◆両国橋崩壊事故(1897年)

 日本で最悪の群集事故(あるいは橋の崩落事故)は、1807(文化4)年に起きた永代橋崩落事故である。それからちょうど90年後、今度は両国橋で崩落事故が起きた。

 両国橋は隅田川に二番目に架けられた橋である。現在は中央区と墨田区を結ぶ形で架かっているが、かつて1686(貞享3)年に国境が変更されるまでは下総国との国境にあったことから、「両国」橋と呼ばれた。

 1897(明治30)年8月10日のことである。この日、墨田川周辺で花火大会が行われた。両国橋も大にぎわいだったようで、当時の新聞によると会場周辺は「立錐の余地だになき有様」だったという。あまりの人出に、数十名の警官が出動している。

 事故が起きたのは、大会が終了する直前の午後8時20分頃のことだった。群集の圧力に耐え切れず、橋の欄干が10メートルにわたり崩落したのだ。これにより、大勢の人が「豆の落つるが如く」隅田川へ転落した。

 橋の崩壊した部位などについて少し詳しく書くと、隅田川の西岸、つまり日本橋側からおよそ13間(24~25メートル)ほど本所側へわたったあたり、欄干の駒数でいうと10~13駒までの4間3尺(8メートル強)が崩壊したのだそうだ。

 転落したのが何名だったのかは、ちょっと数字が混乱していてよく分からない。初期の報道では約200名とあるが、続報では数十人とも報道されている。

 どうやら、事故が起きたのが夜だったため、警察署も人数を把握し切れなかったらしい。捜索も特に行われず、行方不明者の届け出を手掛かりにして犠牲者数を割り出そうとしたという。

 で、犠牲者数は、以下の経過をたどって割り出された。

 ①最初の時点での行方不明者は154名
 ②8月12日の午前中までに82名の無事を確認(残り行方不明者72名)
 ③同日の夜までには、さらに15名の無事を確認(残り行方不明者57名)
 ④8月13日の午前中までに30名の無事を確認(残り行方不明者27名)
 ⑤行方不明者27名、あるいは死者・行方不明者30名弱と決定

 この経過だけを見ると、数字だけを整理して「行方不明」かさもなくば「生存」としてカウントしているだけで、死亡者数はまったく見ていないかのようだ。誰も遺体の数を数えたりしなかったのだろうか……。

 もちろん死傷者が出たのは痛ましい。それでも橋そのものが崩落したわけではないので、90年前の永代橋の事故に比べればはるかに少ない犠牲者数である。事故当時は橋の下に涼み舟や屋根舟、屋形舟、傳馬船などが停泊していたため、多くの人がすぐに救助されたのも大きかっただろう。もっともこれらの舟に落下したことで重軽傷を負った者も多数いたようだが。

 東京の繁華街の中心で起きた大惨事ということで、新聞の号外が出るほどの騒ぎになった。

 現在も、この周辺で大規模な花火大会が行われると、大きな橋にはバリケードが設置されたり、立ち止まるのを禁ずる「停止禁止」の措置が取られたりすることがあるらしい。どれもこれもこうした事故の教訓なのだろう。

 両国橋は、事故から7年後の1904(明治37)年には鉄橋に架け替えられた。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年

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