◆大洋デパート火災(1973年)

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 昭和48年11月29日のことである。晩秋の午後、テレビを観ていた人々は、たちまちそのニュースに釘付けになった。熊本の大洋デパートで火災、今なお炎上中。死者20数名――。

 多くの人は「またか」と思ったに違いない。この前年には大阪ミナミでいわゆる千日デパート火災が起きており、さらに済生会病院火災、高槻のスーパー火災、旅館やホテルの火災など、日本各地で建造物火災が相次いでいたのだ。

 間もなく映し出された、炎上する大洋デパートの様子は凄まじいものだった。この当時の画像は、今でも様々なインターネットサイトの動画や写真でも観ることが出来るが、窓という窓からもくもくと噴き出してくる濃厚な煙はまるで何かの怪物のようだ。スティーヴン・キングの短編に『灰色のかたまり』というのがあるが、大洋デパートの煙を見るたびに筆者はそれを思い出す。

 地元熊本地方の住人達も、このニュースには驚かされた。なにせ大洋デパートといえば当事の熊本では知らない者のない有名デパートだったのだ。当事、熊本市民は市街地へ出かけることを「大洋へ行く」という程だったという。

 ある者は、上空を飛んでいたヘリコプターを目で追って火災を知った。またある者は外出先から帰ってきてテレビを付けて初めて知った。テレビを観ながらおやつを食べていた娘が突然泣き出し、様子を見に来た親も驚いて、テレビの前で抱き合って震えていたというエピソードもある。慣れ親しんだ有名デパートでの惨事に、熊本の人々は慄然とした。

 だがそれでも、ほとんどの人は想像だにしなかったに違いない。よもや、これが戦後最悪クラスの火災事故として歴史に名を残すことになろうとは――。

 中継ニュースにより報道される犠牲者数は、40名、60名、90名と時を追うごとに着実に増えていった。デパートの常務はこの間、建物の裏口から続々と搬出される遺体を出迎えていたが、やがて「もう堪忍して」と言い失神したという。

 皮肉にも、当事の大洋デパートには「秋の火災予防運動週間」と書かれたアドバルーンが浮かんでいた。そんな中で、最終的な死者数は103名にまで及んだこの火災。一体この大洋デパートという場所で何が起きたのだろう。

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 大洋デパートが、当事の熊本では知らない者のない超有名デパートだったのは先述の通りである。

 設立されたのは昭和27年10月。場所は熊本市の中心部の繁華街で、当事の一等地である。ほぼ20年間の営業を通して、熊本県内第二位の規模にまで上り詰めた。

 しかし火災が起きた昭和48年頃ともなると、中央のデパートやスーパーがどんどん地方へ勢力を広げるようになってきた。順調な景気に支えられての進出である。熊本もまた、その例外ではなかった。

 この年には、大洋のライバル店である鶴屋百貨店は増床中だったし、さらに翌年には売り場面積33000平方メートルの新しいデパートが市内で開店する予定だったのだ。こちらは伊勢丹と福岡の岩田屋という店が連合して進出してきたもので(因みに鶴屋百貨店も伊勢丹だったという)、いかな大洋でもこれはうかうかしていられない。経営陣は焦っていた。

 そのような次第で、大洋は三越と提携することに決めた。

 このように中央大手の系列化に置かれた百貨店は、大手同士の競争をそのまま地方で再現する「代理戦争」の形に突入することになる。

 この「戦争」を生き残るために、まず最初に大洋が手を付け始めたのが、店舗の増築と改装である。

 もともと大洋は、売り場面積だけを見ても県内では二番目の規模だった。そこへ、さらに隣接地のビルを借りて別館として増設することにしたのだ。この工事が完了すれば、本館の売り場面積14300平方メートルに加えて、プラス9000平方メートルの別館を持つ大百貨店が完成するはずだった。

 ところが、ここで問題が発生する。消防法や建築基準法との絡みだ。

 大洋デパートが設立されたのはもう20年以上も前のことだった。当事に比べると法制も大分強化され、今になって増改築を行うとなるとそちらの基準に合わせなければいけなくなる。するとスプリンクラーや排煙装置の設置の必要が生じ、費用がかさむのである。

 実は、大洋デパートはこうした設備が存在していなかった。地元の消防局からも「極めて危険な建物」と見なされていたのである。

 少し、当事の社会背景を振り返ってみよう。

 先述したが、この時期は高層ビル火災が社会問題化していた。まず韓国で1971年12月24日、ソウルの大然閣ホテルで火災が発生し163名の犠牲者が出た。これはまだ対岸の――文字通り――火事だったのだが、それに呼応するように日本でも千日デパート火災が発生。これは日本火災史上最大の死者数を出すに至った。

 それで消防庁も事態を重く見て、スプリンクラーの設置、火災報知機の設置強化、避難誘導計画の徹底などを各デパートへ向けて指導。さらに、自治省消防局は消防法を一部改正までしている。改正内容は以下の二点だ。

「増改築や新設のビルの場合、スプリンクラーの設置基準を、従来の総延べ面積9000平方メートル以上から六千平方メートル以上にする」。
「収容人員30人以上のビルは、自主防火体制として各自消防計画を立て各消防署の指導のもとに避難訓練を行う(これまでは50人以上)」。

 これらが全ての高層ビルで実現すれば、大洋デパート火災は発生しなかったかも知れない。だが困ったことに、法律の世界には遡及適用の禁止と言う原則があるのだ。その法律が作られるよりも以前のケースにまで遡って、法律を適用させることはいけないのである。

 つまりこういうことだ。例えば「飲酒運転をした者は死刑」という法律が出来たとしても、その法律が出来るよりもずっと前に飲酒運転で摘発された人には、それは適用させられないのである。法律とは、あくまでもその法律が存在していた時の事態にのみ適用される。これが「遡及適用の禁止」ということである。

 するとどうなるか。消防法をいくら改正しても、改正前に建てられた建造物には適用出来ないのである。適用可能になるのは、その建造物を新たに増改築する時だけだ。

 このような形で法律の適用をすり抜けたものを、今はあまり使わない言葉で「既存不適格」と呼ぶ。

 さらに消防法の改正には猛反発が起こった。設置しなければならない防災設備が多く、あまりに費用がかかり過ぎるというのだ。結局個別の現場では、法令で定められた基準の内いくつかをクリアすれば良いという妥協があったり、査察に来た消防署員に「おみやげ」を渡して見逃してもらうといったこともあったようである。

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 さて、大洋デパートである。

 もう言うまでもないが、昭和27年に建てられたこのデパートは既存不適格もいいとこで、スプリンクラーもない、排煙装置もない、非常用電源もない、非常口の電光サインも点いてない、と最早「俺ら東京さ行ぐだ」状態だった。

 よって今から増改築を行うと、防災設備の分だけコストがかかる。

 デパートの経営陣は恐らく、「ああいよいよこの時が来たか」という気持ちだったことだろう。それまでの大洋デパートは、消防局から防災設備の不備を指摘されても完全に黙殺してきた。どんなに警告と指導を受けても平気の平左で、消火訓練への参加を打診されても無視していたという。

 しかし背に腹は変えられない。増改築を行う以上、今度こそ法令の遵守は必須である。かくして、防災設備の整備を視野に入れながら、大洋デパートの拡張工事は開始された。

 と、ここまでは良かった。

 だが大洋の経営陣は、防災設備があろうとなかろうと、実質的にはデパートの営業とは関係のない話だと考えていたのだろう。それからも、大洋デパートはごく普通に営業を続けた。清水建設が入って増改築工事を始めてからも、当たり前のように買い物客を受け入れ続けたのである。

 これが仇となった。工事中のため、スプリンクラーや排煙装置はまだ機能しておらず、さらに工事のために建物の外の非常階段も使えない状態だったのだ。

 こうした経緯を経て、運命の昭和48年11月29日は訪れたのだ。

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 大洋デパート。

 鉄筋コンクリート造り、基本的に地下1階から地上7階までの階層からなり、一部は九階建て。床面積の合計は10907平方メートルである。

 地階が食品売り場。
 1階が靴、化粧品、装身具、肌着等の売り場。
 2階が紳士服等の売り場。
 3階が寝具、呉服など。
 4階が婦人衣料品など。
 5階が書籍、文具、スポーツ用品。
 6階が家具、家庭用品、金物など。
 7階が食堂および結婚式場、催物会場である。火災当時は北海道物産展が行われていた。

 増築工事については、7階床面までのコンクリート打ちが終了した段階だったという。

 さて火災当日だが、この日の客の入りは、平素に比べれば実に冴えないものだったという。

 その日は木曜で、本来ならば大洋デパートの定休日だった。だが歳末大売出しということで急遽、臨時営業と相成ったのである。常連客でもそのことを知っている者は少なく、普段ならば1000人単位での客の出入りがあるというのに、この日の来店客は昼過ぎまでに500人程度でしかなかった。

 またお客だけではなく、工事関係者も140人弱がいた。さらに600人以上のデパート従業員の数を合わせると、当時デパート内には1200人程の人がいた計算になる。

 最初に異常を感知したのは、3階呉服売場に勤務する23歳の女性従業員だった。彼女は13時を数分過ぎた頃、階段から薄く煙が上ってくるのを見たのだ。

「あら、煙だわ。火事かしらん?」

 彼女は驚いて交換台に電話をし、それから大声で火事ぶれを行っている。

 知らせを聞きつけた売場主任(61歳)はすっとんで行った。なんだと火事だと、そりゃいかん。しかし彼が階段を覗き込むと、既に踊り場にあった段ボール箱が激しく燃えているところだった。

「バケツ! バケツだ!」

 主任の叫びに、数人の従業員達がさっそくバケツを持ってきた。近くのトイレから、バケツリレーで水を運ぶのだ。

 火勢は著しかった。踊り場の段ボール箱は、主任がちらっと見ただけでは分からないほど激しく燃え盛っていたのである。どこかのタイミングで、火炎は階段のガラス窓を破ってしまったのだ。

 ここから風が吹き込んできたから、さあ大変。踊り場から巻き上げられた燃え屑が、煙が、どんどん3階へ流れ込んできた。

 それにしても、なんで階段の踊り場なんぞに段ボールが積んであったのだろう?

 これは増築工事の影響だった。

 それまで、大洋デパートでは八階を商品倉庫代わりにしていた。そこには文化ホールというスペースがあったのだが、それが工事のため使用出来なくなったのだ。

 歳末商戦の時期である。通常の二倍の量である山のような商品在庫を一体どこに保管しておけばいいか、先にちょっと登場した主任が頭を悩ませた結果が「階段にとりあえず置いておく」という結論だったのだ。

 かくして段ボールは、二段三段に渡って積み上げられたのだった。中には寝具などが入っていたという。言うまでもなく可燃性のもので、これが燃える燃える。窓から風は吹き込んでくるし、しかもこの日は異常乾燥注意報が出ていたのである。これで燃え広がるなという方が無理な話で、最早バケツリレーでの消火など夢のまた夢という状況であった。

 ではここから、火災発生直後の各階の様子を見ていくことにしよう。まずは地階、1階、2階である。

 当時、1階には137名がいたと言われている。まだ地階では169名である。彼らは全員、例外なく店員の呼びかけによって避難することが出来た。煙や炎が押し寄せてくることもなく、せいぜい従業員が慌てふためいていた程度で済んだようである。

 また2階も、特に大きな延焼もなく済んだ。ここからも百名以上が階段やエスカレーターを使って問題なく避難している。

 特に2階は、大洋デパートにおける理想的な避難のひとつのモデルだと言えるだろう。ここでは、火元の階段と、フロアとの境目にある防火シャッターが最初から閉鎖されていた。

 恐らく工事関係の都合か、倉庫代わりの階段への一般客の進入を防ぐためだったのだろう。これによりフロアへ煙や炎が直接進入することはなく、従業員の呼びかけによって速やかに避難した。

 ちなみに火災発生時、社長はどうしていたのだろう? その時の状況について、当時の社長だった山口鶴亀氏はこう述べている。

「私は出火当時、10階(塔屋部分)の応接間にいて横になっていた。火事だといって迎えが来たので一番あとから荷物用エレベーターで外に出た。普段から火事には注意していたのだが、今は申し訳ないとしか言いようもない」。

 つまり、買い物客を見殺しにして自分だけ逃げた形になってしまったのだ。これについては、言うまでも無く轟々たる世間の非難を浴びることになった。

 さて、死者や負傷者が発生するのは3階からである。

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 高層ビル火災は、とにかく上の階へ行けば行く程、危険の度合いは増す。理由は簡単で、煙も炎も上に昇っていくものだからだ。

 よって地階、1階、2階で被害がなかったのも当然と言えば当然である。特にこれらの階で消火活動や避難誘導が上手く出来たわけではない。ただ、構造上の幸運によって偶々スムーズに脱出出来たに過ぎない(比較的死者の少なかった5階についても同様のことが言えるが、これについては後述)。

 大洋デパートの場合、問題は3階から上なのだ。

 ここで、場面を3階の寝具売場へ戻すことにしよう。

 出火した階段へは、従業員たちが続々と駆けつけてきた。

 中には、延焼するのを防ぐために、階段の段ボール箱を取り除いたり、売場の寝具類を移動させたりする者もいたという。だがそのうち、階段からは風に煽られた火炎がバーナーのように吹き込んで来て、手の付けようがなくなっていった。

 消火器を持ってきた者もいた。だが使用者が使い方を誤ったのか、消火器自体がいかれていたのか、なにやら5、6回叩いても動かなかったという。叩いて使う消火器なんて聞いたことないが……。

「もう駄目だ、シャッターを下ろせ! 急げ!」

 遂に火炎が3階のフロアへ進出してきたのだ。従業員達は、階段とフロアを仕切る防火シャッターのスイッチを押した。

 しかしこの防火シャッター、火災によってモーターが馬鹿になってしまい、途中で止まってしまう。

 そんなにやわじゃ防火シャッターの意味ないじゃん! と思うのだが、実はこれは、火災の熱で温度がある程度にまで達すると自動的に閉まる仕組みでもあったらしい。なんかワケ分からん。

 結局シャッターは閉まったのだが、その間に火炎がフロアに侵入していたであろうことは想像に難くない。

 さらに、シャッターはエスカレーター周辺にも存在した。だがこれについては、真下にあった陳列棚がつっかい棒の役割を果たす結果になってしまい役に立たなかった。

 それでもこの階からは、何とか103名が避難している。下の2階はほとんど被害はがなかったし、エスカレーターが焼けるまで時間があったため比較的避難は容易だったのだろう(ただし最終的には一名が遺体で発見されている)。

 また大洋デパート火災は、着物を着たまま焼け爛れたマネキン人形の写真が有名だが、恐らくあれはこの階の呉服売場のものなのだろう。

 3階の様子については、もう少し書いておこう。実はこの階には電話交換室があり、非常放送を流す設備も整っていた。それが当時は全く機能していなかったのである。

 この交換室にはちゃんと従業員がいたのに、なぜ避難誘導に欠かせない非常放送は流されなかったのだろう?

 答えは簡単で、交換手がもたもたしている内に、たちまち煙が襲ってきたのである。電話交換室にいた3人の女性は、非常放送を流す間もなく避難を余儀なくされたのだ。

 ただ、そうなってしまったのにも理由があった。交換手の女性は以前、店内で事故があり救急車などを呼ぶ時は「よく事情を判断してからするように」と上司から注意を受けていたのである。

 だが事情を確認も何も、火元は交換室の正反対の場所だった。しかも社内規定により、非常放送を流すには上司の許可が必要だったというからお話にならない。こうして交換手は、人事部や社長に連絡することに気を取られているうちに、館内放送を行うチャンスを失ってしまったのだ。

 さらに言えばこの交換室は出来たばかりで、交換手は機械の扱いにも慣れていなかったという。

 こうしていくつもの適切な処置がなされないまま、煙と炎は南階段を伝いながら4階へと上っていった。

 3階の場合は階下が無事だったから良かったが、4階からは状況が大きく変わる。なにせ3階は煙と炎で埋め尽くされており、上へ逃げるしかないのである。

 結果、人々は煙に追い立てられるように上階へと雪崩れ込んでいくことになる。

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 119番通報がなされたのは、13時23分のことである。

 きっかけは、デパートで工事をしていた作業員の悲鳴だった。外壁塗装をしていたこの作業員は、3階付近のガラス窓が破れ、煙と火炎が噴き出してくるのを見つけたのである。

「火事だ!」

 彼は叫んだ。それを受けて通報したのが、デパートの筋向いにあった理髪店の店主だった。

 結局、デパートの従業員から通報がなされることはなかった。初期消火の手こずり、延焼阻止の失敗、忘れられた通報――。こうして大惨事のお膳立ては揃ったのである。

 13時25分には消防が現場に到着し、消火活動と救助活動が始まった。

 しかし「これでもう大丈夫」とはとても言えない状況だった。何せ大洋デパートは改装工事のためビルの壁面にシートが被せてあるし、窓という窓が内側からベニヤ板で塞がれているのだ。中の様子がさっぱり分からない。

 ついでに言えば、当時の熊本市には梯子車とシュノーケル車がそれぞれ一台しかなかった。おいおい、どうすんの? と言いたくなってくる。

「こりゃいかん、突入だ突入!」

 とりあえず消防隊は建物の中へ飛び込んでいった。しかし防火シャッターがきちんと下ろされていたのが災いして、肝心の3階から先へ進めないだから話にならない。何とかエンジンカッターで切断するも、その先で待っていたのは1メートル先も見えない猛煙と凄まじい火勢だった――。

   ※

 さて4階である。当時、この階では婦人服やアクセサリー等が売られていた。

 この階にいた人々が火災に気付いたのは、裁判では13時22分過ぎと見られている。煙がフロアに侵入してきたのだ。

 ここでようやく人々は火災に気付いた。火災報知のベルも鳴らず、非常放送もない中で、ただ静かにもくもくと煙が押し寄せてきたのである。

 煙の主な侵入口となったのは、南階段とエスカレーター口である。南階段というのがつまり火元になった階段で、この後もこの階段は煙突代わりになって煙を上階へ上階へと昇らせることになる。

 4階の人々は、何がなんだか分からないままに逃げ道を探し惑ったことだろう。とにかく煙は下階から昇ってくるのだから、下へ逃げることは出来ない。上だ。煙や炎よりも先に上階へ逃げなければ――。

 この階からの脱出は、主に3箇所からなされた。ひとつは従業員用の階段である。それに増改築工事の作業員達が窓や扉を2箇所ほど破ったことで、一部の人々はそこから新鮮な空気を吸うことが出来、最終的にロープなどで救出されている。

 ただし救出された人々も全て無傷で済んだ訳ではない。窓からアーケードに飛び降りて、足が粉々になってしまった男性もいた。

 問題だったのは、最初に述べた「従業員用の階段」である。この階段に通じるドアの前で、多くの人が命を落としている。

 恐らく、煙に追い詰められた従業員達は、そちらに自分達専用の階段があるのに気付き急いで向かったのだろう。それで逃げ遅れた他の人々も、一縷の望みを賭けて後ろから着いて行ったのではないだろうか。

 実際その階段から脱出できた従業員も多くいた。しかし階段周辺が煙に包まれるまでの時間は余りに短かったのである。実に40名もの人々が、脱出することは叶わず、階段あるいは階段に通じるドアの前で力尽きている。死因は全てCO中毒だった。

 筆者達が想像するよりも遥かに速いスピードで、大洋デパート内部には煙が充満していったのである。建物が完全に停電するまでは少し時間があったが、猛煙の立ち込める中ではもうそんなことは問題ではなかった。煙が、明かりという明かりを覆い尽くし、あっという間に建物の中を暗闇にしてしまったのだ。

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 次は5階である。この階で火災が覚知されたのは、13時21分とされている。

 販売されていたのは、主にスポーツ用品、文具、玩具などだった。

 この階からは多くの人が脱出に成功しており、死者はほとんど出ていない。黒煙、有毒ガス、火炎、熱気流が押し寄せてくるという恐るべき状況下で、これはこれは実に幸運なことだった。

 まずなんと言っても、5階は防火シャッターが功を奏した。この階ではほとんどのシャッターが熱感知機能によりきちんと閉鎖したのである。また改装工事のために常時閉鎖していたものもあり、それによって下階からの延焼に時間がかかったのだ。

 またこの階には、脱出可能な経路が複数あった。

 まず、隣のビルへの渡り廊下である。このビルとは、別館として工事が進められていたものだ。

 それから本館の増築部分に通じる非常ドアもあり、これは従業員が機転を利かせて開けている。この階では従業員による避難誘導がきちんと行われたのだ。

 それに誘導が間に合わなかったと思われる人々も、最終的にはほとんど窓から救出されている。どうも窓の下に上手い具合にアーケードがあったらしい。資料によって記述が錯綜しているのではっきりしないが、当時ビル内にいた工事関係者が即席の足場を作って買い物客らを避難させた――という話もあり、もしかするとそれはこの階での出来事だったのかも知れない。

 とはいえ死者が皆無だった訳ではない。3階からの逃げ遅れと思われる1名が、後に遺体で発見されている。

 またこの階でお粗末の誹りを免れないのは、従業員達が消火器による「消火活動」を始めたことである。言うまでもなく、ただの煙に消化液を吹き付けても何の意味もない。もしもこの階の脱出経路がもっと少なければ、ここでの時間のロスは大量の逃げ遅れを発生させていたに違いない。

 このように、いくら5階が避難に適した状況だったと言ってもそれはあくまで偶然で、やはり大洋デパートの防災状況は極めて劣悪だったのである。筆者が先に5階のことを「幸運」だったと書いた所以である。

 それに、ここでは水平方向の避難者のことしか書かなかったが、もしかすると5階から6階へと垂直方向に避難した者もいたのではないだろうか。6階と7階でも大量の死者が出たことを思うと、やはり5階の幸運を手放しで喜ぶ気にはなれない。

 ビル火災が、上の階に行けば行く程危険であることも先に書いた。それを裏付けるように、6階と7階は阿鼻叫喚の惨劇の場と化したのだった。

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 6階での火災覚知は、13時21分以降とされている。

 このフロアでは家具、家庭用品、金物などが売られていた。

 その時の状況については、筆者がくどくど説明するよりも参考資料から引用した方が早い。以下、阿部北夫の『パニックの心理』より、当時の従業員の証言である。

「はじめは階段部分からの、そうです、自分の階の火事だと思ったのです。それでみんなを動員して、消火器をもち出して、一生懸命消火しようとしました。けれども全然効果がありませんし、煙がますますひどくなり、ついに噴出するようになり、黒煙にかわりました。これはダメだ、逃げようというので、エレベーターの方をふり返りましたら、おどろきました。中央階段の方から煙が、それこそ海の大波のようにドッと押し寄せ、もう店の真中、エスカレーターのまわりのところまで来ているのです。いわば両方向から煙にハサミうちになったようなもので、とっさに反対側の、そこだけ窓が外部に開くようになっているアーケード側に逃げようと思いました。煙に追われて、非常口はどこだと叫んでいるお客さんを誘導して、そのアーケードロまで行ったのです。そのころは電灯が消えていました。窓から入ってくる光で、自分が数えた限りでは、十二、三名の人がいましたが、気配でそのまわりにさらに何人かがいたのがわかりました。……窓をいくつか破って外気を導入し、助けを求めましたが、6階ではどうにもなりません。何人かがとび降りましたが、アーケードを破り、血が飛び散るのが見えて、これはダメだと思いました。小さいお子さんがいるとみえて、泣き声や、婦人たちの悲鳴絶叫が聞こえ、それこそほんとに阿鼻叫喚というのか、地獄というのか、悲惨きわまるものでした。そのうち煙がだんだんひどくなり、息をしていられなくなり、のどがハリつきふさがってくるのです。そのうちに、子どもの悲鳴や婦人たちの絶叫がだんだん聞こえなくなってきました。おそらくあのとき、その人たちは亡くなっていったのでしょう。」

 凄惨この上ない話である。

 このフロアでの死者数は31名に及んだ。元々は69名ほどの人がいたと言われているので、ほぼ半数が亡くなったことになる。何故ここではこれほどの事態になったのだろう?

 理由は幾つかある。まず他の階と同様に防火シャッターが下りなかったことが第一。しかもこの階については木製の支柱で意図的にシャッターが下りないようにされていたという。

 また煙の流入経路は、階段やエスカレーターなどの全ての逃げ道を一気に断ってしまった。4階や5階では多くの人が「逃げ遅れ」により死亡したが、6階では「追い詰められ」がその原因だったと言えそうである。

 また、各階の窓にベニヤ板が張られていたことも大きい。消防の到着直後の状況を書いた時にちらりと述べたが、大洋デパートの窓はほとんどがベニヤ板で内側から塞がれていた。

 どうもデパートというのは外光が入ることを嫌うらしい。そういえば最近のデパートやスーパーでも、窓がついている建物はあまりない気がする。

 さらに大洋の場合は、改装工事の痕跡を隠すためか、窓以外にも天井にまでベニヤ板と紙が貼られていた。つまり大洋デパートのフロアは見事に密閉されていたのである。

 もちろん、それでも非常用照明設備や排煙設備、誘導灯などが完備されていれば、いい。しかし当時は工事中でそうした設備は一切作動していなかった。

 6階で被災した人々は、フロアの南東部分で死亡している。

 そこには従業員用の休憩スペースがあったのだが、位置的にその場所が最も煙の進行が遅かったらしい。先に証言を引用した従業員が逃げ込んだ場所というのも恐らくここだったのだろう。

 この従業員がどのような形で救出されたのかは不明である。だがこの窓からはロープで救助された人が多くいたそうなので、多分それなのだろう。

 この階でも、5階と同様に、従業員達は意味のない消火活動を行っている。避難誘導を行うべき彼らがその体たらくだったのだから、一般の買い物客がパニックを起こしながら煙にまかれていったのは当然の成り行きだったことだろう。

 人々のこうしたパニックの様子は、一体どんなものだったのだろうか。それをはっきりさせるには、7階フロアから屋上へ避難し無事に生還した人々の証言を俟たねばならない。

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 7階での火災覚知時刻は、13時25分頃とされている。

 ここでは北海道物産展という催し物が開催されていた。また食堂も多く、昼頃の時間帯ということで食事客も大勢いたのだろう、他の階に比べると257名と人の数も多かった。

 煙が最も早く進入してきたのはエスカレーター周りである。工事のため開口部が大きくなっていたらしい。そして例によって防火シャッターは動かず(工事途中で未完成だった)、フロアにはたちまち濃煙が立ち込めた。

 この時の状況について、物産展に出ていたアルバイト店員の学生はこう証言している。

「煙が立ち上ってくるなんてものじゃありません。シューシューいって耳をならしながら突きのぽり吹きあげるのです」

 エレベーター周りだけでなく、この階では階段からも煙と炎が激しく流入している。たちまちフロアはパニック状態になった。ここからは、当時食堂でレジ係をしてた女性の証言を引用していこう(証言の引用は全て『パニックの心理』より)。

「ちょうどお客さんのこない時間でしたので、自分はチケットを整理していました。すると、何人かのお客さんやウェイトレスがバタパタと入口の方にかけてくるのです。はじめ、きょうが最終日だから、だれか偉い人でも物産展を見にきたのかと思ったのです。どうしたの、ときいたら、火事よ、というのです。後を振り返ってみたら、白い煙が波の押し寄せるように客席の半ばまで迫ってきていました。それでとっさにお金の袋をとり出して、エレベーターの方に逃げ出しました。エレベーターは入口のすぐ前のところですが、すでに三〇人くらいの人が集まってエレベーターをまっていました。みるとエレベーターのサインが、2階のところをさしたまま動きません。このころはまだ電気がついていたのですが、だれか男の人が屋上に逃げろといいましたので、みんながいっせいに階段にかけより、かけ上がりました」

 この時点で、7階で使用可能な階段はひとつだけだった。フロアの東にあった、屋上直通の階段である。

 階段そのものは他にもあった。だが火元から直通しているため煙が充満していたり、途中で途切れていたり、遠い場所にあるため辿り着くのが容易でなかったりと、その他の全ての階段は実質的に使い物にならない状況だった。

 結果、人々はたった一本の階段を押し合いへし合い駆け上った。

 幅はたったの1メートル半である。そこに数十名の人々が押し寄せたのだからたまらない、ある人は避難者達の圧力によって身体が宙に浮かび上がり、足が階段についていない状態でもがきながら屋上へ運ばれたという。またある年配の婦人は、着物の裾を踏まれて倒れそうになったが、やはり人混みの圧力で押し上げられたお陰で踏み殺されずに済んだという。

 だがこの階段も、脱出口としての用を成したのはせいぜい2、3分程度だったと思われる。間もなくここも熱気流と黒煙の立ち上る煙突と化した。再び生存者の証言を引用しよう。

「途中で煙があがってきて煙を吸いましたし、屋上にあがったら、自分の上ってきた階段ロからもう黒煙がドス黒くふき出し、自分の後からくる人は、涙やハナを出し。すすで顔がくちゃくちゃに汚れていました」

 消防隊が7階へ到達した時、階段やエレベーター周辺からは、逃げ遅れたらしい者の遺体が見つかっている。フロア全体の最終的な死亡者数は29名に上った。また階段で死亡していた従業員は、残留者がいないかどうかを見届けたことで逃げ遅れたのではないかと言われている。

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 8階の屋上へ逃げた人々は、全員が救出された。

 ここには遊園地や、工事中の施設があったため、一般の客と工事関係者等を合わせて元々50名ほどの人がいたという。そこに7階からの避難者も加わり、最終的な人数は100名以上に達した。梯子車やロープのによる手助けももちろんあったが、それに清水建設の作業員が増設部分の足場へ誘導したりすることで、彼らは全て生還したのだった。

 また9階と10階からは犠牲者は出ていない。この2フロアは屋上からニョッキリ突き出た塔屋部分であり、どの資料を読んでも詳細はほとんど不明である。まあ先述の山口社長が出火当時10階にいたというから、役員室でもあったのだろうと想像できる程度だ。

 消防による救出活動は、彼らが現場に到着してからほぼ10分後に開始された。

 まず13時35分に男女2名が病院へ搬送されたのを皮切りに、15時55分までの間に27名が続々と搬送。そして梯子車、ロープ、スノーケル車を利用しての救出劇だったという。

 そういえば大洋デパートの救出活動と言えば思い出すのが、一人の女性従業員が下着を丸出しにした姿で救出されているシーンである。この映像は恐らく、大洋デパート火災にまつわるものとしては、あの焼け爛れたマネキン人形に次ぐ有名度なのではないだろうか。

 あの映像は、NHKをはじめとしてどのテレビ局もこぞって撮影しており、今だったら損害賠償を請求されてもおかしくないような激写ぶりである。今から考えると、非常時にテレビは一体何を映しとるんだと突っ込みを入れたくなる所だ。

 遺体の搬出が行われたのは16時20分からのことである。

 この時もまだ炎は燃え続けており、火災そのものが鎮火したのは21時19分。それから23時までに28の遺体が搬出されて、付近の寺や日赤病院へ運び込まれた。焼け焦げたものも多くあり、その後も行方不明者の捜索のために網で骨を篩い分けたとか、複数の遺体の部位が集まったものが一人分の遺体と勘違いされたという話まである。

 デパート側の対応はまるきり後手後手に回った。遺体は棺にも入れられないまま、毛布をかけられただけの状態で安置されていた。

 当時の写真週刊誌を参考にすれば、犠牲者に関する悲劇的な話をここでご紹介するのは簡単である。一家全滅、婚約直後の若い女性の死亡、消火活動に来ていた消防士の妻子がデパート内にいた……等々、耳を塞ぎたくなるような話ばかりだ。だが筆者はそういう話は正直好みではないので、ここはひとつ、生存者にまつわる話だけをご紹介しておこうと思う。

 大洋デパート火災では、煙から逃れるために高層階から飛び降りた者が複数人いた。ただ前年の千日デパート火災とは違い、それによる直接の死者はなかったようだ。その点は奇跡的である。だがその中でもひときわ目立って奇跡的なのは、6階の従業員Tさん(当時21歳)の飛び降りである。

 Tさんは当時、家具や家電の売場にいた。そこで煙に巻き込まれたという。

「それより少し前に『火事だッ』と誰かが叫んだような気がするの。どぎゃんしたらよかろうかと考えるひまもなかったんです」

「でもですね、消火器は全然役に立たなかったんですね。煙が強かですたい」

 煙にまかれながら考えたのは、「このままでは死んでしまう」ということばかりだったという。彼女は煙を避けて逃げた。

「あ、あそこは明るい。見える」

 そうして辿り着いたのが、例の6階フロアの隅にあった従業員用のスペースだった。

「事務所につくと、誰かが窓を割りよったのを覚えています。そしたら、ノドがすうっとして、明るくなった気がしましたですね。夢中で割られたガラス窓から顔を外へ突き出したとですたい」

 しかしそれだけではとても生きた心地はせず、遂に彼女は宙へ身を躍らせたのである。

「もう、息苦しさから逃げたいと思っただけですね。『お母さんッ』と呼ぶ気もしなかった。ただ、死ぬんだ、死ぬんだ、もう最期だ、と思ったのを覚えていますね。飛び降りる意識なんてなかったとですたい。ただただ、息を吸いたかった」

 実に地上10メートル、6階からの飛び降りだった。

「シタにアーケードがあるなんて思ってもみなかったとですね。落ちた瞬間ですか? 意識はありましたですね。足がグニャッとなって、痛くて痛くて仕方が無かったですね。意識の中では、落ちるまで2回転はしたと思います。無意識のうちに足から落ちたとですね」

 彼女が収容された病院の医師の話では、こういう飛び降りの場合は足首と踵の粉砕、骨盤骨折、背骨骨折などの怪我を負うのが普通だという。だがTさんは右大腿部の骨折と、その他擦り傷程度で済んだ。頭もやられなかった。

 他にも少なくとも2人、アーケード上に飛び降りた者がいた。だが4階から飛び降りた男性従業員は足の骨が粉々になり、Tさんと同じ6階から飛び降りた売場主任は頭から突っ込んで重態になり、その時は血まみれで倒れていた。

 同じ状況ならまた飛び降りるか、という週刊誌の記者の阿呆な質問に、Tさんは「今? できませんですたい」と答えたという。

 大洋デパート火災では、このように飛び降りによる怪我を負った人もいたし、またCO中毒で意識不明の状態で救出された人もいたという。よって後遺症を負った人も相当いただろうと筆者は想像している。

 こうして火災そのものは終わった。次は責任の問題である。

   11

 火災があったその翌日、即ち30日の時点で、死者は既に100人に及んでいた。内訳は男29人、女71人である。

 他にも、避難の途中に階段で転ぶなどして怪我をした者が11名。煙による気管支炎、CO中毒、ガス中毒などの憂き目に遭った者が22名。怪我と中毒のダブルパンチを食らった者が10名。アーケードへの転落やロープによる避難によって怪我を負った者が9名。そして増築部分からの避難中に怪我を負った者が7名。……これでは警察も黙っているはずがない。

 熊本県警は、さっそく大洋デパート火災捜査本部を設置し現場検証を始めた。

 捜査本部には、最初からひとつの仮説があった。

 まず失火者を特定しないといけないのは勿論だが、それとは別に、デパートの防火態勢の問題を指摘することも可能なのではないかという見込みがあったのだ。つまりデパート側を業務上過失致死で起訴できないか、ということである。

 意地の悪い見方をすれば、これは見込み捜査である。だが現場検証を行い、従業人たちから事情を聞いていけば行く程、この仮説は俄然妥当性を帯びてくるのだった。

 とにかく避難訓練はしたことがない、消火器の使い方は知らない、防災設備は使い物にならないと、なんだここはデパートはデパートでも欠陥防災設備の見本市じゃないか! と言いたくなるような状況である。熊本県警は、いよいよ12月7日には強制捜査に踏み切った。

 そしてさらに、熊本労働基準局も18日には、安全管理を怠ったとして3人の責任者を書類送検することに決めた。

 最終的に県警によって起訴されたのは5人である。事件からほぼ1年が経過した1974年の11月のことだ。まず当時の社長山口亀鶴氏。それから常務の山内氏。そして取締役人事部長Y、売場課長兼営業部第三課長M、営業部営業課員Sである。

 そして裁判が始まったわけだが、起訴された5人のうち、社長の山口氏と、それに常務の山内氏は共に一審の公判中に死亡した。恐らく、文字通り死ぬほどストレスが溜まっていたのだろう。常務の方については結局死因は分からずじまいだったが、火災当時買い物客を見殺しにして避難する形になってしまった社長の山口氏は、高血圧症で病院に入院している間に急性肺炎を引き起こして死亡したのだった。この2人は兄弟だった。

 死んでしまっては責任追及も出来ない。よって、裁判では残る3人が被告人席に立つことになった。

 この裁判の経緯については、簡潔に記しておこう。とにかく83年には一審で無罪判決、88年には二審で有罪判決、91年には最高裁で無罪判決と、長ったらしい上に結論が二転三転しているのである。

 最終的な結論を手短に言えば、「死んだワンマン社長がぜんぶ悪い」ということである。少し商法上の法解釈も入ってくるのだが、法的にも防火・防災の管理者は代表取締役一人であるし、実質的にも、被告の3名は大洋デパートの防火防災について何か助言をしたり方策を考えたりする権限は与えられていなかった、ゆえに責任を問うことは出来ない、という結論が下されたのだ。

 少し付け加えると、起訴された売場課長兼営業部第三課長のM氏というのは、デパートの3階で火災が発覚した当時、必死に消火活動と延焼防止の手立てを講じたあの人である(資料によっては主任と書かれているのだが、この辺りの矛盾の理由はよく分からない)。彼もまた、火災発生時には最低限出来る限りの消火活動を行ったとして、細かな判断のミスは不問に付された。

 ちなみに、火災の原因は分からなかった。確かに火元の場所は間違いないし、そこが普段から従業員の喫煙所と化していたことも事実だし、その焼け跡からは吸殻も見つかっているという。……だがその煙草を吸っていたのは誰なのか? それは本当に出火原因なのか? 山と積まれた段ボール箱がその程度で燃え広がるものなのか? 等々の疑問が実験に実験を重ねて検証されたというが、この失火の原因は今に至るまで不明のままである。

 さて刑事裁判についてはこの調子で、誰にも責任を負わせられないまま終了した。関係者にとっては後味の悪い判決であったことだろう。

 だが、民事に関してはきちんと事が進んだ。

 そもそもデパート側は火災によって商品だけでも20億以上の損失を蒙ったのだが、被害者への補償や見舞金等々も当然払うことになった。

 で、その損害賠償請求額だが、これが総額30億にまで上ったという。これは最早公害補償並みで、内訳は死者1人につき3,300万円、その配偶者に600万円、その父母には300万円というものだった。 

 さすがに熊本有数のデパートとはいえ、これは全額耳を揃えて払えという方が無理だ。デパート側は遺族や負傷者との間で示談や和解を成立させ、何とか一部を支払い、さらに負傷者の治療費負担の軽減に尽力。また死亡した山口社長の遺族も、22億円あまりの私財を会社に提供し被害弁済に協力し、昭和56年、1981年3月31日までには総額12億5687万円の弁済を行ったと裁判の記録には記されている。

 大洋デパートは、正式には「株式会社太洋」の本店という位置付けの建造物である。上述の被害弁済は、株式会社太洋による会社更生手続きの一環として進められたものと思われる。この時既に、この企業は倒産していた。

   12

 ここからは、「大洋デパートその後」の話である。

 以下に記述するのは、公的な資料に基づいたレポートばかりではなく、ネット上の噂話めいたものを集めた部分があることも、あらかじめお断りしておく。

(ネット上の記述と、書籍として出ている記録の、どこまでが公的でどこまでがそうでないのか、曖昧に感じる所もあるが)

 実は、大洋デパートは、火災当時の社長達が起訴されてからほぼ1年後の1975年11月16日には再オープンしている。いやはや、あれだけの火災を起こしながらよくもぬけぬけと、などと言ったら言い過ぎかも知れないが、とにかく凄まじい生命力ではある。

 もちろん、今度は防災設備は完備されていた。ただ、防災を最優先させるあまり売り場面積の縮小を迫られたり、柱が補強のため馬鹿でかくなってしまったりと、やはり影響は引き摺っていたようである。再生大洋デパートは、結局この翌年に倒産してしまった。

 こうして株式会社太洋は被害債務を弁済するためだけの企業と化してしまった訳だが、ネット上で調べていた時に、株式会社太洋という法人そのものは今でも残っている、という記述を見た記憶がなくもない。申し訳ないことにどこで見たのかという記憶も定かでないのだが、もし本当ならばつくづく物凄い生命力である。

 大洋デパートの話はもう少し続く。1979年の10月には、デパート跡地に「熊本城屋」というデパートがオープンした。これはユニードというスーパーマーケット企業が出資した店らしいのだが、この5年後の84年にとんでもないことが起きた。この熊本城屋の1階で火災が発生したのだ。

 おいおい、またかよ!

 その時はボヤで済んだらしい。だが歴史とは奇妙な繰り返し方をするもので、これが大洋デパートの同じように改装工事中の火災で、しかも火災報知機が鳴っているにも関わらず、店は「これは火災ではない」と主張したとか。言うまでもなく熊本城屋はマスコミから叩かれ、店員達は地域の家々に詫びて回ったという。

 実に大洋デパート火災からおよそ10年後の出来事である。地元の人々は何を思っただろう。あの日、建物の隙間という隙間からもくもくと噴き出し、日差しすらも遮ったという怪物のような煙を思い出した者も多かったのではないだろうか。 

 そしてさらにその後の経緯だが、これは正直、情報がごちゃごちゃしていて何がなんだかよく分からない、というのが本音である。

 熊本城屋に出資してたユニードがダイエーと合併したとかしないとか、それに伴って熊本城屋の店舗名が城屋ダイエーとかダイエー城屋に代わったとか、最終的には単なるダイエーになったとか、なんか色々と紆余曲折があったようだ。少なくともその後、火災は起きていないようである。

 こうして現在、大洋デパート跡地には「ダイエー熊本下通店」がある。

 かつてこの建物の横には巨大な慰霊碑があったが、現在はそこから程近い白川という川の河川敷に移されており、今でも遺族が慰霊に訪れるらしい。

 そういえば慰霊碑と言えば、筆者にとってこの火災の最大の謎は「デパートの正式名称」である。公の記録などを読むと、火災を起こしたあのデパートは大抵は「大洋デパート」と書かれている。だが慰霊碑に刻まれた文字や、火災当時の建物の写真を見ると、そこにははっきり「太洋」と書かれているのである。点がついているのだ。

 不思議なことにこの矛盾を正そうとする文章は一度も見たことがない。こんな事柄からも、今やこのデパート火災がいかに「忘れられた災害」であるかが思われるのである。

 この火災の翌年には消防法も改正された。

 法律の原則に「遡及適用の禁止」というものがあることは一番最初に述べたが、1974年の消防法の改正で最も画期的だったのは、この法律の大原則に例外を定めた点であろう。公共的要素の高い旅館やホテル、デパート、病院、地下街などについては、過去に建造したものであっても現在の基準に適合させるよう義務付けたのである。

 筆者が思うに、戦後の建造物火災の頻発と、それに伴う法令強化のイタチごっこはここに至ってようやく決着をみたのだ。消防法は、近代法の大原則を踏み越えるという掟破りをあえて行うことで、戦後日本の建造物火災という黒歴史にピリオドを打った。その最後の決定打になったのが大洋デパート火災だったのである。

 消防関係の法令や条例の厳格さについては、今でも熊本市は全国一であるという。

【参考資料】
◆『建設庁大洋デパート火災事故調査委員会調査報告書』昭和49年3月
◆阿倍北夫『パニックの心理』講談社現代新書
◆杉山孝治『災害・事故を読む』文芸舎
◆朝日新聞・昭和48年(1973年)11月30日~平成3年(1991年)11月15日
◆第一法規『判例体系』
◆ウィキペディア他
◆消防防災博物館-特異火災事例
◆アサヒ芸能「人ごとではない大洋デパート大惨事」1973.12.13
◆週刊新潮「グラビア 死の商戦 熊本・大洋デパートの恐怖」1973.12.13
◆週刊新潮「今だからいわれる「熊本・大洋デパート山口亀鶴社長は葬儀屋から出世した男」1973.12.13
◆週刊平凡「熊本・大洋デパート 史上最大のデパート惨事!いま涙をさそう2つの悲話」1973.12.13
◆週刊朝日「グラビア 100余人の命を奪った巨大な火葬場 熊本・大洋デパートの火事」1973.12.14
◆週刊朝日「大洋デパート惨事の教訓 生死を分けたこの人間ドラマ」1973.12.14
◆週刊ポスト「大洋デパート惨事の危険はこんなに転がっている 歳末商戦たけなわ!考えてもゾーッとする」1973.12.14
◆週刊読売「6階からとびおりて助かった女性「奇跡」の内容 大洋デパート火事」1973.12.15
◆女性自身「熊本現地取材・大洋デパート大惨事 黒コゲの新妻にすがりつく若き夫」1973.12.15
◆サンデー毎日「熊本・大洋デパート炎上 歳末商魂の中に消えた101人」1973.12.16
◆週刊文春「デパート惨事の火元は「代理戦争」?大洋デパート惨事」1973.12.17
◆平凡パンチ「歳末のデパートは恐怖の焼場だ!!熊本の惨事が教える百貨店の致命的な欠陥」1973.12.17
◆ヤングレディ「緊急解く方 悲惨!熊本デパート火災!猛火に出会った100人 地獄に誘いこまれた運命」1973.12.17
◆女性セブン「大惨事のかげの悲しみのドラマ 熊本・大洋デパート」1973.12.19
◆週刊女性「これを読んでからデパートで買い物を!緊急提案 大洋デパート惨事に学ぶ」1973.12.22
◆週刊新潮「ワンマン社長亡きあとの大洋デパート経営陣 欠陥デパートの山口亀鶴社長が病死した」1974.12.19
 ※当時の写真週刊誌の記事の収集については、leprechaun氏よりご協力を頂きました。

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