで世界一の死者数に至るのだから罪深い。早逝した若きカリスマ・大島が書き残したこの一文とその文中の有名なキーワード「近くてよい山」がきっかけとなり、谷川岳は一気に登山家たちの注目を浴びることになったのだ。

 ちょうど、大島が上記の言葉を書き残してから二年後の1931(昭和6)年には清水トンネルが開通し、谷川岳はますます「近くてよい山」となった。なにせ、首都圏から夜行日帰りが可能なのである。それまでは富裕層の子息たちの高級な娯楽だった登山が、一般の社会人でも比較的気軽に行けるようになったのだ。この頃から、「実業登山団体」というものが発生したのではないかという見方もある。

 余談だが、筆者の亡くなった父も山が好きで、クライミングは未経験だがあちこち登ったと生前によく話していた。

 で、戦後の谷川岳の人気ぶりとしてよく話していたのが、谷川岳の入口にあたる土合(どあい)駅の光景である。当時は夜行列車が土合駅に到着すると、登山者たちが一斉に列車から降りて、有名な「486段の階段」を駆け上がっていったのだという。みんな誰よりも早く目的の登山ルートに行きたかったのだ。こうした光景については、当記事の参考資料である『山岳遭難の傷痕』にも書いてあったので、この駅の混雑と競争はよほど有名だったのだろう。

 さて、そんなこんなで宙吊り事故である。

 事故そのものよりも、遺体の収容作業そのものが伝説級となってしまったケースだ。今だったら、SNSで炎上必至のいわゆる「迷惑遭難」の最たるもの、と捉えられるかも知れない。

 「宙吊り」発見の経緯

 1960(昭和35)年919日、午前8時半頃のことである。

 新潟県と群馬県の県境にある谷川岳を、東京地下鉄山岳会のメンバーの男性が登っていた。彼は「一ノ倉沢五ルンゼ」という、溝状の地形をなす箇所に足を踏み入れようとしていたところだった。

 そこで、落石の音とともに人の叫び声が聞こえた。しかし、いわゆる山ガスのせいで見通しは利かない。

「どうした~?」

 男性が呼びかけると、

「横浜のカタツムリだ。二人のうち一人が落ちて死んだ。救助を頼む」

 と返事が返ってきた。カタツムリというのは山岳会の名称である。どうやら当時は、こういう場合に山岳会の名前を名乗るのが一般的だったらしい。

 さて、救助を頼むと言われても、ガスのせいでどこで何が起きているのかも分からない。男性は、「場所はどこだ」とさらに問いかけたものの返事はなかった。

 なんだよ、せっかく登ろうとしてたところだったのに。と男性が思ったかどうかは知らないが、彼は仕方なく下山することにした。しかし途中で転び、その拍子に山岳会の名前がなぜか頭の中で「ドングリ」に置き換わってしまった。

 やがて彼はマチガ沢に差しかかった。そこは険しい岩肌が特徴的で、一ノ倉沢と並ぶロッククライミングやバックカントリースキーの難所である。と同時に初心者でも安心して利用できるハイキングコースでもあり、当時はそこに群馬県営の救護舎があった(ちなみにマチガ沢は群馬県みなかみ市にあたる)。男性はここで通報した。

「……というわけで、遭難した人がいるみたいです。所属山岳会は、ええと、ドングリと言っていたような」

「はいドングリね」

 この勘違いが、後に遭難者の身元確認で混乱をもたらすことになった。まあ、それは余談である。

 二人の谷川岳警備隊員がやってきて、男性と合流して現場へと向かう。で、声が聞こえたあたりに戻って何度か呼びかけたものの返事はなかった。

 そうしているうちに正午ごろになり、警備隊のAがふと「衝立岩」を見上げた。

 衝立岩は、一ノ倉沢の右岸にある高さ250メートルの岩壁である。現在は「衝立岩正面壁雲稜第一ルート」と呼ばれており、当時は国内最難関とも呼ばれていたという。その途中に第一オーバーハングがあり、さらにその上に第二オーバーハングというのがあるのだが、第二から第一にかけて垂れ下がっている一本の赤いザイルがあった。

 ※オーバーハング…下部よりも上部が張り出している構造。『もーれつア太郎』に出てくるデコッ八のオデコの形状や、『魁!!男塾』で田沢と松尾が落下した地形を想像すると分かりやすい。

※ザイル…登山用の頑丈なロープ。現代では「クライミングロープ」と呼ぶ。

  Aは我が目を疑った。ザイルの先っちょに人間がぶら下がっている。

「おいあれ、人間じゃないか」
「あっ、人間だ!」

 三人は近づいて、声を張り上げて呼びかける。しかし返事はなかった。

 遭難者はザイルに片足が絡みついており、振り子のように揺れている。しかも宙吊りになっているのは一人だけではなく、別のクライマーの姿も見えた。こちらも、いくら呼びかけても返事がない。

 位置的には、衝立岩の第一オーバーハングの下に一人、さらに第一と第二の間のあたりに一人、という感じだったようだ。

 参考資料でざっと高さを計算してみると、地上から第一オーバーハングまでは少なくともおよそ40メートル、第一と第二オーバーハングの間は50メートルくらいとみられる(あまり正確な計算ではない、念のため)。また、二人の位置は稜線から200メートルほどの位置だったとか。

 そこで二人の人間が、一本のザイルの両端に、いわばアメリカン・クラッカーのような形でぶら下がっていたわけだ。

 発見者の三人はそこで昼食を採った。遭難者は風に吹かれて揺れており、回転している。それを見ていると、どうしてもまだ生きているような気がしたという。改めて何度も呼びかけたが、やっぱり返事はなかった。

 当時は遠隔地の通信手段に伝書鳩が使われていた。それで第一発見者のAが連絡し、午後一時には沼田警察署に事故の一報が届いている。

 そして、土合の警察隊本部が登山者カードをチェック。先述のカタツムリとドングリの取り違えで少し混乱があったものの、遭難したのは横浜蝸牛山岳会のN(23歳)とH(20歳)であることがはっきりした。

 NとHは腕利きのクライマーで、山岳会の中でも将来を嘱望された存在だった。

 問題は、いかに二人を救助するか――いかに遺体を収容するか――だった。

 なぜ「宙吊り」になったか

 ところでこの事故は、登山――ひいてはロッククライミングのテクニックや専門用語がある程度分かっていないと、そもそも二人の遭難者がなぜ宙吊りになったかがイメージしにくい。

 しかも興味深いことに、この事故に関する文章を書籍やウェブサイト読んでいても、遭難者が宙吊りになった経緯を分かりやすく説明したものは皆無と言ってもいい。

 なぜそんなことになっているのか。想像だが、おそらくこの宙吊り事故が発生した経緯は、山男たちにとっては「言わずもがな」なのだろう。登山のことを知っている人なら、その経緯はすぐ見当がつくのだ。書くまでもないのである。

 では山男以外の一般人はどうかというと――これは推測だが――「宙吊り」とその遺体の収容というショッキングな要素ばかりに目がいって、おそらく宙吊りになった経緯や理由は二の次なのである。

 そのような一般人の認識と山男たちの「言わずもがな」の認識の間の溝が深すぎて、結局誰も宙吊りが発生した経緯そのものには触れないという結果になっているのではないか。

 このルポで参考にしたブログでも、「クライミング入門者向けの解説は手順や断片的注意事項の羅列が多く、「そもそも」の概念や原理を丁寧に解説してある物がなかなか見当たりません。」と書かれていた。筆者はこれを読んだ時、やっぱりみんなそう思っていたのか! と納得したものだ。山男の世界は、それ自体が素人が踏み入ることを拒む山のようなものなのである。

 また、この事故で不思議とあまり語られないのが、NとHの死因である。二人は何が原因で命を落としたのだろう?

 これも山男にとっては言わずもがななのかも知れない。しかし、この事故についてネットで知った一般人が、好奇心からNとHの死因を調べてみたもののどのウェブサイトでも答えが書かれておらず、悶々としたケースはかなり多いのではないかと思う。

 ここでは両者の間に横たわる溝を少しでも埋めるべく、説明を加えておきたい。こういう細かいことに興味がなければ、とばして読んでもOKである。

 まず、ロッククライミングの基本的なやり方。以下の図(1)を見て欲しい。

 

 上っている人(A)がいる。で、下で支えている人(B)がいる。見ての通り、Aの体につながれているザイルを、Bが持っている。このままでは、Aが万が一落下してしまったら、大怪我をすることになるだろう。

 ここで専用の道具が必要になる。「ハーケン」とか「ボルト」などのグッズで、形態や使い方がいろいろ異なるのだが、ここでは便宜的にまとめて「アイテム」とでも呼んでおこう。

 Aは上に登りながらこうしたアイテムを岩壁に打ち込むことになる。そして、打ち込んだアイテムについた穴へザイルを通すのだ(実際には岩の割れ目などにロープを通すこともある)。

 すると、たとえAが落下しても、図2のようにアイテムのところで引っかかるので、Aが無事で済む確率は高くなる。つまり、打ち込んだアイテムが「支点」になるわけである。

 

 しかし、もしかしたらAの落下の衝撃で、アイテムが抜けてしまうかも知れない。それを防ぐため、とりあえず「保険」としてAは登りながらアイテムをいくつも打ち込んでいくのである。

 そうすると、仮にアイテムが一本抜けても、他のアイテムが打ち込まれた支点で落下が止まるかも知れない(図3)。

 

 さて、ここまではあくまでもAが崖を登ってBが下でザイルを握っている形である。この配置のままだと、崖を登れるのはAだけだ。しかし一緒に山登りに参加しているBも登りたいという場合は、どうするか。

 その場合の答えは「かわりばんこに登る」である。

 ロープの長さに合わせて、一度に登れる高さの区間を「ピッチ」と呼ぶのだが、まず1ピッチで上述のようにしてAが登れるところまで登る。そうしたら、次はAがザイルを握って、今までAがやってきたのと同じようにBも登り始めるのである(図5)。

 そしてBがAのいる地点まで登ったら、そこから「2ピッチ」がスタート。Bはそのまま登り続け、やはり岩壁にアイテムを打ち込んではザイルを通していく(図6)。

 もうお判りだろう。そうしてBが2ピッチのてっぺんに来たら、今度はAが登り始めるのである(図7)。

 ちなみにこの、かわりばんこに登る流れの中で、先に岩を登る人を「リード」、次に登る人を「セカンド」と呼ぶ。

 一方が岩壁を登り、もう一方がロープをしっかり確保する。その繰り返しで、二人一組のクライマーは山を登っていくのである。NとHは、こういう基本的な二人組の形で登っていた。

 以上の事柄を踏まえると、なぜNとHが宙吊りになったかは大体想像がつくだろう。

 先述の通り、クライマーは岩を登りながら複数回にわたってアイテムを打ち込む。そこにロープを通していくことで、いわば命綱の中継ポイントを作っていくのだ。仮に、クライマーが落下したとしても直近のハーケンが衝撃を受け止めて身体を支えてくれる。文字通り「支点」になるわけで、彼は下まで一気に落下せずに途中で止まるのである。

 問題は、谷川岳の事故現場となった衝立岩が、昔から脆い「逆層」だと言われてきたことである。逆層というのは、岩の層が下から上へ向かってめくれ上がるように傾いているもので、アイテムを打っても抜けやすいという、クライマー泣かせの地形だったのだ。

 しかも事故当日は天候が悪化しており、岩は濡れていた。岩が濡れているとこうしたアイテムは抜けやすくなる。

 事故前日の18日の朝7時には、二人が衝立岩に取り付いているのが他のパーティに目撃されている。そうした前後の状況からして、彼らは岩壁に取り付いた形で一夜を明かした(ビバーク)ものの、その後の登攀中あるいは下降中に天候の悪化でスリップして滑落したのだろうと考えられた。

 つまり、NとHはいずれかがリード、セカンドになって衝立岩を登っていたのだが、どちらかが途中で滑落したのである。しかし先述の理由からアイテムが落下の衝撃を受け止め切れず、支点Aが抜けて、支点Bも抜けて、支点Cも抜けて……と連鎖していったのだろう。

 一方が落下した衝撃はロープを通じて相棒にも伝わり、バランスを失って「三味線屋の勇次」よろしく宙に浮く。かくしてNとHは、残った支えを支点として、一本のロープの両端にぶら下がる形になったのである。

 二人の死因

 さて次に、NとHの死因について少し掘り下げてみよう。先にも少し書いたが、宙吊りになった二人の死因は結局のところなんだったのか、それが書かれている資料は意外と少ない。

 もちろん筆者は医者でも何でもないので専門家ぶったことは書けないのだが、NとHのような宙吊り状態に陥った場合の典型的な死因を並べると、おそらく二人もそのうちどれかひとつ、あるいは複合だったと考えられる。

 ①低体温症
 二人は宙吊りになったことで風にさらされていた。しかも早朝の山奥で、当時はガスもかかっていたというから当然濡れる。体温の奪われ方は想像以上だったことだろう。

②ハーネスによる循環障害(サスペンショントラウマ)
 登山者や高所作業従事者に恐れられている障害である。落下によって長時間宙吊りになると、太ももの付け根が圧迫されて血流が止まり、意識を失う。最悪の場合は死に至ることもある。

③落下時の衝撃 
 二人の身体は最終的にひとつの支点で支えられたとはいえ、落下の衝撃は相当なものだったはずだ。

④極度の疲労と脱水による衰弱
 空中で身動きが取れず、助けも来ないという状況で、体力は急速に奪われていっただろう。

 最初に東京地下鉄山岳会の男性が事故の発生に気付いた際は、まず大きな落石の音があって、それから救助を呼ぶ声が聞こえたという。状況を整理すると、

 ①落石の音がした
 ②NあるいはHの救助依頼の声と「一人死んだ」の説明が聞こえた。
 ③その後は声が聞こえなくなった

 ということだった。

 ①の落石が、二人の滑落と直接的な関係があるのかは不明だが、仮にこれが原因で二人が滑落したとすると、NあるいはHのどちらか一方は落下時の衝撃で即死したのかも知れない。あるいは衝撃で失神し、その後は低体温症、サスペンショントラウマ、衰弱によって亡くなったか。

 もう一人の方も、救助依頼の声を上げるので精一杯だったのだろう。そして宙吊りの状態に晒されている中で、やはり低体温症、サスペンショントラウマ、衰弱によって亡くなったのではないか。

 ①の落石が、二人の滑落と直接的な関係がないとすれば、それよりもずっと前から二人は宙吊りの状態だったのかも知れない。そうなると、救助要請をした時点で、落下の衝撃による即死は免れていたとしても二人の体力の消耗ぶりはかなりのものだったに違いない。

 ちなみに、これはひとこと言っておいてもいいと思うのだが、なぜか「宙吊り」と聞いただけで、逆さ吊りのイメージを思い浮かべる人がいる。ネット上にあるこの解説記事でも、なぜか二人が逆さ吊りになっている前提でイラストが作られているものがあった。

 しかしNあるいはHのどちらか一方が逆さ吊りになっていたという記録は、たぶん存在しない。

 当時の写真や動画は、白黒なのとあまりにも画像が粗すぎるのとで、あれで宙吊り状態の詳細を確認できる人の方が珍しいと思うのだが、それでも少なくとも逆さ吊りにはなっていないはずである(ちなみにNの方はザイルが脚に絡まって、腰掛けるような姿勢だったという)。

遺体の回収

 さて、宙吊りの二人をどう収容するか。これは世界の登山史でも前例のない難題だった。

 まず最初に申し出たのは、NとHが所属していた蝸牛山岳会の仲間たちとJCC(日本クライマーズクラブ)の二名である。彼らには「登山仲間の遺体は自分たちで収容したい」という気持ちがあった。

 しかしいかんせん、二人が宙吊りになっている衝立岩正面壁は、当時「国内最難」と呼ばれたルートである。しかも先述した通り、衝立岩の岩質は脆く、逆層で、支点が抜けやすい。

 正直なところ、遺体収容を試みた仲間たちも「よりによってこの場所か!」と思ったのではないだろうか。二人が宙吊りになっている場所は、衝立岩でも名うての難所でもあった。

 回収あるいは救助方法の候補としては、①とにかくザイルを切る②長いロープと滑車でスマートに遺体を回収する、の二つが挙がった。

 しかし②は、そもそもそういう救助設備を造らないといけないので現実的ではない。しかも一人の身体は岸壁から約四メートルも離れているから厄介だ。

 棒の先にナイフをくっつけて、長ーく伸ばしてザイルを切断するか? それとも棒の先に松明をくっつけてザイルを焼き切るか? 投げ縄をひっかけてザイルを手繰り寄せるか? ベテランのクライマーに頼んで遺体の近くまで行ってもらうか? しかし二重遭難になったら誰が責任を負うのか? 頭を抱えずにおれない難題だ。タモリ倶楽部で言うところの「ナゲット割って父ちゃん」である。「どうすんだ~い!」

 20日の夕方には、蝸牛山岳会の代表者と警備隊本部の隊長、それに「谷川岳の主」と呼ばれた山小屋の主人が三人で話し合った。この時、県警からちらっと話題に出たのが「銃撃でロープを切れないだろうか?」という案である。

「猟銃で間に合いますかね?」
「いや、猟銃では射程距離がせいぜい五十メートルだ。切断すべきザイルまでの距離は一五〇メートルはある。ここは自衛隊でしょう」
「自衛隊か~」

 という感じのやり取りがあったのだろう。この時はまだ完全に決定という感じではなかった。なにせ、山岳会のメンバーとしては、仲間の亡骸はせめて自分たちで回収したいと考えていたのだ。

 ところが、この会議の内容を取材していた毎日新聞の記者が暴走して、翌日の朝刊で「銃撃でザイルを切って収容」という見出しのスクープ記事を出したものだから現場は混乱した。

蝸牛会「え、いつ決定したの?」
県警「え、誰が決定したの?」
自衛隊「え、そんな話になってたの?」

 関係者一同、寝耳に水である。それでもまあ、そういう話ならと自衛隊はスピーディーに動いた。当日のうちに自衛隊の相馬原駐屯部隊の係官までやってきたのである。現場を見た彼いわく、

「う~ん、戦車なら一発で落とせそうですけどね」
「戦車ァ!?
「うちの専門は戦車なんです。でも、ここまでは来られないから小銃を使うしかないですね」

 という感じで、だんだんと、銃撃によって遺体を収容するというムードが醸成されていった。

 黙っていられないのは蝸牛山岳会である。彼らとJCCの協力者二名は、なんとか遺体を自分たちで回収しようと考えて、岩壁に取り付いた。

 毎日新聞が半ば誤報のような記事を書いた当日、21日のことである。JCCのメンバーであるKが四時間かけて岩壁を上り、やっとこさ午後二時頃にはNの遺体へ接近した。

 遺体までの距離はあと三メートル。しかし岩壁を渡るためにはあと三本――たったあと三本のボルトが足りなかった。

「だが、もう少しだ。もう少しで、うまくいけばNの遺体を落下させずに回収できそうだ」

 Kは、翌日以降には誰でもそこへ登れるようにセッティングして下山した。

「順調にいけば、明日の午前中にはNの遺体を収容できる。ただ、ザイルを切ってもHの遺体が落ちてこなければ、もっと上まで登らなくちゃいけないかも」

 これに蝸牛山岳会は答えて曰く、

「ありがとう。この続きは自分たちでやってみる」

 となった。

 ところがその晩の関係者による対策会議では、山男たちによる遺体収容は失敗したと見なされてしまう。

「だって、あと三メートルの位置まで行ったのにザイルを切れなかったんでしょ。失敗じゃん。山岳会による遺体収容は無理なんじゃね?」

 という感じで、論議のテーマも、自衛隊の出動を要請するかどうかがメインになってしまう。

 おいおい、待ってくれよ。ここまでやったのにそれかよ。山岳会の若いメンバーの中には、涙を流して「せめて自分たちの手で」と訴える者もいたという。

 しかし警察も、蝸牛山岳会の上層部も、遭難者の遺族も、万が一の二重遭難を回避するためにも銃撃による収容を希望していた。

 それもこれも、「宙吊り」が原因である。NとHはあまりにも目立ち過ぎた。一刻も早く収容しないと、それだけ二人の遺体は衆目に晒され続けることになる。それに生々しい話だが、残暑の季節ともなれば遺体の腐乱も早い。山岳会や遺族が、自衛隊でも何でもいいから一刻も早い遺体回収を……と望んだのは無理からぬ話だ。

 こうして手続きが行われ、24日に銃撃が実施されることが決定した。

 23日から、新聞社・週刊誌・テレビ局などの報道関係者が土合山の家に詰めかけ、四十人の自衛隊員が土合駅前の広場にテントを設置。24日の朝には現地へ四十七人の自衛隊員が到着した。

 その他40人の警察官、延べ200人を超える遺族および山岳会関係者、約30人の地元山岳会員、そして報道陣が押しかけた。狭い谷の一か所に千名もの人々が集合したわけで、これだけでも群集事故の一つくらい起きそうである。一ノ倉の歴史のなかでも空前絶後の大混雑だった。

 ザイルへの距離は直線で約140メートル。使用火器はライフル五丁、軽機関銃二丁、カービン銃五丁、弾薬二千発である。

 跳弾の危険防止のため周囲のエリアは一般登山者の立ち入りを禁止し、衝立岩から谷をひとつ隔てた場所に報道関係者が陣取ってテレビカメラが「その瞬間」を待ち構えた。

 午前915分、「射撃開始!」の声に応じて狙撃兵が引き金を引く。銃弾が岩壁に当たると白煙があがったが、ザイルにはなかなか当たらない。

 ライフルとカービンで一時間撃ってもザイルは切れず、機関銃へ切り替えた。それでも切れない。

「なんだよ、切れないじゃんかよ」

 その一瞬を撮りたくて仕方がないカメラマンや報道陣からは不満の声があがった。これ、本当に切れるのか?

 開始から二時間、約千発の弾丸を打っても駄目だった。

 1115分にいったん休止。1251分から銃撃を再開し、ここでちょっと方針を変えることになった。ザイルが岩と接している箇所を狙うのだ。

 この様子を見ていた警備隊員の証言によると、132分、38発目でまずNの遺体が落下したという。

 単純にザイルが支点に引っかかっているだけなら、片方が落下すればもう片方も自然に落下しそうな気がするが、そうはいかなかった。HはHでどこかに固定されていたのであり、もともと二か所を切断する必要があったのだ。

 というわけで銃撃は続き、1327分にはHの遺体も落下。どちらも一度バウンドし、衝立スラブというはるか下の岩に転がり落ちた。

 翌日、蝸牛山岳会の仲間たちが遺体を収容した。彼らは涙をこらえながら仲間の亡骸を抱きしめたという。

 その後、いろいろ検証も進んだ。切れたザイルを調べてみると数十発は弾丸が命中していたようだが、切れるには至っていなかった。

 亡くなった二人が滑落したのが登攀中だったのか下降中だったのか、どっちがリードでセカンドだったのかも不明である。

 のちの議論

 この事故が伝説となったのは、とにかく「宙吊り」というショッキングさと、それを自衛隊による銃撃で撃ち落とすという前代未聞の遺体収容方法ゆえなのだが、この収容方法についてはその後も議論がなされた。

 朝日新聞は925日付の記事で、あれが「最後の手段」と言えたのか、なぜ他の山岳会に協力を要請しなかったのか、などといちゃもんをつけている。

 他の山岳会うんたらについては、実際過去にこの場所を登攀してクリアーしたことがある登山者や、実力のある何人かのクライマーは、協力要請が来るのを待っていたのだそうな。

 「待っていた」というのは、売名行為と思われたくないがために自分からは言い出さなかったのだとか。

 これについては蝸牛山岳会が、メンツを守るために他の山岳会に協力を求めなかったのだろう、などとも言われた。自分の会のメンバーが起こした事故は、あくまでも会のメンバーが処理をするというわけだ。

 しかし蝸牛山岳会は「そんなことはない、あくまでも安全性を最優先して、メンツとかは関係なく両名の遺体を迅速に遺族のもとへ届けようと考えた結果だ」とコメントしている。

 個人的には、協力要請が来るのを待っていたクライマーたちが「売名行為と思われたくないがために自分からは言い出さなかった」というのも、結局は自身のメンツ優先やんけと思えなくもないが……。本気だったら、売名行為と思われてもいいから俺がやります! と手を挙げそうなものだが、どうなのか。

 ともあれこの議論については、蝸牛山岳会は板挟みだったようである。

 一部のメンバーは岩壁の上で、なんとか遺体を収容できる一歩手前までセッティングを進めていた。しかし岩壁の下の方はといえば「自衛隊に頼みまひょか」「仕方ありまへんな」という話になっていたのである。

 しかも蝸牛山岳会の中でも上層部は安全優先で考えており、とにかく「誰かが登って遺体を収容する」ことだけは避けたかったようだ。一方で、血気盛んな若いメンバーは自分たちの手で仲間を助けたい、と熱く燃え上がっていたのである。

 こういう、組織内の思惑の違いというのは本当に厄介で面倒くさい。

 山岳関係者の中には「銃撃の判断が非常に速すぎた」と考える者もいたそうだが、これは関係者のせいではないだろう。マスコミが無節操な当てずっぽうの記事を報道をしたことで、いわば嘘から真が飛び出したのである。

 まだ遺体の回収方法が検討段階だったにも関わらず、自衛隊が出動するらしいというスクープ気取りの報道が先走ってしまったのは先述の通りである。

 この報道を受けて自衛隊の係官が早くも偵察にやってきたわけだが、それを門前払いするわけにもいかなかっただろう。これが蝸牛会の諦念を早めさせたのだ。

 とはいえ、遺体収容が早まったという結果だけを見れば、マスコミの当てずっぽうが怪我の功名を生んだと言えなくもない。

 当時は、事故の一報が流れた直後から、現場に報道陣が押しかけてカメラが列をなしたという。近くの水上温泉に来ていた観光客までもが、興味本位で一ノ倉沢に行こうとしていたとか。それでは、「山岳仲間による回収」という、まどろっこしい上に二重遭難の危険があるような方法ではなく、銃撃という迅速なやり方を選びたくもなるだろう。先に書いた通り遺体も腐乱するし、何より遺族が不憫だ。

 マスコミとSNS

 それにしても、この事故がもしも現代に起きていたらどうなっただろう、と考えずにはおれない。

 二人の遭難者のために自衛隊が出動するという事態に対しては、まず十中八九……というか百パーセント確実に、SNSでは「税金の無駄」「自己責任」「迷惑遭難」「なぜ自衛隊が?」といった批判が噴出し、炎上していただろう。

 山男たちの世界というのは非常に独特の世界である。

 例えば「登山仲間を決して見捨てない」「山で死んだ者は山の仲間が連れ帰る」という倫理があったり、先に書いた通り言わずもがなの情報は一般向けにわざわざ説明してくれなかったり……。とにかく仲間意識が独特なのか、登山ルポや遭難ルポなどを読んでいると、なぜか関係者の名前が全部フルネームで載っており、まるで友達の活動を紹介するかのようなノリで書かれているのである。ついでに言えば、山男の書く文章はクセが強いことが多い。

 おかしい、というつもりはないが、傍から見ればちょっとヘンな世界だ。

 しかしそうした世界にも、土足で踏み込んでくるのがマスコミである。

 マスコミのスクープ気取りの過熱報道にかかっては、山男たちの世界だけで通用するような独特な倫理も形無しである。ひとたび関係者の一挙一動が報道されれば、誰もが記者の視線を気にして動かざるを得なくなる。すると、山岳会の倫理やメンツよりも、とにかくさっさと遺体を収容するのが第一だという結論に落ち着くのもむべなるかなだ。

 これが現代であれば、このように当事者の世界に土足で踏み込んでくる役割を、きっとSNSが果たしたことだろう。

 それから…

 この事故が起きた1960(昭和35)年は、谷川岳では年間56件の遭難事故があり、33名が死亡している。ちょっと異常な数字だが、もともと谷川岳は天候の変化が激しく、遭難者の数もケタ外れなのだった。統計が開始された1931(昭和6)年以降、谷川岳での死者は現在で800人を超えており、世界最多の遭難死者数を記録する山としてギネスに登録されているほどだ。

 群馬県は1966(昭和41)年に遭難防止条例を制定し、危険区域への入山を規制。そんな時代の流れもあり、また装備の進歩や登山スタイルの変化によって、1980年代以降は、いわゆる山男やクライマーが遭難するケースは減少していった。

 そう考えると、この谷川岳の宙吊り事故というのは山岳史あるいは遭難史上、ちょっと独特な位置づけのように感じられる。

 かつて、登山に臨む青年たちといえば富裕層の子息たちであり、彼らが登攀に成功すれば歴史に名を残すことができた。それは名誉なことであり、ゆえに登山家にはある種の権威があっただろう。

 しかし、おそらくそういう権威を権威として感じる人々は時代とともに減っていった。山岳関係者は生と死と隣り合わせの登攀によって得られる名誉よりも安全を優先するようになり、一般の人々ももっとユルい娯楽としての山登りを自ら求めるようになっていったのである(そして中高年登山者の遭難が増えるようになる)。

 そうした歴史に照らし合わせて考えてみると、この宙吊り事故は登山家たちの弱まっていく権威を象徴する出来事だったのであり、滑落して「宙吊り」になったのは、まさしくそうした権威そのものだったのではないかと思うのである。

 うん、なんかうまくまとまった気がする。

 ちなみに現在、谷川岳ロープウェイの山麓駅の近くには土合霊園地という場所があるという。その慰霊碑には、統計が開始された1931(昭和6)年以降に谷川岳で亡くなった遭難者たちの名前が刻まれているそうだ。

 

【参考資料】
◆羽根田治『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』2010年、平凡社新書
◆羽根田治『十大事故から読み解く 山岳遭難の傷痕』2020年、山と渓谷社
◆瓜生卓造『谷川岳 生と死の条件』1969年、中公新書
山の会オフトレイル(Mountain Club OFFTRAIL)公式ブログ

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◆能代大火・その2(1956年)

 1956(昭和31)年320日のことである。秋田県能代市は昼からずっと風が強かった。正午の風速は9メートル、夕方には13メートル、夜には18メートルを超えるほどだった。

 また湿度も低く、空気は乾燥状態。もうここまで書いただけで完全に死亡フラグというやつなのだが、しかし日本海側の地域のこと、少なくとも強風については、住民たちにとって驚くべきほどではなかったに違いない。

 最初に出火は1715分、明治町の製材工場だった。この火事によって工場二棟と周囲の住宅が燃えたものの、延焼は食い止められて1930分には鎮火している。

 めでたしめでたし。

 えっ、「大火」はどうしたのかって?

 まあまあ、そう先を急ぎなさんな。無関係じゃないのよ。

 上記の通り、この日の「第一の火災」は程なく鎮火している。残り火は長くくすぶっていたため撤収作業はだいぶ時間がかかったようだが、とにかく火災は解決した。

 問題は、この時の消火活動で、消防が大量の布製ホースを使い切ってしまったことだ。当時の布製ホースは一度使うと硬くなってしまい、再利用が難しくなるのである。

 また、未使用のホースもあるにはあったが、これには穴が開いていた。つまり第一の火災に対応した時点で、いわば「消防力」は大きく消耗していたのである。これが、数時間後に起きた「第二の火災」で致命傷となるのだ。

 そしてその「第二の火災」がやってくる。時刻は2255分、望楼が畠町のボヤを発見した。

 おいおい、またかよ?

 気温3度、湿度63パーセント、風速14.5メートル、瞬間21.7メートルという、火が広がるには十分すぎる条件だ。

 消防車二台が直ちに出動し、第一の火災から撤収中だった車両にも配置転換が指示された。しかし前述のように硬化したホースは使い物にならず、穴あきホースならいわずもがな。初期消火は遅れた。

 畠町周辺は柾ぶきの木造住宅が密集していたこともあって火は一気に走り、日付が変わる頃には畠町を焼き尽くし、西は柳町、東は住吉町へと拡大していく。住吉町一帯は火の海となり、渟城幼稚園、八幡神社、護国殿などが焼失した。

 さらに午前2時には新柳町と出戸沼方面も焼け、いったん火が弱まった畠町商店街も再び燃え上がったからたまらない。火は能代駅方面へ向かって進んでいった。

 近在からの応援を含め、消防車23台、ポンプ13台、消防組員900人が消火にあたるも、現場は住宅密集地な上に強風が吹き荒れるという悪条件である。延焼を止めることは至難の業だった。

 しかし午前3時頃には風向が東北東に変わり、ここで火勢はようやく弱まり始めた。午前530分には類焼のおそれがなくなり、730分に完全に鎮火している。

 能代市では1949(昭和24)年220日にも、いわば「第一次能代大火」と呼ぶべきものが発生している。皮肉にも、此度の「第二次」能代大火が発生したのは、前の大火の復興完成記念式典が行われてからたった一年半後のことだった。当時の能代市民は肩を落としたに違いない。

 第二次能代大火は、焼失面積こそ第一次大火より小さかったものの、焼けた戸数で言えば第二次大火の方が多い。これは、焼けたのが第一次大火とは異なる地区の住宅密集地だったためである。

 具体的な数字を挙げれば焼失面積は約31.5ヘクタール、焼失戸数1,156戸、棟数1,475棟。被災世帯1,248、被災者は6,087人に上った。被害総額は約30億円だった。

 第一次大火と異なり、死者が出なかったのは不幸中の幸いだったが、負傷者は194人にのぼっている。また新聞社、医院、郵便局、交番、百貨店など、生活に欠かせない施設も多く失われた。

 火元は七輪の消し忘れとされている。

 短い期間で二度も大火に見舞われたことにより、能代市は「火事のまち」「火都能代」という不名誉な称号を与えられることになったという。

 SNSもインターネットも影も形もなかった時代、一体誰がそんな不謹慎かつ失礼な呼び名を与えたのだろう? と現代の目線で見ると不思議なのだが、当時の市長も支援要請に関する談話の中で「火都能代市の汚名」という言葉を使っていたというから、確かにそういうレッテルはあったのだろう。

 ちなみに、戦後はあちこちの都市で大火が発生しているが、二度に渡る能代大火によって、焼失戸数ワースト6位と7位を同じ市が占めるという異例の状況となった。

 とはいえ市役所が無事だったのは不幸中の幸いだった。行政の対応は迅速で、鎮火した当日の321日午前11時には緊急議会が開かれている。そして災害対策協議会の設置と100万円の追加予算が決定された。

 もちろん秋田県も手をこまねいてはいない。さっそく災害救助法を適用し、物資と人員をガンガン送り込んだ。政府も厚生省と建設省の係官を派遣し、応急住宅の建設や区画整理の国庫負担を決めている。

 被災した世帯は「自力再建」「補助があれば建設」「再建不能」の三種類に分類され、共同住宅355戸、公営住宅247戸、住宅金融公庫による240戸の建設が計画された。建設資材として木材225千石の特売も要請されている。

 都市計画もすぐに動き出した。建設省の技官が鎮火当日には区画整理案を作成し、市街地の構造を大きく変える計画を示している。市営住宅300戸も建設されるなど区画整理は異例の速さで進み、9月には完了した。

 また二度の大火を経て、能代市はようやく上水道整備に踏み切っている。同市では水利の不足が長年の課題だったのだが、これがようやく解消されたのである。

 少し余談めくが、第一次能代大火の記事で筆者は「自然水利である米代川の水も使用不可(理由は不明)」だったと書いた。このため、各地から応援が来てくれたものの消火は期待するほど進まなかったのである。第一次大火の記事を執筆していた時は、なんでそもそも米代川の水が使えなかったのだろう? と疑問だったのだが、たぶん、そもそも整備されていなかったのだ。

 さて、第二次能代大火の復興が迅速に進んだのは喜ばしいのだが、これにより市の財政は赤字で真っ赤っ赤の危機的状況に陥った。そこで10年以上にわたる再建計画を立てているが、当時、全国の自治体の中でもかなり厳しい部類の再建だったという。

 ちなみに、現在でも能代市では花火大会が開催されており、一年に一度の大イベントとして盛り上がりを見せている。これは1958(昭和33)年に大火からの復興行事としてスタートしたイベントである。

 

【参考資料】
◆ウィキペディア
能代の花火
◆内閣府「防災情報のページ」

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◆能代大火・その1(1949年)

 秋田県能代市は、戦後に二回の大火に見舞われている。火災史を紐解いてみると、とにかく冬の日本海側は大火が多いのだが、これもそのひとつだ。まずは1949(昭和24)年に起きた「第一次」能代大火をご紹介しよう。

 1949(昭和24)年220のことである。未明、能代市は一夜にして姿を変えた。第一次能代大火と呼ばれるこの火事は、市街地の四割をのみこみ、中心部と木材工場地帯を焼きつくした。数字だけを見ても、その規模はただ事ではない。だが、なぜここまで燃え広がったのか。その背景を、当時のデータから読み解いてみたい。

 出火は午前035ごろ、市街地の西側にある木工所だった。発見したのは常備消防部(たぶん現在の消防署)の隊員で、望楼から火の光を見つけたという。

 まず注目すべきは気象条件である。この年の冬は暖冬で、能代の町にはほとんど雪がなかった。当時の湿度は48%、気温は5度と、やや乾燥気味。

 さらに強い西風が吹き続けていた能代市内では、出火時の風は918m/sの幅の風速で吹きすさび、突風は20m/sに達したという。乾燥と強風のダブルパンチで、火は一気に広がることになった。

 さらに能代市街地には製材所や木工所が多くあり、木材や板材などの可燃物が多かったのも、火災が拡大する要因となった。木材産業は、能代市の産業の根幹でもあったのだ。

 もともと、消防はいかにも火災が起きそうなこの気象を警戒して、ポンプ車を巡回させていた。しかしなんとも間の悪い話で、この巡回車が通り過ぎた直後に火が出たのだった。

 ともあれ強風下では初期消火の難しさが際立つ。当時出動可能だった三台のポンプ車が消火にあたり、いったんは治まりかけたかのように見えたが、そうは問屋が卸さない。130m離れた別の木工所の柾(まさ)葺き屋根に飛び火したかと思えば、火の粉が次々に飛散して火災は横方向へと拡大していった。

 そうこうしているうちに、出動したポンプ車のうち一台は火に囲まれて動けなくなり、残る二台ではとても手に負えない状況へ。とにかく火の回りが速すぎた。

 密集する木造家屋と、点在する木材工場に火の粉が舞い、次々と屋根に落ちては同時多発的に火の手が上がる――。延焼速度は最大で一分あたり12.5m、燃焼面積は一分で460平方メートルと推定されている。火は、人の動きをはるかに上回る速さで進んだ。

 午前2時を過ぎる頃には、秋田・土崎・五城目・船越・鷹巣・大館などから、応援を受けた消防車十五台が到着。地図で見ると、能代市の周囲の真上を除く市町村からバンバン駆け付けた形である。

 しかし、多ければいいという話でもなかった。市外から駆け付けた消防隊は貯水槽の位置を知らないし、そもそも貯水槽が火に包まれて近づけないしで、そのうえ頼りの自然水利である米代川の水も使用不可(理由は不明)。そんなこんなで、応援が来ても消火は期待する程には進まなかったようだ。

 午前240分、能代市警察署が焼失した。火は東へ進み、午前3時を過ぎると日吉神社や営林署も焼けた。神社には、避難してきた人々が家財を持ち込んでいたのだが、これもすべて焼失している。

 それでも何もかもがが焼けたわけではなく、大火は夜が明ける頃には終息していった。消防は渟城第二小学校前に防御線を張り、破壊消防を行ったのだ。これによって南側の町や能代駅方面への延焼は食い止められた。

 結果、火災は午前7時頃にようやく鎮まっている。

 被害は甚大で、死者3名、負傷者132名。住家1295棟、非住家942棟が焼失し、被災者は8,790人にのぼった。市街地の42%が焼け、東西1,500m、南北800mの範囲が灰になっている。被害総額は472500万円にのぼった。

 土蔵473棟のうち、残ったのは127棟のみ。普通、土蔵というのはそうそう焼けないものなのだが、それほどの火勢だったということだ。

 市役所、警察署、裁判所、郵便局、銀行支店、病院など、市民生活の基盤となる施設も多く失われた。火災後、行政は渟城第二小学校を仮市役所として、罹災証明の発行や救援物資の配給を始めた。

 全国から救援物資も集まった。翌21日には食パン、乾パン、味噌、しょうゆ、作業着、足袋などが配られている。見舞金は18億円を超え、天皇と皇后からも下賜金が届けられた。

 火元は市内の木工所であることが最初から分かっていたようで、その後四か月にわたって慎重に捜査が進められた。結果、原因はストーブの残り火が周囲のカンナくずに燃え移ったと推定されている。

 623日にはこの木工所の単独失火だとして、重失火および過失致死罪で書類送検された。しかし証拠が不十分で放火説も否定できず、これは最終的に不起訴となっている。

 大火の直後、能代市はすぐに復興計画を策定している。火災復興都市区画整理事業として、寺院や墓地の大規模な移転をふくむ難事業だったが、1953年度に一応の完了を見た。復興のための総事業費は約35千万円にのぼった。

 余談だが、こうして数字を並べてみると、この「第一次」能代大火は単なる火事ではなく、町の構造と気象条件が重なって起きた「必然に近い災害」であったことが分かる。

 日本海側の木材産業の町で、乾燥した夜に強風が吹き、深夜に火が出た。それだけでも最悪だが、消防力は限られ、応援も地理の壁に阻まれた点があまりにも残念だった。条件がそろえば、火災はここまで広がるのだというおそろしき好例である。

 そして1956(昭和31)年には、能代市はまたしても炎に包まれることになった。「第二次」能代大火である。

 【参考資料】
◆ウィキペディア
内閣府「防災情報のページ」

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◆紫雲丸事故(1955年)

まえがき 

 事故災害の歴史が好きな人には言うまでもない前置きだが、紫雲丸事故は1955(昭和30)年511日に発生した、船舶の衝突・沈没事故である。「国鉄五大事故」のひとつとしても有名だ。

 国鉄はこの前年に青函連絡船・洞爺丸の遭難事故も起こしている。それから一年も経たないうちに、また海上での大規模な事故が発生したわけだ。

 このように、似たようなタイプの大惨事がなぜか短期間に集中して頻発するという現象は珍しくなく、火災でも鉄道事故でも航空機事故でもそういうのは存在する。洞爺丸事故と紫雲丸事故はその海難事故バージョンと言えるだろう。


宇高航路とは

 まず最初に、事故が発生した宇高連絡船の簡単な歴史について(興味がないなら読み飛ばしてもよい)。

 近代日本において、宇高連絡船は、瀬戸内海を横断して本州と四国を結ぶ交通の大動脈でもあった。

瀬戸大橋
瀬戸大橋

 山陽本線の岡山から宇野までの鉄道(国鉄宇野線) が開通したのは1910(明治43)年のことで、これと同時期に宇高連絡船も開通している。昭和までは旅客専用・車両運送用の連絡船がそれぞれ航行していた。

 しかし双方を分けて運送するのはやっぱり不便である。そんなこともあって、戦後はどっちも同時に運搬できるように変更された。

 この変更にあわせて、1947(昭和22)年~1948(昭和23)年にかけて完成したのが新型の宇高連絡船だったのだ。

 建造されたのは紫雲丸・眉山丸・鷲羽丸の三隻。これらはいわゆる姉妹船であり、メインは紫雲丸だったようでいずれも「紫雲丸型」と呼ばれたという。総トン数1,449トン、全長76メートル、全幅13.2メートルのこの三姉妹は、どれも大型客船として活躍した(とはいえ、洞爺丸に比べるとひと回り小ぶりである)。

 ただし、この姉妹船のうち、たぶん「長女」と言ってもいいであろう紫雲丸は以下の通り何度も事故を起こしている。

  ・1950(昭和25)年325日……直島と荒神島間で鷲羽丸と衝突して横転、7名が死亡
 ・1951年(昭和268月……高松港内で「第二ゆす丸」と衝突
 ・1952(昭和27)年4月……高松港外で石に接触
 ・同年9月……高松港内で小型船と衝突

 不吉すぎる。

 後でちらっと触れるがこの「長女」、先に挙げた「紫雲丸型」の三隻の中では最も縁起の悪い船でもあったのだ。

 さて、事故が起きた当時の日本は終戦直後の混乱もようやく落ち着き始めた頃だった。

 朝鮮特需のおかげで、にわかに人や物の移動も活発化。そんな中で宇高航路は、前述のとおり四国と本州を結ぶ海運の大動脈のひとつとして大きな位置を占めるようになり、一日往復約60便が運航されていた。


紫雲丸の構造

 これはおまけみたいな章だが、紫雲丸の構造についてもう少しだけデータを掲載しておこう。以下で簡単に箇条書きにしておくので、これで分かる人はうまくイメージしてほしい。雑な書き方だが、つまり紫雲丸はこういう船だったということだ。

◆客室の特徴
・客室は、上甲板に組み上げられた三層の客用甲板に配置されていた
・一等・二等客室が配置された最上階の甲板は、船体全幅にまたがっていた
・一方、三等客室が配置された二層目と上甲板の客室は、両舷側に沿った幅の狭いものだった(真ん中に車両甲板の空間があったため)

◆機関
・最大出力2,150馬力の蒸気タービン
・最高速力14.7ノット

◆旅客定員:合計1,500
・一等客室:20
・二等客室:167
・三等客室:1,313

◆航海時間
・片道1時間15
・一日8往復半

 

紫雲丸の出航

 1955(昭和30)年5月11日の早朝、瀬戸内海は深い霧に包まれていた。

 もともと瀬戸内海は海霧が発生しやすい。午前5時30分、高松地方気象台は宇高航路に対して気象通報を発表した。

「視程50メートル以下の濃霧が発生するよ~」

 しかしこの時、紫雲丸の周辺の状態はそんなに悪くなかった。船橋から400~500メートル先の漁船が目視できたのだ。

「あれっ、これなら出港できるんじゃね?」

 というわけで、紫雲丸のN船長は定刻通り午前6時40分に紫雲丸を出港させた。この日の第一便である。

 だいたい予想がつくと思うが、この時の判断が後の悲劇へとつながっていく。

 この時の乗客は781名と、早朝にしては人数が多かった。それには理由があり、うち349名は修学旅行の生徒と引率の先生だったのだ。内訳は以下の通り。

◆広島県と島根県の小学校……155名
◆愛媛県の小学校……77名
◆高知県の中学校……117名

 また、車両甲板には12両の貨車と荷物車、そして郵便車2両が搭載されていた。


第三宇高丸の出航

 さて、この事故のもう一人の主役が第三宇高丸である。

 紫雲丸と衝突することになる第三宇高丸は、まだ就航後間もない新鋭の連絡船で、レーダーや無線電話などの最新航海計器を備えていた。

 この船に限らず、紫雲丸も含めて、当時は霧の中でもレーダーを頼りに進むのがトレンドだったのだ。

第三宇高丸(Wikipediaより)
第三宇高丸(Wikipediaより)

 そんな第三宇高丸は午前610分に宇野桟橋から出港。紫雲丸が高松港を出るよりも30分早い。港のあたりは霧もなくただの曇り空で、順調な滑り出しである。1282総トン、貨車18両を載せた同船は12.5ノット(時速約23キロ)で高松港を目指した。

 しかし出港から10分後の午前620分、高松地方気象台発表の濃霧警報が無線で届く。

「濃霧が発生するよ~」

 635分、これを受けて第三宇高丸はレーダーを待機させた。

 この頃には周辺海域で薄い霧が広がり始め、あっという間に視界は400500メートルまで落ちた。ここで第三宇高丸は、ルール通り断続的な霧中汽笛を鳴らし始める。

 出港から41分が経った651分には、霧はさらに濃くなっていた。

 高松港まではあと34分。


二隻の位置関係

 さて、事故当時に両船がどういう位置関係にあったのか、ちょっと整理してみよう。

 結論をざっくり言えば、紫雲丸が「上り航路」で第三宇高丸が「下り航路」である。両船は途中ですれ違って、紫雲丸は宇野港へ、第三宇高丸は高松港へ到着する予定だった。

 で、船の世界では「右側通行」が基本である。自動車とは反対だ。

 さらにこの航路では、上り航路と下り航路が大きく離れるようにルールが決まっていた。

 これは「分離航路」「分離通航方式」などと呼ばれ、このルールに従えば、両船がすれ違う際は大きく距離をとって、お互いが左側に見える形になるはずだった。

 さらに瀬戸内海では衝突防止のために、視界が50メートル以下になるといったん船を止めて定期的に汽笛を鳴らさらなければならなかった。

 それでも進むのであればスピードを落とし、見張りを増やして警戒を強めるべし、というのが鉄則だったのだ。これなら衝突のしようもない。

 しかし現実に衝突は起きた。しかも先述した分離航路のルールは、1950(昭和25)年に起きた衝突事故が原因で定められたものだったのだが、この事故の当事者の一方が他ならぬ紫雲丸だったのである。

 紫雲丸の事故が原因で定められたルールが紫雲丸によって破られ、しかも大惨事になってしまったのだからやり切れない話だ。


「すれ違い」を目論むも

 さて紫雲丸の視点に戻ろう。同船は出港時の視界を信頼して出てきたのはいいものの、しばらく進む頃には濃霧に遭遇し、視界が50メートル前後まで落ちてきた。

「これはいかん。ストップ!」

 機関両舷停止である。しかし、10.8ノット(時速約20キロ)の全速力で進んでいた船体は慣性で進み続けた――。

 651分、一方の第三宇高丸のレーダーに紫雲丸らしき輝点が映った。場所は2.5キロ先である。ルール通りに距離を取ってすれ違えるように、右に舵を切る。

 2分後の653分には、レーダーの点は1.7キロまで近づいていた。ただ霧が濃すぎて視認はできず、かろうじて紫雲丸の汽笛が聞こえるだけだ。

 第三宇高丸は、両船の距離は十分だと判断して少しスピードを上げた。紫雲丸はといえば惰力で進みつつ、レーダーで第三宇高丸の位置を確認している。

「このままでは右舷側がぶつかりそうだ。よし、曲がって避けよう」

 N船長はそう判断し、安全のため転舵した。そして15度ほど左へ曲がった。

 ここで問題だったのは、なぜか紫雲丸が曲がった方向が「左」だった点である。この時は「右」に曲がるべきだった。

 少し想像してもらうと分かるが、船は「右側通行(通航)」が原則だ。そこで左折すれば、相手の船の進路を遮る形になってしまう。悪ければ衝突だ。

 にもかかわらず、なぜ紫雲丸が左折したのかは謎である。第三宇高丸を示すレーダーの輝点が、紫雲丸の船首よりやや右に見えたから……という説もあるが、本当にそうだったのか、見間違いはなかったのか、レーダーは正確だったのか、これらの疑問は謎のまま残ることになった。紫雲丸のN船長はこの事故で亡くなったからだ。


「その時」

 午前656分。濃霧の中、紫雲丸と第三宇高丸は互いに100メートルまで接近していた。

 第三宇高丸のブリッジからは、紫雲丸が突然船首を左に振ってこちらへまともに向かってくるのが見えた。メーデー民ならおなじみの「that son of a bitch is coming!」である。

 二隻の船は、相対速度で言えば時速約40キロの勢いで接近していたことになる。紫雲丸はスクリューを逆回転させて急ブレーキをかけ、第三宇高丸は両航機停止で勢いを殺そうとした。

 しかし衝突を避けることはできなかった。

 第三宇高丸の船首が、紫雲丸の右舷後部に約70度の角度で突っ込み、船体に高さ4.5メートル、幅3.2メートルの大穴を開けた。

 その穴から海水が毎秒数十トンもの勢いで流れ込み、機関室やボイラー室を直撃する。電源が遮断されて船内は真っ暗闇になり、紫雲丸の船尾はたちまち沈み始めた。


 第三宇高丸の救助活動

 まずい、このままでは紫雲丸が沈む――。衝突した第三宇高丸は、ただちに紫雲丸を「押す」作戦に出た。

 船首は紫雲丸に突き刺さったままの状態である。ここで即座に船首を抜いたら、穴から海水がさらに流れ込むだろう。そこですぐには船首を抜かず、紫雲丸を高松港の岸壁か海岸まで押し続けることにしたのだ。

 また、紫雲丸の乗員たちは救命胴衣を乗客へ手渡して、甲板伝いに第三宇高丸に移そうと誘導を始めた。

 しかし簡単にはいかない。修学旅行中だった学生たちの中には恐怖で身体がすくんで動けない子もいた。特に女子生徒の中には、誘導されても恐ろしさのあまり第三宇高丸の甲板へ飛び移ることを拒否する子もいたという。

 この時、船内にいたアメリカ人宣教師によって救助された当時の女子生徒の一人は、沈んでいく人を振りほどいて浮上したという記憶を後年になって明かし「あれより怖いものない、地獄というのはああいうものだ」と話している。

 なお、救命胴衣は天井裏や客席側面に収納されており、子供の手が届きにくい場所にあったことも後の悲劇の一因となった。

 当時の子供たちの証言は、こちらのサイトで今も読むことができる。

 偶然現場を通りかかったイカ漁の小舟も救助に参加し、約50名を救出。

 だが、衝突から56分経った午前72分頃には、紫雲丸は左側に横転した状態のまま水面下に消えてしまった。

 結果、781名の乗客のうち168名が命を落とした。負傷者も、船客107名と乗組員15名あわせて122名に上った。

 死者の内訳は以下の通りで、乗組員2名、一般乗客58名、そして修学旅行の生徒と教師たち108名。この108名のうち8名が教師で100名が子供、そのうち81名が女子生徒だった。

沈没した紫雲丸
沈没した紫雲丸(Wikipediaより)

船長の消息

 紫雲丸の乗員たちは最後の瞬間まで救助活動に尽力した。ではN船長はどうなったのかというと、先述の通り、彼は船と運命を共にしている。

 少し遡るが、第三宇高丸と衝突した瞬間に、N船長は次席二等運転士に対して「やった!」と声を発していたという。字面だけ見ると、うっかり「何を喜んでいるんだ?」と思われそうだが、これはおそらく「やってしまった!」の意味だったのだろう。

 沈没当時の状況から、彼は確実に救助されうる状況にあったようだ。だが気が付いた時には彼の姿はどこにもなく、どうやらブリッジに閉じこもって紫雲丸と運命を共にしたらしい。

 一方、第三宇高丸は船首が破損した程度で済み、致命傷は免れている。


障害となった「船長の死」

 神戸地方海難審判理事所はすぐに動き出し、高松へ職員を派遣すると第三宇高丸の船体を調査。もちろん乗組員からの聞き取り調査も行われた。

 しかし、肝心の紫雲丸のN船長は自ら死を選び、船と一緒に沈んでいる。

 この事故の一番のポイントは「なぜ紫雲丸は右折せず、わざわざ第三宇高丸の進路を遮る形で左折したのか」という点にあった。N船長が亡くなっている以上、その理由を確認するのは不可能だ。

 ここまで読んだ読者の皆さんは、タイタニック号の事例などを思い出して、なるほどN船長はいわゆる「船長の最後退船」あるいは「船長は船と運命を共にする(The captain goes down with the ship)」という世界的な伝統に従って自決したのだろう、と考えるかも知れない。

 読者の皆さんも聞いたことがあるだろう。船が沈没する際は、船長は船と運命を共にしなければならないというアレである。

 だがこれは、どうも西欧の騎士道精神に基づきあくまでも「船長は最後に退船する」という慣習から派生したものに過ぎず、何も船と運命と共にしなければならないという掟があるわけではないらしい。

 しかも船長がそういう形で自決するのは日本ならではの話で、明治時代以降に海軍の「美学」として定着したものだという節がある。そこには、船長はいわば戦国武将のような存在で、船を失うことは城を失うことに等しい、よって沈没イコール落城であるというイメージがあったのだろう。そこでは潔く死を選ぶのが美学だとされたのだ。

 海外では、タイタニック号のケースのように、船長が船とともに死を選ぶことは珍しいのだとか。

 とはいえ、「海外では船長は死を選ばない、日本では船長は死を選ぶ」と決めつけられるものでもなさそうだ。ウィキペディアを見ただけでもお腹いっぱいになるが、海外でも船長が船とともに亡くなったり、日本でも船長が死を選ばなかったケースはあるようである。何事も一概には言い切れないということだろう。

 要するに「船長は沈没時に自決すべし」などというルールは明治時代の海軍が勝手に創造した、狭い世界の狭隘な「美学」に過ぎないということだ。

 下手にそれを実践されると、いざ海難事故が起きた時に、事故の原因究明に支障を来たしかねないのである。紫雲丸事故がまさにそうで、N船長が責任を感じたのは分かるが、少なくとも現代の目線で見れば、彼は生き残って原因究明に協力すべきだったと言えるだろう。


海難審判による判断は?

 さて、事故から一か月が経った611日には海難審判がスタート。結論から言うと、事故の原因は「紫雲丸と第三宇高丸、両方の船長の過失」ということになった。どちらの船長も海上衝突予防法に違反したと判断されたのである。

 素人の視点だと、悪いのは第三宇高丸の前で急に左折した紫雲丸じゃないの? と思うところだが、それはもちろんのこと、第三宇高丸も速力を落とさずに走ったことが問題視されたのである。

 さらに事故から八年が経った1963(昭和38)年319日には、高松高等裁判所で刑事裁判も開かれ、紫雲丸の航海士と第三宇高丸の船長に有罪判決が出ている。前者は禁錮二か月(執行猶予一年)、後者は禁錮一年六か月(執行猶予二年)となった。

 海難事故の場合、安全確保のための懲戒処分として海難審判が行われ、それとは別に個人への法的責任追及として刑事裁判が行われることもある。船乗りは、事故を起こすと両方で裁かれるのだ。


 左折の謎

 この事故の一番の謎は、やはり、なぜ紫雲丸が左へ舵を切ったのかという点だろう。

 N船長が亡くなっているので真相は不明だが、とにかくレーダーによって第三宇高丸の存在は確認していたはずだから、その上でN船長は「右折はできない」と判断したのだろう。その判断の理由が分からない。

 上述の裁判では、第三宇高丸も紫雲丸もどっちも責任があるという結論になったが、事故が起きた決定打になったのがN船長の判断ミスだったのは明らかである。

 相手を左舷側で見ながらすれ違うのが、航海のルールである。さらに先述の通り宇高連絡船の場合は、過去の事故の教訓から上り下りの航路を従来よりも大きく分離していた。だから普通に考えれば衝突はありえないはずだった。

 しかし、濃霧で視界が極端に低下している状況では航路をきっちり守るのも至難の業だ。またレーダーも万能ではない。輝点によって相手の位置は分かっても、それがどっちに進んでいるかは即座には分からないという欠点もあった。

 事故防止のための対策は取られていたが、そうした防止策もまた、船長の経験と勘によって運用されていたところがあったのだろう。そこで生じたミスが大惨事に繋がってしまったのだ。


その他の事故

 さて最初に少し書いたが、紫雲丸は以前にも複数の事故を起こしていた。

 最初の事故は1950(昭和25)年325日に発生。姉妹船である貨物船・鷲羽丸と衝突し、沈没して7名が死亡している。

 その後、引き上げられて改装を経て再就航したものの、1951(昭和26)年8月に高松港内で小型船と接触。また1952(昭和27)年4月には航行中に海底の捨て石によって船底を損傷し、さらに同年9月にも高松港内で別の小型船と衝突した。

 もともと備讃瀬戸の航行海域は狭く、船舶の往来が多い。よって衝突事故の確率も高いと考えられるのだが、それにしても短期間でここまで何回も事故を繰り返したのはちょっと異常である。

 この事故歴から「紫雲丸は不吉だ」との評判が立っていたという。

 もともとこの船名は高松市にある紫雲山から採ったものなのだが、実は「紫雲」の本来の意味は「人の臨終に際して仏が乗って迎えに来る紫の雲」らしい。しかもシウンという発音は「死運」にもつながるともされた。

 そして発生した五回目の事故が、この第三宇高丸との衝突事故だったのである。

 このように不名誉な事故歴を持つ紫雲丸だが、現在では「紫雲丸事故」と言えば最も犠牲者数が多いこの五度目の事故を指すのが一般的である。数ある紫雲丸絡みの事故の中でも最も代表的な、ザ・紫雲丸事故というわけだ。

 そしてこのザ・紫雲丸事故の後、引き上げられた船体はその後も使用されている。さすがに名称は変えようということになったのか「瀬戸丸」と改名し、その後は事故を起こすこともなかった……と言いたいところだが、1960(昭和35)年には高松港で中央栄丸と衝突している。

 いい加減にしろよ。もういっそ誰か引導を渡してやれよ。

 という声もきっとあったと思うのだが、この紫雲丸改め瀬戸丸はその後もしぶとく航海し、終航を迎えたのは1966(昭和41)年330日のことだった(解体は6月)。


 それから…

 最後はざっくり、この大惨事がもたらしたいくつかの影響を説明しておこう。

 多くの修学旅行生を含む168名もの人命が失われたことで、国鉄はかなり批判されたようだ。そこで採られた再発防止策と安全対策は以下の通り。

①船舶に頼らない輸送体制への転換
②宇高連絡船管理部の設置と管理体制の強化
③関係者の責任の明確化
④救命設備の充実
⑤船体構造の改良
⑥航路の上下便の基準航路の完全分離
⑦気象情報の収集体制の整備
⑧船員への教育

 上記の①と大きく関わってくる話として、四国と本州を結ぶ「大橋」建設の具体化が挙げられる。先に起きた洞爺丸事故は青函トンネル建設を促進したわけだが、紫雲丸事故は1988(昭和63)年の瀬戸大橋の開通、また1998(平成10)年の明石海峡大橋の架橋を促したのだった。

 前者の瀬戸大橋は、宇高連絡船の事故防止対策が尾を引いて、必要に迫られて開通したところもあったようだ。事故以来、同航路では悪天候時に出航を控えるようになったのである。この「出航控え」、事故防止対策としては立派なのだが、これによって輸送に支障が生じてしまった。それで、船に頼らない輸送体制が求められたというわけだ。

 結局、こうしてだんだん使われなくなった宇高航路は、瀬戸大橋が開通したのと同じ年にその役割を終えた。航路開通から78年目のことだった。

 それから、紫雲丸事故がもたらした影響としてよく挙げられる話に「公立小中学校でプール設置が進み、水泳授業が広まった」というのがある。

 これは一見もっともらしい話ではあるのだが、実際に事故がどこまで直接的に影響したのかはよく分からない。少なくとも、例えばの話、紫雲丸事故の直後に学校での水泳授業が法律で義務付けられた、みたいな話はないようだ。

 ただ、この事故のインパクトが人々の頭の中にずっと残っていて、やっぱり児童の水泳教育は大切だな……という意識がじんわりと社会的に醸成されたというのはあると思う。

 ずっと下の世代になるともはやその由来は分からないが、当時の人々にとっては明言化されない次元で共有されていた意識があった――と書くとまるで民俗学の研究対象のような話だが、たぶん事故災害の話でもそういうものはあるのだろう。

 紫雲丸事故の記憶を風化させないために、今でも高松市の西方寺では慰霊祭が開かれている。これは瀬戸内海を臨む場所で毎年実施されているという。

高松市西宝町の紫雲丸慰霊碑
高松市西宝町の紫雲丸慰霊碑

   【参考資料】
◆大内建二『あっと驚く船の事件:自然の脅威と人間の過ちがもたらす出来事』 (光人社ノンフィクション文庫・2008
運輸安全委員会『国鉄の宇高連絡船「紫雲丸」と「第三宇高丸」の衝突』
日本の重大海難(汽船紫雲丸機船第三宇高丸衝突事件)
スタディZ
紫雲丸事件追悼録 いでたちしまゝ
◆ウィキペディア

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海難事故

 ◆紫雲丸事故(1955年)

◆甲子園球場事故(1979年)

 1979(昭和54)年329日、場所は言わずと知れた兵庫県西宮市甲子園町の甲子園球場である。

 この日は春休みのさなかで、しかも選抜高校野球大会の三日目。それに加えて優勝候補の四校が揃うことから、超満員が予想されていた。

意外と惨劇が多い甲子園球場
意外と惨劇が多い甲子園球場

 実際、午前5時頃には、すでに約5,000人が内野入場券を求めて国道43号高架下の広場に参集している。その後も人数は急激に増え、午前6時半頃には広場は群集であふれかえった。

 当然、警備の人たちが群集整理にあたったのだろう……と思いたいところだが、この時、現場にいた警備担当者は数名に過ぎなかった。

 もともとこの日の警備要員は警察官・球場職員・警備員・学生アルバイトなど合計約270人が予定されていたのだが、大半は午前730分以後に配置につくことになっていたのである。

 入場券発売の窓口は二か所。それに対して行列は横に広がっていたため、現場にいた警備員がハンドマイクで呼びかけた。

「二列に並んで下さ~い!」

 それを聞いて前方の群集は押し合いを始めた。

 しかし後ろの方では警備員の呼びかけなど聞こえず、前方の騒ぎを入場券の発売開始と勘違いして窓口に殺到。これに、高架下にいた群集のほとんどが参加して大混乱となった。

 時刻は午前650分頃。この時、現場にいた人は以下のように証言する。

「身体が浮き上がって、足は地面から離れ、下に落ちた物、水筒、カメラなどがあるとそれに足を乗せて息をつくという状態で、高架下の広場から窓口までの広い範囲で悲鳴や叫び声が響いた」

 そして午前710分頃に転倒が起きた。

 5番と6番窓口の左手、内野指定席入口付近で、群集の固まりがいきなり陥没して「低くなった」のである。そこを中心に、すり鉢のような形で周囲の人が倒れこんでいった。

「群集がすり鉢のように落ちくぼんで周囲の人が倒れ込む」と文章で書くと簡単だが、これがいかに恐ろしい状態であるかは、当研究室の読者なら言わずもがなであろう。そう、この転倒の形はまさに群集雪崩である(当時の状況が現代の群集雪崩の定義に当てはまるものだったかは不明)。

 警備に当たっていた警備員はこう話す。

「発売口前に柵があったが、その付近で押し合いになり25人くらいが将棋倒しとなった。うち5~6人が下敷きになり、『助けて』『死にそう』との悲鳴が聞こえた。柵の前にあった売り場表示のポールも根元から折れた」

 転倒して折り重なった人たちは、他の来場者や警備員たちによって引き出された。これが午前720分頃で、それでも混乱は収まらず「早く売り出せ」と叫ぶ声がまだ続いていた。

 午前7時半頃にようやく救急車が到着。サイレンの音で我に帰ったのか群集が押す力も弱まり、同40分頃にはようやく入場券発売がスタートした。警察官も窓口付近で群集整理を始めて、ここに至って騒ぎは収まった。

 しかしこの事故で小学5年生と6年生の男児2名が死亡し、負傷者は3名に上った。

 事故の原因について、球場側はこう説明している。

「事故のきっかけになったのは、警備員が二列になるように呼びかけたからではない。はぐれた子供を呼ぶ親の声を、後ろの人が発売開始の声と勘違いしたのだ」。

 これが本当なのかどうかは分からない。よしんば本当だとしても、球場側は雑踏整理について準備不足の誹りは免れないだろう。

 なお甲子園球場では、その後も1983(昭和58)年にアイドルによる野球イベントの終了後に群集事故が発生して1名が死亡する事故が起きている。

 さらに1999(平成11)年424日にも、プロ野球の阪神読売戦で2名が死亡、47 名が重軽傷という事故が発生している。……と参考資料には書いてあった。前者は既に当研究室でも記事を執筆済みだが、後者の詳細は不明である。 

参考資料:
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011
◆朝日新聞
災害医学・抄読会 2003/12/12
第32回明石市民夏まつりにおける花火大会事故調査報告書


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