ココナッツ・グローブの火災であれほどの死者が出たのは、どうも炎や煙などの単純な理由からではないらしい。
では何かというと、どうやら火災当時は有毒ガスが発生したらしいのだ。当時、建物の冷房に使われていた媒体がメチル塩化物で、これは熱によってガスを発生させる。それが人間には致命傷になるのである。
――と、こんな報告がなされたのが1999年のことである。
ココナッツ・グローブ火災は、アメリカの火災史を語る上で外せない大火災の一つだ。
1942(昭和17)年11月28日の深夜、ナイトクラブで出火し488~491名という目を疑うような数の死者が出たのだ。これについて57年後に事故の再調査が行われ、上述のような報告となったのである。
それにしても57年後の再調査である。別項になるトライアングルウエストシャツ工場火災に関してもそうだが、そんな昔の出来事をよくしつこく調査するものだと思う。過去の出来事に対し、米国人というのはものすごく執念深いようだ。その点には頭が下がるというか呆れるというか、とにかく素直に脱帽である。
日本でもこれを見習って、古い事故の再調査を行ってみてはどうだろう? 当時は分からなかった新発見なども色々出てくると思うのだが……。例えば鶴見事故の脱線の原因、六軒事故の信号機の謎、大洋デパートの失火の原因、等々。
もっとも我が国は、縁起の悪い事柄は「水に流す」のが基本である。きっと、負の記憶を蒸し返すことに渋い顔をする方も多かろう。当研究室は、こうしたお国柄に対するささやかなアンチテーゼでもあるのである。
☆
ココナッツ・グローブ火災が発生したのは、先述の通り1942(昭和17)年11月28日のことである。土曜日の深夜だった。
米マサチューセッツ州ボストンにあったこの店はナイトクラブの老舗で、当時はフットボールの応援客が大勢来ていたという。その人数たるや1,000人をゆうに越すほどで、これはすでに定員を数倍上回る人の入りだった。
時刻は午後10時。失火があったのは地階だった。
メロディ・ラウンジ(筆者はメロディ・ラウンジと言われてもどういう場所なのかよく分からないのだが)に作り物の椰子の木が飾られていたのだが、それがいきなり燃え出したのである。ココナッツ・グローブという名前に相応しく、店内にはこうした飾りの椰子の木がたくさんあった。
出火の原因だが、これは火災直後には16歳のウェイターの少年のせいではないかと言われた。電球の取り付けを行おうとしてマッチを擦ったのだが、それが引火したのではないかと考えられたのだ。
もっとも、それも憶測に過ぎなかった。そしてこの火災の責任の追及は、最後の結論に至るまでに二転三転することになるのである。その点は後述しよう。
火災発生直後には、ボーイやバーテンダーが協力して消火を試みている。だが失敗。あげく、燃える椰子の木を移動させようとして倒してしまい、このため火は一気に燃え広がってしまった。
さあ、パニックである。地階の客達は出口の階段へ殺到した。
だが火勢は想像以上だった。2分から4分ほどで階段は炎に包まれ、ほとんどは脱出出来なかったという。火炎はたちまち1階へ上っていった。
人々は一斉に避難を開始したが、この時に仇となったのが「回転ドア」である。客たちがこぞって正面玄関の回転ドアに殺到したものだから、ドアが詰まって回らなくなってしまったのだ。
犠牲者たちはこのドアの後ろで折り重なって倒れており、回転ドアはギチギチに詰まっていたという。消防士が中に入る際にはドアを分解しなければいけなかったそうだ。
では他の出入り口はどうだったのかというと、これは全て従業員によって閂がかけられており、脱出には使えなかった。お客が料金を踏み倒すのを避けるための措置だったそうだが、考えてみればどっちみち死んでしまえば踏み倒されたようなものだろう。皮肉な話だ。
そして建物の中は可燃物だらけだった。店内の椰子の木は紙で出来ていたし、布製のカーテンがあちこちにかけられて可燃性の家具を覆っていた。おかげで玄関や食堂など、建物の主要な部分が炎に包まれるまで5分程度しかかからなかったという。
消防署が通報を受けたのは10時23分。別件で出動していた消防隊が、帰りにこの火災を発見したのである。
さあ救出作業である。だが消防隊がココナッツ・グローブに接近した途端、出入り口から猛火が噴き出して来たからたまらない。突入は無理だ。しかも正面の回転ドアも先述のような有様で使い物にならない。
「まずは火を消せ!」
消防隊は焦りに焦ったことだろう。通りに面した建物の壁の一部はガラスブロックで出来ており、屋内で次々に人々が倒れるのが見えたというのだ。悲惨この上ない。
可能な限り迅速に、消火活動は進められた。だが消防隊が間もなく店内に入ると、もう中は遺体だらけ。犠牲者の中にはちょっと火傷を負った程度でテーブルに座ったままの者もいたらしく、おそらくこれが、最初に書いた有毒ガスの犠牲者だったのだろう。
さあてお待ちかね、吊るし上げタイムである。
なにせ500名弱というのは、米国の火災史上でも二番目の犠牲者数である。新聞でも、いっとき第二次世界大戦がらみのニュースの見出しに取って代わるほどの注目度だったのだ。世論が黙っているわけがない。
まず叩かれたのが、先述した16歳のウェイターだ。
しかし、彼の素性がはっきりするにつれて世間の非難は止んだ。彼は病気の母親の世話とアルバイトに精を出す成績優秀な少年だったのである。また自分が火元であることを自ら認めた潔さも、非難の矛先をかわす結果に繋がった。
だが実際には、この少年が本当に火元なのかは謎のままである。彼はマッチの火はちゃんと消したというし、それが椰子の木に燃え移った瞬間を目撃した者は誰もいないのだ。厳密にはこれは定説ではない。
「さて、それじゃ次に悪いのは誰だ?」
というわけで次に叩かれたのが、ココナッツ・グローブに営業許可を出していた監督官庁である。この場合は消防署ということになるが、実は火災の1週間前には、査察担当の消防職員が「この建物は問題なし」という判断を下していたのだ。
よしコイツで決まりだ――。というわけでこの職員は殺人の従犯および故意の職務怠慢の容疑で起訴されたが、陪審員の結論は「無罪」。彼は別にいい加減な査察を行ったわけではなく、ちゃんと査察要領に従って職務をこなしただけったのである。要するに、制度のほうが現実の火災の実態に即していなかったのだ。
「だったら本当に悪いのは誰なんだ!」
それで今度は、ココナッツ・グローブのオーナーがつつかれる羽目になった。
このユダヤ人のオーナーは「悪徳オーナー」として世間の非難を浴び、たちまち悪者扱いされた。一体何が悪徳だったのか詳細は不明だが、ウィキペディアで調べてみるとマフィアや市長との繋がりが云々という文章があったので、そのあたりが都合よく標的にされたのだろう。
結局、検察はこのオーナーひとりを起訴した。19の訴因に基づく殺人罪である。
こうして12年から15年の懲役刑を食らったこのオーナー、その後は比較的短期間で出てきているものの、ほどなくして病死した。
しかしこれは明らかに「横井秀樹現象」であろう。火災の責任を一人の人間におっかぶせて、とりあえず生贄にするというアレである。当時、捜査と裁判の成り行きに釈然としなかった人もきっといたに違いない。
この火災によって、当時のアメリカの建築基準法は大幅に改正された。レストランやクラブなど、大勢が出入りする場所では、回転ドアだけではなく普通のドアも取りつけるべし。店内の装飾は不燃材を使うべし。非常灯とスプリンクラーは必ず設置すべし――などといった内容である。
それらの決まりごとは、今の時代から見れば当たり前のようなものばかりである。だがその「当たり前」も、たくさんの犠牲者が出ないとなかなかものにならないのは、どこの国も同じらしい。
追記:スティーヴン・ピンカー『21世紀の啓蒙』によると、アメリカでは19世紀に、火災鎮火のための消防隊が専任の職業として確立されている。これが20世紀以降には「火災予防」にも力を入れるようになったのだが、その大きなきっかけの一つがこのココナッツ・グローブ火災だったらしい。最初に書いた通り、この火災が「アメリカの火災史を語る上で外せない大火災の一つ」であることが、こんな所からも窺い知れる。
【参考資料】
◆森本宏『火災教訓が風化している!〈1〉』近代消防ブックレット、2001年
◆広瀬弘忠『人はなぜ逃げおくれるのか――災害の心理学』集英社新書、2004年
◆スティーヴン・ピンカー『21世紀の啓蒙』草思社、2019年
◆ウィキペディア
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