◆川治プリンスホテル火災(1980年)

 川治プリンスホテル火災は、戦後の火災による大量死としては上から4位の惨事である。ついでに言えば商業施設の火災としては3位、宿泊施設の火災としては1位だ。 
 時は1980年11月20日、15時12分頃のことである。

 栃木県塩谷郡藤原町川治(現在の日光市)にあった川治プリンスホテルで、火災報知機が鳴動したのだ。

 あれ、火事じゃないのか? 逃げないとまずいよ。

 とまあ、誰もがそう思ったことだろう。

 ところがこの直後、ホテルの従業員が特に状況の確認もせずに「これはテストなのでご安心下さい」と館内放送を流してしまう。実はこの1時間前には本当に火災報知機のテストが行われていたそうで、それで勘違いが生じたのだった。

 なんだテストかよ、やれやれ人騒がせな……。ところがこれは本物の火事だった。1階の露天風呂で解体工事が行われており、工事のために使われていたガスバーナーが引火していたのである。作業員が休憩をしている間に燃え広がったのだ。

 とにかく1回目の非常ベルは、従業員が嘘の館内放送を流したことでほとんど黙殺された。

 そして悪いことに、この日川治プリンスホテルに滞在していた宿泊客は、その大半が高齢者だった。「高南長寿会」と「成一長寿会」の2つの老人クラブが紅葉見物に訪れていたのである。

 その平均年齢は72歳。今で言うところの「災害弱者」に該当する人々である。その彼らの足元で火災が起こり、嘘の館内放送が流されたのだ。もはや大惨事のお膳立ては万端、という他はない。

 お客の中には、まだ宴会までは時間があるからと、客室で茶を飲んで一服している者もいたという。

「なあ、火災報知機が鳴ってるけど大丈夫かな」
「大丈夫だよテストだって言ってたじゃん」
「でも様子が変だぞ。ほら窓の外で煙が上がってる」
「なにビクビクしてるのさ、ありゃ焚き火だよ」

 ちなみに結果だけを言うと、1回目の非常ベルを不審に思って避難したグループは全員が助かっている。

 そして15時18分、またしても火災警報のベルが鳴った。

 さすがにこりゃ様子がおかしい。そこでようやく従業員が大浴場へ見に行くと、既に炎と煙で手の付けようのない有様だった。

 そしてここに至り、ようやくお客たちも不審さを募らせ始めていた。客室から見える、窓の外の煙がどんどん濃くなってきていたのだ。

 いかんこりゃ焚き火じゃない、モノホンの火事だ!

 さあ避難の開始である。この時、従業員による火事ぶれや避難誘導がどのように行われたのかは、正直なところ資料の内容が錯綜していてよく分からない。ただ、出火場所の大浴場周辺にいた老人たちがとっさの案内を受けた程度で、全体として適切さを欠いた避難誘導だったことは間違いないようだ。

 状況は最悪だった。従業員の交代時間だったため、ホテル内もすっかり手薄になっていたのだ。

 炎と煙は、みるみるうちに客室へ迫っていった。

 老人たちが避難を開始した時、どうも館内では階下に下りることがほとんど不可能に近かったようだ。なにせこのホテル、1階へ下りるためにはいったん新館へ行かなければいけないのに、肝心の新館へ繋がる廊下が1本しかない上にそれはあっという間に煙の通路になってしまったのだ。

 3階と4階にいたおじいちゃん、おばあちゃんは煙と炎に追い詰められたのである。この時の様子について、生存者の一人はこう語っている。

「風呂から上がってお茶を飲んでいたら煙たくなってきた。初めは風呂場の煙と思ったが、廊下から、出て下さい、という大きな声がした。同室に足の弱いおばあさんがいた。間もなく電気が消え、助けてえ、という悲鳴が全館に響いた」

 使える避難経路は、あとは窓だけだった。

 不幸中の幸いで、3階のいくつかの部屋の窓の下には2階屋根があり、そこへ降りたことで一命を取りとめた人が多くいた。窓の下にいた人々が、工事用シートと布団を並べてくれたのも良かった。

 大変だったのは4階の人々だ。さすがにこれは2階屋根へ飛び降りても無傷とはいかず、それで助かった者も全員が病院送りになっている。だがやはり救助された者はそれだけマシだとここでは書いておこう、この4階では他にも多くの客が逃げ遅れて死亡しているのだ。

 消火活動も難航した。通報によって消防団が駆け付けたものの水利が悪く、そうこうしている内にホテルは完全に焼け落ちたのである。鉄骨造りだった4階建ての本館も、木造の2階建て新館も、合わせて3.582平方メートルがお釈迦になった。

 夜になると、栃木県警本部は今市署に「川治プリンスホテルの多数死傷者出火事件特捜本部」を設置。消防団の協力を得て犠牲者の創作活動を開始した。

 犠牲者の数は、事故当日の夜には10数人程度だった。だが翌日の昼になるとこれが20人超に膨れ上がり、最終的には宿泊客40名、従業員3名、東都観光のバスガイド1名、旅行会社の添乗員1名の合計45名の死者が確認された。負傷者も22名に上った。

 当時の川治プリンスホテルには客と従業員合わせて132人がいたというから、3分の1が犠牲になったことになる。

 ちなみにバスガイドと添乗員が死亡しているのは、これは取り残されたお客を助けようとして殉職したものである。特にバスガイドは、当時のワイドショーの情報の又聞きによると30~40代のベテランの女性だったらしく、最後に目撃されたのは階段を上っていく後姿だったという。

 断言するが、このガイドさんと添乗員の魂は確実に天国へ昇っていったことだろう。

 さて火災後、このホテルは消防査察で「火災報知機やスプリンクラーが少ない」「定期的な防災訓練の結果を報告していない」など8項目に渡って問題点を指摘されていたことが明らかになった。それでも経営側は無視して営業を続けていたのだ。

 結果、社長夫婦と、1階の工事の担当者が業務上過失致死傷罪で逮捕・起訴された。

 ちなみにプリンスホテルの社長は出火時には不在で、火災の翌朝に現場に現れると放心したように焼け跡を見上げていたという。

「スプリンクラーもなかったんですか?」
「防火責任者もいなかったんですか?」
相次ぐ報道陣の質問には、
「よく分からない。防火責任者は今はいなかった…」
と肩を落として答えるばかりだったとか。

 そして最終的には、この社長の妻が禁固の実刑判決を受けた。彼女はプリンスホテルの実質上の経営者で、専務と女将を兼務していたという。彼女以外の2人も禁固刑の判決が下ったが、これはいずれも執行猶予がついている。

 もともと、川治プリンスホテルは経営的にはあまり芳しくなかったらしい。それで社長はホテル業を辞めることも考えていたのだが、彼の妻はホテル経営を諦めたくない一心で、半ば強引に実質的な管理者として経営規模を拡大させたのだった。その結果、防災対策がおろそかになったのである。

 だがとにかく被害者や遺族への補償は迅速に進められ、示談は比較的早く成立した。

 当初、遺族から石をぶつけられたりもしたらしい被告人夫婦だが、裁判の記録によると彼らは総額八億円余りを被害者全員に対して支払い、また毎年死者の供養にも出向いていた。そのような誠意が身を結んでか、控訴審に至った際には、遺族らから「被告人に対しては寛大な処分を希望したい」という旨の上申書が提出されたという。

 個人的に、筆者はこの最後の上申書云々のエピソードを発見した時にはちょっと感動した。「そうかこの被告人たちは許されたんだな」という感慨が湧いたのである。ともすればやり切れなさばかりが残りがちな事故災害の記述における、ささやかな気持ちの落ち着けどころだった。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆防災システム研究所ホームページ
◆サンコー防災株式会社ホームページ
◆消防防災博物館「特異火災事例」
◆朝日新聞
◆判例時報1233号

 ※この文章は、一度ブログにて「下書き」という形で掲載・公開しております。その際に頂いたコメントの内容も、今回清書するにあたって参考にさせて頂きました。

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