◆カンボジア水祭り事故(2010年)

 2010(平成22)年11月22日のことである。カンボジアの首都プノンペンは、一大イベント「水祭り」で盛り上がっていた。

 水祭りとは、雨期の終わりを祝うイベントである。毎年、この地域では11月に雨期から乾期へと変わることから、3日間にわたって豊かな大河の恵みに感謝するのだ。このイベントはプノンペンだけではなく北西部のリゾート地であるシェリムアップでも行われる。起源は定かではないものの由緒ある歴史的な伝統行事で、毎年カンボジア各地から300万人が訪れるという。

 22日はその水祭りも最終日。当地では野外ライブが行われ、川の船上で音楽が奏でられ、花火も打ち上げられ、ボートレースが行われ…とにぎやかだった。

 ところが惨劇が起きだ。21時半頃のことである。

 現場となったのは市内にある吊り橋「ペッチ橋」だった。それは、プノンペン市内の振興開発地域「ダイヤモンド・アイランド」と、市街地との間に設置された二本の橋のうちのひとつだった。

 少し説明すると、「ダイヤモンド・アイランド」とは、メコン川とトンレサップ川の合流地点あたりの中州を開発したリゾート地域である。その別名が「ペッチ島」で、もちろん水祭りの期間中はここでもコンサートなどのイベントが開かれていた。これとあわせて、ペッチ橋もライトアップされていた。

 ペッチ橋の長さは約100メートル、幅は約8メートル程度。狭い橋である。そこに大勢の来場者が集まっていた。

 事故の原因については諸説あるようだが、政府は「デマによる混乱」が直接的な原因としている。橋にあまりにも大勢が集まりすぎたせいで、「橋が壊れるのではないか」という噂が発生したのだ。

 ペッチ橋は、プノンペンでは初めての吊り橋だったらしい。それで、吊り橋の揺れというものに不慣れな人たちから「橋が壊れるぞ!」「橋が落ちるぞ!」とデマが拡散し、大勢が一斉に動き出したのだ。その結果、将棋倒しになったというわけである。

 ただこれはあくまでも政府の見解で、一部では「感電」が原因だったとする説もある。実際、橋の電線が切れて感電した者がいたという証言もある。

 また、何に使ったのかは不明だが、当時は警察の放水車も出動しており、これが感電の一因になった可能性もある。水祭りにあわせて橋がライトアップされていたのも先述の通りで、電線が切れたというのはその電飾のことだったのかも知れない。さらに、大勢の犠牲者を収容した病院の医師も、事故発生から数時間後に受けたマスコミの取材に対して「犠牲者の二大死因は窒息と感電だ」と述べている。

 ところでのちの事故調査委員会の報告によると、当時ペッチ橋の上には7~8千人がいたという。この数字が本当なら、橋の面積は小さく見積もっても約700平方メートルで、当時は1平方メートルあたりに10~11人がひしめき合っていたことになる。こんな押し込め方、物理的に可能なのだろうかと疑問に思ってしまうレベルだ。

 そういう密集状況での将棋倒しなので、実際にはもはや将棋倒しと呼ぶのも生易しいほどの惨状だった。橋の上は転倒した人々でいっぱい。それをどんどん踏んづけて走り抜けていく群集。さらに50人ほどが川に飛び込んだ(あるいは押し出された?)がほとんどが溺死し、これは舟が手当たり次第に遺体を引き上げたという。

 事故に巻き込まれ、負傷した女性の一人は「至る所から助けを求める声がしたが誰も手を出せなかった。横たわっている60歳くらいの女性の上を、何百という人が踏み越えて行った」と話している。

 事故直後の現場には、犠牲者たちの靴や服、飲みかけのペットボトルなどが生々しく散乱していた。このへんの事故当時から直後までの様子は、少しググると写真で何枚も見ることができる。

 死傷者数の統計もかなり混乱したようだ。当初は死者が375名とか456名とか負傷者が755名とか言われたが、最終的には政府・地元当局・事故調査委員会の協議により死者347名、負傷者395名という数字で落ち着いている。ちなみに死者347名のうち221名は女性だった。

 政府も、祭りの大混雑をほったらかしにしていたわけではない。遊覧船事故の防止や、スリ対策には力を入れていた。だが群集整理については甘さがあったことを素直に認めている。

 ペッチ橋は民間のものだった。よって警備も民間の警備会社が担当し、警察はペッチ橋以外の場所で整理をサポートする程度だった。そんな役割分担なので、警察が到着したのは事故が起きてから一時間半も経ってからだった。「群集事故が発生した時に警察官がいなかった」というのは、国の内外を問わず、多くの事例に共通するパターンである。

 事故直後には、ダイアモンド・アイランドへの客足は8~9割減。特に事故現場であるペッチ橋は「二度と渡りたくない」という人もいたとか。これは翌月の12月8日まで封鎖されていたが、僧による魔除けの儀式を経て再開通した。

 この事故について、フン・セン首相は「1970年代のクメール・ルージュ時代以降で最悪の事態だ」とコメントし、毎年25日を追悼の日にすると宣言。事故直後の追悼式では、プノンペンのそれぞれの政府庁舎で反旗を掲げ、多くの学校が休校となって献花などが行われたという。現在もこうした形で追悼を行っているのかどうかは不明だ。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆ウィキペディア「水祭り」

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