2020年9月1日火曜日

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群雛文庫『超能力カメラマン内木』1巻の表紙です
(画・バカエルさん

2018年10月13日土曜日

◆京都駅将棋倒し事故(1934年)

 1934(昭和9)年1月8日、時刻は22時前後。京都市下京区の京都駅は異常な興奮と熱気に包まれていた。数千人の人が構内に詰めかけていたのだ。

 とにかく凄まじい狂騒ぶりだった。集まった人の多くは飲酒しており、ホームでは、我先に良い席をゲットしようと、停車している列車に窓から無理やり乗り込もうとする者もいる。超満員ぶりに改札口も大混乱で、これはたまらんと駅側は入場券を発売停止し改札を制限しようとした。すると今度は人々は激昂し、改札口を乗り越えあるいは破壊し、駅員に怒鳴りつけた。「俺たちにケチをつける気か!」

 何これ暴動? いやいやそうではない。その証拠に、駅の中ではブラスバンドが「君が代」や軍歌を演奏しているし、集まった人々は旗や上り、提灯などを手にしてバンザーイ、バンザーイ! 歓声を上げている。そう、これはお祭りなのだ。人々は、新兵たちの入営を喜ぶためにここへ集まったのである。

 広島県呉市の海軍海兵団に、新兵715名(資料によっては717名とも)が入団することになったのだ。それに加えて、付添人が約300名。彼らは今夜、臨時列車で京都を発つ予定だった。それを見送るために、さらに多くの見送り人が駅を訪れたのである。

 今となっては、当時の空気はよく分からない。ただおそらく、軍への入団・入営というものが生み出すめでたさは相当なものだったのだろう。

   ☆

 少し時間を巻き戻そう。21時頃には、五分刈りの新兵や、紋付を着て提灯や日章旗を手にした親族、在郷軍人や青年団などの関係者たちで、京都駅はすでに混雑していた。臨時列車の出発時刻は22時22分で、入場改札は21時半からの予定だった。

 とはいえ、他の列車の発着もあるので、駅の改札は閉鎖されているわけではない。結局、定時よりも前に入場した者も多くいたようだ。すでに改札口(中央口)に面した1番ホームは、立錐の余地もないほどの大混雑だった。臨時列車が発車するのは第3ホームなので、駅員や警官たちは、跨線橋を通ってそちらへ向かうよう誘導した。筆者は京都駅には行ったこともないが、この第3ホームというのは現在の4・5番線にあたるらしい。

 ところが、第3ホームに通じる跨線橋の階段も、既に超満員状態。そうこうしているうちに、改札の外では式典が終わり、お偉いさんの訓示を受けた新兵たちが入場してきた。時刻は21時40分頃である。

 こうして冒頭の混乱に至る。ドッと流れ込んできた新兵と付添人と見送り人たちを第3ホームへ誘導するも、跨線橋は既に見送り人でいっぱいである。ホームの南側では、ちょうど臨時列車の編成が整ったところで、軍楽隊の演奏に万歳の叫び声、列車に乗り込んだ新兵とあいさつする者、軍歌を歌う者、拍手する者と、歓送の気勢は最高潮。ごった返しもいいところだった。

 そんな状態なので、見送り人もホームになかなか入れず跨線橋の階段の途中でもたもたしている。警察官はなおも群集を誘導し、別のもう一つの跨線橋を利用する者も出てきたが、それでもまだ不十分だった。駅の待合室には、まだ入場できずにいる者が大勢いた。

 そして魔の22時を迎える。第3ホームと跨線橋では、もはや混乱とか危険を通り越して、不穏な空気が漂い始めていた。まずホームの真ん中でケンカが起きた。それから階段の下では、倒れそうになる人を警官が救助。この頃になると、群集の中にも身の危険を感じる者が出てきたようだ。助けを求める婦女子の悲鳴がところどころで上がり、警官や在郷軍人が協力して引き上げたりしている。

 だが、ついに跨線橋の階段で人の流れがストップしてしまった。それでも後ろから人は来る、前へは進めない――で、階段の上下から押し合いへし合いの流れが発生する。人の波が、西から東へグワーッと揺らいだ。かと思えば今度は、押し返しの波が反対の西側へグワーッと揺らぎ返す。そこで女性の声が上がった。

「あれえ、あたしの息子が!」

 50代くらいの女性だったという。彼女はそう叫ぶと、倒れた子供を起こすべく身を伏せようとしていた。それがきっかけで後続の者がつまずいたのか、あるいは空間ができたことで支えを失ったのか、将棋倒しが発生した。悲鳴と共に人が転倒し、そこへさらに雪崩のように人間が折り重なって、たちまち人間の山ができた。

 目撃者の一人は、当時の状況について「大根を押し重ねたように人が積みあがった地獄絵そのもの。物凄い叫びは、まだ耳に残っています」と証言したという。

 しかし狂騒は止まない。群集事故の恐ろしいところである。階段で地獄絵図が発生したにも関わらず、少し離れた場所の人々はそれに気付かずにいた。それどころか、列車に遅れてなるものかと、わめきながらなおも押し寄せてくる。ホームでは軍楽隊の演奏と万歳三唱だ。

 「人が倒れた! 上の者は止まれ!」警官や憲兵が必死で呼びかけて、ようやく群集を制止した。

 時刻は22時5分頃。周辺警察署の警察とその救護班、憲兵、在郷軍人会、青年団、医者などが応援や非常招集で駆け付けて救助を行った。現場の階段では、百~二百数十人が下敷きになっていた。現場周辺では「毒ガスでもばら撒かれたのではないか」などとデマを口にする者もいたとか。

 大混乱の状態だったが、入団兵とその付添人を乗せた臨時列車は、定刻通りに――万歳の大歓声を受けながら――出発したという。

 それにしても犠牲者が多すぎた。既に冷たくなった者は駅員用の休憩所と第1ホームに並べられ、息のある者は人工呼吸が施されたり水をぶっかけられたりした。彼らは長椅子や戸、扉などを使った急ごしらえのタンカで運搬され、構内の自動車や市バス、円タクに片っ端から押し込まれて搬送された。この甲斐あって、23時半頃には全ての者を病院へ収容できたという。

 死者77名、負傷者74名。死者の中には、海兵団への入団予定者も数名含まれていた。また、原静枝という若手女優も巻き込まれて死亡している。

 現代ならば、京都駅や警備の人々の責任が追及されそうだ。だが少なくとも当時は、こうした事故はすべて個人の責任とされたらしい。よって鉄道省や駅では責任を認めなかった。

 後の調査では、この事故の主な原因は大体以下の通りとまとめられている。
・乗車時刻が迫っていて、一気に大勢が入場したこと。
・酒気帯びで熱狂していた者が大勢いたこと。
・入場制限の不適切さ。
・跨線橋を下りてすぐの車両に、乗客が集中したこと。
 これを受けて、関係団体による事故防止対策協議会では、その後の将兵の見送りについて再考することになった。

 被害者やその遺族などには、天皇陛下からの下賜金と、京都府からの弔慰金などが送られた。

 事故の現場となった東跨線橋は、1981(昭和56)年の地下通路の完成により取り壊されたという。ちなみにもう一つの西跨線橋は、現在の南北自由通路の場所にあったとか。当時の面影をしのぶものは、もはや現地には無いようだ。

【参考資料】
◆岡田光正『建築人間工学 空間デザインの原点』オーム社2015年
◆近代京都の歴史
 http://www3.plala.or.jp/kindai-kyoto/kyouto.html
◆何かのサイト
 http://22.xmbs.jp/ch.php?ID=ryuhpms64&c_num=159583
◆ウィキペディア

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2018年10月8日月曜日

◆横浜港ドイツ軍艦爆発事故(1942年)

 戦時中、横浜港で起きた大惨事である。

 あの場所で、港が完全に壊滅するほどの爆発事故があったのだ。軍部による情報の隠蔽がほぼ完璧に行われたため、戦後はすっかり「忘れられた事故」となってしまった事例である。

 1942(昭和17)年11月30日、13時40分頃のこと。神奈川県横浜市の横浜港、新港埠頭内で爆発が起きた。

 どぼずばああああああん。

 火を噴いたのは、八号岸壁に繋留中だったドイツ輸送用艦船「ウッカーマルク号」である。なんだかジェッターマルス(知ってる?)みたいな名前だが、これは北ドイツの地名らしい。

 爆発したのは艦橋の甲板だった。その後も小爆発が続き、船首の甲板上では、多くのドイツ将兵が逃げ惑っていたという。以下は、当時の将兵のうちの一人の証言である。

「午後二時ごろだったか、突然大音響とともに爆発が起こり、船室の壁の鉄板が裂けて飛んで来て右足に当たった。ツーンと耳が痛くなった。同室の仲間の手を借りながら通路に出ると、そこは炎と煙が充満していた。夢中で階段を甲板に上がると、艦橋が吹き飛んで傾き、大きな鉄板が岸壁の倉庫との間に引っ掛かっていた」

 この将校は、ウッカーマルクの隣に停泊していた仮装巡洋第10号艦「トール」に乗り移った。

「私は右舷から隣接していた仮装巡洋艦第10号に移り、海に飛び込んだ。そして、降ろされたボートに拾われて、対岸の岸壁(山下公園側)へ逃れることができた。怪我もしていたが、興奮していたのでまったく寒さを感じなかった。その直後に10号艦の大爆発が起こった」

 そう、爆発は一度では済まなかった。最初の爆発から5~6分後――たぶんウッカーマルクから引火したのだろう――このトールも大爆発を起こしたのだ。

 もういっちょ、どぼずばああああああん。

 轟音とともに、天に向けて巨大な火柱が上がる。トールには魚雷や15センチ砲弾、60ミリ砲弾などが積まれており、最初のウッカーマルクよりもこちらの爆発の方が数段たちが悪かった。むしろこの「横浜港ドイツ軍艦爆発事故」は、これこそがメインと言っても良い。

 トールの爆発の規模は、TNT火薬換算爆発量に換算して49トン以上だったと見られている。ちなみに1974(昭和49)年に発生した三菱重工業爆発事件の爆薬量は、同換算で20キロ。ケタ違いもいいところだ。

 ウッカーマルクは甲板がえぐれるように吹き飛び、トールは隠されていた大砲がむき出しという無残な姿となり、火炎と黒煙に包まれていった。

 爆発は何度も続き、船の破片が宙を舞う。ウッカーマルクには重油が積まれていたため、船体から燃料が漏れ出して周囲は文字通り火の海となった。海流の関係で、海上の炎は山下埠頭と横浜造船所方面へ広がっていった。

 被害はどんどん拡大する。今度は七号岸壁にあった日本海軍の徴用船「第三雲海丸」と、同六号岸壁のドイツ汽船「ロイテン号」に引火し、次々に大爆発が起きた。この二隻は爆風のため座礁。間断なく続く爆発音は、港いっぱいに山彦のように反響したという。

 陸地もただでは済まなかった。岸壁に隣接して建っていた鉄筋コンクリ造りの七号倉庫は、ドミノ倒しのように全倒壊。付近の倉庫や波止場の上屋が破壊されて、火災は弾薬などに延焼した。いやはや、きっと山本リンダならこう言うのではないだろうか。もうどうにも止まらない! 燃えつきそう! と。

 現場から一キロ以上離れた市街地では、まるで震度4~5の地震かと思わせるような揺れが発生。爆風で、商店街のウインドウガラスは玉砂利のごとく砕け散った。また二キロ離れた山内埠頭や伊勢崎町のあたりでも、飛び散った鉄塊や鉄片などが落下してきたというから恐ろしい。

 横浜港に立ち上る黒煙はきのこ雲のようになって空を覆い、横浜港全体が夕暮れ時のように薄暗くなった。この世の終わりのような風景である。

 被災者たちは、血と重油の匂いでむせ返るような中で、めいめいが命からがら脱出を試みた。ある者は海を泳いで対岸へ。またある者は仲間たちと交代で肩車をして岸壁をよじ登った。彼らの多くは火傷や煤で真っ黒で、また無傷で脱出に成功しても、恐怖のあまり口も利けない状態だった。

 助からなかった者も大勢いた。山下埠頭先にはおびただしい数の遺体が流れ着いた。大桟橋の周辺には、腕を失って油まみれになった負傷者などが続々と引き上げられたという。

 関係組織は総がかりで対応にあたった。県警臨港署員に横浜憲兵隊、横浜特別消防隊、横浜国防衛生隊の医師40人などが現場に急行している。

 また神奈川県警は、管内の警察署員や警防団員を動員。現場につながる全ての道路や橋に、何重もの非常線を張って交通を遮断した。要所に視察員も配置し、「容疑者」の発見と逃亡防止にあたったという。

 「容疑者」という言葉からも、これがある種の事件と見なされていたことが分かる。時代が時代なので、爆発が何者かによる謀略という可能性もあったのだ。

 報道も禁じられた。事故発生直後に海軍省が緊急会議を開き、爆発事故に関する一切の報道禁止を申し合わせたのだ。ちなみに、当時の嶋田繁太郎海軍大臣は、事故の翌日に昭和天皇に事件を奏上したりしている。この記録は、かの木戸幸一日記にも記されているそうな。

 あわせて、警察は流言飛語を取り締まった。電話局では、交換手たちが、現場の港へ外部からの交換業務を行わないよう指示を受けたという。

 現場の消火活動は難航を極めた。海軍の複葉機が消火弾を投げ込んでも、爆発が次々に起きるので手に負えない。地上戦ならなおさらで、港なだけに水だけはふんだんにあるのだが、いかんせん火勢が強すぎて焼け石に水。そもそも危なくて近寄れないしで、消防隊は退避を余儀なくされた。

 こんな調子で、消火活動は翌日の12月1日の未明まで続いた。二度目の大・大爆発を起こしたトール以外の三隻は、なんとか夜半までには鎮火に向かったという。

 これと並行して、被災者の救助活動も行われた。現場周辺の目ぼしい施設は怪我人であふれ返り、山下公園の警友病院、日本造船山下病院、山手病院や各診療所はもちろんのこと、ホテルなどにも負傷者が担ぎ込まれた。負傷兵に対しては、当時横浜に住んでいたドイツ人たちも看護にあたったという。以下は、当時のホテルニューグランドの様子を述べた証言。

「ホテルのロビーから黒煙がもくもくと上がるのが見えました。外に飛び出す者、屋上に上がる者、従業員一同あれはなんだろうと大騒ぎになり、そうこうしているうちにドイツ兵の負傷者が運び込まれてきました。ボロボロの服、水浸しの靴が散乱しました。その数は60か70名。ホテル側も突然のことで対応ができず、着替えもなく、水兵はホテルのテーブルの白い布のカバーで身をくるんでいました」。

 この他、シーツを裂いて包帯の代わりにするなど、まるで野戦病院のような有様だったという。

   ☆

 火を噴いた四隻は全焼した。

 特に、弾薬や燃料油や石炭が積まれていたトールと第三雲海丸は完全な鎮火まで数日かかった。この二隻だけは、港でブイ(船の係留用の浮体)に引っかけて遠ざけられ、その間に他の消火活動や岸壁の復旧作業が行われたという。

 神奈川県の警察史によると、被害状況は以下の通り。

 ◆死者および行方不明者……102名以上
  (内訳)
  ・ドイツ海軍将兵……61名
  ・中国人労働者……36名
  ・日本人労働者、周辺住民……5名
 ◆物的損害……34,503,516円
  (内訳は、艦船、倉庫、上屋、その他の建造物や荷物など)

 被害の範囲はどれくらいにまで及んだのだろう。参考資料によると、爆発の影響で、爆心地から1.6キロの範囲で窓ガラスが割れたという。筆者は横浜の地理には疎いが、現在の地理関係に置き換えて爆心から1.6キロの円を描くと、次のような施設が円周上に乗ってくるらしい。

 紅葉坂の県立音楽堂、伊勢山皇大神宮、伊勢崎町の横浜松坂屋、横浜市庁舎、関内駅自覚の教育文化センター、中華街入り口の港中学、元町方面の横浜中央病院、山下公園付近のテレビ神奈川、横浜税関山下埠頭出張所――。

 これらを結ぶ線の内側の区域は、山下町地区のほぼ全域を包み込むそうな。現在の神奈川県庁や県警察本部、ランドマークタワーなどが、そこには入ってくるとか。つまり今同じ爆発事故が起きれば、少なくともそれらの窓ガラスは全部割れるということだ。

 当時、新聞報道はほんの少しだけなされた。12月1日付け神奈川新聞では約200文字程度の文章で伝えただけ。朝日新聞は社会面最下段のベタ記事扱いで、文字数はたったの160文字だった。

 当研究室では、いちおう「戦時中の事故災害だからって、なんでもかんでも軍が報道管制を敷いたわけじゃない」という立場を取っている。だが軍に関わるスキャンダルは話が別である。この事故はほぼ完全に隠蔽された。

 その反動か、現地ではデマが飛び交った。複数の地域でほぼ同時多発的に湧いてきたその内容は、興味深いことに、ほぼ一律で「爆発はスパイの仕業」というもの。デマの拡散の担い手は、主に子供たちだった。

 そしてその後の終戦のどさくさで、この事故のことはすっかり忘れられていったのである。その詳細が知られるようになったのは、横浜税関に残されていた当時の写真フィルムがきっかけだった。それを発端に神奈川新聞社が取材し、ようやく概要が明らかになったのだ。

 爆発の原因は不明である。

 ただ現在は、少なくともスパイ犯行説は現実的とは見られていないようだ。

 有力なのは「油槽への引火説」である。最初に爆発したウッカーマルクでは、油槽タンク附近で修理作業が行われていたのだ。そこに「何か」が引火したのではないか。その「何か」として考えられるのは、作業中の火花、あるいは……「タバコのポイ捨て」である。火元とみられる油槽の清掃員の中には、喫煙しながら作業していた者もいたというからあり得ない話ではなさそうだ。

 余談だが、タバコのポイ捨てが原因となった、あるいはその可能性が高い事故災害というのは驚くほど多い。日暮里大火、大日本セルロイド工場、玉栄丸……。また太洋デパートやかねやす百貨店もタバコ説が有力だ。今の時代はあまり聞かないが、かつては「タバコのポイ捨てで大惨事」というストーリーが極めて切実なリアリティを持っていたのである。

 さて最後に、救いようのないこの大惨事にも、少しだけ心温まるエピソードがある。それをご紹介しておこう。

 この事故に遭遇したドイツ将兵のうち、一命を取り留めた将校クラスの数名は無事に帰国できた。しかしそれ以外の将兵は、その後の戦局の悪化のため帰国もままならなかった。

 そんな彼らを、戦争が終結するまで世話をした人たちがいたのだ。箱根町の芦之湯温泉の旅館では、彼らは貸し切り状態で過ごすことができたという。また、旧山手居留地に住んでいたドイツ人の家庭や、日本人の家庭などでも、被災者を数人ずつ分散して預かったりした。

 当時、神奈川県には約600人、300世帯のドイツ人が在住しており、そのうち約430人、230世帯が山手地区には住んでいた。こうした人々の温かい気持ちが被災者たちを癒したのだ。

 どうも、戦時中の庶民の暮らし……と言うと暗いイメージを抱きがちである。当時日本に居留していたドイツ人などというと、筆者などは『アドルフに告ぐ』を思い出してますます陰鬱な気分になるのだが、しかしというべきか、だからこそと言うべきか、こういう素朴なエピソードには、こちらの気持ちまで癒される。

【参考資料】
◆石川美邦『横浜港ドイツ軍艦燃ゆ―惨劇から友情へ 50年目の真実』 光人社NF文庫・2011年
◆ウィキペディア

2018年8月16日木曜日

◆山陽本線列車脱線転覆事故(1938年)

 1938(昭和13)年の6~7月は特に雨が多かった。それもちょっとやそっとの多さではない。7月3~5日には神戸市と阪神地区で、大雨による「阪神大水害」が起きている。この水害は、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災と並ぶ大災害として、今でも現地で語り継がれているという。

 今回ご紹介する事故が起きたのは、同年の6月15日である。

 まだ夜も明けない午前3時頃、山陽本線の上り線を、13両編成の110列車が走っていた。下関発京都行きの夜行列車である。この時も当地は大雨で、そのため列車の運行には30分ほど遅れが出ていたという。

 列車は岡山県和気郡熊山村大字奥吉原地区(現在の岡山県赤磐市熊山地区)に入り、熊山駅を通過。それから700メートルほど進んだ場所で事故は起きた。

 その場所は、大まかに言えば「でかい窪地」である。吉井川の堤防と崖に挟まれてた地形で、竹藪になっている。線路は、堤防に沿った形で敷設されていた。

 時刻は午前3時56~59分頃分頃。この堤防の一部が崩壊し、機関車と前四両が脱線した。そして竹藪の中に転覆した。

 堤防の高さは約4メートルあり、転覆した車両は竹藪をなぎ倒しながら「く」の字を二つ重ねたような形で横倒しになった。機関車は車輪を天に向けてほとんど逆さまに引っくり返り、車体の半ば以上が土砂に埋まったという。

 客車もひどい有様だった。木造だった一両目の車両はねじ曲がり、原形をとどめないほどにバラバラになった。それ以外は鋼鉄製だったため一両目ほどのダメージはなかったものの、窓ガラスなどは全て破損した。

 さらに、これだけでは済まなかった。五両目以降の車両は転覆を免れて線路上に残っていたのだが、これが隣の下り線にはみ出す形になっていたのがよくなかった。反対から下り列車がやってきて、五両目の車両に衝突したのだ。

 ぶつかってきたのは京都発宇野行き(資料によっては、鳥羽発宇野行きとも)の801列車である。この衝突により、ぶつかられた車両は右半分をざっくり切り裂かれる形になった。全ては、最初の脱線転覆から一分以内の出来事だった。

 この時点での死者は25名、負傷者は91~108名(資料によって少し表記が違う)。死者のうち3名が、堤防の上での衝突によるものだった。

 転覆した車両の方で死者が多く出たのは、先述した通り、先頭車両が木造でもろかったせいでもある。事故が起きた1938(昭和13)年以降、新しく造られる客車は全て鋼鉄車となったのだが、既に造られた木造車はそのまま使い続けられていたのだ。この、両者が併存している状況は1959(昭和34)年まで続いた。

 痛ましいことに、死者の中には小学生も含まれていた。和歌山県橋本高等小学校の二年生71名が、先生3名に引率されながら修学旅行中だったのだ。児童たちは、奇跡的に無傷だった一名を除いて、全員が何かしらの死傷を負ったという。

 一行は6月11日に旅行へ出発し、四国の琴平宮と、広島の宮島に参拝するというコースで旅をしていた。そして14日の22時30分に宮島駅で乗車し、日付が変わってから事故に巻き込まれたのである。木造だった先頭車両というのも、これは実は修学旅行用にと広島でわざわざ増結されたものだった。

 以下は、児童のうちの一人の証言である(資料からの引用だが、読みやすくなるように少し手を加えた)。

「昨日、広島での見物が終わって、午後11時頃に列車最前部の一両に乗って出発した。寝ていると、ドカンと大きな音がしてひっくり返ってしまいました。あとは何が何やら分からなかったが、這い出して救われました。先生が亡くなられ、私たちはどうしていいか判りません」。

 それからもうひとつ。これは証言ではなく手記から(手を加えている)。

「今晩は家で寝られるな。こう思いつつ、深い眠りに落ち、どのくらい眠ったか。突然なんだか大きな衝撃を全身に受けた。ハッと見廻すと辺りは真っ暗、身を起こそうとすると動けぬ。胸から下が石炭やら赤土の中に埋まっているのだ。大変だ、皆はどうしたか知ろうにも皆のわめき声やら何やらで何が何だかわからぬ。約半時間ももがいていると一人の兵隊さんが、「生きているものは声をあげろ」とすぐ傍らで怒鳴った。「ここにおります」「よし」たちまち掘り出してくれた、と思った瞬間どのように助かったか覚えておりません。みやげ物もすっかりどこかへ行ってしまった。ただ助かって何よりだ。機関車にすぐ連結された木造車の前部から三つ目の座席にいたから助かったのだろう、こんなことを全身の痛みに坐り込んで考えていると、人夫さんがこちらに来いと肩に負って救護所に連れて行ってくれました。その途中、先生の遺骸が見えた。友だちの血に染まった姿も見えた。たまらなく涙が出ました。死なれた先生や友だちを思えば筆も進みませぬ。」

 以上の証言と手記は、『続事故の鉄道史』からの孫引きである。当時の大阪毎日新聞に、こういう記事が載っていたらしい。

 今の時代から見ると、こういう「手記」を児童に書かせるというのも奇妙なやり方である。うるさ方から「子どもにこんな残酷なことを思い出させる文章を書かせるとはけしからん! PTSDになったらどうする!」と抗議が来そうだ。

 さて、児童たちの言葉の通り、引率の先生も亡くなっている。それも3名全員だ。重傷を負いながら「誰々は大丈夫か、避難したか」「みんな怪我はないか、講堂へ集まれ」などとうわ言のように口にしていた先生や、堤防の上で児童を助けている最中に、下り列車の衝突に巻き込まれた先生もいたという。まさに殉死だった。

 もうひとつ児童の証言を載せておこう。

「先生の手が、抱きかかえるように私の前に見えたと思ったら、辺りが真っ暗になりました。先生がいなかったら死んでいたと思います。叱る時は怖い先生でしたが、いつもはいい先生でした」。

 広島鉄道管理局は、事故発生と同時に岡山と姫路の師団に救援を要請。両師団の軍隊はただちに出動して、翌日まで救助と復旧にあたった。現場の線路も当日の午後2時には復旧したというから、実に仕事が早い。

 事故原因は何だったのだろう? その答えは「地滑り」だった。手抜き工事のため、堤防の盛土が雨の水量に耐えられなくなったのだ。そして「円弧滑り」という現象を起こし、線路の下の地面が崩れたのである。

 事故が起きた山陽本線の線路は、ほとんどが平坦である。これは、鉄道建設時に、当時の社長が「建設にあたっては、線路の勾配を100分の1以内(10パーミル以内)にすべし」という方針を打ち出したためだ。

 その結果として、丘を迂回するカーブなどが増えることになった。今回の脱線転覆の現場でも、事故が起きた年の1月に、丘を削って斜面を切り崩し、削った土砂を盛って堤防を造り、そこに線路を敷設するという作業が行われている。要は、線路を支える土台が人工的なものだったのだ。

 この工事で、手抜きがあった。本来こうした場所では、土砂の中に水が溜まってもすぐに排水できるような設備を整えなければならない。そのための作業は「水抜き工」と呼ばれるそうで、現在は特殊なパイプを盛土の中に埋め込むという。当時は、目の粗い割栗石などを雨樋のように並べて、盛土の中に暗渠を造るというやり方だった。これが行われなかったのだ。

 このため、事故当時は、盛土がたっぷり雨水を含んで排水されず、グズグズになったのだった。もともと、そこは窪地の斜面に土が盛られる形になっていたので、その斜面の形――すなわち円弧の形に添って土砂が崩れ落ちる「円弧滑り」が発生したのだ。

 つまり事故が起きた時、現場の線路の枕木は土台を失っており、宙に浮いた状態だったのである。そこに機関車が通りかかったのだから、もつはずがない。

 資料によると、円弧滑りそのものはありふれた現象らしい。水抜き工と、また斜面の「段切り」、さらに土を固めて密度を上げる「転圧」という作業をしっかりやれば、大部分は防げるという。

 もちろん、筆者も土木工事については門外漢である。だが、水を抜くとか土を固めるとか、そういう作業が必要なことは、子供でも分かる理屈ではないかと思う。きっと読者の皆さんも、昔砂場でやった泥遊びなどを思い浮かべているのではないだろうか。

 だから、この事故の最大の原因は工事の施工不良だろう――と素人考えでも想像がつくのだが、ところが裁判ではちょっと意外な判決が出た。後から衝突した801列車の機関手と機関助手、それから岡山保線区和気分区の保線員が検事拘留処分となったのだ。

 判決の要旨は不明だ。ただ、機関手と機関助手は百歩譲るとしても、保線員の巡回点検にミスがあったというのは奇妙である。設計者と施工者はどうして責任を問われなかったのだろう。この事故の、ちょっと不思議な点である。

 さて、多くの児童が死傷した橋本小学校だが、その後、被災した児童のうち9名が亡くなったという。公式な記録では事故直後の死者数までしかカウントされていないのだが、同校の敷地内にある慰霊碑には、後で加わった児童の名前も刻まれているそうだ。どこまでも痛ましい話である。

 現場にも慰霊碑が存在する。丸山公園というところらしく、地蔵菩薩像と、お経が書かれた石碑が建っているそうだ。いずれも、建立されたのは事故からちょうど22年目にあたる1960(昭和35)年6月15日。参考資料によると、事故があった6月15日には毎年法要が行われているという。「何回忌」ではなく「毎年」というのは、慰霊式のサイクルとしてはかなり珍しい。

 余談だが、現地では「この場所には今でも機関車の車体が埋まっている」という噂があるとか。本当かどうかは分からない。

 既に80年前の事故なので、地元でもこの出来事を知っている人は少ないという。だが、なんとなく関連情報をぐぐっていたら、最近ちょっとした動きがあったことが分かった。儀礼者の同窓生で構成される「六友会」という団体が保存していた関連書籍が、2015(平成27)年に郷土資料として地域の公共施設に寄贈されたというのだ。

 この書籍は『列車遭難同情者芳名録』。香典という形で、被害者に対し募金をしてくれた人たちの氏名が載っているらしい。全国の学校、幼稚園、小学校、愛国婦人会、軍隊、会社、商店、農漁業などの氏名や団体名が千件以上記されており、金額は一件につき1円から500円。御供花、お菓子などを贈ってくれた人もいたようだ。中には、ベルリンオリンピックで金メダルを獲得した兵藤秀子(旧姓・前畑)の名もあるという。「前畑がんばれ」のあの人だ。

 当時の1円は現在の3~4千円。この事故が、どれほど当時の人々の同情を誘ったかが分かる記録である。

 ちなみに戦前の大事故は、天皇陛下からの金一封の下賜によって一見落着となるのが通例で、この事故もそうした形で処置がなされた。さらに当時の鉄道省でも、千五百人の職員から募金を募って事故遭難者に贈ったという。

【参考資料】
◆『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◆斜面の安定
http://www.shimane.geonavi.net/shimane/syamen.html
◆「同情者芳名録」保存依頼へ~山陽線事故・児童ら犠牲
http://hashimoto-news.com/news/2015/06/14/28911/
◆磐梨通信(イワナシツウシン)☆昔の列車転覆事故☆
https://blogs.yahoo.co.jp/kurohime20032001/34687988.html
◆ウィキペディア

2018年8月7日火曜日

◆『月刊?きうり』第3号できました

 『月刊?きうり』の第3号ができました。こちらからダウンロードして読むことができます。よかったらどうぞ。

 本当は先月出すつもりだったのですが、果たせずに8月の発行となりました。

 できれば今月、続けて4号を作って追いつきたいところです。

2018年6月30日土曜日

◆ラブパレード事故(2010年・ドイツ)

 かつて、ドイツではラブパレード(Love Parade)という野外音楽イベントが毎年開催されていた。なんでドイツなのに英語表記なのか、その理由は不明である。とにかく開催されていた。

 このイベントの歴史を簡単に辿っておこう。最初に行われたのは1989(平成元)年だった。東西ドイツの統一直後、壁が崩壊したばかりのベルリンで、約150人が平和運動の一環としてデモ行進をしたのだ。

 それが、なぜか音楽イベントへと発展していった。毎年開催するたびに参加者数も増えていき、1999(平成11)年には150万人を突破。大音響スピーカーを搭載した大型トレーラー「フロート」数十台と共に、参加者たちはブランデンブルク門から延びる大通りを歌って踊って練り歩く。いつしか、ラブパレードはドイツを代表する観光イベントとなっていた。

 しかし、大規模になればいろいろ問題も出てくる。当初の目的である「平和デモ」という性格が完全に忘れられたのは致し方ないとしても、開催するたびに、毎度毎度膨大な量のゴミを置き土産されるのはベルリン市にとってはたまらなかったようだ。ついに市から開催を拒否られ、スポンサーからの資金援助もストップし、初の開催中止へと追い込まれたのが2004(平成16)年のことだった。

 それでも2007(平成19)年にはまた復活。再開を求める声がよほど多くあったのだろう。今度は、ルール工業地帯のそれぞれの都市が持ち回りで行うことになった。おそらく開催地としては、観光イベントとしての集客効果をあてにしていたところもあったろう。

 だがしかし、またしても2009(平成21)年には中止となった。あまりの人の多さに、現場が対応し切れないということになったのだ。そしてまた復活した翌年の2010(平成22)年に、今回ご紹介する凄惨な事故が起きた。

 ここまでの経緯を、群集事故の観点から見てみると、既になんとなく事故の予兆みたいなものが散見されて興味深い。対応できないほどの参加者の多さ、コロコロ変わる会場、大量のゴミ問題から推測されるモラルの欠如…。これらの課題を完全に制御できないまま、無理を押して開催したことで事故は発生したのである。

   ☆

 さて、2010(平成22)年7月24日のことである。

 この年のラブパレードの会場は、ドイツ西部のデュースブルク市だった。デュッセルドルからほど近い都市で、人口は約50万人。ルール工業地帯の主要都市のひとつである。

 この町の貨物駅の跡地に、廃駅を改造した特設会場が設けられた。会場面積は23万平方メートル。約30万人の収容が可能だった。

 ここで、会場へのメインルートについて簡単に説明しておこう。このルートの構造が事故と深く関係してくるのだ。

 まず、長さ200メートル、幅20メートルのトンネルが東西に延びており、両側に出入口がある。そして、出入りはどちらからでも可能だった。このトンネルを含め、メインルートは完全に歩行者用である。そしてトンネルの中央あたりに、北向きの出口がある。そこから外に出ると「ランプ」と呼ばれる坂道が延びており、それを上ることで会場に出られるという造りだった。

 つまり、T字型の通路を想像してもらうといい。横棒がトンネル、縦棒がランプと呼ばれる坂道である。

 さらに、もうちょっとだけ三次元的に説明しておこう。

 東西に延びているトンネルというのは、実際には地面の下に掘られた「地下道」のようなものだった。よって、そこからランプに出るのは、いわば道路のアンダーパスをくぐって地上へ出るときのような感じである。想像できるだろうか。ポイントは、こうした地形ゆえに、ランプの周辺は壁に挟まれており「逃げ場がなかった」という点である。

 ついでにもうひとつだけ。この「トンネル+ランプ」のメインルートは、会場へ向かう「往路」であると同時に「復路」でもあった。イベントを楽しんだ人々は、もと来たルートを逆戻りして会場を出られるという造りだったのだ(このあたりの構造については、当時の動画で確認すればさらに分かりやすいと思う。検索するとすぐに見つかる)。

 祭典が始まると、さっそく大勢が訪れて出たり入ったりした。最終的な来場者数は、資料から推測するに、だいたい46万人前後だったようだ(※1)。

(※1・もともと主催者は70~80万人の来場を見込んでいたらしい。後日、140万人が来場したと発表されたが、実はそれは三倍に水増ししていたことが判明している。だから割る3で46万人かな、と。)

 最初は大きな混雑もなく、人の流れも順調だった。ところが会場ではフロートの動きが遅く、それに伴って人混みがスムーズに動かなくなってきた。これが16時頃のことである。

 そこで主催者側は一計を案じた。「ランプをいったん閉鎖しよう!」ランプの真ん中には仕切りのフェンスがある。現場で警備にあたっていた警察は、指示を受けてそのフェンスをバタンと閉じた。もう通れない。

 さらに、ランプの手前のトンネルも、東西それぞれの入口を封鎖した。参考資料では「主催者側の係員が閉鎖した」とあるが、当時の動画を観ると、警察か軍隊っぽい制服を着た人たちが通せんぼしている形である。

 つまり、トンネル内部と、ランプの半分ほどまでを完全に封鎖したのである。これにより、T字型のメインルートの中からは、ほとんど人がいなくなったという。

 ……と、ここまで書いておいてなんだが、実はこの「メインルートを封鎖する」ことによって、どうしてそこから人がいなくなるのか、資料を読んでも筆者にはよく分からなかった。出る人だけ出して、新たに人が入らないようにしたということだろうか。

 とりあえず、ここでの要点は「主催者側が勝手に通路を閉鎖して、混雑を解消しようとした」ということである。

 当研究室で、群集事故の項目をいくつか読んだ方は、ここでピンと来るかも知れない。群衆整理の際は、「途中で勝手にルールを変える」のは御法度である。会場が想像以上に混雑したからといって、急に出入り口を封鎖したり、並ぶ場所を変えたり、順路を変更したりすると、群衆というのは意外とあっさり暴徒化するのだ。これは歴史の法則である。

 そして、ラブパレード会場でもそれは起きた。「なんでメインルートを封鎖するんだ!通れないやんけ!」とばかりに、群集がトンネルの東西の入口を突破したのだ。

 資料の内容から察するに、だいたい16時45~50分頃だろうか。閉鎖していた反動で、トンネル内にドドッと人が押し寄せた。そしてトンネルからランプまでの範囲が、急に来場者で膨れ上がったのだ。言わんこっちゃない。

 それでも、この群集がスムーズにランプを通過してくれれば、特に問題は起きないはずだった。ところがこれがうまくいかなかったのだ。

 先述した通り、この時ランプはフェンスによって「閉鎖」されていた。トンネルにはフェンスはなかったので、警備の人を押しのければ通せんぼの突破も簡単だったろうが、ここではそうもいかない。群集はランプ内で立往生となった。

 さらに、ここで混乱に輪をかける出来事が起きた。会場があまりに混雑していたため、早めに帰ろうとする集団がランプに押し寄せたのだ。これについては、会場で早めの退出を呼びかけるようなアナウンスもあったとかなかったとか。

 弥彦神社事故のパターンである。群集の往路と復路が完全に分かたれていなかったため、来場者と退場者の集団が衝突したのだ。

 時刻は17時頃。ランプは、ここからがぎゅうぎゅう詰めの地獄絵図となった。結論を先に言うと、この混雑により21名が死亡、500名以上が負傷している。

 当時現場にいた人の証言。「あちこちに真っ青になった人たちがいました。私のボーイフレンドがあの人たちの体の上に私を引き上げてくれたんです。そうしてくれなければ私たちは2人ともあそこで死んでいたでしょう」

 他の群集事故と比べてちょっと興味深いのは、このラブパレード事故では「事故の瞬間」とも呼べるタイミングがないという点だ。他のケースでは、誰かが転倒したり将棋倒しが発生したりと「その時歴史が動いた」的な瞬間があるものだが、この事故ではそれはない。資料を読んでいると、逃げ場がない空間で群集がもみくちゃになっているうちに、そこここで続々と死人が出たような印象を受ける(※2)。

(※2・当時の日本でのニュース記事を読むと、将棋倒しという言葉が多く使われている。特に日本について言えば、ぎゅうぎゅう詰めの圧死でも群集雪崩でも、とにかく群集事故ならばぜんぶ「将棋倒し」と書くのだろう。)

 ただ、逃げ場が皆無だったわけではない。ランプの横には地上に通じる階段があった。しかしこれも幅が狭くフェンスで閉鎖されており、普通の脱出ルートとしては使えなかった。

 むしろ、この階段のせいで圧死者が増えたとも言える。ランプの混雑がひどくなったことで、多くの人が逃げ道を求めて階段を目指したのだ。このため群集の圧力が偏ったのである。中には電柱や鉄塔をよじ登ったり、地上から引き上げてもらったりした人もいたようだが、それは幸運な例だろう。

 また、現場には転倒を誘発しかねない凹凸もあったとか。将棋倒しのような派手な転倒は起きていないとはいえ、これも事故の発生の一因になったのかも知れない。

 それにしても、こんな状況になって、一体全体主催者や警備の人は何をしていたのだろう? それがよく分からない。たぶんランプのフェンスを開放して混雑を解消しようとか、来る人と帰る人を分けようとか、何か手を打とうとはしたと思うのだが……。

 この、現場の責任者たちが「一体何をしていたのか」は、2018(平成30)年6月現在で不明である。とにかく資料がない。また後述するが、この事故の裁判は最近始まったばかりで、公的な責任追及も端緒についたばかりなのだ。

 さて皮肉なことに、ラブパレードは、この事故が起きた年に初めてネット動画による生中継を実施していた。ライブストリーミングというやつだ。しかし、事件が発覚した18時頃には中継は全て切断され、公式サイトには以下のような文言が表示されたという。

“Our wish to arrange a happy togetherness was overshadowed by the tragic accidents today.”
(幸福な結束をもたらさんとする我々の願いは、今日の悲劇により絶たれた。)

 あわせて、公式サイトでは、参加者の安否を確認するためのホットラインの番号が掲載された。またツイッターでも安否確認の訴えが多く書き込まれたという。

 テレビでもイベントの模様を生中継していたが、事故の発生により、途中からはそのままニュース速報番組になってしまった。この当時の番組も、検索すれば動画で観ることができる。ドイツ語なので何を言っているかはさっぱり分からないが、途中からアナウンサーが神妙な面持ちになっており、事故の発生を報道しているのが何となく分かる。

 イベントそのものは23時まで続けられた。実際には午前0時きっかりに終了する予定だったというから、終了は1時間早まったわけだ。事故当時、すでに会場に入っていた観客には事故の情報は伏せられ、何も知らずに夜まで踊り続けていた人もいたとか。

 「死者が出たのにイベントを続けるとは何事だ!」と憤る向きもありそうだ。だがもしイベントを即座に中止していたら、現場はますます混乱したに違いない。

   ☆

 さて、事故の責任は誰にあるのか。さしあたり「容疑者」と言えるのは、イベントの主催者、警察、デュースブルク市の3者である。それぞれの主張は次の通りだ。

イベント主催者
「警察が悪い! トンネルとランプをちゃんと閉鎖して、混雑を止めるようにお願いしてたじゃないか!」

警察
「俺たちは1,900人を動員してきちんと警備にあたっていた。現場の警備責任は主催者にある。俺たちも、会場の安全については危険が伴うし不安があるっていろいろ意見を出してたじゃないか!」

デュースブルク市の市長
「私は確かにラブパレード開催にはこだわりを持っていた。イベントをキャンセルすべきだという意見があったのも事実だ。しかし私は悪くない! 辞めないぞ!」

 といったあんばいである。

 このままでは埒が開かないとみてか、9月30日には、事故で怪我をした人が訴訟を起こした。主催者に対して損害賠償を求める内容である。ただ実際には賠償そのものは目的ではなく、とにかく責任の所在を明確にせんがためのものだったらしい。

 この訴訟がどのような経緯を辿ったのかは不明である。ともあれ、イベント関係者4名と市の関係者6名が、過失致死と過失致傷で訴追されたのが2014(平成26)年2月のこと。そして、この10名について裁判が始まったのが2017(平成29)年の12月である。ついこの間だ! しかも時効が2020(平成32)年に迫っているというのに、被告は全員が無罪を主張しているというから悩ましい。戦後ドイツでは最大規模の裁判になるだろうとも言われている。

 つまりこのラブパレード事故は、いまだ「歴史」とはなっていないのである。それが、内容をまとめにくくしている一因になっている。実際、事態そのものがまとまっていないのだから仕方ない。

 とはいえ、もはや10年ほど前の、しかも海外での事故である。裁判の結果がどうなっても、それが日本で大きく報じられることはおそらくないだろう。今度も見落とすことなく情報をチェックしていきたい。

 ちなみに、ラブパレードは2011(平成23)年以降は永久に中止となった。主催者側の決定である。

 しかし、このイベントはよほど多くの人を魅了したらしい。ネット上で調べていたら、2012(平成24)年7月に「B-Parade」という名称で復活するとかしないとかいう情報を見つけた。おそらく主催者は別の人なのだろう。ただこれもやけに情報に乏しく、本当に開催されたのか、どれくらい盛り上がったのか、その後も続いているのかどうかは全く不明である。

 とりあえず、「ラブパレードの懲りない面々」くらいのことは言えそうだ。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆サイト「ドイツと日本のまちづくり」
http://abej.sakura.ne.jp/index.htm
◆ドイツの音楽イベントで観客多数が転倒、死傷者多数
http://www.afpbb.com/articles/-/2742694
◆2010年のラヴパレード圧死事故をめぐって、関係者10名が訴追される
https://rockinon.com/news/detail/97144
◆21人の命を奪った”LOVE PARADE”の悲劇に関しての裁判が始まる
https://www.mixmag.jp/news/171209-love-parade.html
◆「ラブパレードの復活か?」と囁かれているベルリンの「B-Parade」とは一体何なのか
https://buzzap.jp/news/20120618-b-parade2012/
◆ウィキペディア

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2018年6月24日日曜日

◆『月刊?きうり』第2号できました

 先月から発行し始めた『月刊?きうり』の第2号ができました。こちらからダウンロードして読むことができるはずです。よかったらどうぞ。

 やっぱり、いつ出来上がるとも知れない文章をだらだら書いているのはいけませんね。期限とか文字数とかを、ある程度決めておいた方が、文章を書く作業というのはかえってはかどるし、まとめやすい。

 『月刊?きうり』の作成は、そうしたことを踏まえつつ、自分で自分を実験台にする試みです。今後は、これを踏まえて、もっとうまいやり方で文章をたくさん書いていきたい…。

 ブログも、しばらく更新を続けていましたが、またストップしちゃったし。これについては対策を考えています。

 Wixというのを使ってホームページ作成も試してみたのですが、これも結局は三日坊主。「自分にこれは合わない」ということが明確になっただけでした(「だけ」と言っても、それが分かっただけでも僕にとっては収穫でした)。

 模索は続きます。

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