◆金井ビル火災(1966年)

 実は、戦後二十年ほどの間は、消防士の社会的地位はあまり高くなかった。むしろ低く見られていたと言ってもいい。

 高度経済成長期に突入しつつあった頃である。災害対応のために存在している消防士たちは、それ自体ではゼニを生まない。むしろ維持費がかかる。これは防災に関する設備や体制全般に言えることで、しかも災害はいつ起きるか分からず、そんなものに投資していても得にはならない。こういう考え方が、当時は確かにあったようだ。

 平成の、災害が頻発した時代を通過してきた我々にとっては、隔世の感がある。

 だが、消防士たちのそんな不遇な状況が転換するきっかけになった(とされる)火災があった。それが金井ビル火災である。この火災での救出活動は、その後の防災行政に大きな影響を与えた。

   ☆

 火災が起きたのは1966(昭和41)年1月9日、日付が変わったばかりの0時58分のこと。

 現場の金井ビルは、神奈川県川崎市川崎区の駅前にあった。

 今も、そこには同名のビルがあるらしいが、現在の様子は分からない。とりあえず当時の金井ビルは、きらびやかな雑居ビルだったという。ガラス張りの壁面が周囲のネオンを反射して、高度成長期の景気の良さを象徴するような建物だったとか。形態としては、全国のどこにでもある、いわゆるペンシルビルだった。

 だがこのビルは、後年の千日デパートや大洋デパートのケースと同様に、火災時に大惨事になるタイプの典型でもあった。そういう意味でも時代の象徴だったと言える。どういう意味で典型だったのかは後述するが、このビルはデパートや旅館などの大規模施設に比べれば小ぶりで、発生した火災も比較的小規模だった。それでも多数の死傷者が出たということで、当時としてはけっこう注目されたようである。つまり大惨事の典型であり、大規模施設火災の相似形でもあったわけだ。

 建物の構造をざっと述べよう。中は地下1階~地上6階建ての7フロア。地下は喫茶店と倉庫、1階がパチンコ店、2階が遊技場、3・4階はキャバレー。5階と6階は事務所や住居が入っており、屋上には機械室のほかプレハブの住居が設置されていた。

 火災発生時は、ビルの全店舗が営業を終えていた。建物内にいるのはビルの関係者だけで、4階のキャバレーでは店員14名(資料により17名とも)が新年会を終えて雑談をしているところだった。また、6階にも11名がおり、5階にはビル所有者の家族が5名、さらにその親戚の4名が屋上のプレハブにいた。

 そこで火災が起きた。原因ははっきりしないが、火元となった3階キャバレーの更衣室の木製ロッカーの中で、煙草の不始末があったのではないかと言われている。ホステスの着衣に煙草の火がくっついたまま収納してしまったか、あるいはくわえ煙草の置き忘れがあったのではないかと推測されている。

 最初に火災に気付いたのは、4階キャバレーの新年会メンバーである。22歳のチーフボーイが、3階の吹き抜けから煙が出ているのを見つけたのだ。そこで仲間と一緒に行ってみて、煙が出ている女子更衣室を開けたところ、火炎が天井に至っていた。

 彼らは、急いで初期消火を試みた。消火器を使ったり、ビール瓶を投げつけたり、屋内消火栓からホースを持ってきたりしている。しかし既に手遅れだった上に、非常時の訓練も行っていないから手間取った。そうして右往左往しているうちに火炎はキャバレーの客席の天井吹き抜け部分から4階へ。彼らは逃げるしかなかった。この時、火事ぶれや通報は行われなかった。

 火炎はみるみるうちに拡大した。この金井ビル、建物としては耐火造だったのだが、出火した部屋の区画が木造だった上にその隣が吹き抜けになっており、内装には防火性もなかった。また階段は全て直通階段で、区画はなし。扉も自閉しないものがほとんどだったので、炎と煙の進行を阻むものは何もなかった。

 金井ビルは灼熱地獄と化した。破れたガラス窓からは炎と煙が吹き出し、建物内は濃煙と熱気で満たされた。

 当時5階にいた、ビルのオーナーの長男は、物音に気付いてすぐ4階へ下りている。そこで新年会メンバーが逃げ惑っているのを目にし、急いで家族へ避難を呼びかけた。それを受け、彼の母親(つまりオーナーの妻)が119番通報を行った。この時の時刻は午前1時3分だった。

 しかし、5・6階にいた人々は、おそらく煙と炎に阻まれたのだろう、階下へ避難することはできなかった。

 具体的な避難の経緯は不明だが、まず、このオーナーの長男と逃げ遅れの親戚たちが屋上に追い詰められた。合計7名、うち4名が女性だった。

 その他、6階の従業員11名と、119通報を行ったオーナーの妻、さらにその7歳になる息子は建物内に取り残された。結論を先に言うと、取り残されたこの13名のうち従業員1名は自力で脱出したものの、それ以外の12名は全員が一酸化炭素中毒で死亡している。ビルのオーナー本人は、当夜は不在だった。

 程なく川崎消防署の所員たちが到着したが、ここで致命的な混乱が発生した。「建物の中に、誰か残っているか?」という問いに、先に避難したキャバレーの従業員がこう答えたのだ。

「大丈夫です、みんな逃げました!」

 言葉というのは恐ろしい。従業員は、一緒に新年会をしていた自分の仲間のことを指して「みんな」と言ったのだ。消防士は、これを「ビル内にいた全員」と勘違いし、救助よりも消火を優先することにしたのだった。

 だが間もなく、7人が屋上に取り残されているのを野次馬が発見した。おいおい話が違うぞ――。現場は騒然とした。

 梯子車から急いで梯子を伸ばすも、17メートルしかなく、4階屋根の庇程度までしか届かない。では突入か? しかし建物内には炎と煙が充満しており、梯子が届かないので注水もままならない。突入はとても無理だ。

 ではどうするか。出た結論はこうだった。

「よし、確かナイロンロープがあったはず。それを使って救出しよう」

 えっナイロンロープ?

 そう。聞いて驚け、ナイロンロープである。

 ナイロンではいかにも熱に弱そうだ。現代の目線で見れば、もっとまもとな救助道具はなかったのか? と言いたくなるところである。だが、当時は本当に何もなかったのだ。

 ここで、最初に述べた「消防士の地位の低さ」が関係してくる。この時代、消防防災は今ほどは重要視されておらず、現場での装備も驚くほどちゃちだった。梯子は届かない、ガスマスクもおもちゃ同然、呼吸保護器の数も申し訳程度。消火や救助の器具としては鳶口とノコギリが使われているという有様だった。

 くだんのナイロンロープにしても、この火災が起きるわずか三カ月前に消防署へ支給されたばかり。しかもそれは、もともとは火災用ではなく水難事故の救助用だった。

 こうして、逃げ遅れの人々はナイロンロープを使って決死の空中滑降をするハメになった。命綱もない深夜の暗闇で、隣のビルへ飛び移らなければならない。しかも場所は地上23メートルもの高さだった。

 それでも、救助はなんとかうまくいった。逃げ遅れの中には幼い子供もいたが、奇跡的に屋上の全員が助かった。

 とはいえ、犠牲者が皆無ではなかったのは先述の通りである。亡くなった人々たちはすべて6階で倒れており、遺体も部屋もほとんど焼けてはいなかったという。多くの者が身支度を整えており、中にはハンドバックやブラシを握って倒れている人もいた。避難しようとした矢先に、一酸化炭素中毒にやられたのだった。

 鎮火したのは午前4時38分のことだった。

 一体どうして、こんな小さなビルで、こんなに多くの死者が出てしまったのか。

 少なくとも、金井ビルの消防設備や防火体制については、法的には不備はなかった。 

 ただ、ハード面では法的基準を満たしていたものの、火災報知器は切られていたし、複数人いた防火管理者も横の連絡がないなど、運用面での落ち度がいくつか認められた。またこのビルの場合、耐火・不燃化建築ということで、中にいた人は避難するに際して油断していたふしがある。また先にもちらっと書いたが、防災教育・訓練は行われていなかった。

 こうして多数の犠牲が出たわけだが、これは、金井ビル火災からほぼ二カ月後に発生する菊富士ホテルと全く同じパターンである。法的には基準は満たしているが、いざという時には何もかもが足りないのだ。

 こうした状況に対して、国も手をこまねいていたわけではない。1960年代に頻発していた旅館火災を受けて、この年代の後半には建築基準法や消防法がガンガン改正されている。また1970年代に入ってからも、市町村に対して消防関係の補助が出されている。

 金井ビル火災に対応した川崎市について言えば、この惨劇後、同市の消防局には31メートル級の梯子車が配備された。また全国の消防に先立ち、専任の「消防特別救助隊」が編成された。

 しかしその後の火災の歴史を見ると、激増する高層ビル火災と死者数の増大という事態に対して効果的にストップをかけるには、千日デパート火災や大洋デパート火災という最大級の大惨事とその反省とをまたなければならなかったことが分かる。

 もちろん、法整備や体制整備が全部ただの付け焼刃だったとは思わない。しかしそれでも、金井ビル火災の時点ではまだ「ナイロンロープ」だったことを考えると、やっぱり不十分なところがたくさんあったんだな……と切なさを感じずにはおれない。

【参考資料】
◆ウィキペディア
特異火災事例
◆中澤昭『なぜ、人のために命を賭けるのか』近代消防社・2004年
国土技術政策総合研究所 研究資料

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