◆日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)

 どぼずばああああああん。

 2010(平成22)年1月7日のことである。横浜市金沢区福浦にある日本カーリット株式会社の工場で爆発が……

 え、それはもう聞いたって?

 いやいや。よく見て下さい。日付と時刻が違うでしょう。2年前と同じ場所で起きちゃったんです、またしても爆発が――。

 時刻は、資料によってまちまちだが、大体17時45分~48分頃で間違いないようだ。場所は、横浜新都市交通金沢シーサイドライン・産業振興センター駅からおよそ600メートル東の工業団地の一角である。

 一大事である。消防車40台が出動して、20時15分頃には鎮火した。

 幸いなことに死者はいなかったが、従業員8人と、通りすがりの車に乗っていた男性2人、そして付近の工場の従業員1人が怪我を負っている。資料によっては合計12人となっているのもあるが、ここではとりあえず合計11人ということにしておく。

 このように、近くの乗用車や他の工場にまで被害が及んだほどである。爆発した建物もただでは済まなかった。工場敷地内の3棟が全焼、1棟が半焼。さらに全壊が4棟、半壊が3棟、部分壊は6棟に及んだ。

 また周辺では、他の企業のものだろうか、61の事業所のうち82棟、車両69台、動産及び工作物10件が損壊している。全体の損害額は約5億に上った。

 さっそく日本カーリットでは、社長がその日の22時から記者会見。謝罪し、原因追究をしっかりやることを宣言した。

 翌日には神奈川県警が実況見分を始めて、有機製造室棟にあった高圧釜が敷地外の道路まで吹き飛んでいることを確認。またこの棟の焼損と、周囲の損壊が最も激しいことから、この付近で爆発が起きたと睨んだ。さらに業務上過失致傷の容疑で事情聴取も行っている。

 爆発の原因は、オートクレーブという装置が暴走したためと推測された。オートクレーブとは圧力鍋みたいなもので、中を高圧にして作業を行なう耐圧式の装置である。この中で圧力が急激に高まったため、ドカーンといってしまったらしい。

 では、なんでそのオートクレープの圧力が高まったのか……、その理由は、資料を読んでも筆者にはよく分からなかった。

 だがとりあえず、ほぼ一年後の12月20日には、会社と従業員3人が注意義務を怠って爆発を起こしたとして書類送検された。容疑は業務上過失傷害や業務上過失爆発物破裂罪、そして労働安全衛生法違反である。

 そして横浜簡裁は1月4日までに、この3人に罰金計200万円の略式命令を出した。決定はいずれも昨年12月27日付けである。

 この日付を見て、「あれ?」と思ったのは筆者だけだろうか。そういえば前回の2008年の事故でも、年末ギリギリに起訴されて、年明け早々にどさくさ紛れという感じで一瞬で処理されていた。今回と全く同じである。

 多分これは――半ば「邪推」と考えてもらって結構だが――国の側の配慮だろう。

 戦前からの大規模火薬産業で、3回も爆発事故を起こしているのに(うち2回は死亡者あり)まだきちんと存続しており、そのわりにあまり名前の知られていない一流企業で、しかも2008年と2010年いずれの事故もあまり大きく報道されていない……ということで、なんとなくそういうバックがついていそうだなーとは思っていた。

 チッソなんかと同じだね。もし株を買う機会があったら、ぜひ日本カーリットにしよう。そうしよう。

 事故があった工場の跡地は、その後更地になって売却の話が進められたりしたようだ。ネット上ではそこまで確認できたが、今どうなっているかは不明である。

【参考資料】
◆ウィキペディア
はまれぽ
日本カーリット㈱横浜工場における爆発火災の火災原因調査結果について
takumi296's diary
ウィキニュース『横浜の化学工場で爆発事故 従業員ら11人けが』
カナロコ
日本カーリット:横浜市の工場で爆発、4人が負傷し炎上中-地元署
化学業界の話題
コトバンク

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◆日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)

 どぼずばああああああん。

 2008(平成20)年4月7日のことである。横浜市金沢区福浦にある日本カーリット株式会社の工場で爆発が起きた。

 え、また?

 そう、またなのである。――と言っても前回の事故からは50年も経っているのだが。

 ネット上の情報をざっと眺めてみたが、この2008年の爆発の時刻は定かではない。当時の新聞もチェックしてみたのだが、事故のニュース自体が全然載っていなかった。

 現場は敷地内の実験棟で、従業員2人が病院送りとなった。うち1人は死亡している。なんだか死傷者数までもが、50年前の同社の爆発事故と似通っていて不気味だ。

 爆発の原因だが、「化学物質トリクロロシランなどの液体をオートクレーブで混ぜる際、加湿装置から蒸気が漏れ、薬品と混ざって化学反応を起こして圧力が異常に上がり、釜が爆発した」らしい。素人としては、ハァそうですかとしか言いようがない。

 まあ、それは物理現象としての原因である。人的ミスがあったのではないか、という観点で調べたところ、加湿装置とやらの自主検査を10年以上もサボッていたことが判明。これにより装置の劣化に気付かなかったのではないかと考えられた。

 この加湿装置の自主検査について、当時の工場長はしなくてもいいと勘違いしていたらしい。ただ、死亡した従業員からは装置の老朽化を訴えられていたというから、これでは工場長、言い逃れもしにくかったことだろう。2009年12月16日、当時の工場長と副工場長は横浜地裁へ書類送検された。容疑は業務上過失致死傷である。

 だがこれについては不起訴となった。仮に自主検査を行なっていたとしても、爆発の原因となった装置の亀裂を見つけるのは難しかっただろう――と横浜地検は判断したのだ。

 この不起訴の方針が確定したのは、2009年12月28日のことである。資料によると、年明けには不起訴にすることが決まった――とあるが、実を言えばその後本当に不起訴になったのかは不明だ。これも新聞には載っていなかった。

 さらに言えば、不起訴になったのは「3人」らしい。工場と副工場長、あと死亡した人の3人である。しかし死亡した人が副工場長だったのか、副工場長は2人いたのか、助かった人は副工場長だったのか、などの詳細は不明である。

 ついでに、県警は消防法違反で日本カーリットとその営業課長も書類送検した。こちらは、トリクロロシランなる化学物質を、市の許可を得ずに法定貯蔵量を超えて貯蔵したのが引っかかってしまったらしい。これについては、不起訴になったという記述は見つかっていない。

【参考資料】
「化学業界の話題」

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◆日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)

 日本カーリット株式会社という組織を、筆者は今日の今日まで知らなかった。

 それが、たまたまウィキペディアの爆発事故の項目に名前が出ていたのでチェックしてみたら、なんとまあ、れっきとした一流企業である。電気系化学品や電子材料などの製造販売を行なっており、持株会社のカーリットホールディングス株式会社は第1部にも上場しているそうな。

 ただその製造品目のラインナップを眺めてみると、自動車に搭載される発炎筒や産業用の爆破材料などといったものもある。なるほど。ここらへんに、爆発事故が起こりうる要素があるわけだ。

 そもそもカーリットとはある種の爆薬の総称のことらしい。1916(大正5)年の創業から、この会社はそれを中心的な品目として作り続けてきたのだ。

 さてそれで以上を踏まえて、1955(昭和30)年8月2日のことである。

 時刻は午前10時45分。横浜市保土ケ谷区仏向町1625にあった日本カーリット工場の第6填薬室で、火薬の充填作業が行なわれていた時だった。火薬に異物が混入し、それとの摩擦が原因で火がついたのである。

 どぼずばああああああん。

 爆発は一度だけでは済まなかった。同じ場所にあった600キロの火薬にも引火。もひとつおまけに、手押し車で搬送されていた400キロの火薬にも引火した。

 もっとも、何もかもが木っ端微塵になってしまったため誘爆の経緯は全く不明である。であるからして、先に書いた「どぼずばああああああん」がどの時点で発生したと言えるのかは定かでない。とにかく、遠くから見ていた目撃者によると爆発は複数回あったというし、工場内には百キロ単位であちこちに火薬があったという。だから全部連鎖して爆発したのだろうと推測されるだけだ。

 この工場は山間の土手に囲まれた場所にあったのだが、爆発によって土手はほぼ半分が吹き飛んだという。また100メートル離れたところにあった事務所は窓ガラスが粉砕、土砂が屋根に5センチ近くも積もった。

 そして爆発に巻き込まれた3名が死亡。負傷者は19名に及んだ。

 大惨事である。だが合計1トンもの火薬の爆発にしては、被害は比較的小さいほうと言えるだろう。それもそのはずで、現場の工場はこういった場合を見越してひと気のない山間部に作られていたのだ。

 この日は、ちょうど前日に、東京都墨田区の花火問屋爆発事故があったばかり。この日本カーリット工場の事故が、世間の注目を集めたであろうことは想像に難くない。

【参考資料】
◆ウィキペディア

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◆箒川鉄橋列車転落事故(1899年)

 箒川(ほうきがわ)は那珂川水系に属する第一級河川である。栃木県の矢板市と大田原市の境界を流れており、延長は47.6キロメートル。大佐飛山地南西部の白倉山付近を源流とし、那須野が原扇状地を東南に流れている。最後は那珂川に合流し、水戸の北部を通って那珂湊で太平洋に注ぐ。

 筆者は純粋な鉄道ファンではないのでよく分からないのだが、東北本線を走ってこの箒川にさしかかる辺りというのは、絶好の撮影ポイントらしい。景色がいいのだろう。

 この箒川にかかる鉄橋がある。1886(明治19)年に完成したもので、架橋当時は全長約319メートル(現在は全長322メートル。なんで長さが変わったのかはよく分からないが)。川床からの高さは約6メートルあり、橋桁(プレート・ガーダー)14連で結ばれていた。

 1899(明治32)年10月7日、当時の鉄道史上最大の事故はここで発生した。

 この頃の東北本線はまだ国有化されておらず、日本鉄道株式会社(以下日鉄)の私鉄路線に過ぎなかった。しかし時代の要請を受けて線路はどんどん切り拓かれ、1883(明治16)年7月28日に上野~大宮間の路線が開通したのを皮切りに、路線を北へ北へと延伸。明治19年には宇都宮~西那須野間が、24年には青森までの全線が、さらに31年には田端~岩沼間が開通していた。

 箒川の事故が起きたのが、このほぼ1年後である。日鉄は線路の敷設も一段落し、今まさに運輸営業に力を入れようとしていた矢先のことだった。

 10月7日当日は、南方洋上で台風が発生しており、本州に接近していた。

 そんな悪天候の中、福島行きの第375列車(機関車2両+貨車11両+客車7両)は11時に上野駅を発車。対向列車との行き違いの関係から約50分程の遅れが出ており、矢板駅を出発したのは16時40分頃だった。

 結果だけを見ると「そんな天候で出発しちゃったんかい」という感じもする。だが、途中で通過した宇都宮駅で観測された風速は9メートル。まあ徒歩の人が歩きにくくなる程度のものである。これなら大丈夫だろうと判断されたのだった。

 列車は矢板駅を出発すると、まっすぐに箒川へと突き進む。この先の針生トンネルをくぐり、橋を渡れば次は野崎駅だ――。

 と、ここで矢板駅と野崎駅の間の地形について少し解説しておきたい。両駅周辺の地形は、南に松原山丘陵があり、北には那須野が原扇状地がある。箒川はこの境目を流れており、全体の中ではここでかなりの急流となる。

 鉄道敷設に際しては、松原山丘陵にトンネル上の切通しが掘られた。これが針生トンネルで、これを抜けると線路はすぐに箒川と交差する形になる。そこに箒川鉄橋も架かっているわけだが、地形条件のため、ここは風の通り道でもあった。テレビの専門家インタビュー風に言えば「あの場所はもともと強風に遭いやすく、とりわけ冬の時期は北西からの季節風を強く受けることで知られていたんです」といったところだ。まあ後からならいくらでも言えるのだが、とにかくそういうことだった。

 第375列車は針生トンネルを抜け、箒川に差しかかる。そして列車が鉄橋の真ん中あたりに来たところで(渡り始めたタイミングだったとも言われているようだ)惨劇は起きた。強烈な北西からの突風が、列車の左側に吹きつけたのだ。

 機関士は後方を見た。8両目に連結していた無蓋貨車のシートが風であおられ、吹き飛ばされそうになっている。異常事態だが気付いたときにはもう遅い。次の瞬間には、1等客車の車体が急激に右方向に張り出した。

「こりゃイカン!」機関士は警笛を鳴らしてブレーキをかけた。後に機関士は、この時に強い衝撃を感じたと証言している。おそらくそこで貨物緩急車の連結器が外れたのだろう――とも。

 第375列車が混合列車であることは、先にチラッと書いた。その内訳はここではあまり細かく書かない。とにかく連結器が外れてしまったことで、後方の貨車1両と、7両あった客車の全部が転覆し、そのまま橋から落下したのである。

転落の状況

 この時の風は、瞬間最大風速27~28m/secと推定されている。天気予報の用語では「非常に強い風」と呼ばれるレベルで、人も車も外にはいられず樹木も倒れるほどの強さだ。宇都宮で観測した時とはえらい違いだった。

 落下したそれぞれの車両がどうなったのか、詳細がウィキペディアに載っていたので、せっかくだから書いておこう。上から順に、前部車両→後部車両となる。

・貨物緩急車(亥120)……橋脚のそばに転落、横転して大破。
・3等緩急車(ハ28)……亥120とほぼ同じ状態でその横に横転し、大破。
・3等客車(ハ179)……屋根が吹っ飛び、車体下部構造は河底に埋没。
・3等客車(ハ249)……橋脚の約27メートル下流に流される。屋根だけを残してその他は粉砕。
・1等客車(イ3)……最初に転落。25メートル下流に車体下部構造を、また18メートル先に屋根を残し、その他は粉砕。
・2等客車(ロ17)……中州の上で圧壊。
・3等客車(ハ275)……転落、3ブロックに大破。
・3等緩急車(ハニ107)……前車(ハ275)の上に転落し、大破。


こんな感じだったらしい

 ひどすぎる。

 車両がこんななので、乗客たちがどうなったかは推して知るべし、であろう。

 もっとも現代に生きる我々も、車両が脱線転覆し粉砕しぺちゃんこになるような鉄道事故を全く知らないわけではない。そうした事故では数十人から百人単位で人が亡くなることもある。そうした事例に比べればこの死者数は少なめで、そこは不幸中の幸いかも知れない。だが箒川の事故の場合、乗っている人が少なかったから簡単に風で飛ばされてしまったのではないか、という気もする。当時の『國民新聞』では、「前方貨車は肥料雑貨を積み居て、其重量にて危難を免れたるなりと。」とあった。

 これが17時頃のこと。転落を免れた機関車2両と貨車10両は、そのまま140メートルほど進んでようやく停車した。機関車1両だけのブレーキでは、即座に停止することはできなかったのだ。

 大惨事である。まず機関手が、次の停車駅だったはずの野崎駅に駆けつけて急報。それを受けて駅長は電報を打ったが、またしても暴風雨に邪魔されて混線。矢板駅につながったのは17時20分頃のことだった。

 また後部車掌は、自分自身も負傷しながらも――と資料には書いてあるが、まさかこの人、川に落ちて助かったのだろうか?――現場から3.5キロを駆けて矢板駅に現場の状況を報告している。そして矢板駅→宇都宮駅→日鉄、の順で通報がなされた。

 時代が時代だから仕方ないのだが、20分とか3.5キロとか、哀しくなるほどの通信状況である。

 ともかく急報を受けた宇都宮駅長は、鉄道嘱託医、赤十字社栃木本部、県立宇都宮病院に応援を要請。さらに日鉄本社では、社員十数名と作業員70名を派遣している。また順天堂病院にも要請し、院長、医師、看護婦を派遣させた。

 ただしこれらは全て矢板側からの派遣だった。現場に着いても暴風雨のため橋を渡ることはできない。そのため彼らは到着した側の岸で救護活動を行なうしかなかった。

 では反対の岸ではどうしていたかというと、こちらには地元の開業医が駆けつけていたという。彼は関係機関からの派遣をまたずに現場に駆けつけて、負傷者の治療を行なったのだった。

 また地域の消防組も集まってきた。出動したのは矢板、三島、蓮葉、石上、針生、土屋、山田の人々である。当時は町村単位での自治消防は行なわれておらず、村や大字単位でこうしたグループを結成していた。

 しかし暴風のさ中である。救助は簡単なことではなかった。強風のため橋の上は渡れず、命からがら中州へとたどり着いた人々のところへも行けない。しかも箒川は平時に比べて1メートルは増水していた。

 当時の救助設備も、縄と梯子、それにトビ口くらいなものだった。川の両岸にかがり火が焚かれ、泳ぎの達人が鉄橋に大縄を結び付けてから負傷者のもとへ行き、背中におんぶして、縄をたぐって元の場所へ行き梯子で上る……。こうした気の遠くなるようなやり方で救助活動は行なわれたのだった。

 ちなみに、この時偶然に、事故った車両には埼玉県の加藤政之巡査も乗り合わせていた。彼は職業的使命感から、自分の怪我も省みず溺死寸前の遭難者を救出している(後に見舞金や書状をもらい、昇給もした)。

 こうして多くの乗客が救助されたが、救助されるのと前後して亡くなった人や、激流に流されて後日あちこちで発見された遺体もあった。

 10日には、栃木県警察部保安課長の指揮で、箒川や那珂川の周辺が徹底的に捜索された。だが遺留品は多く見つかったものの遺体はなく、大体このへんで死者数は確定したようである。

 最終的な死傷者数は、『日本鉄道株式会社沿革史』によれば死者20名、負傷者45名とされている。公的には、これが正式な数字である。

 だが混乱もあるようだ。昭和6年10月の33回忌に建立された石塔婆には19名の故人の名が刻まれているというし、また事故直後の11月に発行された『風俗画報』増刊「各地災害図会」(明治32年10月)によると死者19名、負傷者合計36名とあるらしい。

 ちなみに事故った列車の乗客総数は、各駅の切符発売状況を調査した結果、62名とされているという。

 最初にも書いたが、これは当時、鉄道事故としては最悪の大惨事であった。だが復旧は意外に早かった。消防組なども参加して転落車両などが撤去され、線路の復旧はせいぜい枕木交換程度。翌日にはもう試運転が行なわれたというから、なんだか拍子抜けだ。

 とはいえこの事故、裁判ではけっこう尾を引いた。同年11月20日、第14回帝国議会の衆議院本会議で、福島県選出の代議士・菅野善右衛門がこういう趣旨の質問をしている。

「この事故では、暴風雨にも関わらず汽車を走らせている。さらに鉄橋の構造には転落防止についても不備があったのではないか」

 実はこの菅野氏、肉親を事故で失っていた。

 この時の答弁に菅野氏は納得しなかった。翌年2月20日には東京地方裁判所に対して訴訟を起こし、日鉄に3万円の慰謝料を請求している。

 日鉄の言い分はこうである。「確かに気象状況は不安定だった。だが、客車が転落するほどの強風は予想できなかった」

 いわゆる「想定外」である。まあ、争うつもりならそう言うわな。

 この訴訟、7月7日に一度は菅野が勝訴している。だが9月14日には日鉄が東京控訴院に控訴した。

 それから判決が出るまでには4年間かかっている。その間にも日鉄に対しては慰謝料の請求が多く出されたという。

 ところがである、明治37年12月10日には、日鉄の勝訴として判決が下された。

 そこで菅野氏は大審院に上告したものの、翌年38年5月8日には「原判決を破棄、本件を宮城控訴院に移す」と結論が下された。

 その宮城控訴院でようやく決着がついたのが、さらにほぼ一年経った2月28日である。ここでも菅野氏は敗訴した。おそらくこの敗訴は、他の遺族(あるいは直接の被害者)たちの慰謝料請求にも影響したに違いない。

 とはいえ、日鉄も支払いを頑として撥ね付けたわけではない。被害者に対する補償はちゃんと行なわれている。その内訳は遺族へ500円、負傷者は1人300円以下の支払いというものだった。これには従業員からも相応の挙金があったという。

 また、上記の宮城控訴院での判決の詳細は不明だが、ともあれこの判決の結果を踏まえた示談が行なわれ、成立している。事故発生から実に7年の年月が経過しており、この間には日露戦争もあった。

 さらに言えば明治39年3月31日には「鉄道国有法」が公布され、日鉄は11月1日に国に買収されている。

 なんだか、こうやって見てみると、この事故の歴史は同時に日鉄という組織の歴史そのもののように思えなくもない。主要な線路の敷設が終わり、ようやく運輸に力を入れるぞ~と思った矢先に事故が起きた。そして最終的な判決が下ったのとほぼ同時に、国によって買い上げられたのである。奇妙な因縁だ。

 大雨・強風時の運転抑制については、この事故を踏まえた検討もなされたようだ。だが悪天候の中、運転を続けるかどうかという判定は難しいところがあり、こうしたルールの具体化までにはまだまだ長い時間を要した。

 この「悪天候時の運転抑制」の基準の難しさについては、言うまでもない話かも知れない。鉄道事故の歴史を紐解けば、瀬田川列車転覆事故、餘部鉄橋転覆事故、羽越線脱線事故など、悪天候による大事故の例には枚挙に暇がない。天候は、交通機関にとってはある意味最大の強敵である。

 現在、この事故の供養碑はふたつ存在する。

 ひとつは事故から間もなく作られたものである。事故発生直後から、現場付近では何度か村民による供養が行なわれているが、一周忌にあわせて石塔婆が建立されたのだ。この碑は現在、下り電車に乗って箒川橋梁を渡り切ると、ちょうど左側に見ることができるという。高さ3メートルの大きなもので、欠落箇所があるものの100年前のものにしては立派だという。

 もうひとつの慰霊碑は、田代善吉という人によって建立された。この人は事故の直接の被害者だったのだが、その後は教育者かつ郷土史家として地元に貢献した人らしい。箒川の転落事故については、生き残りとして死者の冥福を祈る思いも強かったのだろう。33回忌にあたる昭和6年10月4日、現地での法要に際し卒塔婆を建立した。

 この卒塔婆の場所は、箒川の左岸、国道四号線の跨線橋北側である。そこは昭和6年当時は踏み切り道だったようで、道の横に建てたものらしい。

 なお、この卒塔婆の建設費は、多くが国鉄職員の浄財によるという。

 慰霊の法要については、参考資料を見る限りでは、少なくとも90回忌までは行なわれたのは間違いないようだ。

   ☆

 最後に、この事故については2つほど付録を添えておこうと思う。

 まずひとつは、前掲の田代善吉氏による証言である。『続・事故の鉄道史』からの孫引きであるが、もともとは昭和6年10月発行の『下野史談』号外「等川鉄橋汽車顛覆始末」に掲載された「私の遭難体験記」という文章からの一部抜粋らしい。もともとが長文で改行がないため、ここではブログ向けに改行の処置だけさせて頂いた。ぜひ一度目を通して頂きたい。その臨場感から、目線を離せなくなること請け合いである。

「私は小学校教員受験の為に宇都官に参りました。試験も終って帰ろうとした日は朝から大雨であった。三時頃の汽車で帰る積りであったが、汽車が遅れて四時頃になった。

「雨は増々激しく降って来る。その上風も出た様であった。汽車が進行すると共に風も強くなった。矢板駅に着いたのは恰度午後五時頃であったが強風強雨で気味が悪い様であるから、矢板へ下車しようかとも思った。

「箒川の鉄橋に差しかかると、ガタッという音のみであとは気絶して仕舞ったから、何が何やら判らない。ホッと気が付いて見ると自分は濁流に押し流されつつある。

「幸いにも汽車両は微塵に砕かれたので汽車の扉が一枚流れて来たのにつかまった。此扉こそ自分の生命の綱である。物体は必ず川岸によるものであるからこれをば放すまいと、其一扉に乗って激流の中を潜んで行った。自分は流れながらも今溺死する此身を両親や兄弟は知らないだろうと胸に涙を浮かべつつ那須野山の方向を眺めた。

「六百メートル程も流されて行くと乗っていた扉は河岸に近かづいて来た。川柳のあるのを幸に飛びついたが背は立たない。足の方は流されているが此柳が命の親と思って、つかまってはなさない。やっと砂州に這い上がることが出来た。若しや此の柳が根から切れたら自分も此世から縁が切れて今は斯うして居られないのであった。

「其時顔面からは鮮血流れ股や膝のあたりは硝子の破片が澤山這入ってゐました。

「川の中州に匐へあがっても風雨はやまない。今後洪水で増水すれば仕方がない合掌して流されて仕舞ふ覚悟をして居った。

時に五時半頃と思った。夕方になって風雨が静まると、半鐘の音がする。村人が河岸に集まって来て呉れた。其時の嬉しさは譬へ様がなかった。川の両岸には篝火が焚かれた。助けて呉れと力あらん限の声をあげると、今助けに行くからと応答があった時、初めて蘇生の思ひがした。

「泳ぎの達人が、鉄橋に大縄を結びつけ、其縄に組って助けに来て呉れた。其方の氏名は忘れたが背におぶさつて又其縄を頼りに鉄橋の下まで越えて梯子で上がり、鉄橋を匐ふて川向に行った。

「時に大田原町より急派した救護医の手によって応急手当を加へられ直に西那須野駅前川島屋に宿をとった。翌日西那須野の高瀬医に罹って頭や顔に這入ってあった小石を取って貫って宇都宮に来た。

「恰度宇都宮停車場に着くと、東京から佐藤博士が来られたので診察を受けた処が軽傷と云う事であった。神野病院は満員なので、県立宇都宮病院に入院した。入院治療中病勢が日増しに重くなって来た。体温が四十度、四十二度と云う状態であるから脳膜炎の罹れがあり、其死線を越えて四十日目で退院した。負傷者中第二番目の重患であって入院期も長かった(以下略)」。

 もうひとつの付録は、なんと「遭難数え歌」である。これも『続・事故の鉄道史』からの引用なのだが、こちらの出典は不明だ。地元の子供たちの間でこういう歌が歌われていたのだろうか。

『遭難数え歌』

一つとせ 一つ新版このたびの
 汽車の転覆大事件 ところは下野箒川

二つとせ 不意に雨風つのりしが
 箒川へとかかる頃 俄かに吹きまく大つむじ

三つとせ 宮の発車は午後の四時
 雨風激しきその中を 矢板の町までつつがなく

四つとせ よもや夢にも誰知らう
 橋にかかれる災難を 汽車も暴風雨ついていく

五つとせ 今は鎖をねじ切りて
 濁流の中へとさかさまに 落ちるや箱は粉微塵

六つとせ 夢中で一時は途方にくれ
 一度は大ぜい声をあげ 助けておくれよ助けてと

七つとせ 嘆く其声天地にひびき
 山も崩れん有様は 此の世からなる地獄なり

八つとせ やっとおよいで陸に出て
 見れば手足のない人や 頭に大傷うけし人

九つとせ これを見るより埼玉の
 職務は巡査で正之氏 川の中へ飛びこんで

十とせ 飛ぶが如くに洪水の
 中をいとわず流れ行く 七、八人を救いける

 ――いかがであろうか。なんという不謹慎な歌だろう!(←お前が言うな)

 それにしても凄い歌である。事故の状況を過不足なく簡潔に伝えている。前掲書がこの事故のルポの冒頭にこの歌を持ってきたのももっともで、とりあえず事故の概要はこの歌を読めば分かるようになっている。

 もっとも、九つとせと十とせの部分が、先に挙げた加藤巡査だけの武勇伝になってしまっているのが気になるところだが……。

【参考資料】
◆『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◆ウィキペディア
◆明治32年10月10日付国民新聞『新聞集成明治編年史』第十巻(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)「暴風汽車を宙に釣り上ぐ」

◆墨田区花火工場爆発事故(1955年)

 1955(昭和30)年8月1日、午後1時頃のことである。東京都墨田区で大爆発が起きた。

 どぼずばああああああん。

 なんかウィキを見ると番地まで書かれていた。現場は厩橋1-26である。

 爆発したのは、おもちゃ花火の卸問屋「井上花火店」が経営する花火工場の倉庫。おもちゃとはいえ甘く見てはいけない。周辺の建物は全半壊し、火災も発生して民家、商店、工場など合計13棟、385坪が焼き尽くされた。工場周辺は廃墟同然だったそうな。

 消火と救護活動はすぐに行われたが、死者は18名(うち16名は即死)、重軽傷者は80名以上に及んだ。

 特に、即死した16名のうち4名は遺体の状態もひどかったようだ。ウィキにはバラバラだの肉片だの死臭だのと縁起でもないことが書いてある。興味のある方はそちらをあたっていただければと思う。

 と、ここまではウィキペディアの丸写しである。他に資料がないのでつまらないことこの上もないのだが、さすがにこれで終わりでは芸がない。こんな資料も挙げておこう。1955(昭和30)年~1960(昭和35)年の、煙火工場での製造作業中に発生した事故の件数、年間死者数、負傷者数である。

  1955(昭和30)年……13件、25人、22人
  1956(昭和31)年……14件、23人、9人
  1957(昭和32)年……13件、19人、12人
  1958(昭和33)年……8件、21人、20人
  1959(昭和34)年……11件、25人、278人
  1960(昭和35)年……7件、12人、22人

 一年で平均21人は亡くなっている計算だ。

 だが、これが昭和の末期になるとだいぶ落ち着いてくる。無事故の年もあるほどだ。このことからも、花火や火薬の扱いも格段に進歩していったことが分かる。

 ちなみにこの墨田区の爆発事故の半年前には秋葉ダム爆発事故が起きている。また翌日には、今度は神奈川県で日本カーリット工場爆発事故が発生している。前に第二京浜トラック爆発事故の項目でもチラッと書いたけど、この頃は本当に爆発事故の当たり年だったんだなあ。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆武藤輝彦『日本の花火のあゆみ』あずさ書店・2000年

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◆秋葉ダム爆発事故(1955年)

 秋葉ダムは、静岡県浜松市天竜区に存在する巨大ダムである。高さは89メートル。天竜川の中流部にあり、浜松市を始めとする周辺地域に水を供給している。

 歴史も古い。もともとこの地域は、明治時代から発電の適地として注目されていた。それで大正から昭和初期にかけて、天竜川を利用した発電所が作られたりしている。そうした開発の動きも戦争で一度は中断したものの、戦後には1954年(昭和29年)に「特定地域総合開発計画」が策定されて、また再開している。

 こうした流れで、天竜川の中部ではまず佐久間ダムが建設された。これは当時のダムとしては日本一の規模を誇った。

 秋葉ダムが作られたのは、その佐久間ダムからの放水量を調整するためだった。

 現在、天竜川の本流には数多くのダムが建設されている。それらの中でも、秋葉山の麓に建設されたこの秋葉ダムは特に有名らしい。秋葉湖と呼ばれる人造湖は、国定公園にも指定されているとか。

 そんな秋葉ダムで、凄惨な爆発事故が発生した。1955(昭和30)年2月4日のことである。

 ただ厳密に言えば、この時点で秋葉ダムはまだ完成していない。事故は建設工事中に起きた。

 場所は、秋葉ダム第一発電所用地の工事現場。磐田郡竜川村横山地内(後に天竜区に編入)、横山橋から500メートル下流の天竜川の右岸である。

 その日は、ダイナマイトを使った小規模な発破作業が行なわれることになっていた。こうした爆破作業は1月15日に始まっており、今日で4回目。それで現場には1.2キロのダイナマイト2本が仕掛けられた。

 この程度の量のダイナマイトなら、遠くへ避難する必要もない。というわけで午後1時40分、作業員が見守るなかエイヤッと爆破。

 ……。

 実はこの時、現場の坑道34メートル奥には1.9トン(推定量)のダイナマイトが残されていた。これは去る1月20日、2回目の発破作業の時に埋設されたものだった。

 単位をよく見て頂きたい。1.2キロと1.9トンである。まるきりケタ違いだ。たちまち誘爆が引き起こされ、発破は想像を絶する大爆発となってしまった。

 どぼずばああああああん。

 ある作業員は、一緒に吹き飛ばされて地面に叩きつけられ、上から降ってくる岩のかけらを浴びたという。また別の作業員は、1トン半もの重さの鉄杭が50個も次々に将棋倒しになるのを見たという。

 結果、現場では約3,000立方メートルにわたり土砂が崩落。ダイナマイト技術者も、一般作業員も、たちまち生き埋めになった。

 救助活動はすぐに始まった。電源開発会社と建設会社の作業員たちが、生き埋めになった人々を助け出す。だが3名は救助後に死亡、16名も遺体で発見された。

 なんで1.9トンものダイナマイトが放置プレイされていたのか、その理由はググっても出てこないから知りようがないのだが、そもそも陣頭指揮を採っていた日本油脂の社員も2月4日の事故で死亡したため、真相は藪の中となってしまったようだ。(※)

(※資料によっては、日本化薬の社員が発破の責任者だったが彼も爆発の犠牲になった、という記述もある)

 ただこうした「ダイナマイト置き忘れ事故」は、もしかすると当時結構あったのかも知れない。

 実は、この現場から500メートルの上流で、5月13日にも全く同じような事故が起きたのだ。

 これについては項を改めずに、ここでまとめて書いておくことにしよう。その現場では、ダムと発電所を結ぶ水路を掘るために横抗が掘られていた。そこに13時、50本のダイナマイトを仕掛けて爆発させたのはいいが不発の分があり、回収漏れがあったのである。これは18時半の爆発でまたしても誘爆を引き起こし、2人が即死した。

【参考資料】
◆ウィキペディア
何かのサイト
 
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◆大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)

 1965(昭和40)年12月21日のことである。

 福岡県大牟田市天領町の、鹿児島本線・大牟田~荒尾間の踏切で惨劇は起きた。

 時刻は午後3時45分。門司港発、人吉行きの下り準急<くまがわ>が、踏切を通過しようとした時のことだ。なんと、前方で一台のバスが横切ろうとしていたのである。

 危ない、ぶつかる! ――間に合わなかった。電車はバスの後部に激突し、吹っ飛ばされたバスは一回転。2メートル下にあった田んぼへ落下してしまった。

 このバスは、荒尾市四ツ山発・三池中町行きの西鉄バスだった。

 現場は道幅9.1メートルで、周囲は田んぼだったという。いかにも長閑そうだが、5人も死亡したのでほっこりしているわけにもいかない。一体全体、どうしてこんなことになったのか? バスの運転手はこう証言した。

「警報機が鳴ったので、バスは一度停止した。そして上り列車が通過したので、もう大丈夫だろうと思った」。

 他に資料がないので想像するしかないが、下り列車がまだ未通過だった以上、警報機はまだ鳴っていたのではないだろうか。だとすればこの運転手、その後どのような処分を受けたかは不明だが、責任は免れなかったことだろう。

 あるいはひょっとすると、遮断機なしの田舎らしい踏切だったのだろうか。いやしかし遮断機なしで警報機だけが鳴るような踏切があるのだろうか? そのあたりは想像を搔き立てられる。

 余談だがつい先日(本稿を書いている時点で2014年1月1日)、山形県内でも似たような事故があった。山形新幹線つばさと、女性の運転する乗用車が踏切で衝突し、女性が死亡したのである。

 大雪・猛吹雪の中の事故で、なぜ女性が踏切を渡ろうとしたのかはまだよく分かっていない。「つばさ」にとって初めてとなるこの事故、あまりにも似ていたので少し驚いた。

【参考資料】
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』

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