◆比叡山バス衝突・転落事故(1960年)

 1960(昭和35)年7月24日のことである。比叡山の頂上から延びる一本の道を、2台のバスが縦走していた。

 バスは現在の全但(ぜんたん)バス株式会社のものである(以下「全但バス」)。この日は神戸市葺合(ふきあい)遺族会(※)の会員とバス乗務員が、2台に分乗して旅行中だった。

(※)神戸市葺合区というのは古い呼び名で、1980年には生田地区と統合されて中央区になっている。阪神大震災でも甚大な被害があったあの地区だ。

 彼らは延暦寺の根本中堂と近江神宮を巡っている真っ最中。次の目的地に到着したら、そこで食事を採る予定だった。時刻は昼。無事に到着すれば、昼食にありつける頃合である。

 さて、時刻は午後12時25分頃。バスは、間もなく比叡山ドライブウェイと合流する交差点へ差しかかろうとしていた。

 ところがここで異変が起きる。

「あれっ、ブレーキが利かないぞ!」

 それは2台のバスのうち、後続のほうのバスだった。下り坂だというのに、これは洒落にならん話である。速度も40キロほど出ており、運転手は真っ青。だがそうしている間にも、バスはどんどん坂道を滑り降りていく。

 そのうち、前方の反対車線に一台のバスが停止しているのが見えてきた。これは現在の京阪(けいはん)バス株式会社のもので、根本中堂から京都三条へ向かうところだった。

 場所は勝尊院から北へ5メートルのカーブで、そしてバス停の付近だったという。もしかすると京阪バスの方は、バス停で停止していたのかも知れない。ともかくここで、2台のバスは衝突してしまった。

 京浜バスのほうは、幸いにも衝突による破損のみで済んだようだ。やばいのはノンブレーキで坂を下ってきた全但バスである。こちらは勢い余って山道のガードレールを突き破ってしまった。

 この衝突の際の衝撃は凄まじいものだったようだ。ガードレールは52センチの高さで、レールは60センチ四方のコンクリートブロックによって支えられていた。にもかかわらず、バスはそれを根っこからなぎ倒して突破してしまったのだ。

 そしてガードレールを突き抜けると、そこは急勾配の山の斜面であった。

 また全但バスにとっては間の悪いことに、当時この斜面は工事中だったため、樹木が取り払われていた。よってバスは障害物も何もない状態でほとんど自由落下。約20メートルほど転がり落ちて、下の道路にいったん着地した。

 あ、20メートルで止まったの? 他のバス事故に比べればまだマシなほうじゃん。

 ――と、ここで安心してはいけない。「いったん」と書いたのは、ここでバスがボヨヨ~ンとバウンドしてしまったからだ。

 それで、バスはさらに南谷と呼ばれる谷へ落下。おそらくこれも斜面を転がり落ちる形になったのだろう。やっとのことで停止したのが衝突現場から150メートルも離れた場所で、当時の新聞によると最後は「斜面に逆立ち」になってしまったという。これは参考資料のリンク先のブログに写真が載っているが、斜面で完全に引っくり返ったということのようだ。

 これだけの大惨事で乗客も無事なわけがない。転がり落ちたバスには44人が乗っていたが、うち女性車掌ひとりと、遺族会の男性7名と、さらに女性20名の合計28名が死亡した(後で増えたのか30名という資料もある)。中には子供も含まれており、即死は24名だったという。

 また、衝突を受けた京阪バスでも4名の軽傷者があった。

 霊山・比叡山にして神も仏もありゃしねえとはこれいかに、と言いたくなるような大惨事である。

 だが落下地点が良かったのか、救出活動が素早く行われたのは幸運だった。事故発生が12時半頃で、救出と遺体の搬出活動は16時には終わったという。

 事故翌日には現場検証も行われ、原因もあらかた明らかになった。とにかくブレーキが利かなくなったというのが問題である。一体どういうことだ、と調査がなされた(ちなみに運転手は九死に一生を得ている)。

 それで調べてみると、バスのギアはサードに入っていた。下り坂で、本来ならばセカンドに入れるべきところである。運転手は、どうやら主にフットブレーキで速度を調整していたらしい。

 またこのたび事故ったバスは1953(昭和28)年に造られた53型日野ディーゼル。当時としてももはや旧型と呼ぶべき代物だった。どうやらブレーキが利かなくなったのはフェード現象らしい。老朽化した車体でフットブレーキを使いすぎたのが仇となったのだ。

 これは筆者の推測だが、セカンドではなくサードギアで走行していたというのは、決められた時間内に観光客を送迎するためのぎりぎりの速度調整だったのではないかと思う。また事故を起こした車両は2台目で、前方の1台目に遅れるわけにもいかない。安全運転でのんびりいこう、というわけにはとてもいかなかったのではないだろうか。

 その後、刑事処分や補償がどのように行われたのかは不明である。だが参考資料にさせて頂いたブログによると、当時の現場付近には、今でも慰霊碑(らしきもの)があるらしい。「無動寺バス停付近の交差点の真正面」らしいので、足を運ぶ機会がある方はぜひ手を合わせてきて頂きたい。

【参考資料】
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
◆個人ブログ『The Present Perfect ~ 京阪バス現在完了形』
◆個人ブログ『旅行記、鉄道、阪神大震災、軍事など』

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