鉄道事故の分野でいえば、最も有名なのは参宮線六軒事故ということになるだろうか。あれは多数の死者が出た悲惨さそのものでも有名だが、いっぽう東海道線では火災事故が発生している。知名度はそう高くないのだが、今回はこの事例をご紹介しよう。
時は1955年(昭和30年)5月17日のこと。
日付も変わったばかりの午前2時19分。修学旅行中の学生たちを乗せた11両編成の列車が、原―田子の浦間を通過していた。
この列車は京都発東京行きの3138列車で、乗客は837名という大所帯である。いかにも「事故ったら大変なことになりそうだなあ」と思わせる乗客数だが、とにかく田子の浦駅はダイヤ通りの時刻に通過したし、ここまでは何も問題はなかった。
問題が起きたのは、静岡県原町の植田という地区の踏切に差しかかった時だった。なんとそこで一台の大型トレーラーが立ち往生していたのである。それは米軍のもので、列車の運転士は慌てて急ブレーキをかけたが間に合わずゴッツンコ。それでも列車は止まらず、百数十メートルもそのまま走行してやっと停止したのだった。
さあ、大変なのはここからだ。踏切で大破した米軍トレーラーには、よりによって揮発油を原料としたペンキが大量に積まれていたのである。どういう拍子でかそれに引火し、あっという間に周辺は炎に包まれた。
火炎は、緊急停止した3138列車にもたちまち燃え移っていく。特に3両目はトレーラーに近い場所にあったのか、燃え移るのが最も早かった上に焼け方がひどく、骨組みしか残らないほどだったという。
また他の客車3両と機関車が全焼、さらに1両が半焼に至った。つまり先頭の5両が焼けたわけだが、6両目以降は切り離して移動させたため無事だったという。
この事故の犠牲者は、まず重傷を負った者が2名。そして修学旅行中の子供たち11名を含む31名が軽い怪我を負った。死者はゼロだった。
え、ゼロ?
そう、ゼロなのである。
その場にいた鉄道関係者と乗客たちが、皆で力を合わせたのが良かったのだ。さらに、時刻は草木も眠るなんとやら――だったにも関わらず、周辺住民も駆けつけて協力してくれたのである。
住民たちにとってはきっと「田子の浦に 打ち出でてみれば火災にぞ 鉄道車両に 火の粉は降りける」という感じだったろうが、とにかくそれで車両の危険回避と乗客らの避難誘導が適切に行われたのだった。いやあ良かった良かった。人間やればできるもんだね。
戦後の鉄道火災事故といえばなんといっても桜木町火災だろうが、桜木町は鉄道事故史上屈指の死者数、されどこの東田子の浦では死者ゼロと、えらい違いだ。
ちなみにこの事故で被災した車両は、廃車とはならずに修理されてその後も使用されたという。個人的にはそれがどうしたという感じなのだが、生粋の鉄道好きにとっては外せない話題らしい。資料として読ませて頂いたサイトのどちらにも詳細な説明があった。素人には退屈な文章だが、とりあえず重要事項らしいのでそのまま引用しておこう。ウィキペディアからである。
「被災車両は損傷の著しいものがあったにもかかわらず全車廃車とならずに修復され、EF58 66は浜松工場で修復および甲修繕を施工、客車5両はオハ46形に準じた広窓、切妻、鋼板屋根の構体の新製と台枠の改造が行われ、スハ32 266は名古屋工場で構体載せ替えを受けオハ35 1314に改番、スハフ32 257は小倉工場で構体載せ替えを受けオハフ33 627に改番され、オハ35 342・923, スハ42 63は小倉工場で構体載せ替えが行われ原番号で復旧された。」
ところで米軍トレーラーはどうして立ち往生していたのだろう。補償はしたのだろうか。その辺りも気になるが、ひとまず今回はこれにて。
【参考資料】
◆ウェブサイト「JS3VXWの鉄道管理局」鉄道写真管理局珍車ギャラリー
◆ウィキペディア
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