◆神龍湖遊覧船転覆事故(1934年)

 1934(昭和9)年324日のことである。この事故は、広島県北東部の景勝地・帝釈峡にある神龍湖で発生した。

 神龍湖というのは通称である。この湖は人造のダム湖で、帝釈峡のほぼ中央に建設された「帝釈川ダム」というのが正式名称だ(本稿では神龍湖の呼び名を使う)。

 完成したのは1924(大正13)年で、本邦でも最も早い時代に建てられたコンクリートダムである。ここにかかる神龍橋と桜橋は国の登録有形文化財にも登録されている。

 事故が起きたその日、神龍湖周辺は雨が降ったり止んだりの不安定な天候だった。当時から神龍湖は有名な観光名所であり、遊覧船に乗ることもできたが、この時遠足に来ていた小学校の引率の教諭2名は「この天候では、遠足は中止にすべきだろう」と判断した。

 この小学校は、比婆郡田森村(現・庄原市東城町粟田・同市東城町竹森)の粟田尋常小学校と粟田尋常高等小学校である。引率は横山常夫・田辺サキヨ教諭だった。

 遠足を中止すべきかどうか、横山先生は役場から校長に電話をかけて相談している。で、校長もやはり「遠足は中止して帰れ」と指示を出したのだが、ここで先生に遠足を強行するよう懇願したのは児童たちだった。

「どうか連れていって」

「死んでも行きたい」

 彼らはそんなふうに訴えたという。

 仕方ないので、とりあえず紅葉橋(現在の神龍橋)まで連れていったものの、それで児童たちの気が済むはずもなかった。何せ彼らは海も知らないような山育ちばかりで、人造湖とはいえこうした湖は憧れだったのだ。

「先生、やっぱり遊覧船に乗りたい」

 こうして児童たちの要望に引きずられて、先生を含めた総勢42名が乗船することになった。

 当時の遊覧船というのがどういう形態だったのか、筆者はよく知らない。古い写真を検索して想像するしかないのだが、とりあえずそれは屋形船で、船頭による手漕ぎだったらしい。

 で、船は神龍湖に漕ぎ出してしばらく進んでいたが、異変が起きた。船底に敷いてあるゴザが濡れてきたのだ。が、船頭は、

「大丈夫です。皆、そのまま静かに座っていて」

 と声をかけながら漕ぎ続けた。しかし天狗岩の出鼻を回ったところで、船底からザーッという水音がした。引率の横山先生は真っ青になって船頭に問いかける。

「これはいけん、どうしましょう」

「皆、着物を脱いで穴をふさいで。騒がずに落ち着いて、立ち上がらないように」

 船頭はそう答えた。おそらく、最初は大丈夫だと言っていた彼も、この時は焦っていたことだろう。

 水はどんどん進入してくる。児童も先生たちも船頭の言う通りにし、水が腰や胸に来るまで震えて座っていた。しかし浸水がいよいよ激しくなって船が傾いたところで、横山先生が叫んだ。

「泳げる人は泳げ!」

 そこで、高等科の男子数人は水中へ飛び込んでいる。

 他の児童は、屋形船の柱や舷に必死につかまった。が、やがて船は堰堤の少し上あたりで転覆し、つかまっていた何人かは船の下へ引き込まれてしまった。

 肌寒い天候だった上に、雪解け水が入り込んでいる湖水は冷たい。児童たちと一緒に投げ出された二人の先生は、船の下に引き込まれた者を押し上げたり、板片を与えて「岸に向かって泳げ」と命じた。もしかすると、さらに先生は「泳げない者は自分にしがみつけ」とでも指示を出したのかも知れない。何人かの児童は先生に縋りついたのだが、彼らは岸にたどり着くことなく力尽き、ついに水中へ引き込まれていった。

 こうして児童12名と教諭2名の計14名が犠牲になった。湖の水面には、児童たちの帽子が浮かんでいたという。難を逃れた児童は30名で、当時船を漕いでいた船頭も助かっている。

    ☆

 それにしても、突然遊覧船が浸水した原因は何だったのだろう。これは資料を呼んでもはっきりとは書いておらず、確認するためには裁判記録あたりをチェックする必要がありそうだ。

 最初は、資料に書かれていた文章の文脈からして「雨の中で遠足を強行したため事故が起きた」のかと思った。

 しかしよく考えてみると、屋根なしのボートなら雨水が溜まって転覆することもあるかも知れないが、これは屋形船である。また記録を読んでも船底から浸水してきたのは明らかなので、「雨の中で遠足を強行した」ことが原因とは言えないだろう。児童はもちろん二人の教諭も、この事故は予見できなかったに違いない。

 資料では、雨の中で遠足を強行したがゆえの悲劇という感じで書かれているが、それはおそらく、事故関係者の「あの時遠足を強行さえしていなければ」という悔しさと無念さが後付けで生み出したストーリーなのだと思う。実際には、遠足を強行したことと、船が転覆したことに直接の因果関係はないと思われる。

 単純に考えて、船に欠陥があったのではないだろうか。あるいは乗った人数が多すぎたのかも知れないが、仮にどちらかだとしても結論は同じである。

    ☆

 さて午後三時頃に警鐘台(いわゆる半鐘)が鳴らされ、地元の消防団員が集合。さらに地元の人たちも加わって十日間ほど遭難者を捜索した。

 引き上げの方法として、釣り針の形をした鉄筋をロープの先に三方向に向けて取り付け、水中に沈めて引っかけるというやり方が採用された。これで45グループに分かれて捜索し、その後は潜水夫も潜ったという。しかし湖は水深が深く、両岸が迫った谷間の湖水は見通しがきかず真っ暗で、捜索は困難を極めた。

 ともあれ、田辺サキヨ先生と12名の児童の遺体は引き上げられ、横山先生だけが見つからなかった。

 ちなみに田辺先生は、自分の子供も遠足に加わり乗船している。しかし、遭難時は他の児童を優先して救助しており、最期は力尽きて親子ともに亡くなったのだった。

 横山先生の遺体が見つかったのは翌年の8月下旬のことである。少し生々しい話になるが、きちんと書き記しておこう。発見のきっかけとなったのは、堰堤補修のためダムの水を全部抜いたことで、当然遺体も出てくるだろうと関係者たちは見守っていた。

 そして排水が終わりかけた頃、泥の中から油のようなものが浮いてきたので掘ってみると、遺体が出てきた。冷たい水の中だったので屍蝋の状態だったのか、掘り出した直後は臭みもなく当時の状態そのままだったという。

 だが、わずかな時間で臭いが出てきたので、容器に収めて新坂村の三坂火葬場へ運ばれ、荼毘にふされたのだった。

 やや余談めくが、その年の夏は干天が続き、帝釈川下流の水源が枯れたため、周辺地域では飲み水が不足したという。それで仕方なく帝釈川の水を飲み水の足しにしたが、遺体が沈んでいる湖の水だということで、やはりいい気持ちではない住民もいたようだ。

 事故の状況は浪曲でも歌われ、レコードを購入して蓄音機で聞いた家もあったらしい。特に、亡くなった田辺先生の子供が「お母さん!」と助けを呼ぶシーンでは聴く人の涙を誘ったという。

 しかしその後、事故の責任を問う裁判の判決が出て、レコードは発売禁止になった。こうした経緯はちょっと今の時代からは想像がつかないが、当時はそんなこともあったのだろう。

    ☆

 この事故が新聞で報道されると、各方面から弔意文と義捐金が送られてきた。また、広島県教育会・広島市版同窓会・広島県教育協会も全国に義捐金を呼びかけている。

 そうして集まった金額の一部は遺族の弔慰金に使われた。また粟田小学校の校舎そばには殉難記念館が建てられ、事故現場となった神龍湖畔には殉職した2名の先生の銅板像が建てられている。さらに、庄原市東城町の朝倉神社にも、殉難慰霊塔が設置された。

 これらの慰霊施設は、それぞれ変遷がある。まず、事故当時の遭難者の遺品はもともと殉難記念館に保管されていたのだが、これらは栗田小学校のメモリアルルームに移されて丁重に保管されているという(2019(令和元)年9月時点の情報)。よって殉難記念館はどこかの時点でなくなったのかも知れない。

 田森地区によると、事故から85周年を迎えたことを契機に、当時の記録や資料を整理・保存する計画も進めているようだ。どこかの施設や個人で所有している個人の遺品や資料などがあれば、一緒に保存管理したいと地区だよりで呼びかけていた(田村自治振興区だよりNo.184)。

 それから朝倉神社の殉難慰霊塔だが、これは粟田小学校の校庭に移設された。そして今も、神龍湖畔にある慰霊碑とあわせて毎年清掃と慰霊の儀式が行われている。2023(令和5)年39日にも、亡くなった先生の銅板像の前で、現在の粟田小学校の56年生が「無事に卒業する」ことを報告する慰霊祭が開催されたとニュースで報じられている。

 ちなみに、その慰霊祭に参加した56年生の児童はたった6名だという。かつては40名もいた児童が少子化でここまで減っているわけで、地域から子供がいなくなればこうした慰霊行事も忘れられてしまうのではないかと、少し心配だ。

   ☆

 さて、事故のことを歌った浪曲のレコードが当時販売されたことは先述したが、その歌詞の一部が資料に載っていた。あくまでも浪曲の歌詞なので、歌われているのは事実そのものではないかも知れないが、これはこれでなかなか貴重な資料だと思う。せっかくなので最後に丸ごと掲載しておこう。なお、読みやすいように文章の配置などを一部改変している。

  (以下、浪曲『教育美談、魔の神龍湖』より)

 歎けど返らぬ夢をなんとしよう。明日おも知れぬ人の身よ。あわれ散果なき幼な子の、学びの庭のはらからが、やよいの空に勇み立つ、今日は楽しき遠足の日。

 時は昭和九年三月二十四日、広島県比婆郡東城町粟田尋常高等小学校卒業生男女四二名は、受持ち教師横山常夫、田辺キサヨの両訓導に引率され、備後の名勝帝釈峡に向かって、楽しい春の修学旅行の途につくべく校庭に集まり、校長先生の訓話を受け、父兄に見送られ校門を出ましたのが、丁度八時半でした。

 それは懐しわが母校の、門をくぐるも今日限りと、知るや知らずや幼な子は、勇み勇んで出でて行く。雨の降る日や風の日も、雪のあしたも霜の日も、通いつめたるこの道や、これも今日が見おさめと、神ならぬ身のつゆ知らず、急げば早くも粟田口、川西たんぼもつかの間に、物売る店も軒ならぶ、東城町もいつしかに、眺めも清き有栖川、水の流れもなみ方の、橋を渡れば久代村、折から空はどんよりと、勇み立つたる幼な児の、旅のさい先うれいてか、ぽつりぽつりの涙雨、空を眺めて両訓導、互いに見合わす顔と顔。

「田辺先生、困った天気になりましたねえ、どううしたらいいものでしょうか。」

「先生、どこかに電話でもあったら学校に連絡してみてはどうでしょうか。」

「よい事に気がつきました。この先の久代の役場に行って電話を借り、校長先生にお伺いしてみることにいたしましょう。」

 と、久代役場に急がれまして、電話を借り受け校長先生に、かくかくしかじかでありますと、電話をすれば校長先生からの返事では、雨天であれば止むを得ず、一時も早く引き返して、日を改めて出直すようにと、この由子供に告げたれど、勇み立ったる子供らに、両訓導の言葉が、素直に耳に入りましょうか。

「どうぞ、先生、連れて行って下さい。どうぞ先生、連れて行って頂戴よ。」

 はやる子供の声々に、いたしかたなく両訓導、校長先生に又も許しの電話をして、進まぬ心ひきしめて、さらばと急ぐ久代村、後に眺めて新坂の、峠越えれば三坂村、急げば早くも紅葉橋、橋の欄干に身をゆだね、写す姿も水鏡、これも此の世の見おさめと、神ならぬ身の露知らず、急げは早く池田茶屋、舟の用意も整えば、勇み立ったる子供らは、我も我もと舟に乗る。乗船終われば船頭さん、ぐっと一さお漕ぎ出せば、舟は次第に沖にでる。沖に出ずれば船頭さん、自慢の声をはりあげて、

〝沖でかもめの鳴く声聞けば、船乗り稼業がやめられぬ"

 舟は静かにすべり行く、間もなくくぐる紅葉橋、死出の旅路の五月空、五雲峡も目のあたり、心も浮いて晴ればれと、

〝ここはお国の何百里、離れて遠き滿洲の、赤い夕日に照らされて……"

 四方の景色を眺めつつ、笑い興じるおりもおり、

「先生、先生。」

「どうした、どうしたんですか。」

「舟に水が入ってきたんです。」

 なに!舟に水が、先生驚き近よれば、舟底一ぱい水が入ってきた。おーい船頭、舟に水が入っていると、叫べは船頭びっくり仰天、底板めくって見ればこわいかに。ええしまった。誰か早く手を借せて……、横山訓導着ていたオーバーぬぎ捨てて、水口しっかと押さえども……、ああいかんせん何としょう。折りが折りなら時も時、行き交う船の影もなく、入り込む水は刻々と、ほどこすすべさえ水の泡、横山訓導と船頭は、ここを必死と防げども、あわれや船は次第しだいに傾いて、あれよあれよと騒ぐうち、水は一寸二寸三寸、早や子供らの膝までびっしょりと浸ってきたる。悲しき声はそこここに、救いを求める幼な児の、中にあわれや女の子、田辺先生に取りすがり、先生助けてと、わめき歎けば両訓導、互いに顔を見合わせて、はらわた断ち切る思いなり。

「田辺さん!」「横山先生!」

「田辺先生!、もう駄目です。此の上はいたしかたありません。私達二人は命を捨てるとも、一人でも多くの子供を助けなくては、父兄に対して申訳はございませんぞ。」

「はい横山先生、よくわかっております。」

 言うより早く二方は、粟田の空に手を合わせ、お許し下さい親ごさん、多くの子供殺したる、罪はいか程重くとも、わたしら二人死んでお詫びをいたします。

「おーい子供ら早く裸になれ、そして泳げる者は早く飛び込め、泳げない者はこの先生に、すがれるだけ縋ってこい!」

 と、言うよりはやく横山訓導、そばに寄り添う子供らを、こわきにひっかかえ、ざんぶとばかり飛び込んで、抜き手を切って岸に向き、一生懸命泳いでゆく。後に残りし田辺サキヨ先生は、ほどこすすべも女の身、千に一つの救いをと、祈る心は神だのみ、天地に神々おわすなら、死するわが身はいとわねど、どうか幼い子供らをお助け下さいと、一生懸命神だのみ、ならくの底に沈みゆく、船べりに残る子らを縋らせて、浮きつ沈みつ波枕、かよわい女の力を何としょう。田辺訓導の娘やすえさん、親一人子一人というむつまじい仲、そのいとし子が水に溺れながら「お母さん」と、助けを求めて呼ぶ我が子をしかと見さだめ、許してくれよこれやすえ、ここでそなたを助けたら、世間の人は何と言う、あれ見よ田辺訓導は、親子の愛にひかされて、我が子救わんその為に、多くの子供殺したと、いつの世までも語り草、じゃけんな母と恨むなよ、そなた一人をやりはせぬ、死なば親子もろともにと、言う声さえも切れぎれに、教え子二~三抱きしめて、乱れし髪を見おさめに、悲しく消ゆる波の底、続いて横山訓導も、力は尽きて今は早や、一二の子等ともろ共に、悲しく消えて影もなし。

 ああ両訓導の最後こそ、命を捨てて殉教の、その真心は日の本の、教育界の亀鑑とぞ、長く後世にとどむらん。


【参考資料】
◆広島市神石郡友会『大正・昭和・平成のふるさと神石郡』
◆広島市神石郡友会『大正・昭和・平成のふるさと神石郡』(資料編)
◆NHK 広島のニュース

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