1698(元禄11)年に隅田川に架けられ、深川と日本橋をつなぐ永代橋。架橋当時から、橋そのものの美しさと、富士山・筑波山・箱根山・そして房総半島の海を一望できる景観の素晴らしさは評判だったようだ。
もともとこの橋は、時の将軍・徳川綱吉の五十歳の祝いにちなんで建てられた。その長さは110間(約200メートル)と江戸随一で、幅は3間(約6メートル)。桁下は船が安全に航行できるようにと三メートル以上の高さが確保されていた。
船も人も多く行き交う江戸の名所だったのだ。錦絵でも実に美麗に描かれている。また例の赤穂浪士たちも、討ち入りを果たした後でここを渡っており、いかに人々へのアピールに最適な場所だったかが伺える。
その永代橋はしかし、日本史上――もしかすると世界史上かも知れない――類を見ない最悪級の群集事故(あるいは崩落事故)が発生した場所でもあるのだ。
時は1807(文化4)年。
さしもの永代橋も、建設から109年が経過したとあって損傷が激しくなっていた。とにかく交通の要所として多くの人が行き交う上に、平素から波風にさらされているから腐食も進んでいた。「犬一匹通っても危険」と言われるような状況だったという。
たまりかねて、町役人たちが架け替えの嘆願書を幕府に提出しても、「それならいっそ取っ払って渡し船を使うようにしなさい」という返事が来る始末。町役人たちは橋の維持工事を自分たちで行うしかなかった。
問題は費用である。これは通行料でまかなったり、近くで市場を開くなどして、なんとか補っていたようだ。深川富岡八幡宮(現在の富岡八幡宮)に近いという立地条件のおかげで、参拝客からの収入も見込めたのだろう。
こうして、架橋からおよそ100年の間に行われた補修工事は16回。事故が起きる直前にも、応急処置的な補修は行われていた。しかし本格的な改修はできないまま、永代橋は「その日」を迎えることになった。
1807(文化4)年8月19日のことである。
この日は、江戸三大祭のひとつである深川祭が、先述の深川富岡八幡宮で開かれることになっていた。これは本当は毎年開かれるはずのイベントなのだが、このたびは実に10年ぶりの開催となった(この数字は、資料によっては11~30年余年と開きがある)。
なぜ10年もブランクがあったのか、はっきりしたことは分からない。資料によっては、「喧嘩」が原因で中止になっていたと書かれているものもある。
久方ぶりの大イベントである。深川祭は昔から山車や練り物が評判で、江戸っ子たちの期待は否が応にも高まった。一カ月も前から、今で言うガイドブックが売り出されていたほどだ。
しかし、祭りを楽しみにしていた人々は焦らされた。もともとは8月15日に開かれるはずだったのが当日は雨降りの悪天候で、19日へと延期になったのだ。
そして運命の8月19日。
祭りを心待ちにしていた大勢の人々が、早朝から深川へと向かっていく。
ところが、またしても彼らは足止めを食わされることになった。永代橋を渡って富岡八幡宮に向かおうとしたところ、なぜか橋が通行止めになっていたのだ。
なんだなんだ、祭礼の行列が始まっちまうじゃないか。――実はこの時、永代橋の下では、将軍家の関係者が御座船(ござぶね)で通行することになっていたのだ。この「関係者」というのは、当時の将軍の息子かその実父だったらしい(資料によって違いがある)。とにかく「偉い人の頭の上を町民が土足で歩く」のは無礼だということで、橋は通行止めになったのだった。午前10時のことである。
10年以上も開催されなかった深川祭。やっと開かれると思ったら雨で延期、しかも当日は永代橋で通行止め。度重なる「お預け」で、人々は焦れに焦れていたに違いない。やっと通行止めが解除されると、橋のたもとでごった返していた大群集は一斉に永代橋を渡り始めた――。
その時だった。大人数の重みに耐え切れず、永代橋の中央部分が崩れ落ちた。少し細かく書くと、深川側から見て四・五つ目の橋脚部が沈み、六~七間目あたりの橋桁が折れてしまったのだ。
橋の上の人たちは次々に落下。しかも、群集事故の恐ろしさで、行列の後ろにいる人たちは事故発生に気付かず押し寄せてきて、前方の人は崩落した橋から隅田川へと次々に押し出されていった。
目撃者によると、「人が米粒のようにこぼれ落ち、泥中に埋まった人々の上に次々に人が落ち重なってゆく」という、恐ろしい光景だったという。
なんとか人の流れを止めなければならない。ここで機転を利かせた一人の武士が、橋の欄干に掴まって刀を振り回し、「斬るぞ、斬るぞ」と叫び声をあげた。喧嘩だと勘違いした群集はこれで後ろへ下がり、人々の落下はやっとストップ。記録によると、この武士は南町奉行組同心の渡辺小佐衛門という人物だったとか。
遺体は、すぐに引き揚げられたものもあれば、品川沖まで流されていったものもあった。その後も、下流には犠牲者の下駄が何日も流れてきた。
この事故での死亡者数については、諸説ある。まず、その日のうちに198名の水死が確認され、奉行所は最終的には440名という数字を出しているが、「一説によると」480名だという資料もある。また「実際には」900名だったとする資料もある。
これに行方不明者を加えると「800名以上」であるとか、「1,000名を超える」とか「1,500名以上」とか、すごいのになると「水没の老若男女数千人」というさすがに眉唾っぽい数字もある。
いずれにせよ、本邦最悪の群集事故である。
この事故の供養塔と石碑は、目黒区の海福寺(かいふくじ)に存在する。もともとこのお寺は永代橋に近い深川にあったそうで、1910(明治43)年の移転に伴って供養塔と石碑も一緒に移されたという。そこには、事故の詳しい説明書きもついているそうな。
永代橋の惨劇は、歌舞伎や古典落語、時代小説にも取り入れられている。歌舞伎は『八幡祭小望月賑(はちまん まつりよみやの にぎわい)』、落語は「永代橋」といった作品がある。
また、俳諧師として有名だったという太田南畝が当時詠んだ狂歌で、
「永代のかけたる橋はおちにけり きょうは祭礼あすは葬礼」
というのもある。太田は当時、偶然に隅田川を船で通りかかり、この惨劇を目の当たりにしていた。そして、その彼が残した記録集「夢の憂橋」には、事故当時者へのインタビューなどが載っている。
実は筆者は、本稿を書いている2021(令和3)年2月の時点で、この「夢の憂橋」が収録されている『燕石十種』という書籍を入手している。ざっと読んだところ、村上春樹の『アンダーグラウンド』を思い出させる内容だった。
ただ、いかんせん明治時代の文章なので歯が立たない。上手に翻訳して、重要なところを当研究室で引用・ご紹介できればいいのだが、ちょっとハードルが高すぎる。ならばいっそ全文を丸ごと当研究室で公開するか(著作権の関係はどうなるんだろう)、それともやっぱり根性でじっくり読み解いて、後日(いつになるか分からないが)本稿に加筆すべきか……などと思案しているところである。
さて、その後の永代橋だが、事故の翌年の1808(文化5)年には架け替えられている。だがやはりその後も損傷が進み、約90年後の1897(明治30)年には新しく造り替えられた。この時から、永代橋は木造の橋から鉄橋へと変わったのだった。
しかし、鉄橋と言っても一部に木材が使われていたため、1923(大正12)年の関東大震災ではあえなく焼失。次に架け替えられたのは三年後の1926(大正15)年で、これは旧い橋のやや北側に架けられた。新しい橋はドイツのルーデンドルフ鉄道橋をモデルとしたもので、これが今に至っている。
つまり、現在の永代橋は四代目にあたるわけだ。
今でも永代橋は美しい。特に日の入りから夜九時までのライトアップはなかなかのもので、湾岸タワーマンションエリア付近の夜景は、これによって美しく彩られる。「てやんでえ、美しくない永代橋なんざ永代橋じゃねえやッ」という昔の江戸っ子の遺志がここに生きているかのようだ。
※追記:『燕石十種』収録の「夢の憂橋」は既に著作権が切れているということで問題なさそうなので、今後なんらかの形で、当サイトで読めるようにしていきたい。
【参考資料】
◆国書刊行会『燕石十種』収録「夢の憂橋」より(冒頭図)
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆目黒区ホームページ「文化四年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑 東京都指定有形文化財(歴史資料)」
◆ブログ「気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録 永代橋崩落事故〔海福寺③〕(目黒史跡散歩⑨)」
◆ブログ「新イタリアの誘惑 隅田川⑥ 永代橋 我が国最悪の橋崩壊という歴史的な惨劇」
◆江戸ワードのホームページ「永代橋崩落事故 江戸時代・文化4年(1807年)
◆日本初の歴史戦国ポータルサイトBUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)「1400人もの死者を出した「永代橋落下事故」次から次へ人が川に落とされて」
◆東京坂道ゆるラン「お江戸のカタストロフィ・落語「永代橋」の古地図」
◆Japaaan「人が米粒のようにこぼれ落ち…江戸時代に隅田川で起きた最悪の事故「永代橋崩落事件」」
◆ウィキペディア
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