ようこそ文藝yaminaveへ!


 小説家をめざしてはや幾年。

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 『光速文芸部』表紙画像です。
    (画・yukkeさん)













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※『事故災害研究室』読者の皆様へ


 以前、電子書籍サイト「パブー」で公開しておりました『事故災害研究室』は、「パブー」の閉店にともない9月以降は読めなくなります。
 これにともない、全ての記事を、当ブログの方へ移動させる予定です(2019年4月30日現在)。
 移動作業は、「記事ひとつひとつを手作業で貼り直し」となりますので、時間がかかります。
 また、この移動作業を機に、加筆修正も行う予定です。
 ですので、パブー版『事故災害研究室』で読めた記事が、そっくりそのまま当ブログで再び読めるようになるまでは、しばらく時間がかかるかも知れません。
 よろしくお願いいたします。

◆和辻哲郎のホンネ



 和辻哲郎全集は、学生の頃に秋田市内の古本屋で三万円くらいで買いました。宝物です。

 当時はヒマに任せて片っ端から目を通して精読して…とやっていましたが、その内容も今はほとんど忘れてしまいました。

 もっとも、当時も言うほどしっかり読んでいなくて、たぶん「ただ読んでいた」だけだったと思います。もったいないことです。

 で、今また読んでいます。

 精読するような時間は、少なくとも学生の頃のようには存在しないので、読むというよりも研究するつもりで、外堀を埋めるような「調べる」感じの読み方をしています。

 で、外堀を埋めるなら、まずは「序」とかから読むわけです。

 すると和辻先生、けっこう本音むき出しでいろいろ書いているのに気付きます。

 上のツイートのような「抹殺したかった」とか。

 あと「この本はずいぶん昔のものなので全面改稿したいくらいだけど、これはこれで今の時代に役に立つのならまあいいか…」と、再販の意義を必死に自分に言い聞かせているような文章もあります。

 尊敬する学者さんが、堅苦しい文章の書き方から離れて、本音に近い口調でリラックスして書いているのを読むとなんだかこちらもホッとします。そして本音がいろいろ垣間見えたりするのもよい。

 もっともこれは、平素から真面目で真剣味のある文章を書いているからこそ、ギャップを楽しめていいのです。

 考えてみると不思議なことなのですが、真面目で真剣で論理的な文章というのは、作者の本音とか感情とか認知の歪みみたいなものがちょっと入り込むだけでたちまちいびつになります。

 もっとも、それをごまかすための巧妙な書き方というのもあるでしょうが、しかしごまかしはごまかしであって、そういうのは見抜かれるし、それって論文としてどうなの? ということになります。

 いえ、それはもちろん当たり前のことなんですが。論理を重視すると感情や本音は排除される、という現象も、考えてみると不思議だなと今ちょっと思いました。

 とにかく、だからこそ、漏れてくる本音もまた面白い。

◆シナモンミルクティ、お前らだましたな、山形県沖地震



 どうも僕はシナモンが好きらしく、八橋は大好物だし、カフェでシナモンミルクティーを見かけるとよく頼みます。だからこういうのもアリかなと思ったのでした。

 ちなみに、ガラムマサラを入れると本場のチャイに近くなるそうです。

 試しにレシピを検索してみたら、確かにたくさん出てきました、ガラムマサラ入りのチャイの作り方が。

 そのうち試します。



 このブログ記事が公開される時には、逃走犯が無事に捕まっているといいんだけど…。

 警官襲撃&拳銃強奪犯が出現したかと思えば、今度は包丁男。これもシンクロニシティでしょうか。

 「お前らだましたな」というセリフは、それだけ切り取ると印象深い迷言ですが、一体何が原因でそう言わしめたのか、経緯と背景にも興味が湧きますね。実際、何かだまされていたのかも?




 「山形県沖地震」という名称が定着しました。居眠りしていたらエリアメールで叩き起こされて、びっくりしたのなんの…。

 山形県は災害が少ないと言われているので、こういう名称がつくような出来事はちょっと珍しいかも。

 もちろん歴史を紐解けば、風が強い日本海沿岸も、雪深い内陸部も、山間部も、その環境ゆえの事故災害がたくさん起きています。

 ただとにかく、ここまで騒ぎになるほどの地震というのは、やっぱり珍しいかも。

◆チェックリスト方式いいね



 朝の日課、出勤してからやること、そして帰宅後の日課、一週間に一度やること、一カ月に一度やること…を、全部一枚の紙に集約してチェックリスト作りました。

 朝、起きたらこれを一枚印刷して、そこに書いてあることを一日かけて片っ端からつぶしていくだけで、最低限のことはこなせるという寸法です。

 反対に、こういうリストを作っておかないと、毎日「あっ忘れてた、あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」という思いつきに追われて、なんか疲れちゃうんですよね。つい最近までは、僕もそんな感じでした。

 いかにもハウツー本っぽい言い方ですが、そのつど思いついたことに追われてばかりいると、脳のリソースがそっちの方に割かれてしまいます。思いつきの義務に振り回されて、他のことを考える余裕がなくなり、あっという間に一日が終わるというか。

 使っているチェックリストも、内容を固定化せずにちょくちょく作り直しています。ちょっとでも面倒に感じるタスクがあれば、やることを分割して明日からやり直し、という風に。

 で、そのリストをこなしながら、いちいち赤ボールペンでチェックを入れていると、余っていた赤ボールペンもあっという間に消費できるというわけです。最初のツイートに書いた通り。

 ちなみに「チェックリスト方式」というやり方は、この本からアイデアを得ました。本に書かれているやり方とはだいぶ違っており、あくまでも自分流のやり方に落ち着いていますけどね。



 だけど自分流とはいえ、この本に書かれていることのエッセンスは活かしているつもりです。だからなのか、後になってからこの本の内容に改めて納得がいくことも、結構ありました。

◆つりビット解散



 基本的に、僕は情熱あるアイドルオタクではありません。あるアイドルにハマッたとしても、基本的に「作品が全て」だと思っているので、グッズを買ったりライブやコンサートに出かけたりすることは滅多にありません。

 しかし、今になってみると、そういう「不作為」が、アイドルの成長の機会を失わせてしまうのだろうか…と思わずにはおれません。

 つりビットは解散しました。個人的な思い入れですが、アパートで独り暮らしをして、一匹狼的な立場で仕事をしていた時期、彼女たちの歌とキャラクターにどれほど救われたことか。残念です。

 ただ、正直なところ、いつかこんな日が来る気もしていました。

 「歌って踊れる釣り好きアイドル」というコンセプトは、面白味があってよかったと思うんですよ。

 だけど作品が、そのコンセプトを活かし切れていなかった感がありました。

 つりビットの歌には、釣りや魚にちなんだ作品と、そうでない作品の二種類があったんですけどね。

 前者は、なんだか無理やり感に溢れていることが多かったのです。

 歌詞の内容を無理やりに釣りや魚に結び付けたため、日本語としておかしくなっているケースもいくつかあった…ように、僕には思えましたし。

 あと、曲もチープ過ぎたかな。

 音楽のサウンドの歴史なんてよく分からないけど、どことなく、80~90年代を引きずっているような感じでした。

 もともと、僕などはそのあたりの時代の音楽に郷愁を感じてしまう世代なのですが、つりビットの場合は、郷愁よりもむしろ、聴いていてアリャリャと思うことが多かったのです。「うわっこういう古臭いチープな編曲を今この時代にやっちゃうのか」と。

 こんな風に書くと、感想として正直すぎかも知れません。でも、この感想は的外れかも知れませんし、むしろ上に書いたような、まだちょっと未完成みたいな雰囲気が僕は好きだったのです。

 解散は本当に残念。ただ、元メンバーたちの動向はときどきだけどおおむねツイッターで確認できるし、基本的に元気そうに見えるのは何よりです。彼女たちの今後に幸あれ。

◆書くこと、璽、眇目、現代社会の理論



 この「ツイートを埋め込んでひと言書き足す」だけのブログ記事作りをなぜ試みているかというと、とにかく「書く」習慣を取り戻したいから。

 いや、取り戻したいというほど失われてしまっているわけじゃないんだけど。

 ただ、心境と環境が変わったこともあり、昔のように、呼吸をするのと同じような感覚で「書く」ことがしづらくなったのです。

 たぶんこれは退化ではありません。その証拠と言っていいか分からないけど、じゃあ昔はきちんとした文章が書けていたのかというと、今読み返したら殴り書きや内容稚拙なものが多いし。

 僕としては、書く習慣を取り戻すというよりも、書く習慣を「再構築」しているという意識です。

 そして、自分が書いた文章というのは、自分自身にとっては「武器」です。これは友人が言っていたことで、今も印象に残っている考え方です。

 書くことに何の意味があるのか? それは世界との戦いなのです。書き上げられた文章というのは、そのための武器なのです。



 「璽」の読み方は「じ」。でもこれはそんなに難しくはない。少なくとも、三国志演義に馴染んでいる人ならすぐ分かると思います。孫堅が井戸から拾い上げたアレですよ。

 ちなみに、僕の場合、三国志は完全に片山まさゆきの『sweet三国志』のイメージで刷り込まれているので、璽という言葉を観た瞬間に「間違いない!これは玉璽や!」のセリフが頭に浮かびました。

 今、単行本は手元にないけど、あのセリフにルビがふってあったおかげで、読み方も覚えたのだと思います。



 昔、眇目は神聖なものと考えられていた、と何かの本で読んだ記憶があります(どの本にも書いてあることか)。

 僕はこれまで眇目イコール斜視だと思っていたのですが、改めてちょっと調べてみて、片目の人のことや、片方の目が細い人のことを指すのだと初めて知りました。

 ここは柳田國男ですね。『一つ目小僧その他』だ、読み返さないと。



 大学の頃に読まされたテキスト。当時は「意味わかんね~」とブツブツ言いながら読んでいましたが、今になってみるとあまりにも平易な文章で恥ずかしい限り。

 ただ、ボードリヤールとかバタイユとかの名前が頻繁に出てくるので、自分がその後現代思想のつまみ喰いをよくするようになったからこそ、いくらかその内容が理解できるようになったというのもあると思います。

 ちょっと大げさな言い方をすると、読書による知識・教養の積み重ねで、ちょいと難しい本もすらすら読めるようになるという実例ですね。

 つまみ喰いとはいえ、学生時代はいわゆる現代思想の本をけっこう読みました。

 で、僕の中では、現代思想って「左翼」なイメージ。

 でも当時は、あわせて保守思想の本もいろいろ読んでいて(新しい教科書をつくる会が大活躍していた頃)、こっちは「右翼」なイメージ。

 もちろん、よく考えられた思想というのは、右・左と完全に切り分けられるものでもないけど。

 とはいえ、あっち側の本にもこっち側の本にもそれなりに触れて、知識とか、ものの考え方の土台を作ることができたのは素晴らしいことでした。

◆ラジオスターの悲劇、あと心の入れ替えについて



 この、ラジオスターの悲劇という歌を僕が初めて知ったのは、今から二十年以上も前のこと。

 たぶんほとんどの人が知らないであろう「GML」という洋楽アレンジ専門ユニットが当時あって、そのアルバムの中にこれのアレンジバージョンが入っていたのでした。

 で、原曲が気になって聴いてみたのですが、和訳の歌詞の意味がさっぱり分からない。おそらく歌詞カードを書いた当人も、首を傾げながらとりあえず直訳し、掲載したに違いありません。大まかな意味は見当がつくものの、細部がさっぱり分からないという歌詞なのです。

 一度は、僕も自分で翻訳してみようかと思ったけど、諦めました。

 それで、つい先日、なんとなく検索してみたら上記のようなサイトがあったのでした。最終的な僕の感想は、以下のツイート。



 僕には英語の教養がないので、美文・名文の妙味とか味わいといったものはよく分かりません。

 だからこの歌にはもしかすると、英国人にしか分からない味わいがあるのかも知れません。それは、たとえば僕ら日本人が、日本語の文学作品について「この日本語の味わいは外国人には分からないだろうなあ」と想像する時のようなものです。

 さてその味わいとか妙味というのは何なのか、結局謎だけが残った形。



 別に何か迷っていたわけではなく、何気なく思いついたツイートです(にも関わらず「いいね」をありがとございます)。

 でも、友人が「きうりさん専任のジャムおじさんが作ってくれるのでは」とコメントをくれて、なんかハッと気付かされるものがありました。

 例えて言えば、僕の中にはジャムおじさんとアンパンマンの二人がいるのでしょう。

 知的生産活動においては、インプットはジャムおじさんがやってくれるのです。そしてアウトプットはアンパンマンの役目なのです。

 頭の中のジャムおじさんが作ってくれた「新しい心」によって、アンパンマンたる「旧い心」がどんどんアップデートされていく。そういう役割分担と仕組みによって、生産活動は成り立っているのだなあ、と。