◆八高線列車正面衝突事故(1945年)

 これは想像だが、鉄道職員に対して「最も不名誉な鉄道事故はどんなものか?」と問うたら、きっと正面衝突事故だと答えるのではないだろうか。

 なぜなら、正面衝突事故だけはどうにも弁明のしようがないからだ。

 同じ鉄道事故でも、脱線や転覆や火災の場合は原因が人的ミスとは限らない。よってすべてのケースにおいて鉄道職員が恥じ入る必要はない。だが正面衝突だけはもう明らかに人災である。衝突した車両のどちらかは、まず絶対確実に、連絡不足や勘違いなどの人的ミスで発車せられたに違いないからだ。

 その意味で、今回ご紹介する八高線列車正面衝突事故は、日本の鉄道史上最も不名誉な事故と言えるかも知れない。正面衝突事故である上に、死者数は本邦一ではないかとも言われているのだ。

   ☆

 国鉄八高線(はちこうせん)は、関東地方のローカル線である。東京の八王子駅と、群馬県高崎市の駅を結ぶから「八」「高」線。ふむふむ、なるほど。

 1945年(昭和20年)8月24日。玉音放送もまだ記憶に新しかったであろうこの日、八高線の路線沿いに住む人々が不自然な列車の音を耳にしたのは、午前7時40分のことだった。

「変だな。なんでこんな時刻に列車が?」

 いつもなら、この時刻に列車の通過はないはずだ。住人たちは、列車の通過時刻ならなんとなく身体で覚えている。中には列車の通過音を時計代わりにしていた者もいたほどだ。

 この奇妙な列車が実際に走行しているのを目撃していた人物がいる。当時の昭和町大神に住んでいた男性で、時刻表とは全く合わない時刻に汽車が鉄橋を通過してきたのだ。その鉄橋の北には拝島駅があり、そこから上り列車がやってきているのである。

 そしてさらに奇妙なことには、鉄橋の反対側からも一本の列車が走ってきていた。小宮駅からやってきた下り列車である。

 鉄橋は一本しかなく、しかも単線である。そこに2本の列車が差しかかろうとしている――。だが目撃者の男性も、その見慣れない光景の恐るべき意味にはとっさに思い至らなかった。そしてこの直後、2本の列車は鉄橋上でものの見事に正面衝突と相成ったのである。

 辺りに轟音と地響きと悲鳴が響き渡り、たちまち機関車の先頭部分はめちゃくちゃに破壊された。そしてその一部分と、破壊された客車と乗客たちがボロボロと鉄橋から落下して濁流に呑まれていく――。鉄橋の下を流れる多摩川は、連日の暴風雨で増水していた。

「おい息子! 半鐘だ、半鐘鳴らせ!」
「うんわかったよ父ちゃん!」

 カーン、カーン。事故を目撃した男性はすぐさま息子に半鐘を鳴らさせ、集落に非常事態発生を知らせた。

 村人たちも、それぞれ鉄橋の衝突音や鐘の音を聞きつけて外に飛び出してきた。村全体に緊張が走る。鐘を鳴らしていた少年は、彼らにすぐさま川へ向かうように叫んだ――。

 現場は壮絶だった。衝突した2本の列車は完全に食い込み合っており、少し離れて見ると1本の列車かと見紛う状態になっていた。

 この時代の汽車は、先頭に機関車があり、次に炭水車があり、そして客車、という順序になっている。それでこの衝突事故では、まず上り列車の客車の1両目が、前後の炭水車と2両目の客車から挟まれてしまいバラバラになって多摩川の藻屑と消えた。また2両目以降の客車も大きく破損した。

 下りもひどかった。1両目の客車は2両目によって乗り上げられ、のしいか状態となっていた。

 乗客は、誰もが戦争の時代をやっと生き延びた人ばかり。上りには疎開者、通勤者、女学生などが乗っており、また下りには陸海軍の復員軍人たちが多く乗車していたという。

 車内は押し潰された者、挟まれた者、切断された者、激突した者の血と悲鳴とうめき声で満ち満ちており、この世の地獄のような状態だった。また生き残った乗客も、何人もの人々が助けを求めながら濁流に呑まれて行くのを目撃している。

 最終的な死者は104人に及び(105人という説もあり)、行方不明者は推定20人。そして重軽傷者は約150人という稀に見る大惨事である。

 さらに多摩川に転落した人はもっと多いとも言われており、それを含めればこの事故は本邦の鉄道事故では最大の死者数なのではないか、という説もある。

 現場が鉄橋のド真ん中だったこともあり、負傷者の救助は難航を極めた。とにかく下の川が増水しまくっているので、一体何人の乗客がどこまで流されていったのか見当もつかない。また救助作業をしていても、何かの弾みで怪我人や破砕車両が橋から転落する可能性だってある。

 さらに、粉砕された車両の撤去方法も大問題だった。損傷の少ない車両は牽引すればなんとかなったが、完全にスクラップと化した車両はそれぞれ食い込み合っている上に鉄橋そのものにも嵌まり込んでいる。ちょいとクレーンで引き上げて持って帰るというわけにもいかない。ここはもう、豪快に多摩川へ引き摺り落とすしかなかった。

 こうして、この事故の事故車両は、最終的には多摩川の底に沈めれたのだった。今でも、台風などで川底が浚われると、これがひょっこり顔を出すことがあるという。

 え、なんか締めの文章みたい、だって? もう終わりなのかって?

 いえいえ、そんなことはありません。この事故はここからが本番なのです。そもそもなぜこんな大惨事が発生してしまったのか、次の節からはその経緯をお話しするとしよう。

 長くなるので、じっくりお付き合い頂ければ幸いである。

   ☆

 終戦直後、関東地方は22日から台風に見舞われた。快晴かと思えば暴風雨が荒れ狂うというおかしな天気だったという。

 この1週間ほど前には終戦を迎えたばかり。まるでその天候は、冷め遣らぬ血気と将来に対する不安が渦巻くすべての日本人の気持ちを代弁しているかのようだった。

 この台風は、こと鉄道に関しては多大な影響を及ぼしていた。例えば東海道線は土砂崩れで一部が不通。山手線や京浜東北線も河川の切断により不通になるという有様だった。

 そんな中での8月24日である。八高線小宮駅の朝の空模様もひどいものだった。夜勤をしていた駅長のFと、駅務掛のMは午前4時半に起床したが、昨夜からの暴風雨は相も変わらず荒れ狂っていた。

 しかも悪いことに、この日は電話までもが不通となった。小宮駅の北には拝島駅があり、南には八王子駅がある。そのどちらにも連絡が取れなくなってしまったのだ。ちょっとした「陸の孤島」状態である。

 おいおい誰ですか、「電話が駄目ならメールすればいいじゃん!」とか言ってるのは。これは終戦直後の話なのである。今の時代から見れば信じられないほど不便な通信状況だったのだ。

 これは大変である。小宮駅にとっては非常事態だ。

 列車の発着にあたり、拝島と八王子への電話連絡は不可欠である。各駅を繋ぐ線路は単線――つまり線路が一本だけの路線――なので、上りと下りは必ず駅と駅の間を交互に走らなければいけないのだ。もし2つの駅で上り下りを発車させれば衝突は必至である。

「今から、こっちから列車出すから、そっちは出すなよ~。どうぞ」
「了解した、こっちは列車出さないよ~。どうぞ」
 
 というやり取りが必要なのだ。

 では、今回のように駅と駅の間の連絡が不能になったらどうすればいいのだろう?

 答えは簡単である。当時の国鉄職員のいわばコンプライアンス・マニュアルである『運転取扱心得』にちゃんと書いてあるのだが、こういう場合は「指導法」というやり方が採用されることになっているのだ。

 では「指導法」とは何か?

 なんのことはない。駅員が駅と駅の間を直接行き来して、列車の発着の打ち合わせをするというやり方である。

 以前、東北本線の衝突事故のことを書いた折に、「通票」もしくは「タブレット」についてお話ししたことがある。指導法というのはつまり、駅員がこの通票もしくはタブレットの代わりになる方法なのだ。

 有り体に言えば「人間タブレット」である。この役割を担わされた駅員は、連絡係であると同時に、自らが通行許可証そのものとなるのだ。

 というわけで、陸の孤島と化した小宮駅は、この指導法を採ることにした。これによって、北の拝島駅それに南の八王子駅と連絡を取らなければならない。

 では、具体的にどのような段取りで進めるか――。小宮駅のF駅長は考えた。

 ところで、ここで先に断わっておくが、この事故はここから先が少しややこしい。駅と駅の間の列車の発着順序がころころと入れ替わった上に、駅員同士の認識のズレがあるものだから、事実関係が複雑になってしまっているのだ。それに参考資料もどちらかというと事故の悲惨さが強調されており、事故に至る経緯に関する文章はどうも分かりにくかった。ここではできるだけ分かりやすく噛み砕いて書くつもりである。

「よし、とりあえず拝島駅からは、時刻表通りに汽車を発車してもらおう。小宮駅に来るはずの第四列車を出させるのだ」

 駅長Fはそう決定した。

「そしてさらに、小宮駅からは、拝島駅への下り第三列車を出すのだ」

 第三列車とか第四列車とかいうのは、奇数が下り列車、偶数が上り列車という意味らしい。この数字は必ずしも発着の順序を表すものではないので、ご注意頂きたい。

 とりあえずF駅長の決定を図式化すると、こうなる(図1)。

 (図1)


 稚拙なイラストで恐縮だが、まあ読者の皆様は、こんな「ゆるイラスト」で肩の力でも抜いて頂ければいいのかな、と思っておるところでございます(などと官僚的答弁を行っておるところでございます)。

 さてFは、この決定に基づいて、駅務掛のMに指令を下した。

「M君、すまないが君は拝島駅に行ってくれ。そして、いま私が考えた順序で列車を発着させることを伝えてくれ」

 はいはい了解。こうしてMは「人間タブレット」としての役割を担わされた。

 少し細かく言えば、ここではMは、まだ小宮駅から一方的に派遣されるだけの「適任者」という存在である。

 だがMが拝島駅に到着し、拝島駅で駅長Fからのメッセージを了解すると、Mの肩書は「指導者」にランクアップするのだ。

 この「指導者」というのは、この場合で言えば、拝島駅から発車する上り第四列車に乗り込む役割を負うことになる。

 そして指導者Mが乗り込んだ上り第四列車が小宮駅に到着し、Mが再び姿を見せることで、小宮駅ではこう考えるわけである。――「ああ、指導者のMがこの列車に乗ってきたということは、さっきのメッセージは無事に拝島駅に伝わったんだな」と。

 そうすれば、小宮駅は安心して、次の下り第三列車を発車させることができる。

 この時、線路が一本しかない(つまり単線である)この拝島駅~小宮駅間で、安全に列車を行き来させることができる唯一の方法がこれだった。

 安全ということを強調するなら、いっそ「電話が不通になったので無理をせずに運休にする」という選択肢があってもいいんじゃない? とも思うのだが、それは現代の視点から見た話である。この当時はまだ、安易に列車を停めるのは鉄道職員にとっては「恥ずべきこと」とされていたのだ。

 時刻は午前5時20分。指導法における「適任者」としての命を受けたMは、徒歩で拝島駅へ向かった。

 このMはさぞ生きた心地がしなかったことだろう。なにせ未明の暴風雨の中を走らされるのである。しかも途中の多摩川にかかった鉄橋は、もともと人間が渡るための構造にはなっていない。ガードレールもない鉄路をよちよちと進まなければならないのである――。

 さて次に、小宮駅では八王子駅に向かう「適任者」を決めなければいけなかった。

 八王子駅は、拝島駅とは反対方向の駅である。実はこのままだと、八王子駅での発着順序が拝島駅のそれと矛盾するのである。調整しなければならないのだ。

 つまりこういうことである。

 先述した、小宮駅のF駅長の決定通りだと、まず上り第四列車が先に拝島駅から小宮駅に到着することになる。そして次に下り第三列車が小宮駅から拝島駅へ行く――という順序になる。

 だが八王子駅での列車の発着順序は、下り第三列車が先で、上り第四列車がその次――ということになっている。図で記すと以下のようになる(図2)。

(図2)


 つまり、下り第三列車と上り第四列車は拝島駅~八王子駅間でひと続きなのである。ただ途中で小宮駅を経由する、ということで、F駅長の決定通りだと拝島駅~小宮駅間、小宮駅~八王子駅間の発着順序が矛盾したものになってしまうのはお分かりだろうか。図の①②の記号と、本稿の説明を見比べて頂くと分かると思う。

 というわけで、八王子駅での上りと下りの発車順序を逆にしてやらねばならない(※1)。

 (※1)ということは、「拝島駅発の上り第四列車を先に発車させよう」というF駅長の判断は、時刻表とは矛盾したものだったのだろうか? しかし先述の通りF駅長は「時刻表の通りに第四列車を先に発車させよう」と考えたことになっている。これはどういうことか。おそらく、暴風雨のためダイヤに遅れが出ており、順序で言えば後で発車させるべきだった上り第四列車に「先を譲る」ことで無理やり時刻表に合わせようとしたのではないかと思う。ここはあくまでも筆者の想像であるが。

 F駅長「よしA君、今度は君が八王子に行ってくれ」
 A駅務掛「了解しました」

 というわけで午前5時30分、A駅務掛が「適任者」として送り出された。

 ここまでは問題がなかった。

 ところが午前6時5分に、F駅長の判断をぶれさせる出来事が発生した。一台の蒸気機関車が小宮駅に到着したのである。F駅長は驚いた。つい30分ほど前に2人の適任者を送り出したばかりなのに、何事だろう?

「なんだ? こんな機関車が来るなんて時刻表に書かれてないぞ」

 この蒸気機関車は八王子駅から来たものだった。客車がなく、先頭の機関車だけのものである。乗っていた運転轍手のHは、F駅長にこう知らせた。

「電話が壊れて連絡が取れなくなったので、八王子駅から打ち合わせに来ました」

 なるほど、そういうことか。言われてみればそういうすれ違いもありうる。

 H運転轍手は、八王子駅長が発行した打合票(証明書のようなものらしい)を示した。そこには「第七〇五一単機伝令者第三列車指導者」と書いてあったという。

 この「第七〇五一単機伝令者第三列車指導者」という表記もなんだか分かりにくい。少し説明しよう。

 第七〇五一単機、というのは機関車のことである。そして伝令者というのは「ただ伝えに来ただけの人間」という意味である。

 そして最後の「第三列車指導者」だが、これは先述した「指導者」のことである。「適任者」のさらにランクアップした肩書きで、端的に「列車を引っ張ってくる人間」という意味を持っている。

 ということは、このHが指導者である以上、彼が引っぱってきた機関車の後ろからは下り第三列車がやって来るということなのだ。

 どうも八王子駅は、小宮駅のように「適任者」を派遣することもせず、「俺んとこから下り第三列車を出すから、あとはそっちで調整してくれよ~」といきなり「指導者」を送り出したものらしい。こういうやり方もアリなのかと筆者としては首を傾げたくなるのだが、とにかく事実そうだった(※2)。

 (※2)もっとも、この後で小宮駅に到着した第三列車には、F駅長がさっき送り出したばかりのA駅務掛がきちんと指導者として乗り込んできている。だから結果的には運行上の問題は無かったようなのだが。

 さて、この第七〇五一単行機関車の到着によって、小宮駅のF駅長はピンと閃いた。そうだ、こいつを利用しない手はない――!

 実はF駅長は、先だって拝島駅に送り出したM駅務掛が心配だったのだ。Fは勤続26年のベテランで、もちろん与えられた役割はきちんとこなすだろう。だがこの未明の暗闇の中、しかも暴風雨の状況で送り出したことが気がかりだったのである。

「うん、やっぱりMが可哀想だ。予定を変更して別の運行順序にしよう!」

 おいおい、大丈夫なんかい。

 誰かが止めてあげれば良かったのだが、駅長に助言できるような駅員はもう残っていなかった。

 それに、F駅長の衝動的な判断には、他にも理由があった。

 上り第四列車を先に発車させ、その後で下り第三列車を発車させるというのが当初の計画だったことは先に述べた。実は、小宮駅に到着した第七〇五一単行機関車は、このまま「上り第四列車」として再び小宮駅に戻って来る汽車だったのである。

 つまりこういうことだ。第七〇五一単行機関車は、このまま小宮駅を通過すると拝島駅もさらに通り抜け、その先の東飯能駅へ着く。そしてそこで客車を牽引しながらUターンし、「上り第四列車」としてやってくる予定だったのである。

 第七〇五一単行機関車と上り第四列車は、こういう関係だったわけだ(図3)。

(図3)


 するとどうなるか。

 今、第七〇五一単行機関車の後ろからはすぐに下り第三列車が来るという。

 よってF駅長の最初の決定通りに、その下り第三列車を上り第四列車の到着後に小宮駅から発車させるとなると、下り第三列車は小宮駅でかなりの時間待たされることになる。

 なぜなら、第七〇五一単行機関車が東飯能駅でUターンして、客車を牽引しながら上り第四列車として小宮駅に到着するのを待たなければいけないからだ。

 そうすれば、時刻表にもさらなる大幅な遅れが出るだろう。それは、F駅長としては出来るだけ避けたかった。

 そこでF駅長は考えた。

「間もなく小宮駅に到着する下り第三列車を、さっさと拝島駅に送り出してしまった方が、遅れも出ないで済むなぁ」

 そしてこう結論した。

「よし、さっきは拝島駅に上り第四列車を先に発車させるよう伝令を送ったけど、反対にしてしまおう。小宮駅から先に下り第三列車を発車させるのだ!」

 さらに解説しておこう。要するにこういうことである(図4)。

(図4)


 前掲の(図1)と比べて頂くと分かるであろう。まるきり逆である。

 ここまで読んで、おいおいそれって大丈夫なの? と思った方もおられよう。

 そう。さっきF駅長は、上り第四列車を先に発車させよ、という伝令をMに託して拝島駅に送り出している。それなのに、こちらから第三列車を送り出したら正面衝突になるのではないか?

 ところが大丈夫。F駅長には目算があった。

 先述の通り、上り第四列車が小宮駅に向かってくるのは、第七〇五一単行機関車が東飯能駅に到着して以降ということになる。

 その、第七〇五一単行機関車の東飯能駅でのUターンにはある程度の時間を食うのである。

 よって、上り第四列車が拝島駅に到着・発車するタイミングよりも先に、小宮駅を発車した下り第三列車は拝島駅に着くだろう――。F駅長はそう考えたのである。

 まあ確かに、その通りなら小宮駅・拝島駅間で列車が正面衝突することはない。それにしても、素人にはほとんど綱渡りにしか見えないやり方だ。

「というわけでOちゃん。君ちょっと拝島駅に行って、運転の順序が変更になったって伝えてくれる?」

 F駅長がそう命じたのは部下のOという女性である。まだ19歳の若い子だ。

 O嬢には、先ほど小宮駅に到着した第七〇五一単行機関車に乗ってもらった。そして彼女には拝島駅で下りてもらい、後でそこから発車する上り第四列車に「指導者」として乗り込んでもらうのだ。

 つまり彼女は、第七〇五一単行機関車に乗り込んで一度拝島駅で下り、さらに東飯能駅で客車に連結してUターンし戻ってきた第七〇五一単行機関車(つまりこれが上り第四列車である)に乗り込み、また小宮駅へと戻って来るのである。

 F駅長は、さらにこう付け加えた。

「それで、拝島駅に向かう途中でM君を拾ってよ。彼、今もまだ暴風雨の中で走ってるはずだからさ」

 そしてO嬢には一枚の紙切れを渡した。

「大丈夫、これを拝島駅で示せば、全部分かるはずだから」

 このF駅長、おそらく部下思いの人ではあったのだろう。O嬢にこの紙切れを渡したのも、おそらく彼女に対する思いやりだったに違いない。きっと彼女は複雑な話などまったく分からなかったに違いない。またMのこともかように終始心配している。

 こうして、O嬢は第七〇五一単行機関車に乗り込んで拝島駅へ向かった。途中では無事にM駅務掛も拾っており、そして無事に午前6時25分には拝島駅へ到着している。

 さあ、ここからが大変である。

 O嬢は、F駅長から言われた通りに、拝島駅の駅員にメモ書きを渡した。しかしこのメモ書き、他人が見てもまったく理解に苦しむような代物だったのである。

「え? え? これってどういう意味?」

 F駅長は、列車の発着順序の変更について、「見ればすぐ分かる」ようにメモを作ったつもりだった。だがよくある話で、それは本人の独りよがりでしかなかった。他の駅員たちから見れば、それはまったく意味不明の代物だったのである。 

 このメモ、実物の写真でもあればいいのだが、残念ながらどこにも載ってなかった。裁判の記録でも本気でひっくり返さない限り見つからなさそうである。よってこのメモがいかに意味不明のものであったかは、ここでは想像で書くしかない。

 まずポイントとして、このメモは「図」ではなかった。そこに書かれていたのは、走り書きの「文章」であったらしい。

 そして混乱を招いたのは、「変更する」という明確な記述がなかったことだった。いきなり「次は下り第三列車が来るよ」としか解釈しようのない文言が記載されていただけだったのだ。

 さらに、O嬢が持参していた「第七〇五一機関車の適任者」と「第三列車指導者」の肩書きが記入された紙片も問題だった。これには、第三列車指導者とやらが具体的に誰であるのかがまったく書かれておらず、さらに出発駅も到着駅も書かれていない。よって、一体どの駅の発着のことを示しているのかがさっぱり分からないのである。

 まあここで答えを述べておくと、この「第三列車指導者」というのは、小宮駅から八王子駅に派遣されていたAのことだったらしい。最初に小宮駅から「適任者」として派遣されたAが、後で下り第三列車の「指導者」として拝島駅に来るよ――という意味だったのである。

 だがとにかく、そうしたF駅長の意図はこれっぽっちも伝わらなかった。

 それに、メモ云々以前に、O嬢が「適任者」として拝島駅に来ているのも問題だった。

 ここまでじっくり読んで頂ければ分かると思うが、通常、一本の線路を2人以上の「適任者」あるいは「指導者」が行き来することはあり得ない。そんなことをしてあっちでもこっちでも列車を出したら、それこそ正面衝突になりかねないからだ。

 ところが、拝島駅には、先だってM駅務掛が「適任者」として派遣されている。そこへ2人目の適任者としてO嬢が登場したことで、場はすっかり混乱してしまった。

 そこで頭に血が上ったのは、先に拝島駅に派遣されていたMである。

「Oさんも適任者だって!? どういうことだ。先に適任者に任命されたのは私のほうなのに!」

 当初、彼はこう思っていた。――O嬢はあくまでも自分を途中で拾い上げるために第七〇五一機関車に乗り込んだのだ――と。そのO嬢がなんと2人目の適任者に任命されていたなど、思いも寄らないことだった。

 またM駅務掛は、勤続年数26年というベテランである。19歳の若輩に対するプライドもあったかも知れない。

 こうして混乱した拝島駅で、最終的な判断を求められたのは駅長代理であるK(同時に信号掛兼運転掛でもあった)だった。

「困ったな。一体なにが正しいんだろう? オタオタ」

 ここで、M駅務掛が詰め寄ったからたまらない。

「正しいのは私です。あとからO嬢が持ってきたメモは間違いです。最初の指示通りに、私が指導者として上り第四列車に乗って出発します!」

 ああもう困ったな、この人ムキになってるよ。

 そこでK駅長代理は、当時拝島駅にいた助役にも判断を仰いだ。だがこの助役はやる気がなく、こんなことしか言わなかった。

「あーうん、このメモちょっと変だね」

 もういいよ、頼りにならないなあ。

 では、ちゃんと事情を知っていそうなO嬢はどうだろう?

 しかしこの時は、まだ10代の女の子に「これはどういう意味だ」と問いただせるような雰囲気ではなかった。皆、なんとなく彼女には気を使っていたらしい。

 さあ、拝島駅は実にビミョ~な空気である。

 このK駅長代理という人も、なんだか可哀想である。小宮駅から2人のMとO嬢がやってきた時、彼は仮眠中だった。そして、叩き起こされたことでようやく外の暴風雨と通信の不能に気付いたのである。なんだかのんびり屋だ。

 そんな寝ボケた状態のところに、意味不明の紙切れを突き付けられて「さあ結論を出せ」と詰め寄られているのである。これで困るなというほうが無理だ。

 筆者が思うに、このK駅長代理は押しに弱い血液型O型タイプだったのではないか。結局、場の空気に負けて出した結論がこれだった。

「まあいいや。Mの言う通りにしよう! きっとあの紙切れはなにかの間違いなんだ」

 こうして雲行きが怪しくなってきた。小宮駅からは、F駅長が下り第三列車を拝島駅に向かわせようとしている。いっぽうの拝島駅では、K駅長代理の判断によって、Mの乗り込んだ上り第四列車が発車しようとしている――。

   ☆

 一方、小宮駅には八王子駅からの下り第三列車が到着していた。これに乗り込んでいたのは、先だって小宮駅から適任者として派遣されていたAである。彼は「指導者」としていったん小宮駅に戻ってきた形である。

 拝島駅での混乱など知る由もないF駅長は、O嬢に手渡した意味不明の内容の紙切れによって、全ての段取りは整っているはずだ――と勘違いしている。よって彼はAにこう指示した。

「運航の順序を変更したから、このまま下り第三列車に乗って拝島駅に行ってくれるかい? 大丈夫、最初に拝島駅から来ることになていた第四列車は、私がストップさせておいたから」

 ほほう、そうですか。

 Aとしても、駅長が自信満々でそう指示を出すのだから迷う理由もない。小宮駅では30秒ほどのやり取りをして、すぐに出発した――。

 さて拝島駅はというと、ちょっとだけ予定外の出来事があった。東飯能駅で上り第四列車に連結して牽引してくる予定だった機関車が、なにやら上記気力が不十分な状態になったとかで、使い物にならなくなったのだ。

 それで、上り第六列車が先に出発することになった。これは、第四列車の後に出発する予定だったものである。

 この第六列車が到着すると、拝島駅では、時刻表の上ではこれを上り第四列車の代わりとする形で送り出したのだった。

 そしてこの列車には、小宮駅から適任者として派遣されていたMが乗り込んだ。彼はいよいよ、拝島駅から「指導者」の肩書をひっさげて小宮駅へと戻っていくことになったのだ。

 こうして、冒頭の事故は発生したのである。

 F駅長は、自信満々で下り列車を送り出した。そして拝島駅のK駅長代理は、なんとな~くその場の空気に流されて上り列車を送り出した。その結果、このふたつの列車は多摩川の鉄橋上で激突大破したのだった。

 ここまでの登場人物のうち、MとAはこの事故によって死亡している。O嬢やHは拝島駅で待機していたところだった。

   ☆

 事故によって、言うまでもなく八高線は全線ストップ。特に拝島駅と小宮駅は大混乱に陥り、F駅長とK駅長代理は逮捕され取り調べを受けるという憂き目に遭った。

 F駅長は「自分の手渡した紙きれをちゃんと読めば、正面衝突なんてありえなかったはずだ!」と主張していたという。だがさすがに取り調べの直後には割腹自殺を図っており、なんとか一命を取り留めた。

 拝島駅のK駅長代理はと言えば、いざ事故発生の知らせを受けて、ようやく「あのメモはそういう意味だったのか!」と合点がいったという。これぞ正真正銘の「アホが見るブタのケツ~♪」というやつであろう。

 この二人は「業務上過失致死並びに業務上過失列車破壊罪」という物凄い罪名で起訴され、裁判にかけられた。F駅長は、裁判所でも「私の書いた図表は普通に見ればすぐ分かるはずだ」とマジ切れしていたという。

 責任の所在は、まあ誰に目にも明らかであろう。悪いのはいい加減な独断を下したF駅長と、それについて確認せずに適当な判断をしてしまったK駅長代理の2人である。

 ではF駅長のやり方はどこまで間違っていたのだろう? 現代の視点で見ると、当時の彼の判断はあまりにも綱渡りめいたものに見えるが、もしかするとそういうやり方は「現場の習慣」として昔からあったのではないだろうか――?

 これについてはしかし、運輸省東京鉄道局教習所の教官が証言台に立って「そんな習慣ありえない。そんなのを許可した覚えもない」とう旨の証言をしている。

 結局、第一審判決ではF駅長に禁固一年、K駅長代理に禁固6ヶ月の判決が下った。さらに第二審ではF駅長が禁固8ヶ月の実刑、Kについては2年の執行猶予付きの禁固6ヶ月という判決が出て、これで確定した。事故から2年後のことだった。

 2人は職を追われ、共にひっそりと第二の人生を送ったという。これもまた、終戦直後という混乱期、時代に翻弄された人間のひとつの姿であったか――。

  ☆

 さて、この事故は思いのほか知名度が低い。死者数でいえば日本の鉄道事故史上屈指の大惨事であるにも関わらず……である。これは何故だろう?

 ここに一冊の参考文献がある。この八高線正面衝突事故の詳細が記された、おそらく唯一の本と思われる舟越健之輔『「大列車衝突」の夏』(毎日新聞社)である。この本には、報道に際して検閲だか報道規制だかが行われたせいで事故のことが記録に残らなかった――という趣旨の記述があるが、これは本当なのだろうか。

 筆者の考えを言えば、これはどうも違う気がする。

 土浦事故の項目でも書いたが、戦前から終戦直後の報道に関してはなにかにつけて「当時は報道規制がかかって一般にはあまり知られなかった」と言われることが多い。しかし、当『事故災害研究室』の読者には、今後なにかの文献でそういう記述を見かけたら、まず眉に唾をつけてかかることをお勧めしたい。この八高線正面衝突事故も、当時は新聞でちゃ~んと報道されていたのだ。

 ここに、読者の方からご提供頂いた当時の新聞がある。事故翌日の朝日と読売、それから翌々日の朝日新聞である。カメラ撮影によるものになるが、掲載しておこう。

事故翌日の朝日新聞。

事故翌々日の朝日新聞。

読売新聞もある。



 ※著作権のからみがよく分からないが、問題があれば削除するので、その場合はご指摘頂ければ幸いである。

 ご覧の通り、しっかり報道されているのである。

「でもやっぱり扱いが小さいじゃないか。普通だったら紙面の第一面を飾るような事件だぞ? やっぱり報道管制が敷かれたんじゃないか!」と思われる方もおられるかも知れない。これに対する反論を以下で述べる。

 これも土浦事故の項目で書いているが、物資の不足から、当時の新聞は紙面が極端に少なかったのだ。紙一枚の裏表に印字されていたり、それがさらに半分サイズになったり、しかも紙がワラ半紙だったりしていたのである。

 いくら大事件とはいえ、ひとつの事件だけで、今のように2つも3つも紙面を割けるような贅沢はできなかったのだ。

 また通信上の問題もあった。今のようにデータを添付してワンクリックで全ての情報が送れるような時代ではなかったのである。地元記者からの電話通信や伝書鳩を駆使して情報を集めていた当時、終戦直後の人手不足と混乱の中ではこうした通信もままならなかったに違いない。

 そもそも、報道管制が敷かれたのならば、完全に報道されないはずである。実際に政府によって報道規制が敷かれ、報道を握りつぶされたケースは確かにあるが、それは詳細な空襲の情報のような軍事機密にまつわる事柄など、ごく僅かな数である。中途半端な形であれちゃんと報道されている事柄は、当時としては精一杯報道されたことを意味しているのである。

「政府によって報道規制がなされた」という都市伝説は「当時、国民を動揺させるようなニュースは規制されるようになっていた」という文脈で語られることが多い。だがこの八高線の衝突事故について言えば、もう戦争は終わっているのだから国民の動揺もへったくれもない。

 そして、人間というのは基本的に忘れる動物である。どんな大事件でも、何度も繰り返し報道されなければ、他の事件の情報に埋もれてしまうし、そうでなくとも忘れてしまうものだ。こうして八高線の正面衝突事故は、知る人ぞ知る伝説の事故となってしまったのだろう。

 たぶんこういった事柄は、ここでの文章を読んで初めて知ったという方も多かろうと思う。当時「政府による報道規制」という現象は確かにあった。だが、いつの間にかその規制の及ぶ範囲が際限なく拡大されて、猫も杓子も規制されたように書かれることが多いがそれは嘘である。

 ではなぜ、そんな嘘がまかり通るようになったのだろう?

 ここからは筆者の想像になるが、これは多分、新聞社がその嘘を積極的に否定していないからだと思う。当時の新聞は、戦争を煽る記事をけっこう書いていた。だから今「戦前から戦中にかけては報道規制がかかって自由な報道ができなかった」ことにした方が、「いやああの戦争礼讃の記事も軍部に強制されて書かされたものなんですよ~」と言える。

 あとは新聞やテレビで、なにかにつけてちょこっと「当時は報道規制があって云々」というひとことを挟み込んでおくといい。そうすれば、大衆の心には戦争イコール報道規制、という図式が刷り込まれるだろう。なんだか陰謀説めいた書き方になるが、戦後はそんな風に大衆の心が操られた部分もあったのではないだろうか。

 ちなみに『「大列車衝突」の夏』はサンデー毎日に連載されたものがまとめられた本であり、出版元は毎日新聞社である。

【参考資料】
舟越健之輔『「大列車衝突」の夏』毎日新聞社

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