◆大然閣ホテル火災(1971年・韓国)

 1970年代といえば、「火災の当たり年」である。知っている人は、すぐに千日デパートや太洋デパートの事例を思い出すに違いない。だが実は、この当たり年は日本に限った話ではないらしい。世界規模で見ても、災害史に名を残す火災が頻発しているのだ。

 今回ご紹介する事例は、その一つである。韓国の首都ソウルで起きた最悪のホテル火災――。その舞台となったのが、高級ホテル大然閣(テヨンガク)ホテルだ。

 なんでもこの大然閣ホテルは、日本の統治時代に「五大百貨店」と呼ばれた店があって、そのうちのひとつ「平田百貨店」の跡地に建てられたものだとか。跡地に建てられたから高級だと言えるのかどうかはよく分からないが、資料の文章のニュアンスとしては、そんな感じである。一等地なのだろう。

 以下では、建物の概要を具体的に記しておく。参考資料『火災安全工学』に載っている内容が専門的かつ膨大なので、とりあえず箇条書きにしておいた。さらっと眺めてくれれば十分だと思う。

◆地上21階、地下1階の22階建て。
◆高さ82.2メートル
◆延床面積19,304平方メートル
◆地下1階……駐車場
◆1階……機械室
◆2階……ホテルロビー、コーヒーショップ
◆3階……レストラン、バー、グリルなど
◆4階……宴会場
◆5階……空調機械室など
◆6~20階……ホテル客室(客室数223室)
◆21階はナイトクラブとスカイラウンジ
◆屋上……塔屋と機械室
◆複合ビルで、垂直の壁で「ホテル部分」と「オフィス部分」に仕切られていた。
◆この「垂直の壁」は厚さ20センチのコンクリートブロックとスチールドア。
◆2階のロビーは、ガラス戸でホテル側とオフィス側に仕切られていた。
◆裏側には、18か月前に竣工したばかりの11m×21mの7階建ホテルがあった。
◆主体構造はRC造。外側はカーテンウォール、両面プラスター塗り、空調などのシャフト類はコンクリートブロック。
◆L字型のプランを持っている(プランとは何のことか不明)。
◆正面の間口は49m、奥行43m。
◆階段室はオフィス部分とホテル部分に各一カ所ずつあり、スカイラウンジを通じて屋上につながっていた。
◆この階段は2階と3階までがオープンで、他の階では木製のドアで仕切られていた。
◆階段室から直接外部へ出ることはできず、2階のロビーを通って3カ所の両開きドアから出られるようになっていた。
◆エレベーターは8台。うち4台はオフィス用で、3台がホテルの客用、1台がサービス用。
◆消火栓は、オフィス側に1カ所、ホテル側に2カ所あった、
◆自動火災報知設備もオフィスとホテルの両方にあったが、消防署直通ではなかった。
◆1階には手動の自家発電装置があった。
◆着工は1967(昭和42)年、竣工は1969(昭和44)年。
◆詳細な場所は、明洞と南大門市場との中間の忠武路(日本統治時代の本町)。

 さて、時は1971(昭和46)年12月25日、クリスマス当日のことである。

 時刻は朝10時過ぎ(午前9時50分頃という資料も)。当時、建物のホテル側には約200名の客と70名の従業員がいた。休日だったため、人の動きはほとんどなかったようだ。オフィス側にも15名がいただけ。きっと、のんびりした空気だったのではないかと思う。

 出火は突然だった。2階のコーヒーショップでプロパンガスが爆発したのだ。2本あったボンベのうち、片方がガス漏れを起こして小爆発を起こし、それがもう一本に引火したと考えられている。

 この爆発で、付近にいた三人のウェイトレスが即死。カウンターの内側にいた三人と、外側にいた一人が火傷を負った。この時、店内にお客が一人もいなかったのは幸いだった。

 そこからあっという間に火炎が拡大した。まず現場のコーヒーショップからロビーへ延焼し、たちまち階段は使用不能に。さらに煙と有毒ガスが3・4階に充満し、空調のシャフトなどから全館に拡がった。建物の内壁には、可燃性の素材が使われていた。

 普通に考えると、炎は下から上へ広がっていくものだ。だがこの火災では、火元の2階から、中間階をスキップして一気に最上階のスカイラウンジへと延焼した。消防の動向については後述するが、消防車が到着した時にはすでに21階まで燃え広がっていたという。そしてオフィス側の18~20階には最上階から下っていく形で延焼し、一時間ほどで建物全体に火が回った。

 ビル内にいた人々はどうなったか。結論を先に言えば、163名が死亡し63名が負傷、行方不明者は25名にのぼった。死者数がここまで増えたのは、クリスマスのイベントにちなんで多くの宿泊客が滞在していたからだった。

 日本では、クリスマスだからと言って休日になるわけではない。その点は韓国も同じなのだろうか? だとすれば、この火災が起きたのが休日だったのは不幸中の幸いだった。もし平日だったらオフィス側でもっと死者が出ていた可能性もある。

 ホテルの宿泊客が火事に気付いた時には、すでに廊下と階段は煙でいっぱいだった。結果、逃げ遅れて死亡する者や、脱出中に煙に行く手を遮られて飛び降りる者などが続出。また、23名が屋上に逃げようとしたものの、ホテル側から屋上に通じる扉が施錠されていたため、スカイラウンジに追い詰められた形で亡くなっている。

 一方で、屋上に脱出できた者もいた。従業員しか知らないタラップがあったとかで、これで8人が屋上へ到達している。彼らは陸軍のヘリで救助されたが、吊り上げられた際に2名が墜死した。

 生存者は、おおむね自力での脱出、あるいはハシゴ車やヘリコプターによる救助などに分類される。出火後もエレベーターはしばらく使えたため、それで逃げた者や、2階の庭や隣の建物の屋上へ飛び降りた者などがいた。またハシゴ車では50名以上が助かっている。
 
 特筆すべきは、「シーツで作ったロープ」による脱出者がいたことだ。例えば当時15階にいた日本人は、ベッドのシーツをつないで14階まで降り、窓を蹴破って室内に侵入。そこでまたシーツでロープを作って下の階へ……という手順を繰り返し、なんと7階まで降りたところで救助された。資料によると、この方法で少なくともあと2人が脱出している。

 消防の動向はどうだったのか。

 消防は、午前10時17分に第一報を受信している。なんでもソウルでは、消防局は警察の一部門であるという。そして市内全体を四つに分けた各地区に司令所があり、大然閣ホテルは、建物から一キロほどの場所にその司令所があった。

 しかし、いくら近くとは言っても、火の回りは想像以上の速さだった。消防隊が到着した時には建物の中に入るのはもはや不可能で、外から消火と救助活動を行うしかなかった。

 通報から一時間以内には、陸軍と米軍のヘリコプター8機が到着して屋上への避難者を救出している。さらに、逃げ遅れて窓から身を乗り出している人をロープで吊り上げようとしたが、これは炎による上昇気流と煙がひどく、うまくいかなかった。

 正午には、約40台の消防車などが集合した。さらに大統領の命を受け、国家警察の消防隊と30人の医療スタッフが緊急出動し、米軍の消防隊やポンプ車も召集されている。

 最終的に、総勢530名の消防士、750名の警官、115名の軍人が駆り出され、うち200名の警官が、数千人の野次馬の整理にあたったという。数千人って大げさじゃね? と、筆者はちょっと思ったのだが、当時の映像をyoutubeで見て「なるほど」と納得した。

 火災制圧が宣言されたのは午後5時半のこと。それでも建物内は熱気がひどく、消防隊も7階以上にはすぐには進入できなかったという。

 遺体の捜索は午後8時頃から18時間に渡って行われた。亡くなった人々の内訳は以下の通り。

◆建物内で発見……121名(うち3名はエレベーターで発見)
◆飛び降り…………38名
◆ヘリコプターから墜落……2名
◆病院収容後に死亡…………2名

 死亡者は、韓国人、日本人、中国人、アメリカ、インド、トルコ人と国籍も多岐に渡っていた。ただし17名は最後まで身元不明だったという。死者数163名という数字は、1946(昭和21)年にアトランタで起きて119名が死亡したワインコフホテル火災の記録を塗り替えるもので、ホテル火災としては当時の世界史上最悪の数字となった。

 大然閣ホテルとワインコフホテルの二つの事例には、後から見て看過できない共通点がいくつかあったようだ。例えば、ホテル部分の階段が一カ所だけだった。内装が可燃性だった。下層階から出火したため、階段で避難できなかった――。これを踏まえつつ、参考資料『火災安全工学』では、大然閣ホテルの問題点を以下のように要約している。

①ロビーにLPガスボンベを置き、危険な状態でガスを使用していた。
②階段がホテル部分に1カ所しかなかった。しかも、階段の防火区画は不十分で延焼経路となったため、避難ルートには使えなかった。
③内装材、下地材等が可燃性であった。
④耐火構造の間仕切も天井裏に開口があり、延焼ルートになった。
⑤屋上への出口がロックされていた。

 物的損害は、当時の推定で約8億3820万ウォンとされた。

 さて、その後の話である。

 同ホテルは改修を経て、1973(昭和48)年――どうでもいいが太洋デパート火災と同じ年だ――に「ビクトリアホテル」と改称して営業を再開した。

 だが、経営がうまくいかなかったのか、翌年には「大然閣観光」という会社に買収された。もともとの大然閣ホテルとの権利関係が判然としないが、たぶん親会社とかなのだろう。そのうち、ホテルは「高麗大然閣タワー(고려대연각타워)」と改称してオフィスビルになった。

 ちなみに大然閣観光は1982(昭和57)年には高麗通商と変名し、高麗通商グループを形成。1997(平成9)年のIMF経済危機によってグループ自体は解散したが、今でも高麗通商の名で、元子会社の東光製薬との循環出資でビルの所有を続けているとか。

 んで、蛇足の蛇足だが、2010(平成22)年2月27日には、同じ建物でまた火災が起きた。現場は屋上の冷却塔で、これは消防車により14分後に鎮火したという。よかったよかった。

【参考資料】
◆岡田光正『火災安全学入門―ビル・ホテル・デパートの事例から学ぶ』学芸出版社、1985年
◆ウィキペディア

back