戦後の「大火」は数あれど、この日暮里大火はその中でも妙に知名度が高い。
新潟、函館、山形などでも、火災史に名を残すような規模の大火は発生している。それらと並べると日暮里大火は比較的被害規模も小さいのだが、とにかく有名なのである。何故か?
思うに、それが発生した時代が独特だからなのだろう。高度成長期真っ只中、即ち「三丁目の夕日」の時代である。幸いにして死者が出なかったこともあり、この火災は悲惨な災害としてよりも、安心して語れるひとつの時代のワンシーンとして記録に残されることになったのだ。
1938(昭和38)年4月2日、午後3時頃のことである。日暮里町(現在の荒川区東日暮里)のさる工場にて、一人の従業員が喫煙していたのだが、彼がマッチの燃えさしを何気なく捨てたのだった。
彼が捨てた先は、水がなみなみと張られたバケツである。……と、てっきりそう思っていたのだが、そこに満たされていたのは水どころかシンナーだったからさあ大変。爆発するように火炎が上がった。
ああ、やっちまったよ。そりゃ火事にもなるわ。
文字通りマッチ一本大火の元、である。
しかも運の悪いことに、この粗忽者の従業員がシンナーにマッチを投げ込んだこの日は火災警報が発令されていた。北の風10から15メートル、湿度もたったの17パーセントである。乾き切った春風に煽られて飛び火を繰り返し、30棟以上の建物と5000平方メートルを越える面積が7時間で消し炭と化した。
かくして、日暮里大火は、戦後に東京で起きた火災としては最大規模のものとして語り継がれることになったのである。――ということはこの災害は、東京ではかの東京大空襲に次ぐ火災だということでもある。そう考えるとなんか凄い。
もともと日暮里という地域は閑散とした場所だったのだが、昭和になってから繊維業者達の移住によって工業地域として発展したという。
移住者の流入によって発展する町というのは、どうしても「たまり場」のようになる部分が出て来て都市化には至りにくい。そう考えると日暮里という地域は、どちらかと言えば周縁に属する地域と言えそうである。この辺りの事情は、近隣の三河島地区も似通っている部分がある。
関東大震災や日暮里大火は、そんな日暮里地区の区画整理や道路整備を推し進めるひとつのきっかけとなったのだった。
ところで、日暮里大火が発生した昭和38年といえば吉展ちゃん誘拐事件が発生している。有名な逸話だが、この誘拐事件で犯人と目された男が「俺は山手から日暮里大火を見た」と取調室で口を滑らせてしまい、その日東京にいなかったというアリバイが一気に瓦解してしまうという出来事があった。
また筆者の父親も、当時荒川区に住んでいた。
火災現場から15分程の場所から火事の様子を見ていたそうで、凄まじい黒煙だったという。記録を調べてみると、日暮里大火ではラバー工場のゴムタイヤ500トンが焼けたらしく、それで遠くからも見えたのかも知れない。吉展ちゃん事件の犯人と自分の父が、同日に同じものを見ていたと思うとなかなか感慨深い。
さらに、である。昭和38年という年号で見れば、この年は鶴見事故や三井三池炭鉱の事故も起きているのである。その上前年にはかの伝説の三河島事故も発生しており、空間的にも時間的にも、戦後を代表する大事故がここに集中していることになる。
確かにこれは独特の時代だったのだなと思う。大体、吉展ちゃん事件の先述の逸話にしても「出来すぎ」である。釈放寸前の容疑者が日暮里大火のことを口にしてしまったせいでアリバイが崩れるなんて、余りにドラマチックな昭和の香りに満ち満ちた演出ではないか。何か人智を超えた大いなる演出者の見えざる手を感じる……のは筆者だけだろうか。
【参考資料】
◆ウィキペディア
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