1959(昭和34)年から1960(昭和35)年というのは、やけにバス事故が多い。おそらく交通網の発達に人間の方が順応し切れていなかったのだろう。こういう、新しいシステムが定着するまでの過渡期は事故も起きやすい。
今回の事故も、1960(昭和35)年12月12日に発生した。
現場は、国鉄姫新線(きしんせん)の美作落合~美作追分の間にある赤野踏切という無人踏切である。さらに詳しく書くと、その場所は岡山県真庭郡落合町下河内赤野といった。
おそらく「田舎」と言える場所なのだろう。この現場のあたりをGoogleマップで調べてみると、実にほのぼのした風景が出てくる。
そこは田んぼの真ん中で、赤野踏切の周辺は見通しも悪くなかった。しかし事故が起きた午前8時20分頃は、雨と霧の影響で視界が悪かったという。
そんな中で、踏切にバスと列車が差しかかった。中鉄(中国鉄道)バス勝田営業所の下河内発勝川行き定期バスと、姫路発・広島行き下り813列車である。
813列車の機関士は、踏切のおよそ700メートル手前で異常に気付いた。赤野踏切にバスが進入し、突っ切ろうとしているのが見えたのだ。
「危ないぞ。止まれ!」
機関士は汽笛を鳴らし、さらに400メートル手前でも同じようにした。この時はまだ、バスは停止さえすれば列車と接触せずに済む位置にいたようだ。
機関士も、さすがに二回警告すれば止まるだろうと考えていた。しかしバスは知らんふりして踏切を渡り始め、列車は50メートル手前で急ブレーキをかけたが間に合わなかった。
バスの右側の横っ腹に、列車が頭から突っ込む形になった。そのままバスは約50~60メートルほど引きずられ、線路際の田んぼへ一回転半して転落。列車の方は150メートルほど進んだ地点でようやくストップした。
事故発生を受け、地元の河内消防団河東分断の団員およそ120人が出動し怪我人の救出と現場の整理を行った。また婦人会も炊き出しを行うなど、近隣の住民が総出で救助活動を行った。
もともと、この踏切は事故が多く、前日の11日にも踏切の手前で中鉄バスが田んぼに落ちたという。しかし、それにしても此度の事故はひどかった。転落したバスは車体の右半分に大穴が開いて、車内にあった座席や、乗客の荷物・履物があちこちに散乱していたという(写真は『写真集 岡山の鉄道』P.209「事故白書」より)。
また、被害が拡大する悪条件も重なっていた。当日は雨降りだったことは先述したが、このため40人ほどの通勤者がバスを利用していたのだ。
さらに、この日は地元の落合町有隣中学校でPTAの会合が行われることになっており(資料によっては授業参観日とか進学相談とも)、これに出席する上河内地区の母親たちも19~22名ほど乗り込んでいた。
よってバスは超満員の状態だったのである。もともと定員56名のところに、合計65名(資料によっては59名とも)が乗り込んでいたのだ。このため、被害者が多く出る結果になってしまった。
乗務員も乗客も、全員がもれなく怪我を負う惨事となり、被害者たちは落合町の落合・金田・河本の三病院へ。当初の新聞報道では8名死亡、55名重傷、2名軽傷などと報じられたが、翌日には死者は2名増えて10名となっている。
ちなみに、資料によっては怪我人54名と記録されているものもある。ここまで読んで気付いた方もいると思うが、被害者数が微妙に合わない混乱ぶりだったようだ。
いずれにせよ、この事故は当時の岡山県としては戦後最大といえる踏切事故だった。同県では前年の5月23日に福渡町(建部町?)で観光バスが川に転落して5名が死亡する事故が起きており、それを上回る惨事となったのだ。
さっそく事故原因の調査が始まり、勝山署はバスの運転士と車掌から事情聴取を行った。だが当初は二人とも重傷で、しかも運転士は事故のショックで興奮状態。すぐに話を聞ける状態ではなかったようだ。
そのためか、当時の新聞には、主として運転士ではなく車掌の方の証言が掲載されている。その内容はこうだ。
「600メートル手前にあった別の踏切では、自分が歩いてバスを誘導した。事故が起きた赤野踏切でも同じように誘導しようと思って、運転士にストップを命じたが聞こえなかったのか、それともブレーキが利かなかったのかは分からない」。
※注:当時の地元紙『夕刊新聞』の文章に少し手を加えている。
この証言があったからか、当初の地元紙『夕刊新聞』『山陽新聞』ではバスのブレーキが故障していた可能性も示唆されている。また、バスの車掌は当時、車内が超満員でドアがやっと閉まるような状態だったことから、列車の存在には気付かなかったと書いている新聞もあった。
しかし捜査が進み、事故原因はブレーキの故障などではなく、バスの運転士が単純に踏切での一時停止を怠ったことだったと判明。当時、運転士は列車が既に踏切を通過しと思い込んでいたらしく、彼は業務上過失致死傷の疑いで送検された。
そして事故から四日後の12月16日、中鉄バスには広島陸運局から行政処分が下され、貸し切りバス五台が一週間の使用停止となった。この結果だけを見ると「ふ~ん」という感じだが、意味するところは深刻である。この事故ではバス会社に全面的に非があると陸運局が認めたことになるからだ。
また、事故直後には中鉄バスに対して特別監査も行われたのだが、運行管理の状態は想像以上に悪かったようで保安命令も出されている。曰く、
・走行距離に応じて定期的に車両を整備すること
・従業員点呼を必ず実施すること
・始業前には運転準備図をもれなく配布すること
・車両の定期的な整備を、計画的かつ確実に実施すること
・仕事点検を行うこと
という感じだ。見方を変えれば、これらのルールが全て守られていなかったのだろう。
ちなみに、当時の『山陽新聞』12月13日号岡山県内版には、中鉄バスによる「お詫び」が掲載された。調べれば他の新聞にも載っているのかも知れない。
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細かい話だが、この広告の掲載主は「中国鉄道株式会社」となっている。もともと中鉄バスは1896(明治29)年に鉄道路線を有する株式会社として設立されたもので、最初の会社名がこれだったのだ。
だが鉄道路線が1944(昭和19)年に国有化されたためバス専業会社となり、社名が正式に「中鉄バス株式会社」に変わったのはこの事故から七年後の1967(昭和42)年だった。だから広告内の会社名はまだ中国鉄道株式会社なのである。
ただそうなると、事故当時から「中鉄バス」という名称が使われているのがやや解せないのだが、通称としては既にそう呼ばれていたのかも知れない。
閑話休題。被害者への補償については、被害者家族65名が12月16日に「落合町バス事故被災者連盟」を結成して、中鉄バスとの直接交渉にあたることになった。さっそく17日には連盟主催で慰霊祭も行われている。
当初、バス会社は補償について「初七日が済み次第解決にあたりたい。被災者の治療に最善を尽くす」と明言。事故翌日には――おそらくとりあえずの見舞金という形だろうか――亡くなった人へ5万円、負傷者へ2万円が贈られている。対応としてかなり迅速だと思うが、被災者からは「誠意が感じられない」という声も出た。
で、最終的に中鉄バスは全員に2万円の見舞金を贈り、死者は大人10万円、子供6万円、負傷者は一律5万円を支払っている。こうして補償についてはほぼ和解に向かった。
また、この事故ではほぼ完全に被害者側と言える鉄道側からも、事故防止策としていくつかの案が出た。以下で簡単に列挙しておこう。
・交通量が多く見通しの悪い踏切50ヶ所に、三か年計画で警報機を付ける。
・従来、踏切の通行指導は月に二回だけだったが、五回に増やす。
・安全標識、黒黄縞の柵、ストップ標識、反射鏡などを年末までに30ヶ所に増設する。
・線路と道路が二度交差するU字型の進路を変更するよう、関係官庁に働きかける。
・地点によっては立体交差に変えることを検討する。
上記の内容について少し補足しておくと、「踏切50ヶ所に三か年計画で警報機を付ける」というのは当時ならではの話である。この頃の岡山鉄道管理局管内の踏切の状態は次の通りで、危険個所が多かったのだ。
・警手24時間勤務の一種踏切……77
・昼間だけ警手がいる二種踏切……0
・警報機のみの三種踏切……95
・警報機もない四種踏切……1515
といった具合である。たぶん岡山県に限った話ではなく、1960年頃というのはどこもこんな感じだったのだろう。筆者は山形県の田舎町に住んでいるが、今では四種踏切なんて探すのも難しいし、一~三種踏切に至っては生まれてこのかたお目にかかったこともない。
上記のような対策とあわせて、さらに県警本部と岡山鉄道管理局は、バス業者に「いったん停止」の励行を呼びかけている。些細な話だが、今なら「一時停止」という言い方になるところを、当時は「いったん停止(停車)」と言っていたようだ。
また、やはりこの事故の影響なのだろう、当時無人踏切が二つあった高架・津山県道には、姫新線に沿った形で直線コースの道路建設が計画されたという(実際その通りに建設されたのかは分からない)。
事故の経緯は、以上である。
最後になるが、この記事は読者の方から情報を頂いて何度か加筆修正している。他のバス事故と比べて文章量が多めなのもそのためだ。
で、頂いた情報の中には「今も慰霊碑が存在している」というのもあり、googleマップで調べてみると、なるほど事故現場である赤野踏切の近くにお地蔵様が今もあった(https://onl.tw/eh844fX)。写真は『落合町史 地区史編』P.734より。
このお地蔵様の背後にはこう記されているという(算用数字は、実際には全て漢数字だとのこと)。
「昭和35年12月12日バス踏切事故により犠牲者67名内死者10名の惨事を惹起す。ここに於て有志相計り各霊の冥福を祈り合わせて現地の守護を祈願して地蔵尊を建立す 昭和36年5月建之」
【参考資料】
◆『落合町史 地区史編』
◆編者・山陽新聞社『写真集 岡山の鉄道』
◆『山陽年鑑』
◆岡山女性史研究会編『岡山の女性と暮らし 「戦後」の歩み』
◆夕刊新聞12月12日・17日号
◆中國新聞12月13日号(岡山版)
◆山陽新聞12月12日・13日・14日号
◆朝日新聞12月12日号