だが事故の内容はやけに古臭い。北陸トンネル火災の教訓もどこへやらという印象だし、出稼ぎ労働者が現場で大勢犠牲になるというシチュエーションも時代を感じる。まるで40年前か50年前の事故のようだ。
もっとも、筆者が1歳の頃には夕張新炭鉱ガス突出事故のような事故も起きている。そう考えると、古臭い類型のように見えるこれらの事故は、ひとつの時代の断末魔だったのかも知れない。
☆
1979(昭和54)年3月20日のことである。
当時谷川岳では、日本列島改造の気運に押されてトンネルがぼこぼこ掘られていた。手始めに清水トンネル、それから新清水トンネル、とどめに大清水トンネルである。特に大清水トンネルは全長が22.2キロと日本一の長さで、世界でも有数の山岳トンネルだった。
んで大清水トンネルでは、1971(昭和46)年のの工事着工以来、すでに13名の死者と264名の負傷者が出ていた。
「えっ、そんなひどい工事現場、問題にならないの?」
――という声が聞こえてきそうだ。しかし問題にはならないのである。高度経済成長期というのはそういう時代だったのだ。なにせ昭和30年代ならば工事費一億円につき死者が一人出るのは当たり前、少し安全性が高まった昭和40年でも十億円に一人は当たり前、とまで言われていたのである。
だから、工事がひと段落した時、作業員たちはほっとしたことだろう。
そう、この日はトンネルの穴掘り作業が終わったばかりだった。あっちとこっちから掘られた穴がやっと貫通したのである。あとは壁面にコンクリを張る簡単な作業で済む。
「あー終わった終わった。さあ機材を片付けるぞ!」
トンネル内には、掘削作業に使われた鋼製のジャンボドリルが置いてあった。高さは3階建ての建物ほどだったというから、これはちょっとしたガンダムである。工事開始以降、ひたすら穴を掘りまくってきたこのガンダム削岩機も今夜はいよいよお役御免。トンネル内でバラバラに解体して処分することになっていた。
この解体作業の直前には、群馬労働基準局沼田監督署の係員がトンネル内の様子を視察に来ている。
「ふーむ。このジャンボ削岩機は油ですっかり汚れていますねえ。機械の周辺も油だらけですねえ。おや、水たまりの中の鉄骨も油だらけですねえ。散らばっているおがくずも油だらけですねえ。ま、問題ないでしょう」
お前さんの目は節穴どころか大清水トンネルだ! と言いたくなるようなボンクラ視察である。この係員、自分が立ち去った直後に大火災が発生したと聞いてどう思ったのだろう。
というわけで、夜9時にはガンダム掘削機の解体作業が始まった。
当夜のトンネル内には54名の夜勤者たちがいた。そのうち11人がガンダムの解体を行う。
ではアムロいきます。溶断機のアセチレンガスに点火されると、バーナーによってガンダムは切断、ばらばらに解体されていった。火花が飛び散り、真っ赤に焼けた鉄片が落ちてくる。
トンネル内にあるものといえば、岩盤と岩肌と湧水くらいなものである。まさかここで火事が起きるわけないだろう。誰もがそう思っていた。
ところが、下に落ちた鉄片の熱によって周辺の水分はたちまち蒸発。油の染み込んだおがくずもすぐに乾き、白い蒸気が上げるとすぐ引火した。
蒸気が黒煙に変わっていったことに、最初は誰も気付かなかった。解体作業の方に誰もが目を奪われていたのだ。
そこからはあっという間だった。おがくずに引火した炎は、油だらけのガンダムを舐めるように包んでいったのだ(切断の際の火花が直接にガンダムに引火したとも言われている)。これが9時30分頃のこと。
「おい、これまずいぞ! 消火しろ消火!」
作業員たちはようやく異変に気づく。しかし発見が遅れただけでも致命的なのに、その上備え付けの消火器は消火剤が出なかった。この消火器は加圧式で湿気に弱かったのである。この事故以降、こういう場所では特に消火器は畜圧式を使用すべしと言われるようになった。
さあ、発見の遅れ、初期消火の失敗、それによって避難ももたついている。当研究室の読者であれば、これがいかに恐ろしい事態であるかはすぐ察しがつくであろう。
トンネル内は黒煙で包まれ暗闇になった。作業員たちは命からがら、それぞれ群馬方面と新潟方面に分かれてトンネル内からの脱出を試みる。
現場から最も近い出口は7キロ先の群馬方面のものである。だがそちらは風下だったため、煙は猛烈なスピードで作業員たちに襲いかかった。54名の作業員のうち46名はそちらに逃げたが、14名が煙と有毒ガスにまかれて死亡している。この14名の死者のうちの3名は、ガンダム解体作業に携わっていた人たちだった。
また、解体作業をしていた11名のうちの残り8名は、風上の新潟方面へ逃げて事なきを得ている。こちらは現場からトンネル出口まで14キロもあったのだが、風上だった。
さて。こうして火災が起きてもなお、トンネル関係者たちは事態を甘く見て、こっそり自分たちだけで解決してしまおうと考えた。大清水トンネルは世界有数の山岳トンネルということで、その出来栄えを世界から称賛されたばかりだったのだ。火災なんぞで評判を落とすなんて冗談じゃない、なんとか公にせずに済まそう――というわけだ。
「よし、じゃあ俺たちが様子を見に行ってきます!」
というわけで、2名の作業員だかが空気呼吸器を装着してトンネルに入って行った。さあ、彼らの命運やいかに。
シーン。
まるでドラえもんの「ドロボウホイホイ」である。彼らは途中でボンベの空気を使い果たし、帰らぬ人となったのだ。
もはや公にせずに済ますとかいうレベルではない。ここでようやく消防に連絡がなされた。
さっそく工事関係者による対策本部が設置され、特別救助隊が編成。このメンバーには群馬県沼田市の沼田消防署員たちも含まれていた。この消防署には、当時としては画期的だったレスキュー専門の小隊もあったのだ。頼もしい限りである。
ところが、打つ手はもはやなかった。とにかくトンネルの状況があまりにひどく、いかなレスキュー専門部隊でも中に入れば二次災害は必至である。待つしかなった。
もちろんその間、手をこまねいていたわけではない――と書ければいいのだが、本当に手をこまねいているしかなかった。一度はちょこっと中に入り、例の後から入った2名のうちの1名を助け出した(後に病院で死亡)が、結局10時間もの間、それ以上のことは何もできなかった。
煙が薄くなったのは夜明け頃である。
それからさらに午前10時まで待って再び中に入り、もう1名の遺体も収容。それでもやはり、最初に遭難した14名の救助までは無理だった。
言うまでもなく、トンネル内もめちゃくちゃである。火災の熱によって落盤は起きるわ、水は噴き出すわ、土砂で埋まるわで、せっかく掘ったのに散々である。おまけに天候も雪になった。
ようやく本格的な救助活動が始まったのは、22日の21時30分のこと。消防隊、警察、建設会社社員の計140名の大捜索隊がぞろぞろとトンネル内に入っていった。
「ところでこのトンネル、ダイナマイトが950本あるんですよ。大丈夫ですかね?」
この期に及んでそんなことを言い出す奴もいたが、幸いにして二次災害は起きずに済んだ。
遺体は、23日の午前の段階までに全てが収容された。
その後、補償などがどうなったのは不明である。だがとにかく、この大清水トンネルを今も上越新幹線が行ったり来たりしているのはご承知の通りである。今までこのトンネルを通過した人のうち、一体何割がこの事故のことを知っているのだろう。
☆
ここからは、完全な余談である。
筆者は本業の関係で、年配の人々と話をすることがよくある。そうした人たちの中には、高度経済成長期に関東圏へ出稼ぎに行き、建設現場や工場で働いていたという人も少なくない。
その人たちと話していると、「もしかするとこの人が事故の犠牲になっていたかも知れないんだな」と思う。そして同時に、実際に事故で亡くなった人の中にも、郷里で待つ家族がいたのだろうなとも思ってしまうのである。そうなると、すべての事故がなんだか他人事ではないような気になる。
当研究室で「あてにならない参考文献」としてケチばっかりつけている『なぜ、人のために命を賭けるのか』という書物があるが、これに印象深いフレーズがあった。「決まって、犠牲者は現場の弱者」というものである。
それを読んだ時には、まったくその通りだとつい頷いてしまったものだ。事故災害の歴史は、犠牲になった弱者の歴史でもある。そうした名もない弱者の鎮魂も兼ねて、筆者はキーボードを叩く次第である。
【参考資料】
◆失敗百選
◆中澤昭『なぜ、人のために命を賭けるのか』近代消防社・2004年
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