◆ジョエルマビル火災(1974年)

  海外の事故災害事例は、ネット上でも探しにくい。仮に見つけても、英語や現地の言葉で説明されているととても読めないというもどかしさがある(もっとも昔と比べると最近はかなり日本語での情報が出回るようになったが)。

 そんな中でも、わりと早いうちから動画やらなんやらでチェックすることができたのが、今回ご紹介するジョエルマビル火災である。以前から、やけに詳細で凄惨な動画がyoutubeで簡単に観られるなと思ったら、1974(昭和49)年に共和教育映画社というところでドキュメンタリーフィルムを作っていたらしい。このフィルムは複数の自治体で保管されているそうなので、それが動画サイトに流れたのだろう。

 それでも詳細は長らく不明だった。それが、参考書籍『火災安全工学』などのおかげでいろいろ分かってきて、ようやくルポを書ける段階に来た。満を持して、というと大げさだろうか。

 内容的には、先に書いたアンドラウスビル火災との関わりが興味深い。避難階段がなく内装も燃えやすかったという共通点もさることながら、ヘリポートの有無が被害者たちの明暗をはっきり分かつ結果になったという大きな相違点もある。

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 ジョエルマビル(Joelma Building)は、ブラジルのサンパウロ市にある25階建てのオフィスビルである。同市では、前年にアンドラウスビルの火災が市民に衝撃を与えたばかりだったのだが、1974(昭和48)年2月1日、今度はここで179~227名の死亡者を出す大火災が起きた。

 1970年代には、ブラジルでもビルの高層化が進んでいた。ジョエルマビルもそんな中で1969(昭和44)年に建設が始まり、1972(昭和47)年に完成した。この建物は下層階が駐車場フロアで、その上がオフィスという構造だった。25階建て、延床面積は23,074m²だった。

 ビルの構造について、もう少し詳しく書いておこう。

 ジョエルマビルは三つの棟から成り立っており、中央にエレベーター棟があった。その左右に、オフィスビルである「ノースタワー」と、マンションである「サウスタワー」が建っていた。ノースタワーは一階と地下階が書類倉庫で、三階から十階までは外気開放型の駐車場、十一階から上はオフィス。中は冷暖房完備で、入居テナントには銀行などの企業が名を連ねていたという。

 近代的建築物として、サンパウロ市内でもひときわ目立つ存在だった新築のジョエルマビル。だが、現在の基準で考えると大きな欠陥があった。

 まず非常口がなかった。出口は、中央のエレベーター棟の階段とエレベーターのみ。しかもその階段は幅が2メートルに満たない狭いものだった。

 また、内装に使われていた素材も問題だらけだった。間仕切りは木材のほか、燃えやすい上に有毒ガスも発生する合成樹脂でできており、カーテンや絨毯も燃えやすい素材だったのだ。

 そしてスプリンクラー設備や防火扉、防火シャッターに防煙壁といった設備も不十分だった。火災報知設備もなかった。消火栓はあったが、消火用の送水管はなかった。ないない尽くしだ。これでは火災が起きれば簡単に延焼し、煙も一気に充満する。

 ここらへんに、惨劇の予兆のようなものがあったのだ。

 1974(昭和49)年2月1日のことである。

 時刻は午前8時50分頃。ジョエルマビルのノースタワーには、既に多くの会社員が出勤していた。その人数は756名で、あと200名ほどが出勤する予定だった。

 同刻、ビルの管理人が、12階の北側のあたりで何かが弾けるような音を耳にした。それで駆け付けてみたところ、部屋のひとつに設置されていたウインド型のエアコンが火を吹いていた。火事である。管理人は一度現場を離れ、分電盤を開けて電源を切ったが、この時すでに炎はエアコンの配線に延焼していた。

 エアコンが発火したのは、室外機がショートしたためだったらしい。この時期、南半球は夏真っ盛りでエアコンは必須。だがそのエアコンの配線に問題があった。後で増設されたものだったため、適した規格のブレーカーがなく臨時の仮配線が使われていたのだ。つまりブレーカーを通していなかったため、過電流により出火したのだった。

 出火場所が窓際なのもよくなかった。酸素が供給され、カーテンを伝って即座に天井へ延焼したのだ。第一発見者の管理人は消火器を持ってきたが、その時にはもう室内は煙でいっぱいで、仕方なく入口から室内に向けて消火器を操作した。もちろん効果はなかった。

 次に、管理人は階段を駆け上がり、13階にいた人々に火事ぶれを行った。それから下の階へ下りようとしたが、この時すでに階段は濃煙と火熱で通れなかったという。

 12階で発生した火炎は、建物中央のエレベーター棟に延焼。そして階段の吹き抜けを通じて煙とともに上階へ伝播していった。

 折悪しくも、この日サンパウロ市内には強風が吹き荒れていた。ノースタワー12階で発生した火炎は上階へ延焼したあげく強風にあおられ、やがて14階の窓を破壊。窓を伝ってサウスタワーにも燃え広がり、ビル全体が炎と黒煙に包まれていった。

 これと並行して避難が行われた。まずはエレベーターである。出火の知らせを聞いたエレベーター係は、ビル内にあった4台のエレベーターを何回か往復させて422人を避難させている。

 本当は、火災時にエレベーターで避難するのはNGである。途中で停電すれば閉じ込められることになるし、燃えているフロアで停止すれば熱によって扉が開かなくなることもある。ジョエルマビルでこれが成功したのは、運転者が必要な階だけに止まって効率よく人を運んだからだった。また、火災の初期には電源も生きていた。

 エレベーターによる避難は、12・13階が高熱で危険になるまで続けられた。出火した12階を通過する時は息ができなかったというから、かなりギリギリだったのだ。

 途中で係員による指示があり、エレベーターを1階で止めてドアをロックすることになった。だがこれを無視した運転者は12階で立ち往生し、逃げ遅れて死亡している。

 この運転者が含まれているかどうかは不明だが、エレベーターで脱出しようとした人のうち13名が煙に巻かれて死亡した。このうち、最後まで身元不明のままだった遺体はビラ・アルピナ墓地に埋葬されているという。

 消防局へ第一報がもたらされたのは午前9時3分。通報は向かいのビルからだった。

 だが道路が混雑していたため、消防車が到着したのは午前9時10分のこと。消火活動を始めた時には、ビルはすでに炎と黒煙に包まれており、逃げ遅れた大勢の人がビルの外壁の庇(ひさし)の上で助けを求めていた(ここにいた41名は後に消防士によって救助されている)。また、室内に残った人々も、消火栓を開いて水をかぶり救助を待っていた。

 屋上に避難した人は171名。おそらく彼らは一年前のアンドラウスビルの火災のことを思い出していたことだろう。あの事例ではヘリコプターによって大勢の人が救助されている。

 しかしジョエルマビルは、ヘリによる救助は無理だった。まず建物の両側から炎が噴き出しており煙と上昇気流がひどい。それに屋上にヘリポートはなく、狭い上に構造が弱すぎてヘリを着地させるのは困難だった。

 火炎は、エレベーター棟の出入口を通じて屋上まで迫っていた。避難した人のうち81名は屋根のパネルの下にもぐって後に救助されたが、ここに入れなかった90名は死亡した。

 火は消えない。ついに、逃げ遅れた人々が建物から飛び降り始めた。

 上から人が降ってくるため、地上の消防隊員も危なくて仕事ができない。大きな布に「CALMA(落ち着いて)」「NAO SALTEM(飛ばないで)」などのメッセージを書いて伝えたりしたものの、大勢が転落死した。

 転落による死者は資料によって20名とも40名とも書かれており、また「このうち30名は火災がほぼおさまった後で飛び降りた」とする資料もある。

 中には、被災者がハシゴ車のハシゴを使って避難していたところ、飛び降りた人が直撃して一緒に転落してしまう二次災害まで発生している。

 午前9時40分には、出火した12階から上のフロアすべてに延焼。10時半頃にはほとんど燃え尽きてしまい、火炎の勢いが弱くなった所でようやく鎮火した。生存者の救出が終わったのは午後1時半のことだった。

 この火災の死者は、227名とも179名とも188名とも言われている。中には日系人6名も含まれるという。出火時には職員が756人おり、高層のオフィス部分には601人がいたので約30%が死亡したことになる。建物の内部には生存者はいなかった。

 とにかく悲惨すぎる事例だが、最後にひとつだけ奇跡的なエピソードを付け加えておきたい。ビル内で逃げ遅れてしまった母親が、子供を抱きしめて15階から飛び降りたのだ。母親は死亡したものの、なんと子供の方は、抱きしめられた母親の体がクッションになって助かったのである。絶望的な状況で、自らを犠牲にして子を守った奇跡だった。

 1970年代は、日本でも千日デパート火災など火災史上に名を残す事例が多く発生している。我が国と同様、ブラジルでも、このジョエルマビルの惨劇がきっかけとなって建築物の防火基準について法改正が行われた。

 ジョエルマビルは現存している。火災当時、まだ築年数が2年という新しいビルだったことから、4年かけて改装され再利用されたのだ。ビルに面した広場の名前から「Praça da Bandeira」という建物名で使われているという。筆者は未確認だが、Googleの地図検索にある航空写真やストリートビューでもこの建物は見ることができるらしい。

【参考資料】
◆岡田光正『火災安全学入門―ビル・ホテル・デパートの事例から学ぶ』学芸出版社、1985年
西日本防災システム「高層ビル火災」
有名人の死
◆ウィキペディア

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