秋田県能代市は、戦後に二回の大火に見舞われている。火災史を紐解いてみると、とにかく冬の日本海側は大火が多いのだが、これもそのひとつだ。まずは1949(昭和24)年に起きた「第一次」能代大火をご紹介しよう。
1949(昭和24)年2月20日のことである。未明、能代市は一夜にして姿を変えた。第一次能代大火と呼ばれるこの火事は、市街地の四割をのみこみ、中心部と木材工場地帯を焼きつくした。数字だけを見ても、その規模はただ事ではない。だが、なぜここまで燃え広がったのか。その背景を、当時のデータから読み解いてみたい。
出火は午前0時35分ごろ、市街地の西側にある木工所だった。発見したのは常備消防部(たぶん現在の消防署)の隊員で、望楼から火の光を見つけたという。
まず注目すべきは気象条件である。この年の冬は暖冬で、能代の町にはほとんど雪がなかった。当時の湿度は48%、気温は5度と、やや乾燥気味。
さらに強い西風が吹き続けていた能代市内では、出火時の風は9~18m/sの幅の風速で吹きすさび、突風は20m/sに達したという。乾燥と強風のダブルパンチで、火は一気に広がることになった。
さらに能代市街地には製材所や木工所が多くあり、木材や板材などの可燃物が多かったのも、火災が拡大する要因となった。木材産業は、能代市の産業の根幹でもあったのだ。
もともと、消防はいかにも火災が起きそうなこの気象を警戒して、ポンプ車を巡回させていた。しかしなんとも間の悪い話で、この巡回車が通り過ぎた直後に火が出たのだった。
ともあれ強風下では初期消火の難しさが際立つ。当時出動可能だった三台のポンプ車が消火にあたり、いったんは治まりかけたかのように見えたが、そうは問屋が卸さない。130m離れた別の木工所の柾(まさ)葺き屋根に飛び火したかと思えば、火の粉が次々に飛散して火災は横方向へと拡大していった。
そうこうしているうちに、出動したポンプ車のうち一台は火に囲まれて動けなくなり、残る二台ではとても手に負えない状況へ。とにかく火の回りが速すぎた。
密集する木造家屋と、点在する木材工場に火の粉が舞い、次々と屋根に落ちては同時多発的に火の手が上がる――。延焼速度は最大で一分あたり12.5m、燃焼面積は一分で460平方メートルと推定されている。火は、人の動きをはるかに上回る速さで進んだ。
午前2時を過ぎる頃には、秋田・土崎・五城目・船越・鷹巣・大館などから、応援を受けた消防車十五台が到着。地図で見ると、能代市の周囲の真上を除く市町村からバンバン駆け付けた形である。
しかし、多ければいいという話でもなかった。市外から駆け付けた消防隊は貯水槽の位置を知らないし、そもそも貯水槽が火に包まれて近づけないしで、そのうえ頼りの自然水利である米代川の水も使用不可(理由は不明)。そんなこんなで、応援が来ても消火は期待する程には進まなかったようだ。
午前2時40分、能代市警察署が焼失した。火は東へ進み、午前3時を過ぎると日吉神社や営林署も焼けた。神社には、避難してきた人々が家財を持ち込んでいたのだが、これもすべて焼失している。
それでも何もかもがが焼けたわけではなく、大火は夜が明ける頃には終息していった。消防は渟城第二小学校前に防御線を張り、破壊消防を行ったのだ。これによって南側の町や能代駅方面への延焼は食い止められた。
結果、火災は午前7時頃にようやく鎮まっている。
被害は甚大で、死者3名、負傷者132名。住家1295棟、非住家942棟が焼失し、被災者は8,790人にのぼった。市街地の42%が焼け、東西1,500m、南北800mの範囲が灰になっている。被害総額は47億2500万円にのぼった。
土蔵473棟のうち、残ったのは127棟のみ。普通、土蔵というのはそうそう焼けないものなのだが、それほどの火勢だったということだ。
市役所、警察署、裁判所、郵便局、銀行支店、病院など、市民生活の基盤となる施設も多く失われた。火災後、行政は渟城第二小学校を仮市役所として、罹災証明の発行や救援物資の配給を始めた。
全国から救援物資も集まった。翌21日には食パン、乾パン、味噌、しょうゆ、作業着、足袋などが配られている。見舞金は18億円を超え、天皇と皇后からも下賜金が届けられた。
火元は市内の木工所であることが最初から分かっていたようで、その後四か月にわたって慎重に捜査が進められた。結果、原因はストーブの残り火が周囲のカンナくずに燃え移ったと推定されている。
6月23日にはこの木工所の単独失火だとして、重失火および過失致死罪で書類送検された。しかし証拠が不十分で放火説も否定できず、これは最終的に不起訴となっている。
大火の直後、能代市はすぐに復興計画を策定している。火災復興都市区画整理事業として、寺院や墓地の大規模な移転をふくむ難事業だったが、1953年度に一応の完了を見た。復興のための総事業費は約3億5千万円にのぼった。
余談だが、こうして数字を並べてみると、この「第一次」能代大火は単なる火事ではなく、町の構造と気象条件が重なって起きた「必然に近い災害」であったことが分かる。
日本海側の木材産業の町で、乾燥した夜に強風が吹き、深夜に火が出た。それだけでも最悪だが、消防力は限られ、応援も地理の壁に阻まれた点があまりにも残念だった。条件がそろえば、火災はここまで広がるのだというおそろしき好例である。
そして1956(昭和31)年には、能代市はまたしても炎に包まれることになった。「第二次」能代大火である。
◆ウィキペディア
◆内閣府「防災情報のページ」