みんなでごはんをたべていたら、となりのおじちゃんが「どこかがかじだぞ。」とあわててはいってきました。
わたしはごはんをはんぱして、みせの二かいにいって空をみました。グリーンハウスから火がでていました。
おじいちゃんが、ごはんをはんぱして
「おれ、みいてくっさげの。」とでていきました。
どうろにでてみると、空がまっかで、すごいかぜです。
きんじょの人たちは、車ににもつをいっぱいつんでいる人や、あたまの上までしょって、はしっていく人がいっぱいです。そのべさんの車には、じてんしゃをいっぱいつんで川ばたのほうに はしっていきました。
おじいちゃんもかえってきてうらにおちてくる火のこをふくでたたいていました。
そのうちに、ジャンパーの男の人が
「ひなんせー」
と大ごえではしってきました。おばあちゃんが
「じぶんのものどご、かばんさいっでもてこい。」
といいました。わたしは、入学式に買ってもらった筆入れも入れました。お姉ちゃんは、このまえかってもらったさいふももちました。ことりのみみと、犬の、チロも、いっしょに車にのせました。
車のうしろをみると、どんどん火が、こっちのほうにきました。わたしは、はんぶんなきながら、もう、おうちはやけるな、と、おもいました。
おかあさんたちは、まだのこりました。
ゆう子おばあちゃんのいえにつきましたが、まっくらで、なんにもみえません。でんちでしましたが、だれがだれだかよくわかりません。カバンをおろして
「さとこねむて。」というと、
「ふとんしいてやっがらまってれよ。」
と、すぐしいてくれました。ふくのままでねました。
あさ、「さとこ、え、みなやけた。」
と、お母さんがいいました。わたしはなきました。ねえちゃんも、おかあさんもなきました。
おじちゃんから、車でがっこうへおくってもらいました。
とちゅう、とおるくんのうちも、さとみちゃんのいえもみかちゃんのいえも、みんな、やけていました。
※ ※
酒田大火。昭和51年10月29日の夕方から深夜にかけて、山形県酒田市の繁華街を舐めるように焼き尽くした火災はそう呼ばれている。
火元は、当市の繁華街である中町にあった「グリーンハウス」という映画館だった。
このグリーンハウス、少し検索して頂ければすぐ分かるが、当時の映画館としては日本一か世界一かと言われる程に名高いものだった。何せ中には喫煙可能な特別個室や十名限定のミニシアターがあり、さらに演奏会、ファッションショー、小演劇まで行っていたという。もはや映画館というよりも総合文化施設といった趣である。
映画産業が不振だった当時でも黒字経営を続けており、今でも山形県内では知る人ぞ知る伝説の映画館として語り継がれているこのグリーンハウス。しかしその末路は、街を焼き尽くした大火の火元という極めて不名誉なものだった。
時刻は午後17時40分。従業員が、ボイラー室周辺できな臭い匂いが漂い、停電が起きていることに気付いた。
それを支配人に報せに行ったところ、火災報知機のベルが鳴動する。火事だ! 支配人は消火器を手にすると、火元と思われるボイラー室に向かって駆け出した。
ところがボイラー室は施錠されており開かない。では2階から侵入できないかと試みるも、そちらも既に黒煙が充満していた。素人が消火活動を行うには余りに危険な状況である。
「火事だ! 消防に電話してくれ!」
支配人はそう大声で指示を出し、窓から避難している。
いつもの当「事故災害研究室」ならば、ここで誰それの通報が遅かっただの、初期消火の手際が悪かっただのとケチをつけるところである。だがこの後、町全体が消し炭と化した恐るべき事実に比べれば、そんなのはもはや瑣末事であろう。
グリーンハウス自体の火事は、確かに初期消火にもたついている内に通報が遅れた。だが避難誘導はきちんとされているし、出火原因についても誰かの過失は認められなかったのである。最後まで原因不明で、消去法で「漏電じゃね?」という程度の結論に落ち着いただけだ。
街全体が焼けたのは、端的に言ってそれを食い止められなかった消防と、消火設備の不備のせいだろう。
そうそう、それに当時は天候も災いした。この日の山形県は、冬型の気圧配置の影響で荒れに荒れた。内陸部では初雪を観測している。そして酒田市のような海沿いの地域では、一日中強い季節風が吹き荒れていた。
17時50分。通報を受けた消防は早速出動した。初めはグリーンハウスの火災も大したものには見えず、彼らは建物内での消火活動を試みる。
「なんだ、これなら消せるぜ!」
と、そこまで舐めてかかってはいなかったと思うが、しかし事態は思いも寄らないことになる。風でも吹き込んできたのか、間もなく急激に炎と濃煙と熱気が押し寄せてきた。これでは屋内での消火活動は不可能である。隊員達は堪らず外へ出た。
ところで、消火の態勢には、「攻撃」と「防御」の二つがある。
「攻撃」とは、徹底的に炎に攻撃を加えて消すこと。「防御」とは、迫り来る炎から延焼を阻止することだ。この火災では、グリーンハウスの中へ攻め込んで消火を行うことが出来なかった。そのため隊員達は、「防御」の態勢で臨むしかなかった。
しかし、この段階で雲行きが怪しくなってきた。グリーンハウスの風下には木造二階建てのビルが数件あり、しかもそれらは密集した状態で建っているのだ。
「このままだと延焼するぞ。何としても食い止めろ!」
消防隊員と消防車はグリーンハウス周辺の一角を取り囲み、屋根の上にまで上って放水を始めた。
ところが、である。強風に煽られた火炎は物凄い勢いでグリーンハウスを焼き尽くし、火炎はたちまち消防隊員たちに襲い掛かってきた。トタン屋根も焼けた鉄板と化し、上っていた隊員もアチ、アチ、アチチと下りらざるを得ない。火力はちっとも弱まらなかった。
何故だ。何故放水しているのに火が消えないんだ!
その答えは簡単だ。風が余りに強すぎて、水は噴射した先からバラバラと飛び散るばかりだったのだ。これでは消火の役目を果たせない。
火の粉も凄まじかった。地面といわず中空といわず覆い尽くし、消防隊員たちの視界を遮るのだ。まるで吹雪だ。
いや、視界を遮るだけならまだいいが、煙と熱気とのコンビネーションで隊員達は息も出来ない。目も痛くてとても開けていられない。もはや消火どころの話ではなかった。
こうして、延焼を食い止めることは遂に叶わなかった。物凄い強風によって火の粉と火の玉が飛散し、主として木造の建物に次々に燃え移っていく――。
大火事である。
サイレンがけたたましく鳴り響く中、消防隊は非番の職員も駆り出して戦力増強していった。
しかし皮肉なことに、増えれば増えただけ、消防隊員たちは火炎によって翻弄されていった。
「おい、こっちに燃え移るぞ、ホースを伸ばせ!」
「届かないっす」
「だったら他のホースを繋げ」
「みんな使っちゃってます!」
カンカンカン、ウーウーウー。野次馬も集まり始め、皆さん危険ですから近寄らないで下さい! 消火の邪魔になります! 近寄らないで下さい!
「他の消防車をこっちに移動させろ、応援を呼べ!」
「こっちって、どっちですか!? あっちもこっちも燃えてます」
「うわっまた火がついた!」
「危ない、そこの消防車こっちに来るな! 今その建物に火がついた! さっさと移動させろ」
ビュゴオオオオオ。またしてもとんでもない強風だ。消防の放水も火の粉も一緒くたになって、隊員や警官や野次馬に降り注ぐ。
今消せすぐ消せ
ビュゴオオオオオ。今時こんな風に擬音を活字で書く、あかほりさとるみたいな作家っているのかな。とか思っている間に今度は風向きが変わってさあ大変、ビュゴワアアアアア!
「うわっ火の粉が目に入った、あぢぢ!」
「ぎゃあ、ホースが焼き切れた」
「お前らぼやぼやするな、そこの火を消せ、次は後ろだ、それから右も、左も、それが終わったらこっちに来い!」
「了解、ただいま」
「いや待てあっちの火勢が強い、やっぱりあっちに移動しろ! と思ったけどこっちだ、くっそー熱い!」
「おい崩れるぞ、逃げろ!」
こうして酒田の冬の空は真っ赤に染まった。出火から20分ほど経った18時頃の段階で、火の粉は1キロ先の酒田駅にまで飛来したという。
真っ赤
さて少し遡って、17時53分に通報が入ったばかりの山形県警では、厳戒態勢を敷くよう即座に県内の警察署に指示を出していた。なにせ当時の酒田市には強風波浪注意報と海上暴風警報が発令されていたのである。タダで済むわけがないという予感があったのだろう。
「全署員出動せよ! それから山形、天童、寒河江、村山、尾花沢、新庄、余目、鶴岡、温海の各署にも応援を要請し、全警官に待機命令を出せ。おっと、それから機動隊もだ――」
いやはや。こりゃ県警も本気である。山形県民でなければピンと来ないかも知れないが、山形県の上半分の地域の、主たる警察署が全て応援要請を受けたことになるのだ。またその後、秋田県側からも応援が駆けつけている。
もしかすると「大袈裟だなァ」と思った者もいたかも知れない。だが後で考えれば、この厳戒態勢は実に適切だったわけだ。この頃には、グリーンハウスから出火した火炎は、周辺の木造の建物に次々に延焼し始めていたのである。
18時10分には、酒田市警察署も現地警備本部と「酒田市繁華街大火災警備本部」を設置。グリーンハウス付近の交通規制を行い、付近の住民には風上へ避難するよう広報と誘導を始めている。
18時30分。もはやこの火災は「何件かの建物が焼ける」程度のものでは無くなっていた。グリーンハウス周辺の建物をねぶり尽くした火炎は、いよいよ「建物単位」ではなく「街区単位」で延焼する様子を見せ始めたのだ。
きっかけは、鉄筋コンクリートの「大沼デパート」に炎が入り込んだことだった。加熱のため破壊されたデパートの窓から火が進入、5階の窓から火炎放射器のような勢いて噴き出し始めたのだ。
大沼デパートによる火炎放射
これも原因は「風」のせいだった。5階の東西の窓が破れていたため、風通しが良くなってしまったのだ。
大沼デパートは、中町通りという大通りに面して建っていた。それが炎を噴出したことで、火の粉、火の玉が通りを越えて飛散したのである。
これにより、通りを挟んでデパートの向かいにあった建物に順次着火。19時30分には、消防はこちらの街区の延焼を食い止めるべく包囲しながら消火を行うが、またしても火勢が強くていかんともしがたく、撤退戦を余儀なくされた。
そして今度は風向きが変わる。グリーンハウスから大沼デパートを経て、北へ北へと移動していった炎が、今度は東へ流され始めたのである。
しかも、一度北へ流れた炎がまた南へ戻ってきて、大沼デパートから遠回りする形で他の木造建築に延焼したからたまらない。せっかくなので、当時の延焼の順序を矢印で示したものをここに挙げておこう。
ひどいものである。
「ああもう、何とかしてくれ!」
きっと消防隊員も消防団員も泣きたい気持ちだったろう。炎は強風で煽りに煽られ、密集した建物の隙間に潜り込んでは、それらを舐め回した挙句、彼らに襲い掛かり消火活動の邪魔をするのだった。
映画館グリーンハウスから出火したこの火災が、いよいよ「大火」の様相を帯びて来たのはこの辺りからである。
☆ ☆ ☆
ところで「大火」の定義とは何だろうか。
これは結論を言えば、明確な定義はない。ただ、広範囲に渡って何件もの建物を焼いたものが大火と呼ばれているだけだ。
明治以降も、大学教授やら色々な組織やらがそれぞれ便宜上の定義づけは行っているようだが、定説になっているものはない。まあ要するに、一般的には「そんなことはどうでもいい」のだろう。
だが「大火」という言葉に込められた独特の情緒が、我々の間で共有されているのは、これもまた事実だと思う(そうでなければ「小火(ボヤ)」と「大火」という言葉の使い分け自体が起こりようがない)。
空が真っ赤に染まる。多くの人々が焼け出される。街が焼き尽くされてしまう。そしてパニック、騒音、飛び交う怒号…。仮に「大火」という言葉がこうしたイメージによって形作られているとすれば、酒田大火は確かに「大火」である。
もともと山形県酒田市という地域は「大火の名所」でもあった。
海沿いに発展した港町ということもあり、冬季にはシベリヤからの季節風がもろに吹き込んでくる。また湿度の低い3月から5月にかけてはフェーン現象とダシの風にも煽られる。一度失火すると極めて消火が困難なのは、昔からの伝統でもあったのだ。
しかも水利も悪い。もともと砂丘の上に作られた町なので、掘って水を引き入れるのが難しいのだ。
こんな調子なので、明暦から幕末に至るまでには68回の火災が起きており、そのうち45回は100戸以上が焼けているという。5年に1回は火がついている計算だ(ちなみに明暦以前はまともな記録が無い)。
今回ここで話題にしている昭和51年の酒田大火は、こうした酒田の火災史で見れば実に久方ぶりの「忘れた頃にやってきた人災」だった。それも全国的に見ても焼損棟数では戦後5番目の規模で、山形県としては最大のものだ。
さらに言えばこれは、地震による火災を除けば、カラーで撮影され記録されたものとしては日本史上最初で最後の大火である。
そんな大火
この大火の直後、酒田市では異例のスピードで街の復興が進められた。その手際の良さは、あの阪神淡路大震災の際にも参考にされたと言われている。
以上これらの点を考えると、この酒田大火というのは、近代以前の時代と現代とを災害史の軸の上で結びつける結節点として位置づけることが可能になると思う。
それまでは「大火」といえば、火災の古い一形態としてしか記憶されていなかったのではないかと思う。鉄筋コンクリートの建物が存在しない前近代的な地域でしか起こりえず、白黒写真でしか当時の状況を窺い知ることが出来ない過去の災害――ということだ。
これが戦後の現代社会で突如として蘇り、なお後世の災害対策でその記録が役立てられているのである。大火自体は不幸なことではあったが、このような形で一度丸焼けになってしまったのは、神様に酒田市が与えられたひとつの役割だったのではないか、という気もするのである。
とりあえず山形県民としては、このように酒田大火を持ち上げておきたい。話を戻そう。
☆ ☆ ☆
「火のたまがとんできた」一年 すず木 しげのり(新井田町)
そらが まっかになって、
ひのたまが とんできた。
しょうぼうしゃが水をかけても きえなかった。
ちかくの にいだ川が あかくなった。
みんなは、
「だめだ。」
といって にげた。
僕も、かばんやえんぴつけずりやおもちゃをもって、にげた。
おかあさんのともだちのうちににげた。
「ねれ。」
といわれたけど、ぼくは ねれなかった。
ぼぼぼぼぼっと やけたかじ、
おもいだすと おっかない。
おとうさんが おるすじゃなかったらよかった。
※ ※
市の職員がメガホンで呼びかけるなどして、市民はただちに避難するよう促された。
とはいえ、多くの人は、外の騒ぎを聞きつけて自主的に避難する形になったようだ。まあそれはそうだろう、外ではサイレン、野次馬のざわめき、人々の怒声、強風の音が錯綜していたのだ。これで非常事態と思わない方がおかしい。
道路上は、市民と、彼らの抱える荷物でごった返した。
しかし、皆が皆、素直に黙々と避難したわけでもない。警官が設けた立ち入り禁止区域に、強硬に入り込もうとする住民もいた。
「通してくれ、俺の店の商品が焼けちまう!」
「大事な家財道具を忘れてきたんだ、ちょっとでいいから戻らせてくれ!」
と、こんな具合である。警官達は全力で彼らを説得し、時には実力行使という形でもって対抗したという。
また消防活動そのものに対する要望も尽きなかった。
「家が燃える。もう2本消防のホースを入れてくれッ」
「この強風じゃ、水だけでは消せないよ。破壊活動をやって対処しろ!」
「400リットルの工業用油が保管してある。持ち出さないと危険だ~っ」
そりゃまあ、住み慣れた街が、そして我が家が、目前で焼けようとしているのだ。声を出さずに落ち着いていられるわけもないのだが――。
さらに、現場周辺ではデマが飛び交った。やれ火事場泥棒が出ただの、どさくさに紛れて婦女暴行を働いた奴がいただの、煙の中を白狐が飛んでいっただのと、いや、さすがにここまで来ると「少し落ち着け」とも言いたくなるか。
避難そのものは比較的スムーズに行われたとはいえ、現場はやはりこのように混乱の極みであった。
人々は、火の粉が飛び交う中を、命からがら公民館や小学校に避難した。とにかく火の粉がまるで吹雪のように舞っていたというのは、酒田大火を体験した多くの人が証言しているところである。
また火の粉のみならず「火の玉」も恐ろしい。いったん延焼した家屋が焼け落ちると、崩壊と同時に焦げた板切れや紙くず、ひどいのになると瓦屋根、雨樋、外壁、看板の破片などがコブシ大の火の玉になって飛び散るのである。それが強風によって町中にばら撒かれるのだから、一体次はいつどこに延焼するのか、予想できる者はもはや誰もいなかった。
「家やげだ人たち、グリーンハウス恨んでだがもの」
「ほんなごどね、しかたないもんだ」
人々は避難先でこんな風に言葉を交わしながら、恐怖の一夜を過ごすことになる。
ちなみにこの火災、一般市民の焼死者は一人も出ていない。素晴らしい成績である。
だが生き物の犠牲が全く無かったわけではない。
酒田市内の小学校が出した文集を読んだのである。そこには罹災した小学生たちの作文が掲載されており、このブログ記事でもいくつか引用しているが、例えばその中には避難する際に家を飛び出して行方不明になってしまった飼い猫の話があった。
また、一緒に避難は出来ないからと、逃げる際に別れを告げざるを得なかったペットの小鳥の話もあった。動物のエピソードに弱い筆者などは、こんな話でつい泣きそうになる。
一方で、これも避難の際に見捨てざるを得なかった飼い犬が、焼け跡できちんと生き残って飼い主の帰宅を待っていたという話もある。これはこれで感動してつい泣きそうになるとところだが、いや筆者の泣き所なんて別にどうでもいいのである。話を消火活動の方に戻そう。
大沼デパートに延焼した辺りから、戦況は泥沼化してきた。そんな中、消防隊員と消防団の面々は、とにかく消火の糸口を掴もうと躍起になっていた。
天候は、相変わらずの強風と雨降りである。雨水を吸った煤が街に散らばり、火の粉と共に宙を舞った。
20時頃には、延焼の勢いが一度は弱まった。何故かというと、大沼デパートの東にあったマルイチ中町マートという店の中に炎が入り込んだからだ。これは南北に長い建物だったので、火炎が中を通り抜けるのに時間を食ったのである。
とはいえ、それも決して火が消えたわけではない。マルイチ中町マートを通り抜けた炎は、結果として一街区を横断する形になり、通りを抜けてさらに向かいの街区へ進行していった。中町マートの中で消すことは出来なかったのだろうか? どうも腑に落ちないところである。
全体的に見ると、炎は最初は出火場所から北東の方へ広がり、そこから一気に東へと拡大している。つまり風向きの関係でそういう進路になったわけだが、東への進行が確定的になったのは、飛び火によって中町一丁目への延焼着火が始まった頃からだった。
こんな按配
まだ戦いは始まったばかり。ここからが本番だった。これからこの大火は、ここまで焼けた範囲のさらに数倍の面積を焼き尽くすことになるのである。
「駄目だ消えない。こんな火事、どうやって消すんだ」
なんだか、こんな嘆きの声が聞こえてきそうな状況である。
消火なう
消防関係者の疲労も著しかった。
例えばこの時、消防団は酒田市のほぼ全域の団員が出動している。だがまさかこんな状況になるとは思わず、軽くはんてんを引っかけた軽装で出てきた者も多かった。
皮肉なものである。長時間の降雨はちっとも消火の足しにならず、薄着の消防団員を凍えさせるばかり。かと言って街を焼き尽くそうとしている炎で暖を取るわけにもいかないのだ――。
また、実際的に消火活動を行っている消防隊の面々も、負け戦の泥仕合で疲弊もいいとこである。
まず問題は、町中のそこいらに飛び散った火の粉や火の玉である。奴らは建物の看板の陰や、屋根の低い部分に、まるで伏兵のように潜り込んでいるのである。消防隊は屋根から屋根へと梯子をかけながら、それらを片端から消して回った。
では消火のための水は足りていたのかというと、これも駄目。とにかく水が足りないのである。
住民に水の使用を控えるよう呼びかけもしたものの、とにかくあっちで放水、こっちで放水をしているものだから結局は共倒れになる。
放水なう
目をやられる者も大勢いた。火災発生から1、2時間の間にほとんどの人間が目をやられ、激痛でとても開けていられない状態になったのである。
まあ映画の『バトル・ロワイアル』の桐山和雄程ではなかったにしろ、しかし火災にはある程度慣れているはずの消防隊も経験したことがないようなひどい症状だったという。指で瞼をつまみ上げないと物が見えない上に、水で目を洗おうものなら飛び上がる程に痛むのだ。
目をやられた者はとりあえず病院送りになった。症状は輻射熱と火の粉による結膜炎。麻酔薬入りの目薬によってやっと症状は和らぎ、治癒するまでそう長くはかからなかった。それでも今度は煙が目に入らないよう、放水に際しては腹這いにならざるを得なかったという。
駐車場に停めてあった車も、処置が大変だった。ガソリンに引火すれば爆発は必至なので動かさなければならないわけだが、持ち主が既に避難し施錠もされているとなれば、もう手で動かすしかない。これは消防団や消防隊がひとつひとつ行ったという。
タチが悪いのは、野次馬が乗り捨てていった車である。とにかく無造作に放置してあるので直接的に消火の邪魔になり、このへんはもうガラスを割って移動させるしかなかったそうな。
また消防以外にも、火災対応で尽力した者は大勢いた。例えば家々に備え付けられたプロパンボンベは、火災発生と同時にただちに業者が回収。回収し切れない分も、爆発だけはしないよう処置が施されたという。
おかげで爆発による二次被害は無かったという。……が、これは正直なところ誰に分かるものでもないような気がする。炎に包まれた家屋で爆発による二次被害があったとしても、近くでその様子を確認出来るものは誰もいないのだ。現に、各家庭の灯油の買い置きやボイラー用の重油が、この大火にどのくらい影響したのか、その点は確認されていない。
それから、東北電力も頑張った。どうも消防だか警察だかから「街を出来るだけ停電させないでくれ」と要請があったらしい。停電すると避難する人々が不安になるからだ。
ああくそ面倒くせえなあ、という声が聞こえてきそうだが、この夜東北電力酒田営業所の従業員達はぎりぎりまで電柱で粘り、焼けそうになった区間からひとつひとつスイッチを切って回ったそうな。
しかし電柱の変圧器が火災によって次々に爆発したという証言もあり、この東北電力の従業員達も命がけだったことが分かる。
さて寒さと疲労、長時間の泥仕合と来れば、次の問題は「空腹」である。
消防士A「あー先輩、白鳥が見えます」
消防士B「どうした大丈夫か! まだ消火活動は続いているんだぞ、しっかりしろ!」
消防士A「おなかすいた、なう」
消防士B「呟いてんじゃねえ!」
などというやり取りはさすがになかったと思うが、真っ赤な炎の白鳥が空を舞う幻影を見た、という警官は実際にいたらしい。
まあそれは余談である。とにかく空腹では士気も下がるし機嫌も悪くなる。消防団の分団によっては、食事と着替えのための一時帰宅を許されたところもあったし、また農協の婦人部では千人分の炊き出しも行ってくれたという。さすがは農協。
「やれ、若いしゅドゴ、めじょけねちゃ。若いうちだばすぐ腹減るもんだでば、めじょけねちゃ」
これは、消火活動にあたる人々に、お握りや茶の差し入れをしてくれた菓子屋のおばさんの言葉である。ちなみに「めじょけねちゃ」とは「可哀想だ」という意味である。
この差し入れを受けた警官は、泣いた。
21時頃になると、火災は商店街の建物を順繰りに燃やし始める。
酒田市一の繁華街・中町通りは、アーケードによって飾られた近代的な造りをしていた。だが酒田大火ではこのアーケードが完全に仇となった。アーケードの上を先兵として炎が走り、それに続いて、アーケード下で露出した可燃物に着火するという二段攻撃を食らってしまったのである。
恨みのアーケード①
もともとアーケードそのものが放水の邪魔だったのに加え、商店街はどの店もシャッターを下ろして施錠している。まあ夜だし、人々は避難しているのだから当たり前なのだが、そのせいでアーケード上に上る方法が極端に制限されてしまった。さらに看板も邪魔だし、例によって風は強いし水は少ないのである。
恨みのアーケード②
22時頃には、火炎は中町通りと内匠(たくみ)通りという二本の道路を、強風に導かれるようにして流れていった。
この二本の火炎流は、交互に火の勢いが入れ替わったり、またある時には交わったりしながら、23時頃までに中町、浜町、新井田町へと延焼していった。
消火活動の最高指揮者も、普通のやり方ではこの火災は到底鎮火できないと判断。何とか延焼を食い止めるため、例えば火炎が流れていく方向に対して横から放水を行うなどの方策を取っている。
だが先述したように水は足りず、隊員も団員も疲労困憊、ホースは足りない、さらに延焼の範囲が広すぎて命令も上手く伝達されず、効率は下がる一方だった。
そして実は23時ちょうど、消防本部ではある決断が下されていた。
「破壊消防」を行うことが決まったのだ。
破壊消防とは何か。それは、炎が延焼するのを防ぐために、燃えやすそうな建物を前もって重機で破壊する方法である。
つまり、火炎に真正面から立ち向かってももはや勝ち目はないと判断されたのである。
もちろん、これは一般市民の目から見れば素直に許容できる話ではない。
「消火そのものを諦めて、俺たちの家をぶっ壊すのか!」
まあ当然、そういう意見も出てくるわな。しかし、だからこそ「決断」なのである。これ以上この大火の拡大を抑えるにはそれしか方法がない。それ以外の方策を取るには我々は余りにも無力だ――。これが消防の結論だったのだ。
さらにもうひとつ、決断が下された。
火の手は強風によってなおも煽られている。だがその先には、ちょうど火炎の進行を妨げる形で、新井田川という川が南北に伸びているのである。
「新井田川の堤防に消防隊を配置せよ。そして放水によって水の幕を作り、火の粉の飛散を止めるのだ」
「それでも防ぎ切れない飛び火があったらどうします」
「さらに後方にも消防隊を配置する。川向こうの市民にも協力を仰いで、飛び火に対する警戒態勢を敷け。絶対に、新井田川を越えた先では火災を起こさせるな!」
新井田川は、消防隊にとっては最初にして最後の「地の利」だった。この川は火災の進行方向に対して垂直に横切る形に流れているし、何よりも水が豊富にある。ここで消せなければ末代までの恥。踏ん張りどころである。
かくして深夜の12時を回った頃から、最後の防衛戦が始まった。
まずは破壊消防である。中町通りを進行し、浜町、寺町へと流れていった火炎が内町という地区に至ったところでそれは行われた。消防隊が、これはもう駄目だと判断した家屋がショベルカーで破壊される――。
次は新井田川である。遂に火の粉と火の玉は、川向こうの東栄町、若浜町、緑町方面へと飛散し始めていた。川に程近い一番町と新井田町に火がついたのだ。
まったく、止まるところを知らない、とはこの火災のことである。
一番町と新井田町は、たちまち火の海になった。大火が海なら、新井田川に迫り来る火炎は、言うなれば高潮か津波のようなものである。
くだんの高潮か津波(右下の水面が新井田川)
火の手が目前に迫る新井田川南岸。そこに40台の消防車が配置され、火の粉封じの一斉放水が行われた。
さらに折からの激しい雨も手伝って、さしもの火災もようやくその勢力を弱めていく。やい消えろ、いい加減に消えやがれ――!
こうして酒田大火は、遂に新井田川を越えることはなかった。時刻は午前4時。対岸への延焼の危険は、完全になくなったように思われた。
そしてさらに、午前5時にはやっとのことで鎮火。
およそ10時間に渡って家々を焼き尽くした怪物は、夜明けを待たずに消えたのだった。
焼失面積は22万5千平方メートル。焼けた建物は1767棟、被災者は約3,300名。被害総額は405億円と、気の遠くなるような被害状況である。
焼け跡はまるで空襲のような有様だった。焦土と化した街に、信号機やアーケードの骨組みだけがぽつんと立っているのである。翌朝、焼け出された人々は、雨の中で傘を差しながら、変わり果てた街を見て回った。
ずっと先に大沼デパートが見える
「やあ、やっと消えた。さて、これからどうしよう?」
「馬鹿お前、これからが大変なんだよ」
そう。そうなのである。街がまるまる一個、しかも市一番の繁華街が焦土と化したのだ。ここから酒田市が人々の生活の場として復興を遂げるまでは、およそ3年の月日を俟たなければならない。
☆ ☆ ☆
「やけあと」二年 とよだ たけはる(新井田町)
やけあとにいきたいなあ。
どんなふうになっているか、いきたいなあ。
ぼくは、やけあとをいちども見ていない。
僕は、心で思った。
僕の家はどうなっているかな、
あとかたなく、せいりされているかな。
やけあとは、せいりしてあって、
一けんか、二けん、おみせがたっただろうな。
やけあとを通りたいなあ。
でも、おかあさんはいそがしくて、
つれていってくれない。
だか、ぼくは、いつも、心で思う。
心で思えばそこへ行かなくてもいいんだ。
※ ※
さて。この火災のその後について、2、3書き記しておこう。まずは負傷者と死者についてである。先に筆者は「この火災で一般市民の死者はいない」と書いたが、実は一般市民ではない、消防関係者で1人だけ死者が出ている。いわゆる「殉職」だ。
名前を挙げておこう。当時の酒田地区消防組合消防長・上林銀一郎氏である。享年57歳。
上林氏
筆者は消防の組織についてはさほど明るくないが、消防組合の消防長と言えば重要ポストである。この上林氏、出火直後からその所在が不明になっており、現場では若干の混乱があったのだ。
氏が発見されたのは火災から2日後のことで、場所は火元のグリーンハウスだった。遺体は完全に炭化していたが、所持していた腕時計や家の鍵などから、本人と確認されたという。
そう、氏はかなり早い段階から火元へ駆け付けていたのだ。
火災の知らせを受けてヒッチハイクで現場に到着していたことも、後になって判明している。
そしてどうやら、取り残されている人がいないか確認すべくグリーンハウスに入り、倒れて来た機材の下敷きになったらしい。あるいは、先に煙を吸って倒れた可能性もありそうだ。
余談だが、以前酒田市に住んでいた時、「あの消防長は責任感の強い人だったから、大火災になった責任を感じての自決だったのではないかと言われている」という説を聞いたことがある。
それを聞いた筆者の感想は「そんな馬鹿な」だった。町全体が焼けるのはこれからだという段階で、責任感から自殺する奴がおるかい。本当に責任感があるなら、消防長なんだからそのまま消火活動の陣頭指揮を取るだろう。
あえて言うが、この上林氏の死は紛れもない不慮の事故であり、あってはならない事故死だった。殉職という言葉の響きに騙されてはいけない。
負傷者は100名以上に上ったが、入院を余儀なくされたのはその内の29人である。さらにその内20名は、火災に巻き込まれた医院から移送されてきた患者達で、今回の火災が原因で入院したのは僅か9名に過ぎなかった。
なんか、被害全体に対する負傷者数の規模の小ささを見ると、先述の殉職した上林氏だけが貧乏籤を引いたような感がある。やっぱりこの人、責任感はあったんだろうけど、燃え盛る火災現場に一人で進入するのは良くないよ。そこは教訓だろう。
ところで、酒田大火は否応なく世間の注目を集めた。山形県の田舎町とはいえ、とにかく近代都市の繁華街がまるまる一個焼けてしまったのだから当然だろう。
だが一方で、「焼けなかった」建物にも注目が集まった。
酒田大火では、デパートなど耐火構造の建物も焼けている。外壁は無事でも中身が焼き尽くされるという、「それって耐火でも意味無くない?」みたいな状況があったのだ。ところが完全に火の手を逃れ、外壁はやられても中のものは完全に無事という建築物があったのである。
ひとつは「土蔵」だった。
酒造所や、茶・漬物の販売店では、商品を土蔵に入れて保管していた。そして火の手が回ってきた時に、保管物を守るために、ある対策が取られた。
それは、水の入った容器(バケツやコップ)を土蔵の中に置いておいて、後は完全に閉め切ってしまうというものだった。
なるほど。これで、土蔵が火炎に包まれても、中が乾燥することはまずない。よって熱による着火もしにくくなる。そして土蔵はもともと昔ながらの耐火作りなので、外壁も安泰である。
鎮火の後、外壁の焦げた土蔵を開けてみたところ、中は蒸気がこもっていたが商品は無事だったという。
もうひとつ、この大火を無傷で凌いだのが、酒田市一の豪商・本間一族がかつて住んでいた「本間家旧本邸」と呼ばれる建物である。
この家は、東西南北を塀や土蔵や樹木、神社の敷地、駐車場、お堀、大通りに囲まれていた。まず、このように建物が密接していない上に、風上に対しては二重三重のガードをかけていたのが、延焼を免れた第一の理由だった。
面白いのが「樹木」である。樹木なんてすぐに焼けそうで、かえって延焼しそうで危ない気もするが、ところがそうでもないのだ。枝や葉が生い茂っていると、たった一本の樹木でも全体の表面積はかなり大きくなる。よって少々の火の粉では簡単に燃え広がらないのだという。
また第二の理由として、火炎がうまくこの本間家を避けてくれたということも挙げられる。延焼するぎりぎりの位置にあったにも関わらず、火炎が流れてきて枝分かれを起こした箇所のちょうど分岐点にあったのが幸運だった。
本間家では風上に対して塀・樹木・土蔵を備えていたので、風に乗って流れてきた火炎も、そこで分岐せざるを得ない形になったとも言えるかも知れない。雪崩防止の
分流堤のような形になったということだ。
面白いというか皮肉というか。近代都市を焼き尽くした古式ゆかしい「大火」に対して勝利を収めたのは、近代消防設備ではなく、昔ながらの火災防止の知恵だったのである(本間家が建てられたのは江戸時代)。
この本間家旧本邸は、今では酒田市屈指の観光名所になっている。
さあ、長かった酒田大火の概要も、ようやくこの辺りでひと段落である。
この火災は個人的に思い入れがあるので、短くまとめることは出来なかった。小学校の時、社会科のテキストにまで写真と記録が載っていた「酒田大火」。まさかそれから20年余りも後になって、自分がこんな文章を書くことになるとは思わなんだ。
酒田市はいっとき住んでいたことがある。
延焼を食い止めた新井田川の川沿いの道路も、かつて火炎が通り抜けて消防隊を翻弄した繁華街も、何度も車で通った。
ただ、あの頃はここまで事故災害への感心は高くなかった。だから、火災の記録と重ね合わせながら街の様子を記録するようなことはしなかった。これは今にして思えば勿体無かったと思う。
よって見に行くこともなかったのだが、繁華街には火災にちなんだモニュメントもあるし、大火関係の記録物を集めた資料館もあるのだそうだ(詳細は参考資料のリンク先を参照のこと)。次に機会があれば、どちらも是非この目で確かめてみたい。
ちなみに、かつて大火によって消し炭と化したこの繁華街は、やはり区画整理と復興工事によって実にハイカラに生まれ変わった。今見てもなかなか味わいのある街並みである。
だが田舎の中都市の悲しさで人通りはあまり多くなく、閑散としていることが多い。例によってシャッターの閉まっている店も多かったと記憶している。
もともと酒田という都市は、オリジナリティ溢れる独自の文化を築き、外に向かって発信することを得意とする伝統があった。先述した、大火の火元である「グリーンハウス」などはその一例である。また地元発のアイドルユニット「SHIP」とか、普通の田舎町ではなかなか出来ないことをやってのけた歴史もある。
それは、町そのものが海に向かって開かれているお陰もあっただろう。新しい文化を抵抗なく受け入れ、自家薬籠中のものとする文化的土壌があるのだと思う。
だが現在の酒田の繁華街は、国道7号線沿いなどのかつての郊外地に分散してしまった。その辺りの事情は日本全国の田舎の中都市と変わりない。その原因の全てが、酒田大火そのものや、その後の都市復興計画の失敗にあったかどうかは分からない。だがとにかく、この火災は、酒田市という町の歴史にとってはひとつの節目になっている気がするのである。
ちなみに最後の蛇足になるが、文集を読んだことは先述した。罹災した家の小学生達の作文を集めたものである。
子供が素直な感性で書いているからか、グッときて泣けるものも多い。下手なルポよりも臨場感があるので、今回のルポでも演出のために既に何作か引用させて頂いたが、最後もこの文集からひとつ、引用させて頂こうと思う。
「ひっこし」二年 伊藤あき(二番町)
きょう、ひっこしをした。
家をかりたのだ。
とても いい家だった。
おとなの人は、あせびっしょりになって
「よいっしょ。」
「よいっしょ。」
いろいろなものを はこぶ。
わたしは、
「やったあ。
家だ、家だ。」
と いった。
その日、一日おもしろかった。
あたらしいお友だちも
たくさん
できると いいな。
【参考資料】
書籍
◆『酒田大火の記録と復興への道』
◆『酒田大火復興建設のあゆみ』
◆『酒田大火 学校文集「海なり」別冊特集号』
◆『昭和51年10月29日酒田大火の概要』
◆『もう一つの地域社会論 酒田大火30年、「メディア文化の街」ふたたび』
Webサイト
◆ウィキペディア
◆酒田市「酒田大火について」
◆酒田河川国道事務所HP
※その他、本稿のリンク先のサイトなども参照させて頂きました。
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