1976(昭和49)年から1975(昭和50)年にかけて、世界経済は戦後最も深刻な不況に陥った。もともと世界的にも低成長・安定成長時代への移行が進んでいたところへ、石油危機が拍車をかけたのだ。
これを受けて1976(昭和51)年の日本は不況からの脱出の年とされ、崩壊した経済体制の立て直しがはかられた。とはいえ一気に回復するはずもなく、同年の負債1000万円以上の企業倒産件数は1万5641件、負債総額は2兆265億円とそれまでの最高記録を更新するなど、日本経済は戦後最大の苦難を味わうことになった。
そんな時代背景の、1976(昭和51)年12月21日のことである。
この日は、一等1000万円の宝くじの発売日。「1等1000万円40本、あなたも1千万円長者にチャレンジしてみませんか」を謳い文句に、全国7300カ所の発売所で一斉にくじが売り出された。
ちなみに当時はまだ「ジャンボ」の名称はついておらず、特別くじと呼ばれていた。
不況の年の瀬に、庶民に明るい夢と希望をもたらす宝くじ。……のはずだったのだが、実際にもたらしたのは予想外の大混乱だった。全国各地の売場に群集が殺到し、死傷者まで出たのだ。
特に大きな混乱があったのは、東京・大阪・福岡・長野の四か所の売り場である。以下では、現場ごとに説明していこう。
【東京】
東京では、後楽園球場内の特設売り場で宝くじを発売した。なんと夜中の午前一時から人が並び始めて、その人数は一万人にも達したという。
この事態を受けて、宝くじを取り扱っている第一勧業銀行(現・みずほ銀行)もびっくり。並んでいる人たちに整理券を配ることにした。
しかし、この整理券の配布が仇となった。
この配布が最初から予定していたものだったのかは不明が。もしかすると、あまりに人数が多すぎたので、販売に制限をかけるための苦肉の策だったのかも知れない。いずれにせよ、主催者側は良かれと思ってやったのだろう。
しかし、順番待ちをしている群集に、途中からルール変更を強いるのは得策ではない。並んでいる人たちは興奮して騒ぎ始め、怒声と罵声が飛び交った。中には、寒さをしのぐために飲酒していた人もいたというからテンションが上がっていたのかも知れない。売り場のボックスが壊される騒ぎにまで発展し、しまいには機動隊400名が出動した。
それでも、宝くじの販売は予定通りに行われた。午前5時には群集は二万人にまで膨れ上がり、午前6時10分にくじの販売が始まると、六つあった売り場の窓口に群集が殺到。この時「順番を守れ」「何をするんだ」「馬鹿野郎」などの罵声が飛び交ったという。
【大阪】
次に大阪である。大阪の大阪の扇町公園の特設売り場でも、東京と同じように大勢の人が集まって、夜を徹して宝くじの販売スタートを待っていた。人数は、後楽園球場をさらに上回る約三万人にも及んだという。
この人数を受けて、販売する方もこれはアカンと思ったのか、予定時刻を繰り上げて午前3時に売り場を開けている。それでも結局大混乱となり、五名の負傷者が出た。
【福岡・長野】
そして次は福岡県福岡市中央区、平和台である。ここでは売り場に三万人が集まり、午前4時頃に男性一名が死亡。重傷者一名と軽傷者十数名が出た。当時の様子ははっきりとは分らないが、かなりの大混乱があったと思われる。何より死者が出ている。
で、最後に、長野県松本市の売場(詳しい場所は不明)である。ここでも3,500名が集まり一名の死者が出た。
ただ、長野県での死者は群集の混乱が原因ではなかった。売場に並んでいた年配の男性が、氷点下3.5度の中で寒い寒いと言いながら脳溢血で亡くなったのだ。ともあれ大混乱だった点は他の現場と同様だったらしく、当時は警察官50名が警備に当たっていたが、集まった人々を鎮めることはできなかった。
☆
以上が事故の顛末である。最終的には、この年の宝くじの販売では全国で二名の死亡者と25名の負傷者が出るという結果になった(40名とする資料も)。出動した警察官は1万640人。
また、大阪と福岡、また徳島では宝くじの販売そのものが途中で中止となったところもあったらしいが、これは府県単位で中止となったのか、それとも特定の売場で中止となったのかは分からない。
この全国的な大混乱に懲りて、その後1977(昭和52)年から、年末ジャンボ宝くじの発売は往復はがきによる事前予約制に変更されている。この販売方式は1995(平成7)年まで続いた。
【参考資料】
◆命がけの宝くじ - クール・スーサン(音楽 芸術 医学 人生 歴史)
◆時事通信社「ジャンボ宝くじ発売で死者」
◆NEVERまとめ
◆ウィキペディア
◆内閣府ホームページ「世界経済白書(年次世界経済報告)」
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