よい山か、魔の山か
魔の山といえばトーマス・マンだが(などと、いかにも教養がありそうなことを言ってみる)、あの小説における「魔の山」という言葉はあくまでも象徴的なものである。では現実の「魔の山」は存在するのかというと、実はあるのである。しかも日本に。
おそらく若い世代は知らない人も多いだろう。かつて何百人もの登山者の命を奪い、「墓標の山」などとも呼ばれた世界一恐ろしい山が日本にはあるのだ。それが谷川岳である。
谷川岳が、そんな不名誉な二つ名を与えられるに至った歴史は長い。
かいつまんで言えば、その明文化された歴史は大正時代から始まる。1920年代に日本にアルピニズム(登山精神)がもたらされて以降、若い登山家たちは困難な山岳の制覇と開拓に精を出すようになった。
その頃「日本三大いわば」と呼ばれたのが穂高岳、剣岳、そして谷川岳である。
まあ多くの青年たちが谷川岳に挑んだわけだが、大きな歴史的転換点をもたらしたのが大島亮吉という人物である。多くの人にとっては「誰?」という感じだろうが、伝説の登山家だ。
漫画『ワンピース』風に言えばこうである。「登山技術、名声、文才、これらの全てを手に入れた男・大島亮吉。彼の生前に放った一言は、登山家たちを谷川岳へと駆り立てた。『主として谷川岳の岩壁の下調べに行きたるなり。總ては尚研究を要すべし、近くてよい山なり』男たちは谷川岳を目指し、夢を追い続ける。世はまさに岳人時代!」。
これで世界一の死者数に至るのだから罪深い。早逝した若きカリスマ・大島が書き残したこの一文とその文中の有名なキーワード「近くてよい山」がきっかけとなり、谷川岳は一気に登山家たちの注目を浴びることになったのだ。
ちょうど、大島が上記の言葉を書き残してから二年後の1931(昭和6)年には清水トンネルが開通し、谷川岳はますます「近くてよい山」となった。なにせ、首都圏から夜行日帰りが可能なのである。それまでは富裕層の子息たちの高級な娯楽だった登山が、一般の社会人でも比較的気軽に行けるようになったのだ。この頃から、「実業登山団体」というものが発生したのではないかという見方もある。
余談だが、筆者の亡くなった父も山が好きで、クライミングは未経験だがあちこち登ったと生前によく話していた。
で、戦後の谷川岳の人気ぶりとしてよく話していたのが、谷川岳の入口にあたる土合(どあい)駅の光景である。当時は夜行列車が土合駅に到着すると、登山者たちが一斉に列車から降りて、有名な「486段の階段」を駆け上がっていったのだという。みんな誰よりも早く目的の登山ルートに行きたかったのだ。こうした光景については、当記事の参考資料である『山岳遭難の傷痕』にも書いてあったので、この駅の混雑と競争はよほど有名だったのだろう。
さて、そんなこんなで宙吊り事故である。
事故そのものよりも、遺体の収容作業そのものが伝説級となってしまったケースだ。今だったら、SNSで炎上必至のいわゆる「迷惑遭難」の最たるもの、と捉えられるかも知れない。
「宙吊り」発見の経緯
1960(昭和35)年9月19日、午前8時半頃のことである。
新潟県と群馬県の県境にある谷川岳を、東京地下鉄山岳会のメンバーの男性が登っていた。彼は「一ノ倉沢五ルンゼ」という、溝状の地形をなす箇所に足を踏み入れようとしていたところだった。
そこで、落石の音とともに人の叫び声が聞こえた。しかし、いわゆる山ガスのせいで見通しは利かない。
「どうした~?」
男性が呼びかけると、
「横浜のカタツムリだ。二人のうち一人が落ちて死んだ。救助を頼む」
と返事が返ってきた。カタツムリというのは山岳会の名称である。どうやら当時は、こういう場合に山岳会の名前を名乗るのが一般的だったらしい。
さて、救助を頼むと言われても、ガスのせいでどこで何が起きているのかも分からない。男性は、「場所はどこだ」とさらに問いかけたものの返事はなかった。
なんだよ、せっかく登ろうとしてたところだったのに。と男性が思ったかどうかは知らないが、彼は仕方なく下山することにした。しかし途中で転び、その拍子に山岳会の名前がなぜか頭の中で「ドングリ」に置き換わってしまった。
やがて彼はマチガ沢に差しかかった。そこは険しい岩肌が特徴的で、一ノ倉沢と並ぶロッククライミングやバックカントリースキーの難所である。と同時に初心者でも安心して利用できるハイキングコースでもあり、当時はそこに群馬県営の救護舎があった(ちなみにマチガ沢は群馬県みなかみ市にあたる)。男性はここで通報した。
「……というわけで、遭難した人がいるみたいです。所属山岳会は、ええと、ドングリと言っていたような」
「はいドングリね」
この勘違いが、後に遭難者の身元確認で混乱をもたらすことになった。まあ、それは余談である。
二人の谷川岳警備隊員がやってきて、男性と合流して現場へと向かう。で、声が聞こえたあたりに戻って何度か呼びかけたものの返事はなかった。
そうしているうちに正午ごろになり、警備隊のAがふと「衝立岩」を見上げた。
衝立岩は、一ノ倉沢の右岸にある高さ250メートルの岩壁である。現在は「衝立岩正面壁雲稜第一ルート」と呼ばれており、当時は国内最難関とも呼ばれていたという。その途中に第一オーバーハングがあり、さらにその上に第二オーバーハングというのがあるのだが、第二から第一にかけて垂れ下がっている一本の赤いザイルがあった。
※オーバーハング…下部よりも上部が張り出している構造。『もーれつア太郎』に出てくるデコッ八のオデコの形状や、『魁!!男塾』で田沢と松尾が落下した地形を想像すると分かりやすい。
※ザイル…登山用の頑丈なロープ。現代では「クライミングロープ」と呼ぶ。
Aは我が目を疑った。ザイルの先っちょに人間がぶら下がっている。
「おいあれ、人間じゃないか」
「あっ、人間だ!」
三人は近づいて、声を張り上げて呼びかける。しかし返事はなかった。
遭難者はザイルに片足が絡みついており、振り子のように揺れている。しかも宙吊りになっているのは一人だけではなく、別のクライマーの姿も見えた。こちらも、いくら呼びかけても返事がない。
位置的には、衝立岩の第一オーバーハングの下に一人、さらに第一と第二の間のあたりに一人、という感じだったようだ。
参考資料でざっと高さを計算してみると、地上から第一オーバーハングまでは少なくともおよそ40メートル、第一と第二オーバーハングの間は50メートルくらいとみられる(あまり正確な計算ではない、念のため)。また、二人の位置は稜線から200メートルほどの位置だったとか。
そこで二人の人間が、一本のザイルの両端に、いわばアメリカン・クラッカーのような形でぶら下がっていたわけだ。
発見者の三人はそこで昼食を採った。遭難者は風に吹かれて揺れており、回転している。それを見ていると、どうしてもまだ生きているような気がしたという。改めて何度も呼びかけたが、やっぱり返事はなかった。
当時は遠隔地の通信手段に伝書鳩が使われていた。それで第一発見者のAが連絡し、午後一時には沼田警察署に事故の一報が届いている。
そして、土合の警察隊本部が登山者カードをチェック。先述のカタツムリとドングリの取り違えで少し混乱があったものの、遭難したのは横浜蝸牛山岳会のN(23歳)とH(20歳)であることがはっきりした。
NとHは腕利きのクライマーで、山岳会の中でも将来を嘱望された存在だった。
問題は、いかに二人を救助するか――いかに遺体を収容するか――だった。
なぜ「宙吊り」になったか
ところでこの事故は、登山――ひいてはロッククライミングのテクニックや専門用語がある程度分かっていないと、そもそも二人の遭難者がなぜ宙吊りになったかがイメージしにくい。
しかも興味深いことに、この事故に関する文章を書籍やウェブサイト読んでいても、遭難者が宙吊りになった経緯を分かりやすく説明したものは皆無と言ってもいい。
なぜそんなことになっているのか。想像だが、おそらくこの宙吊り事故が発生した経緯は、山男たちにとっては「言わずもがな」なのだろう。登山のことを知っている人なら、その経緯はすぐ見当がつくのだ。書くまでもないのである。
では山男以外の一般人はどうかというと――これは推測だが――「宙吊り」とその遺体の収容というショッキングな要素ばかりに目がいって、おそらく宙吊りになった経緯や理由は二の次なのである。
そのような一般人の認識と山男たちの「言わずもがな」の認識の間の溝が深すぎて、結局誰も宙吊りが発生した経緯そのものには触れないという結果になっているのではないか。
このルポで参考にしたブログでも、「クライミング入門者向けの解説は手順や断片的注意事項の羅列が多く、「そもそも」の概念や原理を丁寧に解説してある物がなかなか見当たりません。」と書かれていた。筆者はこれを読んだ時、やっぱりみんなそう思っていたのか! と納得したものだ。山男の世界は、それ自体が素人が踏み入ることを拒む山のようなものなのである。
また、この事故で不思議とあまり語られないのが、NとHの死因である。二人は何が原因で命を落としたのだろう?
これも山男にとっては言わずもがななのかも知れない。しかし、この事故についてネットで知った一般人が、好奇心からNとHの死因を調べてみたもののどのウェブサイトでも答えが書かれておらず、悶々としたケースはかなり多いのではないかと思う。
ここでは両者の間に横たわる溝を少しでも埋めるべく、説明を加えておきたい。こういう細かいことに興味がなければ、とばして読んでもOKである。
まず、ロッククライミングの基本的なやり方。以下の図(1)を見て欲しい。
上っている人(A)がいる。で、下で支えている人(B)がいる。見ての通り、Aの体につながれているザイルを、Bが持っている。このままでは、Aが万が一落下してしまったら、大怪我をすることになるだろう。
ここで専用の道具が必要になる。「ハーケン」とか「ボルト」などのグッズで、形態や使い方がいろいろ異なるのだが、ここでは便宜的にまとめて「アイテム」とでも呼んでおこう。
Aは上に登りながらこうしたアイテムを岩壁に打ち込むことになる。そして、打ち込んだアイテムについた穴へザイルを通すのだ(実際には岩の割れ目などにロープを通すこともある)。
すると、たとえAが落下しても、図2のようにアイテムのところで引っかかるので、Aが無事で済む確率は高くなる。つまり、打ち込んだアイテムが「支点」になるわけである。
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しかし、もしかしたらAの落下の衝撃で、アイテムが抜けてしまうかも知れない。それを防ぐため、とりあえず「保険」としてAは登りながらアイテムをいくつも打ち込んでいくのである。
そうすると、仮にアイテムが一本抜けても、他のアイテムが打ち込まれた支点で落下が止まるかも知れない(図3)。
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さて、ここまではあくまでもAが崖を登ってBが下でザイルを握っている形である。この配置のままだと、崖を登れるのはAだけだ。しかし一緒に山登りに参加しているBも登りたいという場合は、どうするか。
その場合の答えは「かわりばんこに登る」である。
ロープの長さに合わせて、一度に登れる高さの区間を「ピッチ」と呼ぶのだが、まず1ピッチで上述のようにしてAが登れるところまで登る。そうしたら、次はAがザイルを握って、今までAがやってきたのと同じようにBも登り始めるのである(図5)。
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そしてBがAのいる地点まで登ったら、そこから「2ピッチ」がスタート。Bはそのまま登り続け、やはり岩壁にアイテムを打ち込んではザイルを通していく(図6)。
もうお判りだろう。そうしてBが2ピッチのてっぺんに来たら、今度はAが登り始めるのである(図7)。
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ちなみにこの、かわりばんこに登る流れの中で、先に岩を登る人を「リード」、次に登る人を「セカンド」と呼ぶ。
一方が岩壁を登り、もう一方がロープをしっかり確保する。その繰り返しで、二人一組のクライマーは山を登っていくのである。NとHは、こういう基本的な二人組の形で登っていた。
以上の事柄を踏まえると、なぜNとHが宙吊りになったかは大体想像がつくだろう。
先述の通り、クライマーは岩を登りながら複数回にわたってアイテムを打ち込む。そこにロープを通していくことで、いわば命綱の中継ポイントを作っていくのだ。仮に、クライマーが落下したとしても直近のハーケンが衝撃を受け止めて身体を支えてくれる。文字通り「支点」になるわけで、彼は下まで一気に落下せずに途中で止まるのである。
問題は、谷川岳の事故現場となった衝立岩が、昔から脆い「逆層」だと言われてきたことである。逆層というのは、岩の層が下から上へ向かってめくれ上がるように傾いているもので、アイテムを打っても抜けやすいという、クライマー泣かせの地形だったのだ。
しかも事故当日は天候が悪化しており、岩は濡れていた。岩が濡れているとこうしたアイテムは抜けやすくなる。
事故前日の18日の朝7時には、二人が衝立岩に取り付いているのが他のパーティに目撃されている。そうした前後の状況からして、彼らは岩壁に取り付いた形で一夜を明かした(ビバーク)ものの、その後の登攀中あるいは下降中に天候の悪化でスリップして滑落したのだろうと考えられた。
つまり、NとHはいずれかがリード、セカンドになって衝立岩を登っていたのだが、どちらかが途中で滑落したのである。しかし先述の理由からアイテムが落下の衝撃を受け止め切れず、支点Aが抜けて、支点Bも抜けて、支点Cも抜けて……と連鎖していったのだろう。
一方が落下した衝撃はロープを通じて相棒にも伝わり、バランスを失って「三味線屋の勇次」よろしく宙に浮く。かくしてNとHは、残った支えを支点として、一本のロープの両端にぶら下がる形になったのである。
二人の死因
さて次に、NとHの死因について少し掘り下げてみよう。先にも少し書いたが、宙吊りになった二人の死因は結局のところなんだったのか、それが書かれている資料は意外と少ない。
もちろん筆者は医者でも何でもないので専門家ぶったことは書けないのだが、NとHのような宙吊り状態に陥った場合の典型的な死因を並べると、おそらく二人もそのうちどれかひとつ、あるいは複合だったと考えられる。
①低体温症
二人は宙吊りになったことで風にさらされていた。しかも早朝の山奥で、当時はガスもかかっていたというから当然濡れる。体温の奪われ方は想像以上だったことだろう。
②ハーネスによる循環障害(サスペンショントラウマ)
登山者や高所作業従事者に恐れられている障害である。落下によって長時間宙吊りになると、太ももの付け根が圧迫されて血流が止まり、意識を失う。最悪の場合は死に至ることもある。
③落下時の衝撃
二人の身体は最終的にひとつの支点で支えられたとはいえ、落下の衝撃は相当なものだったはずだ。
④極度の疲労と脱水による衰弱
空中で身動きが取れず、助けも来ないという状況で、体力は急速に奪われていっただろう。
最初に東京地下鉄山岳会の男性が事故の発生に気付いた際は、まず大きな落石の音があって、それから救助を呼ぶ声が聞こえたという。状況を整理すると、
①落石の音がした
②NあるいはHの救助依頼の声と「一人死んだ」の説明が聞こえた。
③その後は声が聞こえなくなった
ということだった。
①の落石が、二人の滑落と直接的な関係があるのかは不明だが、仮にこれが原因で二人が滑落したとすると、NあるいはHのどちらか一方は落下時の衝撃で即死したのかも知れない。あるいは衝撃で失神し、その後は低体温症、サスペンショントラウマ、衰弱によって亡くなったか。
もう一人の方も、救助依頼の声を上げるので精一杯だったのだろう。そして宙吊りの状態に晒されている中で、やはり低体温症、サスペンショントラウマ、衰弱によって亡くなったのではないか。
①の落石が、二人の滑落と直接的な関係がないとすれば、それよりもずっと前から二人は宙吊りの状態だったのかも知れない。そうなると、救助要請をした時点で、落下の衝撃による即死は免れていたとしても二人の体力の消耗ぶりはかなりのものだったに違いない。
ちなみに、これはひとこと言っておいてもいいと思うのだが、なぜか「宙吊り」と聞いただけで、逆さ吊りのイメージを思い浮かべる人がいる。ネット上にあるこの解説記事でも、なぜか二人が逆さ吊りになっている前提でイラストが作られているものがあった。
しかしNあるいはHのどちらか一方が逆さ吊りになっていたという記録は、たぶん存在しない。
当時の写真や動画は、白黒なのとあまりにも画像が粗すぎるのとで、あれで宙吊り状態の詳細を確認できる人の方が珍しいと思うのだが、それでも少なくとも逆さ吊りにはなっていないはずである(ちなみにNの方はザイルが脚に絡まって、腰掛けるような姿勢だったという)。
遺体の回収
さて、宙吊りの二人をどう収容するか。これは世界の登山史でも前例のない難題だった。
まず最初に申し出たのは、NとHが所属していた蝸牛山岳会の仲間たちとJCC(日本クライマーズクラブ)の二名である。彼らには「登山仲間の遺体は自分たちで収容したい」という気持ちがあった。
しかしいかんせん、二人が宙吊りになっている衝立岩正面壁は、当時「国内最難」と呼ばれたルートである。しかも先述した通り、衝立岩の岩質は脆く、逆層で、支点が抜けやすい。
正直なところ、遺体収容を試みた仲間たちも「よりによってこの場所か!」と思ったのではないだろうか。二人が宙吊りになっている場所は、衝立岩でも名うての難所でもあった。
回収あるいは救助方法の候補としては、①とにかくザイルを切る②長いロープと滑車でスマートに遺体を回収する、の二つが挙がった。
しかし②は、そもそもそういう救助設備を造らないといけないので現実的ではない。しかも一人の身体は岸壁から約四メートルも離れているから厄介だ。
棒の先にナイフをくっつけて、長ーく伸ばしてザイルを切断するか? それとも棒の先に松明をくっつけてザイルを焼き切るか? 投げ縄をひっかけてザイルを手繰り寄せるか? ベテランのクライマーに頼んで遺体の近くまで行ってもらうか? しかし二重遭難になったら誰が責任を負うのか? 頭を抱えずにおれない難題だ。タモリ倶楽部で言うところの「ナゲット割って父ちゃん」である。「どうすんだ~い!」
20日の夕方には、蝸牛山岳会の代表者と警備隊本部の隊長、それに「谷川岳の主」と呼ばれた山小屋の主人が三人で話し合った。この時、県警からちらっと話題に出たのが「銃撃でロープを切れないだろうか?」という案である。
「猟銃で間に合いますかね?」
「いや、猟銃では射程距離がせいぜい五十メートルだ。切断すべきザイルまでの距離は一五〇メートルはある。ここは自衛隊でしょう」
「自衛隊か~」
という感じのやり取りがあったのだろう。この時はまだ完全に決定という感じではなかった。なにせ、山岳会のメンバーとしては、仲間の亡骸はせめて自分たちで回収したいと考えていたのだ。
ところが、この会議の内容を取材していた毎日新聞の記者が暴走して、翌日の朝刊で「銃撃でザイルを切って収容」という見出しのスクープ記事を出したものだから現場は混乱した。
蝸牛会「え、いつ決定したの?」
県警「え、誰が決定したの?」
自衛隊「え、そんな話になってたの?」
関係者一同、寝耳に水である。それでもまあ、そういう話ならと自衛隊はスピーディーに動いた。当日のうちに自衛隊の相馬原駐屯部隊の係官までやってきたのである。現場を見た彼いわく、
「う~ん、戦車なら一発で落とせそうですけどね」
「戦車ァ!?」
「うちの専門は戦車なんです。でも、ここまでは来られないから小銃を使うしかないですね」
という感じで、だんだんと、銃撃によって遺体を収容するというムードが醸成されていった。
黙っていられないのは蝸牛山岳会である。彼らとJCCの協力者二名は、なんとか遺体を自分たちで回収しようと考えて、岩壁に取り付いた。
毎日新聞が半ば誤報のような記事を書いた当日、21日のことである。JCCのメンバーであるKが四時間かけて岩壁を上り、やっとこさ午後二時頃にはNの遺体へ接近した。
遺体までの距離はあと三メートル。しかし岩壁を渡るためにはあと三本――たったあと三本のボルトが足りなかった。
「だが、もう少しだ。もう少しで、うまくいけばNの遺体を落下させずに回収できそうだ」
Kは、翌日以降には誰でもそこへ登れるようにセッティングして下山した。
「順調にいけば、明日の午前中にはNの遺体を収容できる。ただ、ザイルを切ってもHの遺体が落ちてこなければ、もっと上まで登らなくちゃいけないかも」
これに蝸牛山岳会は答えて曰く、
「ありがとう。この続きは自分たちでやってみる」
となった。
ところがその晩の関係者による対策会議では、山男たちによる遺体収容は失敗したと見なされてしまう。
「だって、あと三メートルの位置まで行ったのにザイルを切れなかったんでしょ。失敗じゃん。山岳会による遺体収容は無理なんじゃね?」
という感じで、論議のテーマも、自衛隊の出動を要請するかどうかがメインになってしまう。
おいおい、待ってくれよ。ここまでやったのにそれかよ。山岳会の若いメンバーの中には、涙を流して「せめて自分たちの手で」と訴える者もいたという。
しかし警察も、蝸牛山岳会の上層部も、遭難者の遺族も、万が一の二重遭難を回避するためにも銃撃による収容を希望していた。
それもこれも、「宙吊り」が原因である。NとHはあまりにも目立ち過ぎた。一刻も早く収容しないと、それだけ二人の遺体は衆目に晒され続けることになる。それに生々しい話だが、残暑の季節ともなれば遺体の腐乱も早い。山岳会や遺族が、自衛隊でも何でもいいから一刻も早い遺体回収を……と望んだのは無理からぬ話だ。
こうして手続きが行われ、24日に銃撃が実施されることが決定した。
23日から、新聞社・週刊誌・テレビ局などの報道関係者が土合山の家に詰めかけ、四十人の自衛隊員が土合駅前の広場にテントを設置。24日の朝には現地へ四十七人の自衛隊員が到着した。
その他40人の警察官、延べ200人を超える遺族および山岳会関係者、約30人の地元山岳会員、そして報道陣が押しかけた。狭い谷の一か所に千名もの人々が集合したわけで、これだけでも群集事故の一つくらい起きそうである。一ノ倉の歴史のなかでも空前絶後の大混雑だった。
ザイルへの距離は直線で約140メートル。使用火器はライフル五丁、軽機関銃二丁、カービン銃五丁、弾薬二千発である。
跳弾の危険防止のため周囲のエリアは一般登山者の立ち入りを禁止し、衝立岩から谷をひとつ隔てた場所に報道関係者が陣取ってテレビカメラが「その瞬間」を待ち構えた。
午前9時15分、「射撃開始!」の声に応じて狙撃兵が引き金を引く。銃弾が岩壁に当たると白煙があがったが、ザイルにはなかなか当たらない。
ライフルとカービンで一時間撃ってもザイルは切れず、機関銃へ切り替えた。それでも切れない。
「なんだよ、切れないじゃんかよ」
その一瞬を撮りたくて仕方がないカメラマンや報道陣からは不満の声があがった。これ、本当に切れるのか?
開始から二時間、約千発の弾丸を打っても駄目だった。
11時15分にいったん休止。12時51分から銃撃を再開し、ここでちょっと方針を変えることになった。ザイルが岩と接している箇所を狙うのだ。
この様子を見ていた警備隊員の証言によると、13時2分、38発目でまずNの遺体が落下したという。
単純にザイルが支点に引っかかっているだけなら、片方が落下すればもう片方も自然に落下しそうな気がするが、そうはいかなかった。HはHでどこかに固定されていたのであり、もともと二か所を切断する必要があったのだ。
というわけで銃撃は続き、13時27分にはHの遺体も落下。どちらも一度バウンドし、衝立スラブというはるか下の岩に転がり落ちた。
翌日、蝸牛山岳会の仲間たちが遺体を収容した。彼らは涙をこらえながら仲間の亡骸を抱きしめたという。
その後、いろいろ検証も進んだ。切れたザイルを調べてみると数十発は弾丸が命中していたようだが、切れるには至っていなかった。
亡くなった二人が滑落したのが登攀中だったのか下降中だったのか、どっちがリードでセカンドだったのかも不明である。
のちの議論
この事故が伝説となったのは、とにかく「宙吊り」というショッキングさと、それを自衛隊による銃撃で撃ち落とすという前代未聞の遺体収容方法ゆえなのだが、この収容方法についてはその後も議論がなされた。
朝日新聞は9月25日付の記事で、あれが「最後の手段」と言えたのか、なぜ他の山岳会に協力を要請しなかったのか、などといちゃもんをつけている。
他の山岳会うんたらについては、実際過去にこの場所を登攀してクリアーしたことがある登山者や、実力のある何人かのクライマーは、協力要請が来るのを待っていたのだそうな。
「待っていた」というのは、売名行為と思われたくないがために自分からは言い出さなかったのだとか。
これについては蝸牛山岳会が、メンツを守るために他の山岳会に協力を求めなかったのだろう、などとも言われた。自分の会のメンバーが起こした事故は、あくまでも会のメンバーが処理をするというわけだ。
しかし蝸牛山岳会は「そんなことはない、あくまでも安全性を最優先して、メンツとかは関係なく両名の遺体を迅速に遺族のもとへ届けようと考えた結果だ」とコメントしている。
個人的には、協力要請が来るのを待っていたクライマーたちが「売名行為と思われたくないがために自分からは言い出さなかった」というのも、結局は自身のメンツ優先やんけと思えなくもないが……。本気だったら、売名行為と思われてもいいから俺がやります! と手を挙げそうなものだが、どうなのか。
ともあれこの議論については、蝸牛山岳会は板挟みだったようである。
一部のメンバーは岩壁の上で、なんとか遺体を収容できる一歩手前までセッティングを進めていた。しかし岩壁の下の方はといえば「自衛隊に頼みまひょか」「仕方ありまへんな」という話になっていたのである。
しかも蝸牛山岳会の中でも上層部は安全優先で考えており、とにかく「誰かが登って遺体を収容する」ことだけは避けたかったようだ。一方で、血気盛んな若いメンバーは自分たちの手で仲間を助けたい、と熱く燃え上がっていたのである。
こういう、組織内の思惑の違いというのは本当に厄介で面倒くさい。
山岳関係者の中には「銃撃の判断が非常に速すぎた」と考える者もいたそうだが、これは関係者のせいではないだろう。マスコミが無節操な当てずっぽうの記事を報道をしたことで、いわば嘘から真が飛び出したのである。
まだ遺体の回収方法が検討段階だったにも関わらず、自衛隊が出動するらしいというスクープ気取りの報道が先走ってしまったのは先述の通りである。
この報道を受けて自衛隊の係官が早くも偵察にやってきたわけだが、それを門前払いするわけにもいかなかっただろう。これが蝸牛会の諦念を早めさせたのだ。
とはいえ、遺体収容が早まったという結果だけを見れば、マスコミの当てずっぽうが怪我の功名を生んだと言えなくもない。
当時は、事故の一報が流れた直後から、現場に報道陣が押しかけてカメラが列をなしたという。近くの水上温泉に来ていた観光客までもが、興味本位で一ノ倉沢に行こうとしていたとか。それでは、「山岳仲間による回収」という、まどろっこしい上に二重遭難の危険があるような方法ではなく、銃撃という迅速なやり方を選びたくもなるだろう。先に書いた通り遺体も腐乱するし、何より遺族が不憫だ。
マスコミとSNS
それにしても、この事故がもしも現代に起きていたらどうなっただろう、と考えずにはおれない。
二人の遭難者のために自衛隊が出動するという事態に対しては、まず十中八九……というか百パーセント確実に、SNSでは「税金の無駄」「自己責任」「迷惑遭難」「なぜ自衛隊が?」といった批判が噴出し、炎上していただろう。
山男たちの世界というのは非常に独特の世界である。
例えば「登山仲間を決して見捨てない」「山で死んだ者は山の仲間が連れ帰る」という倫理があったり、先に書いた通り言わずもがなの情報は一般向けにわざわざ説明してくれなかったり……。とにかく仲間意識が独特なのか、登山ルポや遭難ルポなどを読んでいると、なぜか関係者の名前が全部フルネームで載っており、まるで友達の活動を紹介するかのようなノリで書かれているのである。ついでに言えば、山男の書く文章はクセが強いことが多い。
おかしい、というつもりはないが、傍から見ればちょっとヘンな世界だ。
しかしそうした世界にも、土足で踏み込んでくるのがマスコミである。
マスコミのスクープ気取りの過熱報道にかかっては、山男たちの世界だけで通用するような独特な倫理も形無しである。ひとたび関係者の一挙一動が報道されれば、誰もが記者の視線を気にして動かざるを得なくなる。すると、山岳会の倫理やメンツよりも、とにかくさっさと遺体を収容するのが第一だという結論に落ち着くのもむべなるかなだ。
これが現代であれば、このように当事者の世界に土足で踏み込んでくる役割を、きっとSNSが果たしたことだろう。
それから…
この事故が起きた1960(昭和35)年は、谷川岳では年間56件の遭難事故があり、33名が死亡している。ちょっと異常な数字だが、もともと谷川岳は天候の変化が激しく、遭難者の数もケタ外れなのだった。統計が開始された1931(昭和6)年以降、谷川岳での死者は現在で800人を超えており、世界最多の遭難死者数を記録する山としてギネスに登録されているほどだ。
群馬県は1966(昭和41)年に遭難防止条例を制定し、危険区域への入山を規制。そんな時代の流れもあり、また装備の進歩や登山スタイルの変化によって、1980年代以降は、いわゆる山男やクライマーが遭難するケースは減少していった。
そう考えると、この谷川岳の宙吊り事故というのは山岳史あるいは遭難史上、ちょっと独特な位置づけのように感じられる。
かつて、登山に臨む青年たちといえば富裕層の子息たちであり、彼らが登攀に成功すれば歴史に名を残すことができた。それは名誉なことであり、ゆえに登山家にはある種の権威があっただろう。
しかし、おそらくそういう権威を権威として感じる人々は時代とともに減っていった。山岳関係者は生と死と隣り合わせの登攀によって得られる名誉よりも安全を優先するようになり、一般の人々ももっとユルい娯楽としての山登りを自ら求めるようになっていったのである(そして中高年登山者の遭難が増えるようになる)。
そうした歴史に照らし合わせて考えてみると、この宙吊り事故は登山家たちの弱まっていく権威を象徴する出来事だったのであり、滑落して「宙吊り」になったのは、まさしくそうした権威そのものだったのではないかと思うのである。
うん、なんかうまくまとまった気がする。
ちなみに現在、谷川岳ロープウェイの山麓駅の近くには土合霊園地という場所があるという。その慰霊碑には、統計が開始された1931(昭和6)年以降に谷川岳で亡くなった遭難者たちの名前が刻まれているそうだ。
【参考資料】
◆羽根田治『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』2010年、平凡社新書
◆羽根田治『十大事故から読み解く 山岳遭難の傷痕』2020年、山と渓谷社
◆瓜生卓造『谷川岳 生と死の条件』1969年、中公新書
◆山の会オフトレイル(Mountain Club OFFTRAIL)公式ブログ
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