◆沖縄県営鉄道爆発事故(1944年)その2

   1・「その2」を執筆・公開するに至った経緯


 まずは前置きを記しておきたい。沖縄県営鉄道の爆発事故について、わざわざ「その1」「その2」と分けたのには理由がある。

 1944(昭和19)年に起きたこの事故のことは、数年前に一度「その1」を書いた。当時はウィキペディアくらいしか参考になる情報がなく、内容的にはスカスカだった。

 ところがその後、意外なことが起きた。「その1」の記事を読まれた桃坂豊氏ご本人から、直接ご連絡をいただいたのだ。

 桃坂氏は、この事故の調査を今も続けておられたのである。で、調査を通して得た資料の一部をご提供いただくことになった。内容はDVDと文書データで、「少しでも、この事故のことを多くの人に知ってもらいたい」とのことだった。

 ただ申し訳ないことに、これらの資料は長い間手つかずの状態だった。筆者自身の個人的な事情もあったのだが、資料の内容があまりにも「重く」感じられ、どう扱えばいいか悩んだ部分もあった。

 その、迷った末の結論が、「その1」と「その2」をどちらもネット上で公開するというものだった。桃坂氏から寄せられた新資料に基づき「その2」を書く。それを「その1」ならびに資料とあわせて公開すれば、「その1」から「その2」に至る執筆の経緯が分かりやすくなるだろう。また、事故のことを少しでも多くの人に知ってもらいたい…という桃坂氏の希望にもかなうのではないか(資料へのリンクは次節で示す)。

 よって読者の皆さんは、まだ情報が少ないうちに書かれた「その1」を読み、次に、加筆修正がなされた新バージョン「その2」を読むことで、まずは事故の内容を大まかに把握できるだろう。それから最後に「資料編」に目を通せば、より詳細な知識が得られるはずだ。

 もしくは、「その1」を読んでから「資料編」を読み、それから「その2」を読むのもいいかも知れない。その流れなら、筆者きうりの執筆の流れというか舞台裏のようなものが、なんとなく見えるかも知れない。もちろん、どう読もうが読者諸賢の自由である。

   2・資料について

 ここでは、桃坂氏から頂いた資料について簡単に説明する。

    (1) DVDについて

 資料のうち、DVDにはニュース番組を録画したものが収められていた。内容は、2008(平成20)年6月23日にTBSの「ニュース23」という番組で放送されたもので、タイトルは「月ONE ドキュメンタリー23 戦火に消えたケービン」。時間は30分。沖縄慰霊の日に放送されたもので、番組の制作にあたっては、桃坂氏も大きく関わっているとのことだった。

    (2) ルポ「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」について

 これはおそらく、桃坂豊氏ご本人が書かれたものである。おそらく、というのは、その後、桃坂氏と連絡が取れなくなっているため確認できずにいるからだ。

    (3) 「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」について

 これは、地元に住むK氏という方が1970(昭和40)年代後半~1980(昭和50)年代にかけて当時の生存者から聞き取った内容である。それを桃坂氏が書き写したものだ。

 ――で、以上の(1)(2)(3)うち、(1)のDVDについては、当研究室では動画などの形では公開しない。著作権等の関係上、ちょっと心配な部分があるからだ。ただ、内容的なものはルポに組み込ませてもらった。また、(2)(3)については、実名が記されている箇所は全て消している。

 桃坂氏からは「資料はネット上で使用しても大丈夫」という承諾を頂いている。とはいえメールでの簡単なやり取りで頂いたお返事である。また、現在は連絡が取れていないので、頂いた資料を、ほとんど手を加えない形で公開しても大丈夫だったかどうか、筆者としては少し心配な部分もある。

 しかしこの資料は、今まで事故の詳細が一切知られていなかったという性質上、一次資料としてそのままの形で公開するべきという気もする。だから、一抹の不安を抱きつつも、まずはとにかく公開しておきたい。

◇「その1」を読む方はこちら
◇資料編・「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」を読む方はこちら
◇資料編・「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」を読む方はこちら

   3・注意点

 さて、以上の内容を踏まえての注意点である。

 桃坂氏からの頂きものである2つの資料については、もしもネット上で引用などされる場合は、引用元をしっかり示すようにして頂きたい。筆者きうりにいちいち断る必要は(今のところ)ないと思うが、よろしくお願いします。以上。

 ――で、これは蛇足だが、それ以外の文章――即ち、当「事故災害研究室」で公開されている、筆者きうりが書いた文章――については、基本的に無断引用・無断転載・コピペは全部OKである。どんどんやって下さい。

 なぜなら、もともとが、いろんな文章のツギハギだからである。インターネット上の記事、新聞記事、書籍などから拾い集めて繋ぎ合わせたもので当研究室のルポはできている。だから、筆者としてはあまり独自性とかオリジナリティを主張するつもりはない(もちろん、無断引用などするにしても、当研究室のことを紹介してもらえると嬉しいけど)。

 ただし、ルポの内容の信憑性については、保障の限りではない。また筆者も著作権を放棄しているわけではない。そんな感じで、重ねてよろしくお願いしたい。

 前置きは以上である。

   4・「沖縄県営鉄道爆発事故」

 現在、沖縄県には「沖縄都市モノレール線」が存在している。

 都市の渋滞解消の切り札として活躍しているそうだ。筆者は東北在住なので実物を見たことはないのだが、写真や動画で確認してみた。跨座式モノレールというらしく、線路にしがみつくような形で走行している姿はなんだか可愛らしい。

 ところで、このモノレールについてウィキペディアの説明を読むと、「沖縄では戦後初の鉄道開通となった」という一文を見ることができる。この「戦後初の」という何気ない言葉は、戦中以前のことを知らない人はさらっと読み流すだろう。一方、少しでも沖縄の鉄道史を知っている人はハハア、ちゃんと歴史を踏まえて書いているなと思うことだろう。

 今回ご紹介する事故事例を知るまで、筆者には、沖縄といえば「鉄道が存在しない県」というイメージしかなかった。本州に住む人はほとんどが同様なのではないか。だが違うのだ。今から70年以上前――あの戦争が終わりを迎える直前まで、沖縄には鉄道が存在していたのである。

 その名は、沖縄県営鉄道。

 名前の通り、沖縄県による県営である。ただし、この名前はあくまでも当時の鉄道省における書類上の「正式名称」である。県内では「沖縄県軽便(けいびん)鉄道」「沖縄県鉄道」といった名前が使われていた。軽便とは、762mmのやや幅の狭い軌間の鉄道のことで、県民からは「ケイビン」「ケービン」と呼ばれ親しまれていた。

 この鉄道について書くだけでも、ちょっとした歴史の説明になる。事故災害のルポとしては、少しばかり冗長に感じられるかも知れない。しかしこの、沖縄県営鉄道が災禍に見舞われるまでの経緯は、その歴史と密接不可分の関係にある。少し長く感じられてもお付き合い頂ければと思う。

   ☆

 沖縄で、主要な道路が開通したり改修されたりしたのは、明治末期から大正初期にかけてである。それまでは、県内での交通機関といえば荷馬車や自転車くらいだった。それも使えるならまだいい方で、お金がなければ荷物を肩に乗せて運ぶしかなかった。いわば「前近代的」な状況だったのである。

 このままではあまりにもひどい。鉄道を敷かなければならない。……というわけで、株式会社による運営ではどうか? いやいやここは県による運営でいきましょう、といった紆余曲折を経て、1911(明治44)年に敷設が決定した。実際に那覇~与那覇間の工事が始まったのは1913(大正2)年のことだった。

 このタイミングは、経済ブームの波とも連動する形だった。第一次世界大戦(1914(大正3)~1918(大正7)年)の影響で、中心都市である那覇と、周辺の地方都市の経済交流は活発になっていった。こういった情勢のなかで那覇~与那覇間は1914(大正3)に開通している。資金は三十万だった。

 沖縄県営鉄道の誕生である。住民の念願が叶って開通したこの路線は、その後も1922(大正11)年には嘉手納へ、翌1923(大正12)年には糸満へと延び、「糸満線」と呼ばれた。総延長はのべ約48キロ。山手線よりも長いものだった。

 おそらく当時としては、華々しいデビューだったのではないだろうか。とはいえ、事業的には決して潤っていたわけではない。資料によると、形式上は赤字経営だったそうな。毎年鉄道省の事務監査を受けつつ、地方鉄道法に基づく国庫補助金を受けていたという。

 それでも確かに、県営鉄道の開通は、沖縄に「交通革命」をもたらした。

 那覇と農村の間で、砂糖や農作物、輸入物資の行き来が活発になり、製糖業などの産業も盛り上がった。また通勤通学にも鉄道は大いに利用された。例えば、それまでは那覇とやんばる地域(沖縄本島北部)の行き来はバスで一日がかりだったが、汽車の登場によって時間も短縮できたという。

 「窓の外見るのが楽しかった」というのは、当時を知る人に共通する証言である。のどかな沿線で、汽笛を鳴らしながら走る列車は、多くの人々に親しまれた。

 こうして、沖縄本島の交通網は、県営鉄道を主軸として展開していった。1936(昭和11)年の末頃にバスが登場したことで、その存在感が薄れたこともあったようだ。それでも軍事輸送ではまだまだ使い道があるということで、通常ダイヤを取りやめて軍用路線としても活用されるようになった。

 1936(昭和11)年と言えば、かの2・26事件があった年である。日本の政党政治が終わりを告げ、軍国主義的な空気が増していく時代の始まりだ。県営鉄道が軍用路線として活用されるようになったのは、そうした時代の空気を反映していた。

 1941(昭和16)年には日米戦争が始まった。日本と、日本人にとっての地獄の始まりである。沖縄も戦時体制に突入し、夏には、中城湾という場所に築かれた臨時の要塞へ司令部が設置された。そこへ軍の資材や食糧が運ばれるようになるなどの動きもあった。それでも、まだこの頃は平和だった。軍事輸送での活用と言っても、まだ軍人の姿は僅かだった。

 1944(昭和19)年3月頃には、県営鉄道は、本格的に軍事物資の補給機関として活用され、運搬優先、軍専用も同然の扱いとなっていた。戦況が際どくなるにつれ、軍需物資の運搬が増えていったのだ。客車は物資運搬のために貨車へと変わり、毎朝、部隊の武器弾薬や兵員の輸送に追われる。ときどき、敵の偵察機が飛来しては騒然となる――。沖縄県中南部の山や丘、海岸などには、地下壕や蛸壺壕などがどんどん築かれ、あらゆる公共の施設から農家の民家までもが軍専用のものとして接収。沖縄は戦時体制一色に染まっていった。

 そして、沖縄の人々にとって忘れがたい日が訪れる。1944(昭和19)年10月10日、のちに「十・十空襲」と呼ばれることになる米軍による大空襲の日である。これにより255名が死亡し、那覇市の市街地の9割が消失。火災は翌日まで続いた。県営鉄道も機関車4両、ガソリンカー4両、客車6両などが損害を受け、鉄道管理所と那覇駅は焼き払われた。

 この十・十空襲の日の、ある女学生の証言を掲載しておこう。彼女は県営鉄道を利用している時に空襲に遭遇した。鉄道の事故そのものとはさしあたり関係ないが、当時の沖縄県の空気が感じられる一文だ(掲載にあたり、内容の改変にならない程度に手を加えている)。

「ある朝、いつもの通り学校へ行くため列車に乗り一息ついていると、高射砲の音が聞こえてきた。列車は国場駅まで進んでいたが、そこから前進しなくなった。何かと思っているうちに、那覇は空襲があり、それ以上列車は運行できないので全員降りて自宅に帰るようにと指示された。列車から降りてしばらくすると戦闘機が飛んでおり、ポンポンしている音が聞こえてきた。次第に空襲は本物であることがわかり、急いで自宅へ逃げ帰った。
 皆ビックリして不安そうに空を眺め、音のする那覇の方向を仰いでいた。その時初めて米軍の沖縄上陸を予想し、深刻に受け止めるようになっていた。私たちの学校は市内にあったが直接の被害は受けず、以前と同じように学校へ通うことができた。しかし街は焼野原となり瓦礫の山となっていた。」

 この日以降、沖縄の人々は、空襲のみならず米軍の上陸にも怯えて暮らすことになった。県外疎開も進んだという。そんな中でも、県営鉄道の運行は続いた。

 米軍がフィリピンに上陸したのが、同年の10月18日である。これを受けて、大本営陸軍部はフィリピン方面を決戦場と決め「「国軍決戦実施ノ要域ハ比島方面トス」と大号令を発した。

 これにあわせて、沖縄周辺の兵隊も大きく移動することになる。大まかに書くと、当時、沖縄本島の島尻郡に駐留していた第9師団が、まず台湾へ移動。これは一万三千人を超える大所帯だった。で、その第9師団が築いていた陣地は、第24師団が引き継ぐことになった。こちらも一万四千人以上の人数である。

 先にざっくり書いてしまうと、この第24師団が、嘉手納から島尻郡へ――つまり沖縄の真ん中あたりから南の方へ――向かう途中で、鉄道の爆発事故に遭遇することになる。

 第24師団について少し説明すると――筆者は旧日本軍の体制や歴史について明るくないのでうまく書けないのだが――1939(昭和14)年10月に満州のハルビンで編成されたものだったらしい。1944(昭和19年)2月以降はメレヨン島やサイパン島での戦闘にも関わっている。そして先述した通り、台湾へ移動した第9師団の担任区域を引き継ぐ形で、駐留していた満州から島尻郡へ移ることになったのだった。あちこちでの戦闘により人員が欠けていたため、沖縄の現地召集者などによって補充しながら再編成されたという(この再編成の動きが、事故よりも前のことだったのか、後のことだったのかは不明)。

 余談めくが、この第24師団の中には、山形県の鶴岡で編成された部隊も含まれていたという情報もある。もしもこれが本当なら、山形県出身・在住である筆者としては何かの縁を感じずにはおれない。

 さて、第24師団に配備変更の命令が発せられたのは、11月26日である。スケジュールとしては、まず主力である歩兵連隊12月6・7日に移動し、続いて8・9日に他の連隊が、そして10日に衛生兵が出発することになった。彼らの島尻郡への移動は11日には完了する予定だった。

 10日までの兵員の移動は順調に進んだようだ。

 人の運搬がほとんど終わったところで、次は武器弾薬である。これは嘉手納駅に集められて、県営鉄道によって島尻へ運ばれることになった。

 また、これと一緒に移動する兵員もいた。メインの兵員は6~10日の夜間行軍で移動を済ませていたが、病気などで夜間の移動に耐えられない一般兵や初年兵がいたのだ。彼らは、移動スケジュール最終日の11日に、武器弾薬とともに県営鉄道に乗り込んだ。

 こうして1944(昭和19)年12月11日、ケービンは悲劇の時を迎えることになる。沖縄ではさとうきび畑が花を咲かせる季節だった。

   ☆

 月曜日、天候は晴れときどき曇り。この日の夕刻に、糸満線の嘉手納駅から、貨車を牽引しながら一本の蒸気機関車が出発した。目指すは高嶺駅だ(高嶺村は、現在の糸満市中部にあった)。

 先頭車両は、沖縄の人々が親しみを持って「ケービン」と呼んでいた小ぶりな機関車である。しかしそれが引っぱる貨車の積み荷は剣呑だった。枯れススキがかぶせられた6両の無蓋貨車には弾薬がぎっしり。またこれらの貨車には150人前後の兵員も乗っていた。もちろん客車などないから、全員が積荷の上に直接腰を下ろしていた。

 ケービンは南へ進んだ。最初に到着したのは古波蔵(こはぐら)駅である。嘉手納駅から糸満方面へ行く場合は、この古波蔵駅でいったん方向転換することになっていた。

 ここで、機関車が貨車から切り離され、燃料補給のためにいったん那覇駅へ移動した。そして、古波蔵駅に残された貨車に、今度は進行方向とは反対の方向からやってきた三両の列車が接続した。この三両のうち一両目は機関車で、二両目はガソリン入りのドラム缶が積まれた無蓋の貨車である。そして三両目は有蓋で、医薬品などの物資が乗っていた。二・三両目にはいずれも兵隊が腰を下ろすなどして乗り込んでいたようだ。列車全体が兵員で溢れていた。

 さらに古波蔵駅では、衛生兵約60名と、帰宅する女学生4~5人も乗り込んだ。本当は、1943(昭和18)~1944(昭和19)年当時にはケービンは客車とは連結しなくなり、一般人は乗れないことになっていた。完全に兵隊や軍需物資などの運搬が優先されていたのだ。ただ、学生と公務員だけは黙認されていたらしい。

 女学生たちは大喜び。さっそく、医療品などが積み込まれた有蓋貨車の方に乗り込んだ。

 和やかに談笑する女学生と兵隊たちを乗せて、ケービンは走っていく。次に到着したのは津嘉山(つかやま)駅である。午後4時のことで、ここでも女学生2人が乗り込んだ。

 さらにケービンは進む。150名以上の乗客と武器弾薬を積み込んでいるので、スピードはかなり落ちていた。しかも、山川駅と喜屋武(きゃん)駅を過ぎれば今度は上り坂である。真っ黒い石炭の煙を煙突から吐き出しながら、列車は這うようなスピードで進んでいった。この時、ケービンの煙突からは煙のみならず、火の粉も飛んでいたという。

 やがて列車は神里(かみざと)の東側のはずれ、南風原(はえばる)村(現・南風原町)神里に入り、田園と小川を横切っていった。

 時刻は午後四時三十分。稲嶺に向かう切通し付近で上り坂に差しかかった時、貨車が突然火を噴き、大爆発を起こした。

 最初に発火したのは、機関車の後ろ(二両目)の貨車に積まれていたガソリンだったようだ。ものがガソリンなので発火自体が爆発的だったと思うが、その火炎は後方の貨車に積まれた弾薬にも引火し、次々に誘爆が起きた。周辺一帯はたちまち火の海と化し、乗っていた人々もその餌食になっていった。爆発の衝撃は現場周辺の大地を震わせ、さらにその轟音は、島の全域に響き渡ったという。

 この事故の生存者はたった三名。途中で乗り込んだ女学生のうちの二人と、汽車の運転士である。以下では、この三名のうち二人の証言を掲載しておく(資料から転載するにあたり、内容の改変にならない程度に手を加えている)。まずは、当時48歳だった運転士。

【証言1】
「12月11日も、朝から緊急輸送命令を受けて、武器弾薬と兵員の輸送に当たっていた。
 私は直ちにブレーキをかけたが、強烈な火のかたまりが機関車に吹き込み、頭部、両手、両足に火傷を受け、さらに両耳に爆風が吹き込んだ。それ以来、耳に不調をきたした。
 私は列車より脱出し、近くの稲嶺駅に駆け込み本部に電話連絡しようとした。しかし電話線が切れ不通となっていた。さらに東風平駅まで走ったが、同様に不通であった。
 私は茫然となり、県道を那覇へ向って進んだ。奇跡的にも私は生き残っている。どうして助かったのか私自身よくわからない。同乗者の機関助手一人と車掌二人はその場で不明となった。
 その時の火傷の後遺症と耳の不調は、私の一生につきまとう。
 数百人の人間が日本軍の弾薬によって畑に散り、虫けらのように死に絶えて行った事実は殆んどの人が知らない。
 沖縄での戦争は、米軍との決戦以前から、一般住民に対して犠牲をしいるだけであった。
 罪のない多くの国民を大量に殺していくのが戦争の実態である。
 あの時の、恐ろしい悪夢の思い出は八十才過ぎた今日でも脳裏に焼きついて離れない。」

 次は、当時乗り合わせた女学生の証言。那覇駅で乗り込んだ女の子たちの一人である。

【証言2】
「三、四人は有蓋貨車の外側に立ち乗りした。
 古波蔵駅に着くと、兵隊がいっぱい乗っている貨車六両くらいにつながれ、ゆっくりと糸満に向けて発車した。
 前方で火を見たとたん非常に危険を感じ直ぐ飛び降りた。
 火の海の中を走り抜けたような気がする。
 しかし、その時は気が動転して記憶もさだかではないが、逃げ出した時には髪の毛と着物に火がついていた。
 たまたまそこに小川があったので、飛び込んで火を消したが、気が遠くなるような気がして座り込んでいた。
 そこへ、遠巻きにしていた兵隊が走ってきて肩を貸してもらい、付近の農家に案内された。しばらくしてからトラックで南風原小学校の陸軍病院へ運ばれた。
 運び込まれた陸軍病院には、黒焦になった者、全身皮がむけた者、何十人もの人々が床の上でうめき声を上げ、殺してくれと叫びながらのたうち回っていた。
 一週間の間に、ほとんどの者たちがバタバタと死んでいった。
 自宅治療をしたが、二ヶ月間痛さで苦しみぬいた。」

 少し補足しておくと、【証言2】の女学生は令和の時代になってからもご存命で、2020(令和2)年6月に放送されたドキュメンタリー番組では、上述のものと同じ証言をしている。それによると、彼女が列車から飛び降りたきっかけは「前方で火を見た」ことだけではなく、危険を感じた兵士が貨車からバラバラと下りるのを見たからだという。彼女はそれに続く形で脱出したのだ。結果、兵士は一人も助からず彼女だけが生還した。小川に入って助かった(テレビでは「溝」と表現していた)彼女は、爆発直後に後ろを見たが、誰の姿も見えなかったという。

 この二つの証言だけでも気が滅入ってくるが、事故の全体像から見ればまだ序の口である。爆発と火災が発生したのは、鉄道車両だけではなかった。

 当時、現場付近の神里集落では172世帯が生活しており、線路の周辺では沖縄戦に備えて陸軍や野戦重砲隊が駐屯していた。あわせて大量の弾薬がサトウキビ畑に野積みで隠されており、これにも火が燃え移ったのだ。

 誘爆に次ぐ誘爆――。幸い、神里集落では死者こそ出なかったものの、家が一件焼け、もう一件にも延焼した。また爆風によって壊れた家もあった。住民たちの中には、黒煙で真っ黒になった空を見上げて、ついに戦闘が始まったのかと思った者もいたという。彼らは防空壕や他の地区へ逃げるしかなかった。

 神里集落などの現場周辺には、爆発によって巻き上げられた様々な物品が降ってきた。医療品のガーゼや包帯などで家の屋根や道路は真っ白。また人間の肉片や、汽車に乗り込んで犠牲になった女学生のネームプレートなどが引っかかっていた樹木もあったという。戦後になってからは、犠牲者のものとおぼしき人骨が畑から出てきたりもした。

 事故の急報は、東風平(こちんだ)国民学校(現在の東風平中学校)にもたらされた。そこは第24師団の病院として使われており、先の9・10日のうちに移動していた衛生兵が駐留していた。彼らはただちに現場へ急行したが、凄まじい火災で遠巻きに眺めているしかなかったという。

 爆発はなかなか収まらず、ようやく救助活動が可能になったのは、あたりが夕闇に包まれからだった。衛生兵たちは携帯の電灯などを使い、まだ息のある者を手探りで助け出しては、当時の陸軍病院である南風原小学校のほうへ運搬した。既に息絶えた者は先述の東風平国民学校のほうへ安置された。

 当時は、おそらく投光器のような便利な道具はなかったのだろう。救出・収容作業は業遅々として進まず翌日に持ち越された。翌12日はさらに多くの人が作業に駆り出されている。

 陸軍病院に収容された犠牲者も、事故後一~二週間の間に苦悶のうちに息を引き取っていった。先述の通り、この事故の生存者は三名とされているので、病院に収容された者もほぼ全員が死亡したことになる。

 当時の陸軍病院の様子は、資料によると「地獄のような有様」だったという。詳細はここでは書かないので、興味のある方は資料編の方を読んでいただきたい。「比較的」かるい火傷で済んだ女学生たちは、家族に引き取られて自宅療養することになった。

 もちろん警察も放ってはおかない。事故発生を知った与那原(よなばる)署は、密かに現場へ警官を送り込んでいる。しかし現場はすでに軍がロープを張っており、サイドカーに乗り込んだ憲兵たちが続々と集まっていた。先に彼らが復旧作業と原因調査にあたっていたため、警官が立ち入ることはできなかった。

 思うにこの時から、すでに軍による「不祥事隠し」が進んでいたのだろう。事故が起きた年の3月に沖縄本島に司令部を置いたばかりだった第32軍(「軍」は「師団」よりも上位にあたる)は、民間人の動揺と、大本営から怒られるのを避けるため隠蔽をはかっていたのだ。縄を張って現場を封鎖したのは、いわば「隠蔽工作その一」である。

 次に、隠蔽工作その二。この事故で死亡した兵員はかなりの人数に上ったが、その遺体は密かに火葬された。遺体の安置所となった東風平国民学校では兵員による合同の葬儀が行われたが、それは民間人の知るところではなかった。

 隠蔽工作その三。それ以外の犠牲者の遺骨も密かに処理された。女学生の骨箱は遺族へ。軍人のものは各中隊へ――。遺族は泣き寝入りするしかなかった。

 その四。完全な箝口令が敷かれ、地元の新聞にも記事が一切載らなかった。戦後に戦史を整理してきた防衛庁戦史室も、この事故のことは第62師団の会報綴によって初めて知ったという。

 犠牲者の人数は次の通りである。

・軍人の死者……210名前後
・女学生の死者……8名
・鉄道職員の死者……3名
・生存者……3名

 鉄道事故として見れば、日本の鉄道事故史上最悪である。こうした数字も、隠蔽工作によって長い間明らかにされていなかった。

 ただ、これは単なる想像に過ぎないのだが、事故があった事実自体が軍によって完全に隠蔽されたということは、実際には爆発に巻き込まれた兵員の中に生存者がいた可能性もゼロではないのではないか……そう考えることもできると思う。むしろ情報が全て非公開だった中で、この死者数と生存者数はどこからどうやってはじき出されたのかという疑問もなくはない。

 さて、この凄惨極まりない爆発事故の原因はなんだったのか。当時は巷でスパイ説などが囁かれたりしたが、今のところ最も有力なのは、ここまでの経緯を読んで頂ければだいたい想像がつくと思うが「石炭の火の粉がガソリンに引火した」説である。

 ケービンは石炭を燃料としていたため、火の粉がよく出た。事故が起きた現場は急な上り坂なので走行するには馬力が必要で、そこで無理がかかる。いつも鉄道員たちはこの坂に差しかかると古い石炭の燃えカスを捨てて、新しいのと交換して火力を上げていたという。

 そのため、周辺のサトウキビ畑では毎日のようにボヤ騒ぎが起きていた。周辺の農家たちは、毎度「またか!」とぼやきながら消火にあたっていたのだ。

 このような状況で、ガソリンと武器弾薬を積んだ列車が機関車に接続されていたのである。逆に何も起きない方が奇跡的だ。「ガソリン缶を積んだ無蓋車に最初に火が付いた」という生存者の証言とも一致するし、爆発的な燃焼が貨車や周辺のサトウキビ畑に積まれていた弾薬に引火したということでまず間違いないだろう。

 ところで、純粋な事故のレポからは少しずれるが、ひとつ興味を引く資料がある。事故が起きた1944(昭和19)年8月に沖縄の第32軍に転用された第62師団が、『石兵団会報』というのを出していたらしい(石兵団は第62師団のこと)。その中で、第32軍の参謀長・長勇(ちょう・いさむ)氏から各部隊へ出された「注意事項」がある。これは事故直後の13日に出されたもので、以下に掲載する。

「山兵団ハ神里付近ニ於テ列車輸送中兵器弾薬ヲ爆発セシメ莫大ナル損耗ヲ来セリ一〇・一〇空襲ニ依リ受ケタル被害ニ比較ニナラザル厖大ナル被害ニシテ国軍創設以来初メテノ不祥事件ナリ、此レニ依リ当軍ノ戦力ガ半減セリト言フモ過言ナラズ、此レ一二兵団ノ軍紀弛緩ノ証左ニシテ上司ノ注意及規定ヲ無視シタル為惹起セルモノナリ、無蓋車ニ爆弾ガソリン等ヲ積載スベカラザルコトハ規定ニ明確ニテサレアルトコロニシテ常識ヲ以テ判断スルモ明ラカナリ、輸送セル兵団ハ言フニ及バズ此レガ援助ヲ為セル兵器兵姑地区隊モ不可ニシテ夫々責任者ハ厳罰ニ処セラルベシ、該事件ノ如キハ署亜罰ノミニテ終ルベキ性質ノモノニ非ズ、戦争ニ勝タンガ為、第一線ニテ不自由ナカラシメンガ為銃後国民ガ爪ニ火ヲ燈すが如ク総テヲ犠牲ニシテ日夜奮闘シテ生産セルモノニシテ銃後国民ノ赤誠ニヨルモノナリ、作戦上ノ必要ニヨル消耗ハ止ムヲ得ザルモ敵一兵ヲモ殺傷スルコトナク莫大ナル消耗ヲ来セルハ面目ナキ次第ナリ、兵器弾薬燃料ノ分散格納不十分ナリシ為カカル莫大ナル損耗ヲ来セリ各兵団ノ兵器、弾薬ノ他ノ軍需品ノ分散格納モ極メテ不十分ニシテ普天間、宜野湾付近ノ道路ノ両側ニ多量ヲ集積シテアリタルモ艦砲射撃ヲ愛クレバ必ズ爆発燃焼スルハ明瞭ナリ、各部隊、兵器弾薬ハ速カニ掩蔽部ニ格納スベシ人員ノ掩蔽壕ハ遅ルルモ兵器弾薬速カニ掩蔽部ニ格納スルヲ要ス。戦ハ大和魂ノミニテ勝チ得ルモノニ非ズ兵器弾薬ハ戦勝上欠クベカラザルモノナルハ言ヲ俟ズ、軍ハ該被害ニヨリ戦カノ半数以上ヲ減ジ如何ニシテ之ガ前後策ヲ講ズルカニ腐心シアリテ軍ノ戦闘方針ヲ一変セザルベカラザル状況ニ立到レリ、今敵上陸スルトセバ吾レハ敵ニ対応スベキ弾薬ナク玉砕スルノ外ナキ現状ニシテ今後弾薬等ノ補給ハ至難事ナラン、将来兵団ニ交付シアル兵器弾薬、其ノ他ノ軍需品ヲ焼失爆発等セシメタル際ハ軍ニ於テ補給セズ、其ノ余力ナシ兵器、弾薬等国情ヨリ見ルモ豊富ナラズ各隊ハ極力兵器ノ愛護、弾薬ノ節用ニ勉メ仮初ニモ過失ニヨリ戦力ヲ失セザル如ク注意セラレ度、軍司令官ノ心痛ヲ見ルニ忍ビズ其ノ意図ヲ体シ各部隊ニ一言注意ス」
(昭和19年12月14日付、石兵団会報94号より)

 要点を簡潔に書くと、
「ガソリンをむき出しで積んで輸送すんなって言っただろ!
 決まりを守らないからこんなことになっちまったじゃないか…。
 敵と戦ったわけでもないのに、戦力が半分以下になっちまったよ!!
 今、敵が上陸してきたら俺たち玉砕するしかないんだぜ!?
 残りの弾薬、大事にしろよな!!!」
 ――という感じだろうか。

 では上述の注意書きにあった「莫大ナル損耗」とは、具体的にどれほどのものだったのだろうか。事故によって失われたとされる物品の数量は次の通りである。

・武器弾薬……貨車6輌分
・ガソリン……貨車1輌分
・医薬品……貨車1輌分
・畑に積まれた弾薬……数千トン

 以上から推測するに、本土からの補給もままならない中でこの鉄道爆発事故が起きてしまい、軍は物品不足で「玉砕する外はなき現状」となり、四か月後の沖縄戦で窮地に陥ったのである。そして住民を巻き込んだ悲惨な総力戦へと突入したのだ。

 単純で荒っぽい言い方になるが、この事故のあるなしで沖縄戦の結果も少しは違っていた、かも知れない。その後の沖縄の歴史を考えれば、この事故は単なるいち失敗談ではなく、歴史的事件と言える、かも知れないのだ。もちろん歴史にイフはないので、あくまでも全ては「かも知れない」なのだが。

 注意書きを発した長勇参謀長は後の沖縄戦でアメリカ軍に追い詰められ、第32軍を指揮した牛島満とともに割腹自殺を遂げている。6月23日のことだった(22日という説もあるらしい)。

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 その後の話である。

 振り返ってみれば、沖縄県営鉄道が活躍した年数は、決して長くはなかった。辛うじて運行されていたのは1945(昭和20)年3月までで、戦争末期には線路のレールまでもが軍に供出され、あとは米軍との戦闘の中で完全破壊されている。沖縄県営鉄道という組織が正式にいつ消滅したのかは不明である。

 かつての路線も、戦後は農道などに変わった。当時の那覇駅も現在はバスセンターになっているし、また当時線路があった場所をたどっていくと、途中で嘉手納基地のフェンスに突き当たるという。沖縄県営鉄道の記憶は、米軍基地の向こうへ封印されたのだ。かつての鉄道の痕跡は、今ではほとんどない。

 こうして、軍による隠蔽と鉄道そのものの消滅とが重なって、この事故はいわば「忘れられた事故」「幻の事故」と化したのだった。

 ……と書くとドラマチックだが、この事故が人々の記憶の中から忘れられていった理由はそう単純ではないように思われる。実際には、沖縄県営鉄道が存在した痕跡は皆無ではないからだ。

 例えば、先述した、2020(令和2)年6月に放送されたドキュメンタリー番組によると、神里地区の自治会館には当時のレールが無造作に置いてあったりするし、かつての線路も言われているほど「完全に」破壊されたわけではなく、敷設された状態でごく僅かに残っているようだ。また那覇市の歴史をまとめた『那覇市史』にも、一応この事故の記録は記されている(ただこの記録部分がいつ書かれたものなのかは不明)。さらに1983(昭和58)年には鉄道の客車と台車が発掘されており、これは宜野湾市立博物館に展示されているらしい。

 それに、当たり前のことだが、沖縄県営鉄道の記憶が沖縄県民全員から完全に失われたわけでもない。もちろん今も覚えているという人は高齢者ばかりだろうが、記憶に残っている人は今もいるし、かつてはもっと大勢いたはずである。いくら箝口令が敷かれたと言っても、人々が覚えていてそれを語り伝えていれば、事故も「忘れられ」てはいなかっただろう。

 少し冷ややかな書き方になるが、人間はどうしようもなく「忘れる」のである。おそらく沖縄の人々は、この事故を純粋に「忘れた」のだろう。

 例えば、見慣れた建築物などがある日突然なくなったりすると、人はそこに何があったのかすら思い出せなくなることがある(民俗学者の畑中章宏はこうした現象を「景観認知症」と名付けている)。戦中から戦後にかけて、沖縄は想像を絶する大変な状況におかれた。生活空間は完全に破壊され、再興された風景はそれまでとは全く違うものだった。こうしたことが重なり、まず事故の記憶は人々の頭の片隅に追いやられたのだ。さらに箝口令によって記録も残らなかったことから、「記憶も記録もない」状況に陥り、結果として「忘れられた」のだろう。

 事故災害ルポを書いていてよく思うが、忌まわしい事故や事件の記憶は、そのままにしておくとえてして誰も「伝えない」し、「忘れられていく」ものである。

 例えば過去にある事故が起きた場所で、周辺住民がそれを全く知らなかったとする。筆者のようなマニアは「なんでそんな貴重な歴史を知らないの!?」とびっくりするが、それが当たり前なのだ。理由はよく分からない。とにかく、人は事故や事件のことは悲しいほどに「伝えない」し、「忘れていく」ものなのである。事故の慰霊碑や記念碑を建てるなどし、一年に一回でもいいので慰霊式などを開いてしつこくしつこく繰り返し想起しないと、人々は重要な事故災害の記憶も失っていくのだ。

 ただこの沖縄県営鉄道の事故については、最近になって注目される機会が増えた気がする。

 例えば、今までウィキペディアでさらっと書かれていた程度だったものに、詳細な内容を肉付けしてインターネットで公開したのは当研究室が初めてだろう。その経緯については本稿の一番最初に書いた通りである。

 また2015(平成27)年には、ケービンの「転車台」遺構が発見された。転車台とは機関車を方向転換させる回転台のことだ。当時の那覇駅が今はバスターミナルになっていることは先述したが、このターミナルの改築と周辺の再開発工事が行われた際に発掘されたのである。

 この発掘された転車台は、今はバスターミナルに隣接する交通広場に移設されている。筆者もネット上の画像で見たが、レンガを積み上げたなかなか風情のある建築物である。

 さらに、先に何度か述べたが、2020(令和2)年6月にはテレビで特集番組が放送されている(NNNドキュメント'20の『封印~沖縄戦に秘められた鉄道事故~』(2020/6/21放送))。実は本稿は、過去に一度書き上げたものに、さらにこの番組の内容を付け加えて加筆修正したものだ(余談だが、上記の番組のスタッフロールで桃坂豊氏のお名前を見かけた。やはり今でもあの事故の情報提供などに関わっておられるのだなと思う)。

 この事故のことが、さらに多くの人に知られますように。

 資料を提供して下さった桃坂豊氏にも、心より御礼申し上げます。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆TBSニュース23「月ONE ドキュメンタリー23 戦火に消えたケービン」(2008(平成20)年6月23日放送)
◆NNNドキュメント'20『封印~沖縄戦に秘められた鉄道事故~』(2020(令和2)年6月21放送)
◆資料編・「弾薬輸送列車大爆発事件 闇に包まれた爆発事件」
◆資料編・「軽便鉄道糸満線 爆発事故調査資料」

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