(※掲載者注)
・本稿は「読み物」というよりもK氏の「メモ」の書き起こしである。・個人情報は削除あるいは伏字とした(読みやすさを考慮した結果、削除と伏字が混在している)。
・以上のことから、決して「読みやすい読み物」ではないのでご注意を。
・公の文書としては「不適切」な言葉遣いがあるかも知れないが、できるだけ原型のままの文章を掲載している。
軽便鉄道糸満線
爆発事故調査資料
53.12.28日
面接 76才
沖縄自動車学校の第1期生
県営鉄道は大正13年に開通
事故があったのは那覇の十・十空襲の日の午後3~4時
機関車の火が貨車のガソリンに引火した。7、8輌のうち2、3輌の貨車が吹き飛び機関車はその後も使用された。
後方の2、3輌は後に押し戻されて、津嘉山あたりまで押し流された。(燃えながら)
現場は人間の肉がちらばり、火災が発生し周囲のキビ畑を焼き、民家3棟を焼き、更に周辺に置かれた日本軍の弾薬が置かれ、それに引する。
翌日神里の部落民が後かたづけをした。空襲みたいに騒然となる。しかし死亡人員不明
東風平村、字屋宜原、東風平あたりの学生ではなかったのかとのこと、当時は軍統制で被害人員不明、自爆だろうとのこと、生存者不明。
53.12.28日
私は爆発時にはびっくりして出産間もない時であったが字山川へ逃げ3、4日くらい居た。
夫は当時区長であったが2、3年前亡くなった。ほとんど外に出なかったので詳しくは知らないが誰かが爆破したのではないかという噂もあった。爆発は午後であった。
53.12.30日
(当時13才)(夫妻)
(母親は畑にいた)
十・十空襲以前の3ヶ月くらい前のことであった。村の遊び場で爆発を見た。あわてふためき逃げ出した。
現場はしばらく軍が管理し立入禁止がしかれて一般の人々には知らされなかった。列車にはたくさんの人が乗っていた。
(兵隊、学生)
当時の学生
爆発は午後3、4時頃であった。
附近は人間が散らばっていた。死亡人員不明、何十人も死んだかも知らない。
戦後供養しに来る人もあった。爆発の原因は機関車の煙とつがらの引火と聞いた。
54.1.2 夫妻
爆発は十・十空襲以前であった。
屋宜原のモーの上で見た。原因は機関車からの引火と聞いた。大里村湧稲国に犠牲者が居たと聞く、
54.1.12
昭和19年の10月下旬か11月の上旬と覚えている。
私はニ中生であった。私が乗りはずした汽車が爆発した。十・十空襲以後も汽車は通っていた。東風平村に■■という人、当時ニ中2年生男子の犠牲者が居たと聞く、当時の新聞にも記事が出ていた。
?うるま新報、字富盛の■■■■、■■■■■も知っているのではないかと思う。
軍事教練によって敵と戦う気持ちであった。(正常でない)今日とは気の持ち方が違いよった。
54.1.12 労商総務課
犠牲者が居たと聞く。
当時一高女2年生
私は疎開していたために詳しく知らないが同窓生で詳しく知っている人が居る。
54.1.22
当時一高女2年
爆発は昭和19年11月初め頃に間違いない。
午後3時頃
当時既に那覇は焼かれ殆んどの人々が地方に下っていた。私達もその例で私は糸満に叔父が居たので糸満から1日置きに学校(一高女)へ通い、1日置きは■■■■■■の壕堀の手伝のため通っていた。
その日も■■■■■■■■■■も一緒で彼女達は一足先に汽車で帰った為事故に会った。その直後事故現場に走って行ったが何もかも吹き飛んで残ったものはなかった。
母親は戦後も生存していた
同期生生存者
54.2.6
それは昭和19年12月11日午後4時30分であった。
■■■■■とあと一人と3人で同年生■■もいた。
生存者
私もノイローゼ気味で明確には覚えてないが親戚の人につれられて東風平の学校だったと思うが■■の白木を取りに行った。十数人の中から■■のだけ持ち帰った、事故の数日後の或る日だったと思う。事故によって娘が奪われたことはまちがいない。■■に尋ねればもっと詳しく解るかも知れない。
54.2.8
爆発は■■さんの母が言っている通りだと思う。同年だがクラスが違うため、私はその日休みで自宅に居た。母親と一緒に葬儀に行った覚えがある。■■の腕は拾って来たと母は言っていた。それは弁当函とフロ式で解ったとのことである。
54.2.15
遺族なし、隣の人より聞く
間違いなくその時の犠牲者である。葬儀もやったはず
姉妹も一人■■■■が居るが■■。
54.2.16
母親より聴取
南風原の病院に収容されていた。
病院が満員で長くおれなくて家へ帰された。
帰宅して50日は自分で食事できなかった。
汽車には多数の衛生兵も乗っていたと聞く、■■。
54.2.17
その時3年生で昭和4年生16才であった。
昭和19年の末であったと思う
もう一人の生存者は■■■■である
沖縄出身の初年衛生兵が60人研修からの帰り乗っていたが全員死亡したと聞く
その時は汽車は一輌目がガソリン、二輌目は医療薬品が積み込まれ三輌目から後7台は貨車がつながれ弾薬が積み込まれて、その上に兵隊がたくさん(沢山)乗り込んでいた。
私達友人5人は二輌目の医薬品の間あるいはその外側にぶら下がるように乗り込んでいた。
一番後の貨車にも女学生が6、7人くらい乗り込んでいたと見受けたが、私は那覇駅から乗ったが既にガソリンと弾薬が積み込まれていた。兵隊のほとんどと後の貨車に乗った学生は古波蔵駅から乗りよった。神里あたり行くと汽車は止まるような状態になり、その瞬間パーと火が広がり、その瞬間私達4、5人(ぶら下がるように乗った者)は飛び降りて転がり、汽車の進む反対方向へ逃げ出した。
気がつくのと着けた着物と髪の毛に火が着いていた。夢中になって火を消しながらどんどん畑に逃げた。そのうちに兵隊につかまり着いた火も消され、■■の一軒屋に連れていかれ更に1時間くらい後で南風原小学校に運ばれていた。南風原小学校は臨時の野戦病院みたいになり、真黒く焼けた人、半身焼けた人、負傷者でごった返していた。
1週間くらい南風原小学校で手当をうけたがその間に母が来たし、■■で医者をやっていた■■も見えたし、その時の車掌の親も見えた。ほとんどの人が焼かれているので2、3日後からどんどん死んでいくみたいだった。
1週間後には家へ返され、自家手当であった。
友人の状況
■■■■ 生存
■■■■ 戦後病死
■■■■ その場で死亡
■■■■ その場で死亡
■■■■ その場は生存したが戦争で死亡
聞いた話だが飛び散人体の肉は拾い集めたら担架の13杯分あったとか
その当時から作業や学校には防空頭巾をかぶり、救急袋を持っていた。学校にもモンペイと学生の上衣くらいであった。
那覇駅は既に建物は焼き払われてなかったがホームは在り、汽車も通っていたので通学に利用していた、その日も私を含めて4、5人那覇駅で乗り込んだ。弾薬は既に積み込まれていた。
古波蔵駅に着くと60人くらいの初年兵と女学生(2高女)5、6人、それに山兵団百ニ、三十人が乗り込んだ。
津嘉山駅あたりでも女学生(1高女)2、3人作業帰りに乗り込んだ。
私は十・十空襲の時も学校へと汽車を乗っていたが那覇市が空襲であることを知り、汽車は国場辺りで止まった。そのため歩いて帰宅した。
その時の爆発は中部からだったと思う。
前の方から爆発していたらおそらく私達2人も生きてなかったと思う。
■■
■■は昭和4年生でその時2高女4年生、
その時は帰りが非常に遅いので歩いて捜した、すると南風原小学校の野戦病院に火傷して入っていた。その晩はそのまま泊めて翌日馬車を捜して連れ帰った、自宅で手当をした。その後戦争直前になってから最終便の船で大分県へ疎開させた。
54.2.22(木)■■
爆発があったのは昭和19年12月11日であった。その日は知事官舎で授業があり、古波蔵駅で乗り込み帰るところであった。
(校舎が十・十空襲で焼けた為)知事官舎で授業、南風原小学校の野戦病院で聞いたことだが兵隊は山部隊の2中隊だったとのこと、2輌目に女学生4、5人と兵隊7、8人が乗り込んでいた。私は医薬品の積み込まれている上に座っていた。事故の時は振り落とされるように溝に落ち、私の上に2、3人負いかぶさって来た。腕に火が着いていたので汽車の進む反対方に逃げた。そのうちに近くに来ていた兵隊につかまり、一軒家に行き間もなく南風原小の病院へトラックで運ばれて行った。
南風原小学校の病院では30人くらい見た。同病院には生きている人だけ運ばれ、その場で死んだ者は東風平の学校に運ばれたと聞いた。
同病院でもその晩に4、5人焼けただれた兵隊が死んでいった。苦しんでいた、その時の汽車に10人くらいは学生だったと思う、その時の事故で生き残った者は殆んどなくて結局私と良子と2人くらいじゃないかと思われる。他に生存者が居たと聞いた覚えはない。
乗込員兵隊2個小隊(1個小隊は60人)女学生10数人
54.3.6(火)(晴れ)
夕方、5時頃から糸■■、■■、3人で爆発地点踏査を行なう、一軒家確認喜屋武益駅確認
54.3.15 ■■(当時鉄道管理所勤務)
爆発は十・十空襲以後であった。十・十空襲以後は壕の中で事務処理をした
当時は軍が独占使用していたので爆発の原因など調査してない、従って被害状況も知らない。
54.3.18■■(73才)
中部から南部へ移動があったと聞く、嘉手納線の無蓋車(貨車)を古波蔵駅で継ぎ替えて糸満線に引かしたのだと思う、その時■■さん(車掌)が亡くなったと聞く。
十・十空襲以後は軍の勝手であり、私も直接見てないのでそれ以上知る余地はない。県鉄で手に負える状態ではなかった。
原因も機関車からの火花と聞くが人命の被害についても全く知らない。与那原に昭和16年から築城部隊が来たことはよく知っている。
54.3.18■■(当時■■勤務76才)
爆発事故があり人命の被害もあったと聞くが詳しいことは知らない。学生と兵隊だったと聞く。
当時■■駅長の■■紹介す
54.3.18■■(当時■■駅長)
私は十・十空襲の時、■■と共に那覇駅に居た。その後11月頃大分県へ疎開す。家族と共に沖縄に帰って来てから事故があったことを聞く。
十・十空襲、疎開以前には軍の弾薬輸送も当ったことはあったが全く軍の勝手であった。
生存者が居たらその人達の証言が正しいのではないかと思う。その後機関車がどこに行ったのか私も考えたことがあるが不思議にも知らない。
八重山産の石炭を燃料に使っていたので機関車の煙突から火花が散るのは当然考えられる。しかし原因については調査もされてないし関係者もほとんど死んで居ないので究明不可能と思う。人命の被害についても詳しく知らない。
1931(昭和6年)満州事変
平和の状態、別に不安はなし、方言札は大正の頃からあった。
1937(昭和12年)日華事変 2.2.6事変
平和の状態、農村ではそれ程影響はなし、不安はそれ程なし。
1938(昭和13年)国家総動員法公布
廃娼運動起る、遊郭通い自粛せよとの時代。
不安及びその他の動きはなし。生活への影響なし。建築資材については許可性となる、特に釘。
1939(昭和14年)物価統制命下におかれる
1940(昭和15年)日独伊3国同盟締結 大政翼賛会結成
皇民化運動が一段と県民生活の上に圧迫感を与えてきた時代である。
不安あり、生活物資は不自由が出始めた。特にガソリンは許可性となる。
あかがりがあった、特に教員
(日米間の緊張が極度に高まり世情も騒然となる)
「標準語運動」が拡大され沖縄方言撲滅運動に発展する。(方言論争白熱化す)
一般農村にもかなり不安と圧迫あり
柳宗悦ら同人26人「民芸協会」の一行は沖縄を訪れ、「標準語も沖縄語も日本の国語として共に尊重せられるべきである」と主張した。それに対して県当局は「沖縄は他府県と事情が異なるから同一に扱うことはできぬ」と反論、同化政策をじゃましては困るという態度をとった。これは沖縄にとって屈辱的な文化的自殺行為の強要であり、やがて「本土防衛」のために強要され引継がれる。標準語運動は農村でもあった。教員の監視きびしくなる。
1941(昭和16年)12月8日 英米へ宣戦布告 太平洋戦争始まる
真珠湾攻撃を知って喜んでいた状態である。
1943(昭和18年)特高警察の監視強まる
農村ではなし、目立つ動きはなし、しかし政治家に対しては監視強まる。民家でも慰安女が配置されていた。
戦局が著しく不利になってくる。
2月ガダルカナル島に転進、4月山本五十六戦死
5月アッシ島玉砕、そのために沖縄を軍事的に再認識し総理大臣東条英機が南方視察の帰途7月立ち寄る
昭和19年南方の戦局が不利になってきたので敵を迎え撃つための諸準備があわただしく進められるようになった。
1944(昭和19年)7月6日 サイパン陥落
沖縄から老人、幼児、婦女子、10万人島外へ引上げを政府から命令(疎開)
男子は病人、不具者60才以上16才未満とのこと(足手まといになるので退去させ、沖縄を要塞化するための強行措置であった。)
沖縄守備軍の沖縄本島集結は19年3月から20年2月の1年間に約10万に達した。
軍官民の昼夜兼行の工事、本島中南部の山や丘、海岸を掘り、地下壕、砲座、銃眼、たこ壷、特攻基地が次々と築かれ、そしてあらゆる建物は軍用に徴用された。
1944(昭和19年8月22日) 学童疎開船対馬丸7000トン撃沈さる
学童766人、疎開者を含めて1484人が悪石島近くの夜の海底に沈んだ、そのうち生存者は全部で177名(遺族会資料)
1944(昭和19年10月10日) 那覇市の大空襲
人口6万人の町は一日のうちに焼け野原となり市民はすべてを失った。
農村でも不安がつのる。
戦争前夜の異常性
1945(昭和20年) 3月上旬までには九州や台湾に8万人以上が引上げた
地獄絵図さながらの沖縄南部、壕を求めてあてどもなくさまよい歩く、砲煙弾雨の中を逃げ回る。
物凄い硝煙と地響きに魂消してしまう。
1945(昭和20年6月23日) 牛島軍司令官の割腹
自決によって沖縄戦は終結した。3ヶ月の戦いで沖縄県は壕滅した。学徒隊も男女合わせて980人が戦死。
未曽有の戦争犯罪
日本国民は悲痛な戦争体験を決して忘れてはならないし、水に流してはいけない。重要なことは戦犯追求をたな上げにして政治の反動化と軍国主義の復活を阻止することである。
54.3.28 ■■(当時機関助手)52才
私は爆発があったときは与那原に居た。
住宅は官舎
爆発した列車の機関手は■■
翌日は県鉄の職員同士で現場に調査に出かけた。現場には職員の持物など一切なく線路、枕木も吹き飛んでいた。(その後復旧して列車は再び運行していた)
その場で機関助手の■■は不明。機関手の■■は火傷はしたが生存。古波蔵駅長は■■
200人以上乗っていたと思う。
津嘉山に流されていた貨車には■■の定期乗車券が落ちていた。爆発現場は軍が縄張してあったが私達は調査のため入った。
54.3.28 ■■ 83才
爆発列車の機関手
(隠居で耳が多少遠くなっているが昼間なら何時でも会って話しが出来る)
私は昭和19年12月11日午前10時30分那覇駅発高嶺駅までの目的で軍事物資及び兵員の緊急輸送の為列車を運転、進行中稲嶺駅附近に差しかかった際突如列車に大音響と共に大爆発が発生し、列車は火に包まれ運転不能となった。同乗者の機関助手■■はその場で行方不明となり、兵員も多数爆死した。私は直ちにブレーキをかけたが数秒間の内に強烈な火のかたまりが機関車に吹き込み頭部、両手、両足に火傷を受けまた両耳は爆風で不調となった。
私は火の列車より脱出し近くの稲嶺駅に駆込み本部に電話連絡しようとしたが電話線が切れていて不能であった、そのため東風平駅まで行ったが同様不能であった。その後那覇の自宅へ帰り、那覇市若狭町に在った軍病院で火傷の治療を受けた。私はあの時奇跡的にも助かった、九死に一生を得たが今では精神的にも肉体的も苦痛の毎日を送っている。
あの頃は那覇駅は軍の物資集積所であった。機関車は11号、(那覇駅は十・十空襲の後も残っていた。焼けなかった。■■)
乗車兵員は300人くらい、貨車6、7輌
爆発原因は知らない。煙突から石炭の火花は出よった。
米軍(敵)を殺すために日本の工場で生産された武器と弾薬で同胞の人間が吹き飛び、肉が引き裂かれ、血を吹き出し、焼かれて死ぬのはまるで屠殺である。
54.3.31 ■■(71才)
私は十・十空襲以前から20年の3月まで那覇駅を見ていた、列車の爆発は午後4時頃だったと思うが那覇駅から機関車を出して現場に向ったが山川あたりから先へ進むことができず引き返した。
弾薬は那覇港で積み、那覇駅を経由して行ったと思う、爆発した列車には■■さんと、機関助手の■■に車掌2人、■■4人であったが■■さん一人が奇跡的に生き残った。
当時の貨車には一輌につき25人くらい乗れよった。
那覇駅は十・十空襲に焼かれ、貨物取扱い所だけが残っていた。それも軍が使っていた。
54.4.17 ■■ 71才
(電話による聞取調査)
私は爆発のあった日は■■駅に勤めていた。
何かと連絡があるかと思いそのまま東風平駅に滞在して居た。時間は午後の4、5時だったと思う。その汽車に乗って居た機関助手と車掌は死んだと聞くが人身の被害については知らない。その後の汽車は通らなくなっていた。
爆発の原因については他人の話しによるとタバコの火、又は煤煙ではなかったか?と聞くが確かなことは知らない。
機関手の屋嘉比さんが東風平駅に来ていたかどうかについても良く覚えていない。
当時稲嶺駅の■■は東京へ行ったが死亡したと聞く。
私は20年の2月に■■へ避難(家族と共に)したので助かった。
54.4.19 ■■ (当時機関助手 18才)
私達が乗った列車はその時上り列車で爆発した列車と国場駅で擦れ違い那覇駅に到着した時爆発音がした。その為何人かで那覇駅から機関車を出し爆発現場へ向ったが喜屋武駅から先へは機関銃や小銃弾の爆発によって進むことができず引き返した。焼けた貨車が津嘉山辺りに在るのを見たがその貨車には軍の毛布や衣類が積まれていたと見受けた、那覇駅での輸送責任者は■■、その人は捕虜になって東京へ帰った。
話しによると、その時の弾薬は嘉手納から那覇駅に運ばれ、そこから高嶺へ運ぶものであったとのこと、那覇駅は十・十空襲に焼け機関部の修理工場が残っていた。爆発は午後4時頃 原因・・・不明
その時の貨車は7輌くらい(1輌につき25人くらい乗れた)
その時の機関車11号
その時乗っていた人、100人くらい
54.4.19 ■■ (当時県鉄工事技手)75才
その時私は高嶺駅に居た。(事務所)午後2時頃
その時の貨車5、6輌
乗った兵員 50~60人
乗った学生 50~60人
原因は確かなことは知らないが煤煙ではなかったのかな・・・?
あるいは煙草も考えられる。
爆発の2、3日後から復旧工事を始めた。まだ処々に人間の肉が散らばり列車の車輪や破片が散らかっていた。
爆発地点は大きな穴となり、列車の一部も突っ込まれていた。
糸満線は大正12年に建設された。
54.4.21 ■■
那覇駅には球部隊司令部運送係■■(五長)がいた、
それを知る人■■(当時軍属)■■勤務、
11号車では8輌くらい引くのは十分可能、客車は35人くらい、貨車には30人くらい乗れた。
54.4.21 ■■(当時天鉄)
爆発は11月中旬頃だったかと思う。
私は那覇駅にいた。
時間 午後4時頃
その武器弾薬は嘉手納辺から那覇駅に運ばれ、那覇駅から高峯駅へ運ばれるもの、現場へ行った。国場で降りて津嘉山で貨車を発見、翌日も同僚を捜しに行った。
布切を探して来た。
移動は部隊の入れ替えだったと思う。
(武部隊の後)
貨車7、8輌くらい
人数、兵隊150~200人、学生30人くらい。
■■ (伍長、運送係)
事故は何時?
部隊名は?
被害者の人数・兵員?民間人?
武器弾薬の輸送経路は?
事故後の措置は?
被害者の公務扶助について?
54.6.21 TEL
35年前のことで記憶にないとのこと、事故があった時からおさえる役を授かったとの返事、しかし記憶にないとのこと。
54.5.9 ■■ (■■勤務)
(TEL聴取)
球兵站本部は十・十空襲以前は通堂町にあった。事故に関連して護国寺で慰霊祭が行われていたと覚えている。
■■がくるとすれば私の所へ連絡がある。何かあったら連絡し会うことを約す。
後で連絡を頼んだ。
事故の在った日、昭和19年12月11日午後4時30分
運転手(機関手)■■
その日は晴れていた、しかし昼後は小雨があった。
貨車 9輌・・・当時の機関車の力では無理
8輌 7輌
8輌
8輌
7輌
乗車人員220人
10人+60+150・・・1個中隊 中尉指揮
女学生、初年兵(衛生)
300人・・運転手 100人助手
170(兵)+300(学生)・・・助手
25×8=200 1車輌につき25~30人
220人、300人、100人、200人・・・平均205人
学生死亡者 ■■、■■、■■、■■、■■、■■、
■■、■■(生存 ■■、■■)
国民は、国策という名のもとに軍隊に駆り出され帝国主義戦争行為を行ってきた。
(戦争へ加担してきた)ことにはまちがいない。
54.6.29 ■■(当時看護婦)
TELにて事情聞く、知らない 協力は約す。
知っていそうな人は ■■病院 外科婦長
54.6.29 ■■(当時車掌)
その時の弾薬は北谷から運ばれた、そのことを知っている人
54.6.30 ■■(当時■■駅捜査係)
山部隊
120~130人くらい、7輌くらい
その時■■軍曹も一緒に山川まで行った。津嘉山駅まで無蓋車流れてきて7、8人の学生が(男子含む)助かっていた。
翌日も現場に行った。軍からは口止されていた。■■軍曹は■■さんか、■■
■■軍曹は死亡している。
54.7.15 ■■(当時軍属)
私は昭和19年3月に女学校を卒業し間もなく武部隊へ軍属として配属された。しかし武部隊が台湾へ転出したので次の山部隊へ配属となり、家に帰ることはできなかった。
私達女子3人は軍属として■■に宿を取り、衛生隊の仕事を手伝う。私達が山部隊へ配属された当時東風平の国民学校で調済の仕事をしている時、隣では列車爆発事件の死亡者の集団葬儀が行われているのを見た。又、私達の宿の後(安谷屋小)は同部隊の事務所であったが、その中の一軍曹は列車爆発事件の生き残りでかなり火傷をしている人であったがその後■■で死亡した。私達はその後八重瀬の第1野戦病院に転勤となり、■■で捕虜となった。生存者は私と同僚1人で他の者の生存者を知らない。
54.7.19 ■■(当時富盛駐屯輜重連隊6中隊)(電話聴取)
輜重隊員も20人くらいは爆発事件に合ったと聞く、弾薬の輸送は輜重隊と、その部隊たとえば(砲兵隊)と一緒であるから与座当りの砲兵隊も被害を受けたのではないかと思われる。
54.7.22 ■■
読谷村から島尻への移動は歩いて、列車は全く利用してない。爆発については全く知らないし、聞いたこともない。西線を歩いて来た。
54.7.23 ■■
全く知らない、読谷村から西線を歩いて糸満に着いた。爆発事件については全く知らない。聞いたこともない。
54.7.23 ■■
第2大隊は具志頭村与座へ進駐
第2機関銃渡辺中隊
連隊長は東風平国民学校へ駐屯
歩兵第89連隊史あり(破竹)
その中に19年12月11日神里の爆発事故で第2中隊の■■1等兵第5中隊の■■1等兵が重症とある。
東風平野戦病院で死亡 (302ページ)
(ヤミからヤミへ葬り去る 奪われた人生を取り戻す意味がある)
54.7.30 ■■ (戦時中 中隊長)
爆発事故について知っている。しかし調べて文書でないといけない。協力を約す。
54.7.31 ■■ 再聴取
■■は曹長であった。生存については不明
爆発事故のあった字神里は暫くの間私服刑事が回って居た。刑事の一人は顔見知りでよく見かけた。したがって警察の方でも一応知っていたとみなければならない。スパイの嫌疑をかけていたかもしれない。
54.8.18 ■■
遊覧船の中で話し合う。しかし爆発事件については知らない。■■紹介す。
54.8.18 ■■
私は昭和19年10月15日山田国民学校で入隊し、それから美里国民学校で軍隊の教育を受けた。特に衛生兵に指命されて衛生兵の研修を受けていた。しかし部隊の移動があり12月の初旬に東風平の国民学校に移り、約2ヶ月くらい研修を受けていたがその後冷鉾田(ヒヤムタ)中隊付の衛生兵として配属された(名城)大隊は真栄里駐屯連隊本部は大城森であったと覚えている。
部隊名と部隊長名は忘れている。私達が東風平の国民学校に着いた2日くらい後で爆発事件は起っている。その日現場に行かされ東風平の学校に死体を運びそこへ安置する作業をさせられた。その後はタッチしてないのでどうなったか知らない。研修も上の学校で美里から東風平へ移動する時は夜を徹して行軍であった。行軍できないものは一般兵も初年兵も嘉手納へ送られ列車で運ばれたのでその人達が爆発に遭遇している。
県鉄 史市編集室
大正3年11月28日
那覇――(8キロ)――与那原
大正11年3月
那覇――――――嘉手納
大正13年7月
那覇――――――糸満
最後 昭和20年4月5日頃
事件直後、日本の憲兵による取調べを受けた。
その時の状況は?
原因については?
県鉄に入る前は船乗り
大阪商船の荷物船→名瀬丸へ乗る
次の荷物船→桜木丸 600屯
次の荷物船→京都丸2500屯 青年の頃
54.9.7 ■■
那覇停車場指令は十・十空襲以前からあった。しかし、十・十空襲以後は軍は優先的に貨物運搬をし、郡の独占となって行った。
54.11.9 ■■
元沖縄県鉄道技手 ■■ 明治■■日生
1921年(大正10)3.28 県鉄車輌夫となる
(次の天皇来島) 機関課勤務 日給50銭
1923年(大正12)6.30 日給60銭
1925年(大正14)3.31 日給70銭
1927年(昭和 2)3.31 日給80銭
1929年(昭和 4)4.1 機関助手となる 日給90銭
1931年(昭和 6)6.30 沖縄県鉄道管理所雇となる 日給99銭
1933年(昭和 8)4.1 機関手となる 月棒30円
1935年(昭和10)12.31 月棒33円
1937年(昭和12)3.1 月棒36円
1938年(昭和13)4.1 沖縄県鉄道技手 月棒40円(免許)
1940年(昭和15)3.31 月棒43円
1941年(昭和16)6.30 月棒47円
1942年(昭和17)12.31 月棒57円
1943年(昭和18)9.30 月棒64円
1944年(昭和19)12.31 月棒70円
1967年12月4日政府保険庁年金課へ提出
青年の頃■才までは船乗をした。結婚によって県鉄に入る。昭和19年運転手12人で4回交代のダイヤが組まれていた。
昭和18年東条英機来島の時見た。
機関車の次の貨車は必ず有蓋車をつなぐことになっていた。
爆発の時スピードは落ちた。
稲嶺駅へ走り、東風平駅へ走ったが電話通じなかった。東風平駅で電報を打つ、東風平駅から県道沿いに歩き、山川駅で休んでいたら、県内務局の職員が車をもって来ていたので、その車で那覇駅へ行き、自宅へ帰った。
翌日から県立2高女裏にあった軍病院に通い焼け傷の治療を4、5日間やった。その後また県鉄(運転)で働くよう通知があったが行かなかった。
内務部→土木課→沖縄県鉄道管理所(独立会計)→各駅
学務部
警察部 雇員以上は知事の辞令 以下は管理所長辞令
庶務課→人事
運輸課→各駅の指導
鉄道管理所 会計課→会計及監査を受ける為の事務
車輌課→機関庫、車輌管理
工務課→建課、線路建設(土木)
那覇駅―駅長―助役2人 機関手、機関助手、転徹(徹手)、駅手、車掌
出礼係、貨物係
独立会計
鉄道
鉄道建設資金は日本赤十字社から借入3路線建設までには200万円負債となっていた。各年の財務諸表には200万円記債戦争前までには10万~20万くらいになっていた。
日赤から借入れする場合は県が保証人となり、赤字が出れば県が保証することになっており、黒字が出れば県の資金になることもあった。2高女が焼けた後の復興資金に3万円取上げられたこともあった。
地方鉄道法に基づいて鉄道省から5万円くらいの補助があった。
そのためには毎年鉄道省の監督局から鉄道管理所の会計監査を受けなければならなかた。
県鉄は―沖縄県鉄、岩手県鉄、宮崎県鉄 あったと聞く
県鉄職員 総員200人くらい
管理所 約30人
機関手 約20人
機関助手 約30人
車 掌 約30人
駅 手 約20人
徹 手 約15人
その他 約55人
計 200人
55.2.1 ■■
那覇駅 総員40人くらい
駅長(1人)→ 助役(2人)→ その他
19年の6、7月から停車場指令が置かれる。(武部隊)指令員5人くらい、事務所は管理所長室に置かれた。
十・十空襲後は駅員は貨物小屋へ
19年3月球部隊→ 6月から武部隊→ 十・十空襲後球
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