1977(昭和52)年8月11日のことである。
山梨県甲府市の郊外にある景勝地・昇仙峡(しょうせんきょう)で、三台の観光バスが県道を走っていた。
昇仙峡は「日本五大名峡」のひとつで、現在の秩父多摩甲斐国立公園(当時は名称がちょっと違っていた)内にある長さ約八キロの渓谷である。花崗岩の奇岩・奇石がたくさんある観光地だ。
バスは静岡鉄道のもので、生命保険会社の社員たちが乗っていた。慰安旅行に参加した総勢120名が三台に分乗していたのだ。彼らは前日の10日に山梨県の石和温泉で過ごし、今は昇仙峡を通って静岡県内へ帰るところだった。
この三台のうち、真ん中の車両が事故ることになる。これには44名の乗客と41歳の運転手、18歳のバスガイドの計46名が乗車していた。
その場所は昇仙峡の入り口付近で、当時は有料道路だった「グリーンライン」のゲートから300メートルほど手前、天神森寄りの沢である。そこは急な下り坂で、しかも右曲がりの急カーブだった。
時刻は午前11時40分。三台のバスのうち、先頭車両はカーブを普通に通過した。しかし二台目はなぜか曲がり切れず、飛び出すように道路左側のガードレールを突き破ってしまった。そして勾配40度の急斜面で一回転し、滑るように谷底へ転落した。
この、転落した崖の高さについては、資料によって違っている。参考資料によって30メートル、45メートル、100メートルとまちまちだ。当時の新聞での速報からしてすでに数字がごちゃごちゃで、大事故ということでかなりの混乱があったのだろう。
救助には、救急車5台、救助工作車1台、ポンプ車4台、その他の車両7台が到着。また消防団員を含む計130名が出場し、現場近隣の人たちも駆け付けた。
転落したバスは窓ガラスが全て割れており、車体はデコボコで傷だらけ。乗車していた人たちのほとんどは全身を打っており、現場にはうめき声が響いていた。斜面で倒れている人、傷口を押さえている人、あるいは車内の座席で動かずにいる人などがいた。
現場は谷底とあって、救助活動は困難を極めた。それでも応急手当と救助活動が行われた。
「タンカはないか!」
「救急車はもっと来ないか。車内にもまだいるぞ」
現場に絶叫が飛び交う。この間、斜面に倒れている怪我人を、軽傷者が介抱する場面もあったという。
それでも負傷者を一度には運べない。甲府市へ通じる道は、救急車やその他の乗用車が何台も慌ただしく行き交った。当時近所に住んでいた人は、「自宅近くの県道を何台ものパトカーや救急車が通り過ぎて行ったのを鮮明に覚えている」と書いている。
事故発生を受けて、山梨県警は甲府署に事故対策本部を設置。また、事故に遭った生命保険会社も支社内に対策本部を設置している。一方で事故を起こした静岡鉄道は「開業以来の大事故だ」とコメントした。
死者数は時間の経過とともに増えていった。当初の報道では死者5名という数字だったが、翌日にはこれが10名になっている。最終的には死者がバス運転手を含む11名、重軽傷者が35名に及んだ。
事故原因はなんだったのだろう。当時の新聞を読むと、まず最初の報道では、「センターラインを越えてきた対向車をよけ損ねたか」と推測されている。だが続報では「スピードの出し過ぎ」が原因ではないかとも報じられている。乗客の証言によると、事故を起こしたバスが、先頭のバスを見失ったため速度を上げて追いつこうとしたというのだ。
最初の、センターラインを越えてきた対向車とやらはなんだったのだという話だが、事故ったバスが制限速度を超えていたのは確かなようだ。現場の道路の制限速度は時速40キロ。だがバスのタコメーターや、付近を走っていた乗用車の運転手の証言などから、当時は時速50キロを超えていたことが判明している。
ところが、捜査が進むとまた新たな事実が発覚した。バス事故によくあるパターンで、亡くなった運転手の過酷な勤務状況が明らかになったのだ。
運転手の男性はベテランで、路線バス運転手として十年間無事故という実績を持っていた。前年には社内表彰も受けている。で、その実績をかわれて7月から貸し切りバスの運転を任されたのだが、7月末からは13日間休みなしで働きづめだった。
もともと静岡鉄道は「四勤務一休み」で勤務するよう社員に促していたのだが、観光シーズンともなるとそのルールはなかなか守られていなかったようだ。
亡くなった運転手は、事故直前の9日には別の運転手と二人で交代しながら愛知県豊田市へ日帰りで往復している。そして翌10日に石和温泉へ行ったのだが、夜には温泉で運転手仲間と酒を飲んでいたというから、事故った11日は二日酔いだった可能性もあった。
結局のところ、この事故の原因がなんだったのかは不明である。少なくともネット上では確認できなかったし、新聞も事故発生直後のいくつかの記事を参照しただけなので、警察がどう結論づけたのかまでは分からない。
たぶん、原因を断定するのは難しいだろう。対向車がセンターラインを越えてきたとか、スピード超過とか、速報の段階ではいろいろ推測されているが混乱しているし、たとえ遺体を解剖することで過労や二日酔いの痕跡が見つかったとしても、それで必ず事故るとは限らない。
補償については、負傷者34名に対して静岡鉄道が治療費の全額を負担している。また死亡者11名中、運転手以外の10名の遺族が損害賠償を請求した。
事故が起きた国道は、その後、制限速度が40キロから30キロへ変更された。また、新たに警戒標識や矢印板が付近に設置されたという。
現場には「交通安全地蔵尊」という名前の慰霊碑が建てられている。事故が起きた8月11日には「地蔵祭り」が行われるならわしで、事故の遺族は今もたびたびこの場所を訪れるという。心霊スポットとしても有名なようだ。
【参考資料】
◆TIME-az.com
◆心霊スポット朱い塚-あかいつか-怖い話、心霊写真「昇仙峡」
◆車・自動車SNSみんカラ> 昇仙峡で観光バス転落(10人死亡、35人重軽傷) [SHINCHAN]
◆朝日新聞
◆ウィキペディア
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