東京都の八王子駅と、群馬県高崎市の駅を結ぶ路線なので「八」「高」線(はちこうせん)。92・0キロ、全線が単線の鉄道である。開業は1931~34(昭和6~9)年で、沿線には昭島、福生、飯能、寄居、藤岡などの都市が存在している。
この路線では、終戦直後の混乱期に、鉄道事故史上に名を残す大惨事が二度も発生している。今回ご紹介するのはそのうちの片方である。
1947(昭和22)年2月25日。その日はよく晴れていたという。
午前7時50分、一本の列車が埼玉県の東飯能駅を7分遅れで出発した。八王子駅6時48分発・高崎行きの下り第3旅客列車である。牽引するのは機関車C5779号機。次の停車駅は高麗川駅だった。
この6両編成の列車はしかし、尋常な状態ではなかった。客車はすし詰めの超満員で、この時はなんと定員の2.5~3倍の2,000人近い乗客が乗り込んでいたのだ。
しかしこれは珍しいことではなかった。終戦直後の時期である。この路線は沿線の農家へ食料を買い出しに行く人々で常に超満員で、「ヤミ列車」とまで呼ばれていた。
程なく、この超満員列車は下り坂に差しかかった。ここで惨劇が起きることになる。
そこは高麗川駅まであと一キロという地点で、20‰(パーミル)という急勾配である。詳しく言えば底辺が100メートル、高さが2メートルの直角三角形の斜辺くらいの角度だ。しかも線路は曲率半径250メートルという急カーブだった。
(ちなみに、2005(平成17)年に発生した尼崎の脱線事故のカーブ区間は曲率半径304 m。数字が小さければ小さいほど急カーブとなる)
この時、時速80キロは出ていたと言われている。もともと、この坂道カーブは時速50キロで走るべし、という決まりになっていた(資料によっては55キロとも)。そこで運転士は減速を試みたが、なぜかスピードが落ちない。非常ブレーキも試してみたがこれも駄目だった。
ブレーキが利かなかったのは、乗客が多すぎたせいだとされている。また、これに加えて車両間のブレーキ・エアホースの破損もあったと推測されている。
そしてこの時の運転士は、半年前に就職したばかりの23歳で運転経験も浅かった(資料によって22歳とも)。もっとも、ベテランだからといって上述のような状況で列車を止められたのかどうかは分からないが。
こうして、列車は猛スピードで上述の坂道+急カーブへ進入した。その瞬間、線路と車輪がこすれる物凄いブレーキ音がしたという。近くでこの音を耳にした者は、「いつもと違う」と異常を感じた。
先頭の機関車と列車の二両目は、なんとかカーブを曲がり切れた。しかし三両目以降は遠心力で吹っ飛び、連結器もちぎれてしまったことから、後ろの四両の客車が進行方向の右側へ脱線。地響き音を立てて築堤から転落し、五メートル下の麦畑で転覆大破してしまった。土手の下から土煙が上がる――。
戦後間もなくということもあり、木造の客車は老朽化が進んでいた。転落した客車はバラバラに砕け散り、乗客たちは下敷きになるなどした。客車に乗り切れずデッキにしがみついていたため放り出された者も多くいたようだ。
あちこちで瀕死のうめき声がし、周囲には買い出しで交換されるはずだった荷物や大量のゴールデンバットが散乱していたという。酸鼻を極めた現場にはただちに近隣住民などが駆け付けたが、下敷きの人を助けようと客車をテコで動かせば反対側の乗客が痛いやめろと悲鳴を上げ、また助けようと手を差し出すと、怪我人が一斉に掴んでくるので逆に引っ張り込まれるという状況だった。
死者は184人、負傷者は495~497人に及んだ。
運転士は、「事故に気付かずにそのまま現場を走り去った」とされている。後続の車両が脱線転覆したことに気付かず、次の駅に到着してから初めて駅員から事故発生を知らされたのだ。
この運転士は起訴され、裁判は最高裁まで争われた。検察は「運転士がスピードの出し過ぎに驚いて、急ブレーキを踏んだのが事故発生の原因」とした。
で、裁判の結果は「無罪」。一審で無罪、二審で控訴棄却となった。実際の判決文は読んでいないが、浦和地方裁判所は「列車を運転した行為と列車の分離脱線転覆破壊との間に原因結果の関係を認めることはできない」としたという。
言われてみると確かにそうだなと思えなくもない。運転士の技術は未熟だったかも知れないし、急ブレーキが事故原因だったのかも知れない。しかし、だからと言って必ず事故が起きるものでもない。状況だけを見れば、国鉄がちゃんと路線管理をしていれば事故は起きなかったのではないかとも思う。また、列車のブレーキ装置には最初から異常があったのではないか、と述べているサイトもある。
付け足しておくと、敗戦直後のこの時代は人材も資材も不足しており、路線管理もままならなかったようだ。例えば事故を起こした列車の機関車には速度計がなかった。戦時中の金属供出のため撤去され、機関誌は目測で速度を測っていたというのだ。
一方で、この事故にはもっとスキャンダラスな「真相」があるという話もある。当時12歳だった少年が事故に巻き込まれており、事故原因となった出来事の一部始終を見たというのだ。
彼は知人の家にイモをもらいにいくためにこの列車に乗り込んだ。しかし超満員だったため石炭車の石炭の上に乗ることになったのだが、まず、東飯能駅を出発する時点で、貨車と機関車の連結が完全に嵌まっていなかったという。当駅で列車の出発に7分の遅れが生じたのは、それへの対応が原因だったとか。
さらに、走行中は運転士と運転助手が運転席についておらず、なんと機関車の釜を使って飯を炊いていたという。その光景が石炭車からはよく見えたそうで、これが本当なら、列車は事故直前まで走行はしていたものの誰も運転していなかったことになる。
で、列車は猛スピードで急カーブにさしかかり事故発生。機関車はいったん停車し、運転士と運転助手のどちらかが、あるいは両方が、石炭者に乗っていた少年たち(年齢性別は不明だが5~8名が乗っていたらしい)をこう脅したという。「このガキども今見たことは言うな。言うと死刑になるぞ」。
事故発生時に運転席が空だったかどうかについては、現在のところ全く証拠がない。運転士と運転助手が、運転そっちのけで飯を炊くのに夢中だったなんて、にわかには信じがたい話である。またその時にブレーキが踏まれなかったとすれば、事故時に車輪と線路がこすれる物凄い音がしたという話にも矛盾が生じる。
ただ、当時の国鉄は――というよりも当時の日本人は、と言うべきか――人心が荒廃しモラルが低下していたところもあったのかも知れない。事故救援に駆け付けたはずの国鉄職員が、駅前で飲酒して焚火をしながら事故現場を見物していたという事実もある。これは新聞ですっぱ抜かれて、かの下山定則東鉄局長(当時)が遺憾の意を表明するに至ったそうだ。そういう記録を読んでいると、それなら機関車で飯くらい炊くかもな……という気持ちにもなる。
参考までに、事故発生当時の運輸次官は佐藤栄作だった。また業務局長は、後に二代目の国鉄総裁となった加賀山之雄である。
ところで、被害がこれほど大きくなった原因の一つに「客車が木造で壊れやすかった」ことが挙げられる。木造車両の危険性は1926(大正15)年の山陽本線の事故以来ずっと言われてきたし、それを受けて、既にオハ31以降の新しい車両は鋼製車(正確には半鋼製車)になっていたが、既存のものは木造のまま使われていたのだった。しかしこの八高線での事故をきっかけに、国鉄は木造客車の全面的な置き換えを決断。後の60系鋼改車の登場へとつながっていった。
現場には、今も慰霊碑が建っている。以前は木製だったが、その後きちんとした形に造り替えられた。古い方の墓標も、少なくとも最近までは地面に横たわっていたそうだが、今はどうか分からない。
毎年2月25日になると、慰霊碑は遺族や関係者による献花で埋まるという。
また、事故車両の残骸も、思いのほか最近まで現場周辺に残っていたそうで、当時の客車の洗面台が半分埋まった状態で顔を出したりしていたという。そういった残骸の一部は、道路工事などに伴って近くの森に捨てられたそうだ。
ちなみに、この八高線に関わり続けている鉄道チャレンジクラブという組織がある。ホームページを探すとすぐ見つかるが、この組織の活動本部が事故現場のすぐ近くにあることもあってか、事故のその後を記録し続けることがライフワークになっているようだ。
八高線は、日本でも最悪クラスの鉄道事故が二つも、それもほとんど立て続けに発生した鉄道路線だ。戦後の代表的な鉄道事故は、その多くがこのような都会の周縁で発生している。こういった地域はもともと路盤が弱く、一方で都会に近いので乗客も多い。だからひとたび事故が起きれば大惨事になりやすいということが言えそうだ。
なお、余談というか豆知識程度の話だが、今西祐行(いまにし・すけゆき)という童話作家の短編に、この事故を題材にしたものがある。「風祭金太郎」という短編だ。事故で両親を亡くした男の子があっちこっちで厄介者扱いされながらも最後には大成していくというストーリーである。
今西祐行の名前は知らなくても、国語の教科書に載っていた短編「一つの花」の作者だと聞けば、思い当たる方も多いだろう。興味があれば図書館で探してみるのも面白いかも知れない。
【参考資料】