◆沖縄県営鉄道爆発事故(資料編「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」)

弾薬輸送列車大爆発事件
闇に包まれた爆発事件


 1945年(昭和20年)の沖縄決戦における戦没者は県援護課の資料(1975年3月調)によると沖縄県外軍人軍属65,908柱、沖縄出身軍人軍属28,228柱、一般住民94,000柱計188,136柱となっている。しかし申告漏れがかなりあるため一般住民の戦没者は実際には10万人を超すといわれている。このように一般住民の犠牲が軍人軍属の犠牲を上回る悲惨な戦争は世界に例がないといわれている。

 この厖大な犠牲は米軍の砲弾によるものだけではなく日本軍の事件事故によってつくり出された犠牲も含まれている。ところが日本軍に係る事件事故はこれまで隠されてきたのが多く俊々の証言によって明るみに出される例が多い。これから明らかにしようとする列車の爆発事件もその類である。

 この爆発事件は二百数十人の人間が一瞬のうちに空中へ吹き飛び或いは火に焼かれて死亡するという大惨事であった。三十二軍首脳もこの事件によって大量の武器弾薬を失った為に動揺し参謀長は直ちに各部隊へ厳重な注意事項を発していさめた。ところが三十二軍首脳は決戦を控えて一般住民の動揺を恐れたのか外部に対して全く秘密であり、お叱り受けるのを恐れたのか大本営に対しても全く報告されてなかった(防衛庁戦史室は後々にこの事件を第62師団会報綴によって知った、戦史叢書沖縄方面陸軍作戦)。

 当時は報道機関も軍の検閲下にありそのためにこの事件の報道は一切なく県鉄関係者も口止めされ、被害関係者も軍を恐れて口を閉ざし今日まで無言の闇に包まれて来た。この惨事も戦争の実態の一つであることを県民が知ってもらうために弾薬輸送列車の爆発事件を報告することにする。

  事件の背景
  武部隊の台湾転出


 1942年(昭和17年)三月に日本軍はフィリピンを占領した。その時南太平洋の米軍司令官ダグラス・マッカーサー将軍は「I・SHALL・RETURN」私は必ずまた来る、という予言を残してフィリピンからオーストラリアへ脱出していた。しかし日本軍はその後太平洋諸島においてことごとく敗北を喫し彼の予言通り1944年(昭和19年)10月20日からダグラス・マッカーサー将軍の指揮する米南太平洋軍団は猛烈な艦砲射撃の支援を受けながらレイテ島東海岸に上陸を開始してきた。それを受けて大本営はフィリピン方面を決戦場と決め「国軍決戦実施ノ要域ハ比島方面トス」の大号令を発した。

 レイテ決戦の決意に伴い11月20日台湾在の第十師団と朝鮮在第十九師団がフィリピンの第十四方面軍に増加され、更に沖縄の三十二軍からも一個師団フィリピン方面へ抽出することになっていた。勿論三十二軍は沖縄から一個師団抽出することに強く反対したが大本営の至上命令に押切られ止むなく一個師団の抽出となった。一方台湾の第十方面軍では多くの兵員がフィリピンに抽出された為に台湾守備が手薄になっているとして台湾に兵力増強を要請していた。大本営は当初沖縄から抽出する一個師団も比島方面へ投入する考えを持っていたが海上輸送に大きな危険が伴うため差当り台湾へ移すことになり、沖縄本島南部の島尻郡で陣地構築中の第九師団(武部隊)が11月中旬台湾へ抽出されることに決定された。武部隊は昭和19年6、7月の夏から11月の秋にかけて多くの現地住民も使い陣地構築は完成間近であった。10月15日には現地入隊の初年兵もかなり加わり一万三千人を超える大所帯の師団で光輝ある精鋭師団として評判が高かった。配備以来住民との接触も多くなじむ頃であったが転出の軍令を受けて密かに移動を準備していた。

 11月末にこれまで汗を流して築き上げて来た各陣地を第二十四師団(山部隊)へ引継ぎ那覇へ集結して12月中旬から20年1月上旬にかけて那覇港を夜間出港し米軍の魚雷攻撃を避けながらかなりの時間をかけて島づたいに台湾へ渡った。軍の行動は秘密であり殆どの住民は武部隊が台湾へ去ったことを後で知った。武部隊の他第三十二軍配下から三十二軍直轄の中迫撃第五、第六大隊の二個大隊が11月21日那覇港を出港しフィリピンの第十四方面軍に編入されていた。第三十二軍首脳は第九師団と砲兵二個大隊の代替兵団の派遣を期待したが実現せずがっかりしていたが戦況は油断を許さない状勢にあったので止むなく次の新作戦を立案し実施することになった。

  新作製計画を発令


 第三十二軍は第九師団(武部隊)の台湾転出に伴い従来の沖縄本島決戦防禦方針から接久防禦方針へ転換して軍主力を宜野湾以南の浦添、首里、南部島尻地区に配備する新作戦計画を作定し各兵団へ発令した。

 1944年(昭和19年)11月26日新作戦計画に基づいて配備変更の軍命令が発せられ、第二十四師団は第九師団が築いた陣地を引継ぎ島尻方面の警備の任に当ることになった。しかし配備変更は軍事機密のため下の一般兵に対して伝達されず「は」号演習と下命された。先発隊は11月27日から出発したが師団主力は12月6日から11日にかけて移動することが確定し、その準備に取りかかった。第二十四師団の将兵達は沖縄上陸以来五ヶ月余り読谷村、恩納村、石川、美里、具志川方面で日夜汗を流して精魂を込め造り上げた地下道陣地の完成を目前にしてこれを自分達の手で取壊し捨てなければならない羽目になり割切れない気持ちであったが軍命令であってみれば止むを得なかった。

 12月6日軍命令を受けた第二十四師団は各連隊ごとに近くの国民学校へ集結し島尻郡の南西部へ移動を開始した。日暮れと同時に出発して夜間行軍の大移動であり、折からの雨で重い背ノウと完全軍装の将兵達はびしょ濡れのまま黙々と三十余キロの道のりを南下した。途中休憩ともなれば疲れきった将兵達は所かまわず崩れるように倒れて容易に立ち上がろうともしなかった。翌朝未明に各連隊は新任地に続々と到着したが僅かな休養も許されず次の準備に忙殺された。新任地での宿舎の設営や、第九師団から引継いだ戦斗壕を各部隊に合うように完成させる作業が待ち受けていた。歩兵連隊が先に移動すると師団の各隊は計画図に従って次々に新任地へ移動していた。

  事件の概要


 第二十四師団の主力である歩兵三個連隊(第二十二連隊、第三十二連隊、第八十九連隊)は12月6日から7日にかけて新任地の島尻南西部へ移動し、8、9日には他の連隊(捜索隊、野砲隊、工兵隊、通信隊、輜重隊)が移動し10日には衛生隊が移動した。

 師団司令部としては兵員の移動が済み次第引続き兵器弾薬の運搬を急がなければならなかった。読谷、具志川辺に置かれていた二十四師団の兵器弾薬は嘉手納駅に集められた軽便列車を利用して島尻の南西部へ運ぶことになった。1944年(昭和19年)12月11日月曜日晴れ時々曇りで兵器弾薬の運搬に支障はなかった。そのために朝から弾薬輸送列車は休むいとまもなく慌しい中をつっ走っていた。二十四師団は一万四千人を超える大所帯であったが6日から10日までの5日間にほとんど夜間行軍で移動していた。

 しかしその中にはたまたま病気などで夜間行軍に耐えられない一般兵や初年兵があり、その人達は嘉手納駅に集められ列車で運ばれることになった。12月11日の午後も嘉手納駅で無蓋貨車六両に弾薬が積み込まれ、その上に枯れススキを広げて150人前後の兵員が乗せられ南部へ向かって走った。

 しかし古波蔵駅に到着するとそこで一時ストップとなり機関車は燃料補給のため貨車から離れ那覇駅へ走った。その間に古波蔵駅では初年衛生兵達が研修の帰り60人くらいが乗り込み、帰宅の女学生も4、5人くらい乗り込んだ。暫くすると機関車は那覇駅から、ドラム缶を積み込んだ無蓋貨車一両と医薬品が積み込まれた有蓋貨車一輌に帰宅の女学生5人が乗り込んだ計2輌を引いて再び古波蔵駅へやって来た。一時停車していた古波蔵駅の貨車に連結され8輌の列車は高嶺駅方面を目指して発車した。すでに時計の針は午後四時を回っていた。途中の津嘉山駅で軍の壕堀作業から糸満へ帰るため一高女性二人が割り込むようにして乗り込んだ。列車は荷物が重いためかなり速力が落ちていた。山川駅を通り喜屋武駅を過ぎると上り坂に差しかかった。丘の麓からゆっくりと真黒い石炭の煙を吐きながら這い出すようにして進んだ。上り坂を這い上がるとそこは南風原村字神里の東側外れである。田園と小川を横切り稲峯駅へ向う切通し附近に差しかかるや突如として轟音を発し一帯は火の海と化した。その爆発音は那覇市をはじめ島尻全域に響き渡った。時計の針は午後四時三十分前後を指していた。大音響を同時に乗り込んでいた二百数十名の人間はこなごなになって飛び散り、あるいはガソリンと火薬の火によって焼き尽くされた。火は周辺の砂糖きび畑に広がり所々に積まれていた日本軍の弾薬にまで引火し、一帯は騒然となった。その火の海から何十人かは体に火が着いたまま数百メートルも自力で這い出し、遠巻きに待っていた兵員達の協力で体の火が消され陸軍病院の南風原小学校に運び込まれた。爆発は一輌目のガソリンが発火し後方の人と弾薬が積まれた貨車に火を被り爆発炎上した。最後方の一輌は連結点から吹切れ積込まれた弾薬と人は既に飛び散り火が付いたまま後方へ押し流され津嘉山駅に流れ着いた。宇神里の東原は畑に積まれていた日本軍の弾薬に誘爆を起し数時間も火災が続いた。そのためにニ、三百メートル離れた村の民家が数軒燃え上がり村人達は混乱の中を近くの壕や隣村の山川方面へ狼狽しながら逃げた。

  焼死体の散乱する現場


 東風平の国民学校へ一足先に夜間行軍で移動していた二十四師団の衛生隊員達は爆発事件の通報を受けて直ちに現場へ緊急出動したが火災と畑に置かれていた弾薬の誘爆により近寄ることができず遠巻きに待構え、火の中から這い出して来る人々を救助しながら誘爆と火災が鎮まるのを待った。

 間もなく辺りは夕闇に包まれたが誘爆と火災はなお続きその間に多くの人々が焼き尽くされた。数時間後にようやく誘爆と火災が鎮まりかけたので遠巻きに待構えていた隊員たちは夕闇の中を携帯電燈など使い爆発現場に踏み込んだ。

 惨たるかな惨状、火にまみれた命四辺に散乱する。青春のかばね、天は非情を悼むか、戦雲の夕べに悲嘆のうめきは、風声にこだます。二百数十八の人々は手足もばらばらとなり、或いは人の区別もつかない程焼け爛れ散乱していた。隊員達は手探りの状態でまだ息のかかった者は南風原小学校の陸軍病院へ運び既に息絶えた者は東風平の国民学校へ運び安置する作業にかかった。しかし闇の中十分な片付けができず作業は翌日に持ち越された。12日は朝から字神里の男子稼動者も片付作業に動員され木に掛かった遺体や散乱する手足を担架に拾い集める作業を応援した。

 一方、軍の方では直ちに爆発現場へ縄を張り復旧作業と原因調査を始めた。乗込員のタバコの噂あり、機関車から吐き出される石炭の煤煙説あり、一部にはスパイ説もあった。特に軍はスパイの噂に神経をとがらしたが、究明するに到らなかった。与那原署でも事件発生を知りひそかに刑事を廻したが相手は軍であり深く立入ることができずうやむやに終った。体験者の証言と参謀長の注意事項中上司の注意規定を無視したる為惹起せるものなり云々からすれば爆発の原因は煤煙からの引火と考えられるが調査発表がなかったので、結局二百数十人の生命を奪った不祥事件の真相は謎になった。

  地獄絵図化する陸軍病院


 まだ息のかかった何十人かの被害者は南風原国民学校(現小学校)に設営されていた陸軍病院に収容された。真黒く焼け爛れた者達が運び込まれごった返す中を応急手当が施された。しかし収容された者達の怪我や火傷があまりにもひどく数十人が毎日毎夜の如く水をくれ、殺してくれの叫びとうめきが続き、当てがわれた各教室は地獄絵図の様相を呈した。しかし手当の甲斐もなく収容された殆んどの者達が大きなうめき声を上げながら一、二週間のうちにバタバタと息を引取っていった。比較的火傷の軽い女学生の何人かは家族に引取られ何十日間の日数を要して自家治療をし、ようやく治したのがいた。

  密かに合同葬儀


 第二十四師団の衛生部隊は沖縄上陸後、美里の国民学校に本部を設営し、師団兵員の病人対策を取る傍ら、同衛生隊に現地入隊した沖縄出身の初年兵達を衛生兵として各中隊に配属する前の隊員教育や研修を行なっていた。

 しかし師団の移動に伴い同衛生隊も12月9日から10日にかけて東風平国民学校(現中学校)へ移動した。そのために東風平国民学校は二十四師団の病院となり、その一方には歩兵第八十九連隊の本部が置かれた。しかし衛生隊は東風平の国民学校に移動して来た二日後に列車爆発事件と遭遇し、息つく間もなく遺体の収容作業に追われた。同衛生隊員からもかなりの犠牲者を出して運び込まれて来たが識別し難い程焼かれあるいはバラバラになって収容されて来た。遺体は密かに火葬され、校内で兵員による合同葬儀が行なわれた。しかしこの葬儀を知る民間人は殆んどいなかった。そのようにして軍の手により可能な限り犠牲者が識別され、骨箱が準備された。女学生は遺族に通知し引取ってもらい、軍人の犠牲者は各中隊に骨箱が送り届けられ密かに事件の後片付が行なわれた。

  事件の伝播恐れた軍


 事件の発生により軍は緊張し大きく動揺した。12月13日、三十二軍参謀長は直ちに各部隊に対し次のような注意事項を発生した。「山兵団ハ神里付近ニ於テ列車輸送中兵器弾薬ヲ爆発セシメ莫大ナル損耗ヲ来セリ一〇・一〇空襲ニ依リ受ケタル被害ニ比較ニナラザル厖大ナル被害ニシテ国軍創設以来初メテノ不祥事件ナリ、此レニ依リ当軍ノ戦力ガ半減セリト言フモ過言ナラズ、此レ一二兵団ノ軍紀弛緩ノ証左ニシテ上司ノ注意及規定ヲ無視シタル為惹起セルモノナリ、無蓋軍ニ爆弾ガソリン等ヲ積載スベカラザルコトハ規定ニ明確ニテサレアルトコロニシテ常識ヲ以テ判断スルモ明ラカナリ、輸送セル兵団ハ言フニ及バズ此レガ援助ヲ為セル兵器●兵姑地区隊モ不可ニシテ夫々責任者ハ厳罰ニ処セラルベシ、該事件ノ如キハ署亜罰ノミニテ終ルベキ性質ノモノニ非ズ、戦争ニ勝タンガ為、第一線ニテ不自由ナカラシメンガ為銃後国民ガ爪ニ火ヲ燈すが8如ク総テヲ犠牲ニシテ日夜奮闘シテ生産セルモノニシテ銃後国民ノ赤誠ニヨルモノナリ、作戦上ノ必要ニヨル消耗ハ止ムヲ得ザルモ敵一兵ヲモ殺傷スルコトナク莫大ナル消耗ヲ来セルハ面目ナキ次第ナリ、兵器弾薬燃料ノ分散格納不十分ナリシ為カカル莫大ナル損耗ヲ来セリ各兵団ノ兵器、弾薬ノ他ノ軍需品ノ分散格納モ極メテ不十分ニシテ普天間、宜野湾付近ノ道路ノ両側ニ多量ヲ集積シテアリタルモ艦砲射撃ヲ愛クレバ必ズ爆発燃焼スルハ明瞭ナリ、各部隊、兵器弾薬ハ速カニ掩蔽部ニ格納スベシ人員ノ掩蔽壕ハ遅ルルモ兵器弾薬速カニ掩蔽部ニ格納スルヲ要ス。戦ハ大和魂ノミニテ勝チ得ルモノニ非ズ兵器弾薬ハ戦勝上欠クベカラザルモノナルハ言ヲ俟ズ、軍ハ該被害ニヨリ戦カノ半数以上ヲ減ジ如何ニシテ之ガ前後策ヲ講ズルカニ腐心シアリテ軍ノ戦闘方針ヲ一変セザルベカラザル状況ニ立到レリ、今敵上陸スルトセバ吾レハ敵ニ対応スベキ弾薬ナク玉砕スルノ外ナキ現状ニシテ今後弾薬等ノ補給ハ至難事ナラン、将来兵団ニ交付シアル兵器弾薬、其ノ他ノ軍需品ヲ焼失爆発等セシメタル際ハ軍ニ於テ補給セズ、其ノ余力ナシ兵器、弾薬等国情ヨリ見ルモ豊富ナラズ各隊ハ極力兵器ノ愛護、弾薬ノ節用ニ勉メ仮初ニモ過失ニヨリ戦力ヲ失セザル如ク注意セラレ度、軍司令官ノ心痛ヲ見ルニ忍ビズ其ノ意図ヲ体シ各部隊ニ一言注意ス」(昭和19年12月14日付、石兵団会報94号より)

  もの言えば口唇寒し


 このようにして軍司令部は国軍創設以来、初めての不祥事件であり武器弾薬の厖大な損害のため当軍(二十四師団)の戦力が半減したとして直ちに軍内部の各部隊へ注意を喚起したが外部の民間人に対してはできるだけ、事件の内容が伝播しないように秘密処理された。軍としては決戦を控え民心の動揺を恐れあるいは敵に対して情報のもれを憂慮したに違いない。それにしてもあまりの残酷なできごとであり処理であった。

 不吉な事件に遭遇し娘を失った遺族は気も狂わんばかりに衝撃を受けたが当時軍にもの言える状況でなくただは泣き寝入りするだけであった。敵を殺すために日本の工場で生産された弾薬は容赦なく同胞の人間を吹き飛ばし肉を引き裂き、焼き尽くした惨劇であった。沖縄戦は米軍上陸以前から悲惨な事件や事故によって犠牲者が続出していたがヤミからヤミへ葬り去られていた。

これまでに判明した被害状況
軍人    死亡   二百十人前後
女学生   死亡   八人
      生存   二人
県鉄職員  死亡   三人
      生存   一人

武器弾薬  貨車6輌分   喪失
ガソリン  貨車1輌分   喪失
医薬品   貨車1輌分   喪失

畑に積まれた弾薬 数千トン喪失

証言 Ⅰ

  沖縄県営鉄道二十四年間


 私は那覇に生れ大正中期青年の頃、大阪商船の貨物船名瀬丸や桜木丸、京都丸などに乗り込み船員としての生活を送っていた。

 しかし、二十五才で結婚したので船に乗るのを止め1921年(大正10年)3月28日から県営鉄道の車輌夫として働くことになった。日給五十銭であったがそれで夫婦生活はなんとか間に合っていた。二年に十銭づつ上り昭和2年4月1日から日給八十銭となった。それから二年後の昭和4年4月1日から機関助手となり更に二年後の昭和6年6月30日沖縄県鉄道管理所雇いとなる。

 それまで無我夢中に頑張って来たが振り返ってみると日給で働くこと十年間である。十年一昔頑張って来たのだ。我ながらにして感慨深い。しかし運送業務に従事する者は決して油断できない仕事である。

  晴れて機関手に


 機関助手として世年間働いた後昭和8年4月1日から機関手(列車運転手)として採用され月棒三十円支給された。当時は昭和恐慌で金融逼迫の時代であり三十円の棒給取りはどこからでも肩を張って歩けた。しかしその替り何百人の命を一度に預る責任は重大であった。昭和13年4月1日に沖縄県鉄道技手の免許が与えられ月棒四十円が支給された。昭和12、13年といえば支那大陸では日華戦争が始まりいよいよ本格的な戦争へ発展して日本は泥沼の戦時体制へ追い込まれる頃であり、我が沖縄からもそれ以後多くの青年達が兵隊に送られて行った。農村からの出征兵士は列車を利用して那覇へ集められていた。出征兵士が出る時は駅に多くの学生や青年達が集められ次の歌を歌いながら日の丸の小旗を振って見送っていた。

  勝ってくるぞと勇ましく
  誓って国を出たからは
  手柄立てずに死なれよか
  進軍ラッパ聞くたびに
  まぶたに浮かぶ旗の波
  (露営の歌)

 私達もその見送りを背に列車を運転することしばしばであった。

 沖縄県営鉄道は1914年(大正3年)に那覇与那原間開通、私が日給で県鉄へ入って間もない頃大正11年に那覇嘉手納開通、1923年(大正12年)に那覇糸満間の三路線が開通した。鉄軌道の開通は沖縄に交通革命をもたらし経済復興や産業活動に大きく貢献していた。

 農村から農産物を那覇に那覇から農村へ輸入物資が運ばれ、高嶺製糖工場ができてからは砂糖キビも運搬し、その製品は輸出物資として那覇へ運ばれた。のどかな沿線に汽笛を鳴らして走った軽便列車は多くの人々に親しまれ利用されていた。

  武器弾薬輸送列車へ


 昭和16年から日米開戦となり我が沖縄も戦時体制の慌しい世相に進みつつあったが、まだ沖縄には平和が在った。しかし昭和19年に入ると日本軍が大挙那覇に上陸して来た為軍需物資の運搬が増加した。

 夏頃になると通堂町に置かれていた後方部隊の球兵站本部から停車場指令が派遣され那覇駅に指令部が設置され運送係が何人か常駐し軍需品の運搬手配をしていた。

 軍需品の運送も日を追って増加していたが、十・十空襲によって那覇駅も焼き払われた。しかし列車とその路線は残されたので運送業務はそのまま続行された。十・十空襲以後はますます軍需物資の運搬が増加し軍事優先となり民間人の利用が非常に少なくなっていた。そのために毎日朝から各部隊の武器弾薬その他軍事貨物、兵員の輸送に追い立てられていた。そのような慌しい中を敵の偵察機が度々飛来し騒然となり戦時体制一色に包まれていた。 

  輸送列車大爆発


 1944年(昭和19年)12月11日も朝から緊急輸送命令を受けて武器弾薬それに兵員の輸送に当っていた。最終便で高嶺駅を目差して進行中稲峯駅附近に指しかかった際、突如列車が大音響と共に大爆発を起し、列車は火に包まれ運転不能となった。同乗者の機関助手一人と車掌二人はその場で不明となり、兵員も多数爆死した。

 私は直ちにブレーキをかけたが数秒間のうちに強烈な火のかたまりが機関車に吹き込み頭部、両手、両足に火傷を受け更に両耳に爆風が吹き込みそれ以来、耳に不調をきたした。私は火の列車より脱出し近くの稲嶺駅に駆け込み本部に電話連絡しようとしたが電話線が切れ普通となっていた。更に東風平駅まで走ったが同様に不通であった。

 私は茫然となり県道を那覇へ向って進んだ。奇跡的にも私は生き残っている。どうして助かったのか私自身よくわからない。

 その内火傷が痛み出したがようやく山川駅に辿り着いて休んでいると県内務局の職員が車をもって来た。爆発現場には行けないということでそこから引返したが私はその車で那覇駅へ行き、報告をしてから泉崎の官舎宅へ帰った。

 翌日から二高女裏に在った軍病院に通い火傷の治療に当った。火傷の痛みが出て苦しくなったニ、三日後、軍の憲兵が自宅に来てその時の状況や原因について取調べを受けた。一週間くらい後で県鉄側から早く職場復帰するよう通知が来たが最早、私には精神的にも肉体的にも働く力が無く火傷の治療が精一杯であった。県鉄三十四年間の生活は私の半生であったが日本軍の弾薬を運んだ為にその火で焼き出され県鉄最後の日となった。

 数百人が飛び散り焼き尽くされる修羅場の中からようやく這い出し、生きのびて来たがその時の火傷の後遺症と耳の不調は私の一生につきまとう。数百人の人間が日本軍の弾薬によって畑に散り、虫けらのように死に絶えて行った事実は殆んどの人が知らない。

 沖縄での戦争は米軍との決戦以前から一般住民に対して犠牲をしいたげるだけであった。罪の無い多くの国民を大量に殺して行くのが戦争の実態である。あの時の恐ろしい悪夢の思い出は八十才過ぎた今日でも脳裏に焼きついて離れない。

  元沖縄県鉄機関手 当時四十八才

証言Ⅱ

  火あぶりの青春


 昭和17年といえば日米開戦の翌年で日本は全土に戦時体制が敷かれ慌しくなる年であった。沖縄も戦時体制であったがまだ平穏な庶民生活の面も残されていた。しかし次第に体制の影響を受けて庶民生活は苦しくなり、物資不足で金はあっても買う者が極度に不足する状況にあった。かしし農民ではあるもので間に合せて生活は成り立っていた。そのような時期に私は●元寺町に在った昭和女学校に席をおくことができ通学することになった。幸い村の近くから糸満線の列車が通っていたので時間さえ問い合せば不自由なく那覇へ通学できた。毎日列車に乗る生活となり周辺市町村からも次第に通学生が増えていた。

 昭和18年に入ると防空演習や竹槍訓練が盛んになり戦時体制は一段と進んでいた。7月に東条首相が沖縄に立ち寄った時は学生全員が動員され那覇の沿道で小旗を持って出迎えさせられた。沖縄もいよいよ戦時体制一色の感となり社会情勢は急激に変化し、ますます不安の方向へ流れていった。標準語運動から皇民化運動、更には戦時体制へと庶民にとっては重苦しい社会であった。

 昭和19年に入ると守備軍が大挙上陸して来て中南部の山や丘、海岸などに地下壕やたこ壷が次々と築かれ、あらゆる公共建物が軍専用となり、農村の民家まで軍人が入り込んで来た。私の家は慰安所になるとのことで家族は他に引越さざると得なくなっていた。その頃から軽便列車も軍需物資の運搬専用として客車から貨車になっていた。そのために民間人の使用ができなくなっていたが女学生の通学は黙認のかたちでなんとか続けることができた。

  十・十空襲


 ある朝いつもの通り学校へ行くため列車に乗り一息ついていると頃高射砲の音が聞えていた。そのうち列車は国場駅まで進んでいたがそこから前進しなくなった。何のことかと思っているうちに那覇は空襲があるのでそれ以上列車は運行できないので全員降りて自宅に帰るよう指示された。列車から降りて暫くすると戦闘機が飛んでおりポンポンしている音が聞えて来た。次第に空襲は本物であることがわかり急いで自宅へ逃げ帰った。

 地方でも皆ビックリして不安そうに空を眺め音のする那覇の方向を仰いでいた。その時初めて米軍の沖縄上陸を予想し深刻に受け止めるようになっていた。私達の学校は市内に在ったが直接の被害は受けず以前と同じように学校へ通うことができた。しかし街は焼野原となり瓦礫の山となっていた。

 それ以後地方でも避難壕堀が盛んとなり、私達もモンペイ姿で学校へ行くようになっていた。十・十空襲以後は軍民騒然となり米軍上陸の不安は充満し県外疎開などでますます慌しい日々となっていた。

  火の海から這い出す


 12月の初旬は朝夕肌寒くなっていた。11日月曜日は晴れ時々曇りで普段と変らず学校へ行き帰りは那覇駅で友人四、五人と一緒に貨車へ乗った。一輌目の有蓋列車は軍用の医薬品が積まれて中に入れず私達三、四人は有蓋貨車の外側に立ち乗りした。古波蔵駅に着くと兵隊が一杯乗っている貨車六輌くらいにつながれゆっくりと糸満に向けて発車した。喜屋武駅をすぎると登板を上って字神里附近を通過する頃列車は速度が落ち次の瞬間前方で火を見たとたん非常に危険を感じ直ぐ飛び降りたけれども既に火の海になっていた。その中を走り抜けたような気がする。しかしその時には気が動転して記憶もさだかではないが逃げ出した時には髪の毛と着物に火がついていた。たまたまそこに小川が在ったので飛び込んで火を消したが気が遠くなるような気がして座り込んでいた。そこへ遠巻きにしていた兵隊が走って来て肩を貸してもらい附近の農家に案内された。暫くしてからトラックで南風原小学校の陸軍病院へ運ばれた。

  生地獄陸軍病院


 運び込まれた陸軍病院には何十人もの人々が黒焦になった者、全身皮がむけた者達が床の上でうめき声を上げ殺してくれと叫びながらのたうち回っていた。私は一週間程そこで火傷の治療をしていたがその間に殆んどの者達がバタバタと死んでいった。

 そのうち母親が連れに来たので家へ帰り自宅治療をしたが二ヶ月間痛さで苦しみぬいた。運よく私は生きのびたがいつも列車で通学していたあの人達は火の中に消え、あたら少女の身を失ってしまった。二度と甦ることのない彼女達は今人々の記憶からも忘れ去られようとしていた。哀れなあの姿を何時も切なく私は想い出す。三十余年が過ぎた今日ではその鉄軌道も形を変えて農道となり作物と草木は何気なく辺を静め、昔の惨状を偲ばせる跡形はもう何もない。時の流れがかくもはかなく何ごともなかったように形を変えてしなうものかと思い知らされるだけである。

  当時学生
  昭和女学校三年生

証言Ⅲ


  衛生研修隊初年兵


 私は昭和19年10月15日「十・十空襲」直後沖縄全体が恐怖におびえる状況下で恩納村山田国民学校において現地入隊の山部隊初年兵となった。入隊後中隊付衛生兵に編入され美里の国民学校で衛生兵の研修を受けていた。「十・十空襲」直後米軍上陸の噂が流れる中でありどういうことになるかという不安は持っていたが色々と考える余裕はなかった。12月上旬、私達の研修隊は本当中部の美里村から島尻へ移動があり、夜間行軍で東風平国民学校へ辿り着いた。東風平国民学校へ着いて翌日は夕方南風原村で弾薬輸送中の列車爆発があり、東風平国民学校に駐屯していた部隊は通報を受けると直ちに現場へ緊急出動となった。しかし現場は大火災が発生し畑に積まれていた弾薬に誘爆を起しいきなり近よることができず誘爆の鎮まるのを待った。救助作業は夕闇に包まれた為、その日の内にできず翌日までかかった。現場は焼死体が散乱し目を追うばかりであった。既に息絶えた者は東風平国民学校へ運ばれたが私達の部隊からもかなり犠牲者が出て別室に安置されたが識別しがたい程焼けただれていた。安置後の処理については直接タッチしてないので詳しいことについてはしならいが東風平の国民学校は山部隊の衛生隊本部となっていたので事故処理はそこでなされたのではないかと思われる。私は東風平国民学校で研修を了えた後歩兵第三十二連隊の第十一令鉾田中隊付衛生兵として糸満市名城に配置され二十年の決戦を向えたが戦争の惨事は到るところ発生していた。

 元現地入隊一等兵、当時二十歳

  沖縄県営鉄道


 明治末期から大正の初めにかけて県内主要道路の開通や改修が相次ぎようやく人や物の交流が盛んになった。民謡の県道節が生れたのもこの頃である。しかし遠隔地間の大量輸送手段は全くないため主要道路の開通や改修だけでは県民の需要と満たすことはできなかった。県内におけるそれまでの上陸交通機関といえば貨物運搬に荷馬車、少量で軽い物は人の肩、人員輸送は首里那覇を中心とする人力車、自転車等が主であった。しかし金のない者や農村からの往来は専ら足に頼る以外になかった。第一次世界大戦の影響もあって経済のブームが訪れ地方と那覇の経済交流は年々増加する一方であり、砂糖産業の勃興などによっていよいよ大量輸送手段の必要性は高まっていた。

  県営鉄道敷設


 鉄道敷設については最初沖縄鉄道株式会社の企画があったがお流れとなり明治44年の県会において県営鉄道を敷設する県議が採択され、それを県当局が受け入れて政府に敷設許可申請を出していた。大正2年に県営鉄道敷設の許可が降り直ちに建設取組を始めた。建設費については県債を起し日本赤十字社から利息付で借入れることになり三十万円の資金で那覇与那原間の敷設工事にかかった。東京に遅れること四十ニ年にして1914年(大正3年)に沖縄で初めて県営鉄道が那覇与那原間に開通した。色々な経緯を経て次に大正11年に那覇嘉手納間、翌年の12年に糸満線が開通し鉄軌道延べ約48キロの沿線が実現した。建設費も三路線が竣工するまでには二百万円以上の負債となっていた。

 那覇駅構内に鉄道管理所が置かれ独立会計の事業体として二百人前後の職員が配置され運営されたが形式上赤字経営となっていたので毎年鉄道省の事務監査を受けて地方鉄道法に基づく国庫補助を受けていた。

 県営鉄道の開通は期待通りの多くの県民に便益をもたらし僅かの金で地方と那覇の往来が可能となり人々に活気を与えると同時に製糖業を始めとする県下の産業発展に重要な役割を果たすことになった。以前の交通機関に比べ県営鉄道の開通は一台飛躍であり、県内上陸交通の一大革命であった。昭和11年の末には東風平駅から具志頭村を経て玉城村、大里村の稲峯駅を結ぶ県鉄バスが一本加えられた。又県内交通にはき業交通機関として那覇糸満間に昭和バス、那覇名護間に新垣バス、与那原泡瀬間に安田バス、宮城バス、与那原佐敷間に安田バス、宮城バスが通り本島内は県営鉄道を軸とする交通網が一応できていた。

  軍事利用始まる


 昭和16年の夏頃になると中城湾要塞指令部築城のため弓削部隊(隊長弓削保大佐)の設営隊が与那原に駐留するようになりそのために軍の資材、食糧等の運搬に利用されるようになった。しかしまだ昭和16年当時までは軍といっても僅かであり県民の足としてのどかな沿線にフィ、フィ、フィーの汽笛を鳴らし通勤通学、商用雑用に利用され親しまれていた。

 昭和19年3月頃から球部隊の兵站本部が通堂町に置かれ、そこから停車場指令が那覇駅に派遣され本格的な軍事物資の補給機関として利用されるようになった。更に7月頃から武部隊の停車場指令が鉄道管理所長室に置かれ軍事品輸送が優先されるようになった。

 10月10日の大空襲によって鉄道管理所と那覇駅の建物は焼き払われたが列車、レール等の施設は残されたので空襲以後も列車の運行は続いたが軍事利用は次第に拡大し軍専用列車同様となり民間人の利用は困難になっていた。12月に入り山部隊の移動になってからは兵員や資材運搬、弾薬輸送などに使用され19年12月上旬弾薬輸送中南風原村で爆発事件に遭い破壊したが線路の破壊は突貫工事で復旧し残された他の列車を使い軍事輸送列車として運行していたが民間人の利用は全く途絶え実質的に糸満線はその時機能を失っていた。県民の負債で敷設され県民の足として三十二年間働いて来た県営鉄道は昭和19年3月から日本の大軍配備により戦争の準備用具として使用され昭和20年3月まで運行を続け4月の米軍上陸によって完全破壊され喪失する運命を辿った。那覇駅跡は現在バスセンターになっており、線路跡も農道になったり、つぶされたりしてその跡形を失い今となっては関係者の記憶と部分的な写真のみとなった。

  駅 長 
  助 役 

(県経済部土木課)
(沖縄県鉄道管理所)
独立会計職員約二百人
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「庶務課」「運輸課」「会計課」「車輌課」「公務課」
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人事   各駅   収支   機関庫 建設、路線
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 駅長        機関手   
 助役        機関助手
 車掌        車輌夫
 出札係
 貨物係
 転徹手
 駅手
 掃除婦

参考資料
防衛庁戦史室沖縄戦史料
沖縄県援護課 戦没者台帳

参考文献
戦史業書 沖縄方面陸軍作戦
沖縄戦記 霞城●隊の最後
歩兵第八十九聯隊史 破竹

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