1956(昭和31)年3月20日のことである。秋田県能代市は昼からずっと風が強かった。正午の風速は9メートル、夕方には13メートル、夜には18メートルを超えるほどだった。
また湿度も低く、空気は乾燥状態。もうここまで書いただけで完全に死亡フラグというやつなのだが、しかし日本海側の地域のこと、少なくとも強風については、住民たちにとって驚くべきほどではなかったに違いない。
最初に出火は17時15分、明治町の製材工場だった。この火事によって工場二棟と周囲の住宅が燃えたものの、延焼は食い止められて19時30分には鎮火している。
めでたしめでたし。
えっ、「大火」はどうしたのかって?
まあまあ、そう先を急ぎなさんな。無関係じゃないのよ。
上記の通り、この日の「第一の火災」は程なく鎮火している。残り火は長くくすぶっていたため撤収作業はだいぶ時間がかかったようだが、とにかく火災は解決した。
問題は、この時の消火活動で、消防が大量の布製ホースを使い切ってしまったことだ。当時の布製ホースは一度使うと硬くなってしまい、再利用が難しくなるのである。
また、未使用のホースもあるにはあったが、これには穴が開いていた。つまり第一の火災に対応した時点で、いわば「消防力」は大きく消耗していたのである。これが、数時間後に起きた「第二の火災」で致命傷となるのだ。
そしてその「第二の火災」がやってくる。時刻は22時55分、望楼が畠町のボヤを発見した。
おいおい、またかよ?
気温3度、湿度63パーセント、風速14.5メートル、瞬間21.7メートルという、火が広がるには十分すぎる条件だ。
消防車二台が直ちに出動し、第一の火災から撤収中だった車両にも配置転換が指示された。しかし前述のように硬化したホースは使い物にならず、穴あきホースならいわずもがな。初期消火は遅れた。
畠町周辺は柾ぶきの木造住宅が密集していたこともあって火は一気に走り、日付が変わる頃には畠町を焼き尽くし、西は柳町、東は住吉町へと拡大していく。住吉町一帯は火の海となり、渟城幼稚園、八幡神社、護国殿などが焼失した。
さらに午前2時には新柳町と出戸沼方面も焼け、いったん火が弱まった畠町商店街も再び燃え上がったからたまらない。火は能代駅方面へ向かって進んでいった。
近在からの応援を含め、消防車23台、ポンプ13台、消防組員900人が消火にあたるも、現場は住宅密集地な上に強風が吹き荒れるという悪条件である。延焼を止めることは至難の業だった。
しかし午前3時頃には風向が東北東に変わり、ここで火勢はようやく弱まり始めた。午前5時30分には類焼のおそれがなくなり、7時30分に完全に鎮火している。
能代市では1949(昭和24)年2月20日にも、いわば「第一次能代大火」と呼ぶべきものが発生している。皮肉にも、此度の「第二次」能代大火が発生したのは、前の大火の復興完成記念式典が行われてからたった一年半後のことだった。当時の能代市民は肩を落としたに違いない。
第二次能代大火は、焼失面積こそ第一次大火より小さかったものの、焼けた戸数で言えば第二次大火の方が多い。これは、焼けたのが第一次大火とは異なる地区の住宅密集地だったためである。
具体的な数字を挙げれば焼失面積は約31.5ヘクタール、焼失戸数1,156戸、棟数1,475棟。被災世帯1,248、被災者は6,087人に上った。被害総額は約30億円だった。
第一次大火と異なり、死者が出なかったのは不幸中の幸いだったが、負傷者は194人にのぼっている。また新聞社、医院、郵便局、交番、百貨店など、生活に欠かせない施設も多く失われた。
火元は七輪の消し忘れとされている。
短い期間で二度も大火に見舞われたことにより、能代市は「火事のまち」「火都能代」という不名誉な称号を与えられることになったという。
SNSもインターネットも影も形もなかった時代、一体誰がそんな不謹慎かつ失礼な呼び名を与えたのだろう? と現代の目線で見ると不思議なのだが、当時の市長も支援要請に関する談話の中で「火都能代市の汚名」という言葉を使っていたというから、確かにそういうレッテルはあったのだろう。
ちなみに、戦後はあちこちの都市で大火が発生しているが、二度に渡る能代大火によって、焼失戸数ワースト6位と7位を同じ市が占めるという異例の状況となった。
とはいえ市役所が無事だったのは不幸中の幸いだった。行政の対応は迅速で、鎮火した当日の3月21日午前11時には緊急議会が開かれている。そして災害対策協議会の設置と100万円の追加予算が決定された。
もちろん秋田県も手をこまねいてはいない。さっそく災害救助法を適用し、物資と人員をガンガン送り込んだ。政府も厚生省と建設省の係官を派遣し、応急住宅の建設や区画整理の国庫負担を決めている。
被災した世帯は「自力再建」「補助があれば建設」「再建不能」の三種類に分類され、共同住宅355戸、公営住宅247戸、住宅金融公庫による240戸の建設が計画された。建設資材として木材22万5千石の特売も要請されている。
都市計画もすぐに動き出した。建設省の技官が鎮火当日には区画整理案を作成し、市街地の構造を大きく変える計画を示している。市営住宅300戸も建設されるなど区画整理は異例の速さで進み、9月には完了した。
また二度の大火を経て、能代市はようやく上水道整備に踏み切っている。同市では水利の不足が長年の課題だったのだが、これがようやく解消されたのである。
少し余談めくが、第一次能代大火の記事で筆者は「自然水利である米代川の水も使用不可(理由は不明)」だったと書いた。このため、各地から応援が来てくれたものの消火は期待するほど進まなかったのである。第一次大火の記事を執筆していた時は、なんでそもそも米代川の水が使えなかったのだろう? と疑問だったのだが、たぶん、そもそも整備されていなかったのだ。
さて、第二次能代大火の復興が迅速に進んだのは喜ばしいのだが、これにより市の財政は赤字で真っ赤っ赤の危機的状況に陥った。そこで10年以上にわたる再建計画を立てているが、当時、全国の自治体の中でもかなり厳しい部類の再建だったという。
ちなみに、現在でも能代市では花火大会が開催されており、一年に一度の大イベントとして盛り上がりを見せている。これは1958(昭和33)年に大火からの復興行事としてスタートしたイベントである。
【参考資料】
◆ウィキペディア
◆能代の花火
◆内閣府「防災情報のページ」