◆日本坂トンネル火災(1979年)

 乗用車による交通事故は、今我々がこうしている間にも、数秒に1件の割合で発生しているという。

 そんな数ある交通事故の中でも最大最悪級の規模を誇るものが、この日本坂トンネル火災である。

 この事故は、鉄道事故やビル火災に比べれば目を見張るような死者数では決してない。だがその被害の甚大さはもはや想像を絶するほどで、ほとんど事故そのものが社会問題であったかのような規模である。

   ☆

 時は1979(昭和54)年7月11日、夕方を過ぎた頃。

 静岡県・東名高速道路の日本坂トンネル内では、渋滞が発生していた。

 このトンネルは静岡市と焼津市に跨っており、焼津口の近くでトラック同士の小さな接触事故が発生していたのだ。それが原因となり、トンネル内では長蛇の渋滞となってしまったのである。

 もっともその接触事故自体は大したものではなかった。問題はこの後である。渋滞のさなか、トンネルの中で更なる追突事故が起きたのである。

 時刻は午後18時40分。場所は、出口の焼津口まであと400メートルという地点だった。トンネルを走行中していた一台のトラックが、前方の渋滞に気づき慌ててブレーキを踏んだのである。

 キキキキキッ、ピタリ。

 これは100メートル手前で無事に停止した。危機一髪である。

 ところがこの直後にケチがついた。更にこの後ろからやって来た大阪ナンバーのトラックは、停止が間に合わず思い切りゴツーン! と追突してしまったのだ。

 わわわわ、何やってんだバカヤロ~! せっかく間一髪で停止できたトラックも、それでズズズズッと前に押され結局渋滞の最後尾にぶつかってしまった。

 さあ、ここからが地獄である。

 更にまた一台、今度はサニーが走ってきたのだ。これは追突を免れず大阪ナンバーのトラックにドガチャーン! と衝突。しかも勢い余ってトラックの荷台の下に食い込む形になってしまった。

 そこへ次にやって来たのがセドリックである。これはサニーへの追突は回避し、その隣に並ぶ形で停止できた。ちょっと接触した程度で済んだという。

 ところが今度は立て続けに2台のトラックが突っ込んできた。グワシャーン! サニーはトラックとトラックの間に挟まれて大破し、セドリックも後部を押し潰されてしまった。

 かくして合計7台が巻き込まれる多重衝突事故の出来上がりである。これだけでも目を覆いたくなるような惨状だ。

 「衝突事故」が「火災事故」へと変貌するのはここからである。火を噴いたのはサニーで、どうもガソリンタンクが破損したらしい。事故車両の周辺はあっという間に炎と煙に包まれた。

 後続の車両の運転手たちは、車から降りて事故車両の乗員の救出を試みたという。だがこの時点では既に4人が即死していた。最初に追突した大阪ナンバーのトラックの運転手と、最後に追突したトラックの運転手と、それにサニーに乗っていた乗員2名の計4名である。

 またセドリックに乗っていた3名だが、これは火災直後までは生存していたようだ。だが火勢が強すぎて救出には間に合わず、結局最終的な死者は7名となっている。

 そう、もはや他人を救助している場合ではなかった。それ程凄まじい炎と煙だったのである。トンネル内に進入していた車両の運転手たちは、取るものも取りあえず逃げるしかなかった。

 さあ消火である。

 これは迅速に行われた。まず火災が発生した時点ですぐに公団管制室や消防署、管理事務所へ連絡が入っている。そしてトンネル近くの警報表示版に「進入禁止」の表示が出され、スプリンクラーも作動した。頼もしいものである。

 それもそのはずで、なんといっても当時の日本坂トンネルは公団をして「世界最高レベル」と言わしめるほどの防災レベルだったのである。抜かりはなかった。

 ……はずだった(笑)

 ところがせっかく作動したスプリンクラーは余りの猛火に歯が立たず、途中で水が切れてしまう。また排煙装置も想定外の量の煙にまるで効果なし。その上、他の消火設備も火炎のためにケーブルは断線するわヒューズは吹っ飛ぶわで、役立たずここに極まれりといった有様だった。大槻ケンヂならここでこう歌うかも知れない、「まるで、まるで高木ブーのようじゃないか!」

 おそらく、元々これらの消火設備は「トンネル内での車両火災」を想定したものだったのだろう。トンネルそのものが灼熱地獄になるような火災など誰も考えていなかったに違いない。

 そう、この時の日本坂トンネルはちょっとしたこの世の地獄だった。引火に次ぐ引火でトンネル内にあった173台もの車両が焼き尽くされ、しまいにはコンクリートの壁は破損して剥がれ落ち、鉄の支柱も完全に折れ曲がっていたという。

 内部設備に頼らない外部からの消火活動も、決して行われなかったわけではない。ただ2,045メートルに及ぶトンネルの大火災は、ポンプ車で外からちょっと水をかけたからどうなるというレベルでは最早なかった。何より危険である。自然鎮火を待つより他に手はなかった。

 火災そのものがようやく終息したのは事故発生から3日後である。

 しかしトンネルの中は結局1週間は高温のままだったし、人が入って仕上げの消火や後片付けを行うには酸素があまりにも不足していた。かと言って下手に酸素が入り込むとその辺の炎が再び燃え上がったりすることもあり危険極まりない。全てが難航した。

 流通の大動脈でもある東名高速道路でこんな事態が生じたのである。交通網は乱れに乱れた。

 火災の影響をあまり受けずに済んだ上り線は、比較的早く復旧したようである。

 また下り線の復旧作業のためにも、それは必要なことだった。だが上り下りの対面交通という形にせざるを得なかったため、下り線が正式に復旧するまではやはり渋滞が絶えなかったという。

 この不通は物流にも大きな影響を及ぼし、復旧するまでの間に国鉄貨物の売り上げが大幅にアップしたとかなんとかいう話もある。結局、迂回や代替輸送による社会全体の被害総額は60億円にも上ったという。

   ☆

 日本坂トンネルでの火災は、何故ここまで被害が拡大したのだろう?

 まあ大まかな答えは明らかである。最初に追突した大型トラックの運転手の前方不注意と、それにトンネル内の消火設備の不備が大きな原因だろう。

 ただもう一つ付け加えるならば、当時の日本坂トンネルの入口には「警報表示板」がなかったということも挙げられる。

 あれ? さっき、火災の直後には警報表示版に火災の表示が出たって書かなかったっけ? 

 ――その通りである。しかしこの表示板があったのは、日本坂トンネルのちょっと手前にある「小坂トンネル」の方だった。

 この小坂トンネルに入り、通り抜けてから、さらに日本坂トンネルの入口に達するまでおよそ500メートルの中途半端な距離があったのである。これは高速道路の走行距離としては長いほうではなく、大して離れていない複数のトンネルにいちいち警報表示版をつける必要もあるまい、というのが当時の道路公団の考え方だったようだ。

 つまりその警報表示版は、小坂トンネルと日本坂トンネルの2つのトンネルの分を兼ねていたのである。

 ゆえに、日本坂トンネルで火災が起きてから小坂トンネルに進入した車両は、火災のことなど全く知らずに日本坂トンネルへ入っていったことになる。

 だから被害が拡大したのである。警報表示版に火災の表示が出たにもかかわらず、なおもトンネル内に80台もの乗用車が進入し、そして引火の火種が増えることになってしまった。

 またドライバーたちにも問題はあった。小坂トンネルの表示板に「入ってくんな」と表示されているにも関わらず、前の車両は進入していったんだし大丈夫だろう、警報表示板みんなで無視すりゃ怖くない……というノリで突入していった者もいたのである。

 もっとも高速道路で安易に停車すること自体、大変な危険が伴う。ここで停まるか停まらないか、という一瞬の判断を迫られて、仕方なく「流れ」でトンネルに進入してしまいマイカーを焼失してしまったドライバーもきっと多かったことだろう。

 さてこの火災では、ホテル火災やデパート火災のように、特定の被害者やその遺族へ補償が行われたという話はあまりない。ただ、流通にまつわる補償の問題で道路公団が支払う分があったとかなかったとかいう話をネット上で目にした程度だ。

 その後、全国の高速道路で防災設備が徹底的に整備されるようになったのは言うまでもない。

 それにしても、である。例えば鉄道事故ならば、大事故がきっかけになって事故防止の仕組みが整備されることは多い。非常用ドアコックやATSの歴史などは、そのまま事故の歴史ですらある。

 だが道路での交通事故は発生の頻度も高く、全てが大々的に報じされる訳でもないので注目されにくく、どちらかというと問題にもなりにくい。よって、ひとつひとつの防災設備の裏にどんな歴史があるのかを知るのは難しい。

 その点、この日本坂トンネル火災だけは稀有な例外である。この事故は日本の高速道路の運営手法が見直しを迫られる強烈なきっかけになった。その意味ではこの事故、単なる「事故」という枠組みを越えた歴史的「事件」だったと言えるだろう。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆JST失敗知識データベース
◆杉山孝治『災害・事故を読む―その後損保は何をしたか』文芸社

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