2002(平成14)年5月25日のことである。
台湾の首都・台北にある中正国際空港(現在の台湾桃園国際空港)から、15時7分に一機の航空機が飛び立った。チャイナエアライン611便、ボーイング747-209B (B-18255、 製造番号21843)である。
古い機体だった。1979(昭和54)年8月2日(当初の機体記号はB-1866)に就航し、それから22年8ヶ月、時間にして64,000時間、何億キロもの空路を飛んできた経年機だ。
実は同機は、翌月にはタイの航空会社に売却されることになっていた。よって既にチャイナエアラインの運行からは外れていたのだが、機材のやり繰りの関係から、この日はたまたま臨時で使われたのだった。この後、同機は香港国際空港へ到着後してからUターンして台北へ戻り、それで最後のフライトを終える予定だった。
振り返ってみれば、運命のひどい悪戯である。本来飛ぶはずのなかった便が急遽用いられ、それが大事故を起こす結果になったのだから。
香港には16時28分に着く予定で、わずか2時間足らずの航路である。しかし短距離航路とはいえ、この航路は「ゴールデンルート」と呼ばれる、世界的に見ても収益性の高いものだった。さらに言えばボーイング747という機体も世界的に人気で、機体・航路ともにポピュラーなものだった。
離陸から9分後、611便は高度18,700フィート(5,700メートル)を通過。さらに管制官の指示を受けて高度35,000フィート(10,668メートル)に上昇し、それを維持した。
ところが、その直後に異常が起きた。同機が、管制塔のレーダー画面から突如として消えてしまったのだ。
そこは台湾海峡上空で、海岸からおよそ50キロの地点だった。もう少し詳しく書くと、澎湖群島の北東で東経119度67分、北緯23度90分である。
すぐに大規模な捜索が行われた。もちろん墜落した可能性もあるので、海上では軍隊に沿岸警備隊、果ては釣り船までもが総動員され、千人以上が捜索に加わった。
次第に、ガチの墜落であることが明らかになっていった。17時5分には、台湾の馬公氏の北東37キロの海面上で油の帯を発見。一時間後には機体の残骸が、また機内にあったものと思われるさまざまな物品も次々と見つかった。これら物品の一部は、墜落地点から130キロ離れた海岸沿いの集落にも流れ着いたという。
遺体も次々に見つかった。最終的に162名分が収容され、行方不明者はいたものの生存は絶望的だとして、乗員19名、乗客225名全員が死亡という結果になった。
間もなく、この墜落事故は"空中分解"だったことが判明する。「チャイナエアライン611便空中分解事故」の発生だった。
☆
今はどうか知らないが、少なくとも当時のチャイナエアラインは、やたら事故を起こすことで有名だったらしい。なんと四年に一度の割合で事故っていたとか。
そんな中でも、今回の611便の墜落事故はもっとも始末が悪いケースだった。なにせ機体が海へ水没している。それでも台湾の飛行安全委員会と、そこから調査の要請を受けたアメリカの国家安全運輸委員会は原因調査に乗り出した。
アメリカの専門家に声がかかったのには、特別な理由があった。今回の事故は、ボーイング747機であることや、暑い日のさなかだったことなど、6年前にアメリカで起きたトランスワールド800便(これも空中分解事故)と状況が良く似ていたのだ。もしかすると同じ原因だろうか? というわけで原因究明のために呼ばれたのだった。
まずは、回収されたボイスレコーダーを確認してみる。しかし目ぼしい手がかりはなかった。どうやら事故機は何の前触れもなく墜落したらしく、墜落直前には、乗員が鼻歌を口ずさんでいるのが録音されていた。
ミサイル撃墜説も無視できなかった。中国と台湾は対立しているし、また8カ月前には、78名が乗ったシベリア航空の旅客機が、演習用に発射されたミサイルに撃墜されるという惨劇も起きている。ありえない話ではない。
しかしこれは否定された。中国軍がミサイル発射を否定したからというのもあるが、事故当時、レーダーにミサイルの影は映っていなかったのだ。また回収された残骸にも、ミサイル攻撃を受けた痕跡はなかった。
残骸の痕跡ということで言えば、燃料タンクが爆発したわけでもなさそうだった。トランスワールド800便と同じ原因という線も、これでなくなった。
では結局、原因はなんなのか。
大きな手がかりとなったのは、墜落当時のレーダーである。と言っても管制塔のそれではない。高性能の軍用地上レーダーが、当時の機体の様子をより詳細に捉えていたのだ。
そこに映っていたのは、墜落のおそるべき経過だった。611便の機影は15時28分、35,000フィートの地点で突然バラバラになり、大きく4つのパーツに分かれて海上へ散っていたのだ。。
衝突でも撃墜でも爆発でもない、正真正銘の空中分解である。
だとすると、機体そのものに欠陥があった可能性も否定しきれない。航空委員会は、同型の航空機を地上待機させて、欠陥がないと分かるまでそのまま待機させた。
なぜ、この空中分解は発生したのか?
残骸を詳細にチェックしていくうちに、調査チームは答えらしきものに行き当たった。数多くある残骸のうち「640番目の残骸」に、そのヒントはあった。この破片の裂け目には、明らかな“金属疲労”の痕跡が残っていたのだ。
時速数百キロで飛行し、風圧を受けながらバラバラになった場合、機体の破片には乱暴にむしり取ったようなギザギザの痕がつく。現に、残骸の多くにはそのような痕跡が残っていた。しかし640番目の残骸はそうではなく、裂け目はなめらかで、長い時間をかけてちょっとずつ裂けていったかのようだった。
もしかすると、金属疲労によってこの部分が一番最初に裂けたのではないか? それがきっかけになって、機体はバラバラになってしまったのではないか?
また、この640番目の残骸には「ダブラープレート」と呼ばれる部品が当てられていた。これは裁縫で言うところの、つぎ当てのさいにあてがう補修布のようなものだ。破損した場所を保護するのである。ということは、この箇所は過去に修理されていたらしい……。
というわけで修理記録が調べられた。
すると、次の内容が明らかになった。事故機は1980(昭和55)年2月7日、香港啓徳空港での着陸のさいに機体後部が地上に接触する、いわゆる「尻もち事故」を起こしていたのだ。この機体が飛び始めて半年余りの頃の出来事だ。
尻もち事故そのものは珍しくないので、驚くにはあたらない。その時はとりあえず応急処置がなされて、5月には作業チームによる本当の修理が行われている。問題はその記録だった。航空記録として「胴体外板の修理は、ボーイング構造修理マニュアルの53-30-09の図1に従って実施した」とだけ記されていたのだ。
え、それだけ?
本当にそれだけだったらしい。
整備日誌にも簡単な記載があっただけで、あとはまともな記録はなかったそうな。
おいおい、これ本当にちゃんと修理したのか? いよいよ怪しい。
で、さらに調べていくと、ああやっぱり……で、この修理はボーイング社の構造修理マニュアルに違反する不完全なやり方だったことが判明した。
この修理、マニュアル通りに行うならば、本来は以下の2つのやり方になるはずだった。
①損傷を受けた部分を丸ごと外して交換する。
②傷を完全に取り除いて補強材をあてる。
しかし前述の通り、実際に行われたのは、例のダブラープレートを2枚、それもサイズ的に不十分なものをあてがっただけだった。
すなわち、22年前の尻もち事故の傷は、完治しないままだったのである。
もちろん、22年の間に、定期点検は何度も行われていた。しかし損傷個所はダブラープレートで覆われており、いい加減な修理だったことは外から見ただけでは分からなかった。さらに内側からも見つけにくいものだったらしい。
さらに言えば、プレートを打ち込むさいに使われた「リベット」という部品も打ち込み過ぎだった。
素人目線で説明してしまうと、どうやらリベットとは釘かネジのようなものらしい。釘もネジも、あまり深く打ち込み過ぎると、せっかく打ち付けた部位がかえって傷んでしまったり、その部位が脆弱になってしまうことがある。それと同じ理屈で、打ち込み過ぎたリベットは、機体に小さなダメージを与えていたのだ。
こうして、チャイナエアライン611便が空中分解に至った経緯は明らかになった。そのストーリーは次の通りである。
ざっくり書くが、航空機は飛行するときにものすごい負荷がかかる。時速数百キロで、ものすごい風圧を受けながら飛ぶのだから当然だ。
611便の機体には、尻もち事故の「古傷」と、リベットによるダメージが残されていた。その2か所には、飛行のたびに前述のような負荷がかかる。よってそのつど、傷は数ミクロンから数センチずつ拡大していく。そして、それがついにメートル単位の亀裂となった時、機体はもたなくなった。機体後部がパカッと外れて脱落し、機内で急激な気圧差が生じて全体がバラバラになったのだ。
以上のような調査報告がチームによって発表されたのは、事故から七か月後の2002(平成14)年12月25日のことだった。
資料によると、この事故を契機として、調査チームは世界中に航空機の修復箇所の点検を呼びかけたという。
こうした呼びかけあるいは要請が、どれくらいの強制力を持つのかはよく分からない。少なくともチャイナエアラインにおいては、航空機の修復にさいしての綿密な点検や、詳細な整備記録の保存が行われるようになったようだ。また技術的にも、現在は安全確認の方法が飛躍的に進歩しているという。
この事故の直接的な原因は、「整備士の手抜き」である。とはいえ、機械部品の老朽化を綿密にチェックする体制が整っていれば、事故は防げたかも知れない。防災という観点からそのように考えると、単なる個別の航空機事故のハナシとして片付けることもできないように思えてくる。
今の時代に生きる我々は、東日本大震災やその他の激甚災害など、多くの災害を目の当たりにし、また体験もしてきた。我々は「防災は一日にして成らず」であることをよく知っている。昨日の安全はもはや今日の安全ではない。システムの維持のためには、無駄に終わるかも知れないコストをあえてかけ続けなければならない時代なのだ。
本当に、隔世の感とはこういうのを言うのだろう。かつて、1970年代くらいまでは、いつ起きるか分からない災害のためにコストをかけてられるかい、という考え方が主流だった。特に火災の歴史を見ているとそれがはっきり分かる。だからこそ、法律の側で防災体制の確立を義務付ける必要があった。そういう時代だった。しかし今では正反対である。これぞパラダイムシフトだ。
時代は、成長の時代から維持の時代へと変わった。しかも、この場合の維持とは、戦いを要する維持のことである。防災は一日にして成らず。大切なものを守っていくには、そこに隠れているかも知れない亀裂が、日々数ミクロンずつでも拡大していないかどうかを繰り返し確認しなければならない。あるいはそこに何もなかったとしても、我々は秩序維持のためにそれを続けていかなければならない。これは戦いなのだ。
そう考えると、防災というのは人間にかけられた無限に続く呪いだとすら思う。祈ったところで救われるかどうかは分からない。しかし祈り続けなければ救われることもない。別に宗教的でなくても、人間はそういう構造の中にいるのである。
なんか、今回はこんな感じに感傷を込めた文章を書きたくなった。おしまい。
【参考資料】
◆青木謙知『飛行機事故はなぜなくならないのか』講談社ブルーバックス、2015年
◆ナショナルジオグラフィックチャンネル『メーデー!:航空機事故の真実と真相』第6シーズン第1話「SHATTERED IN SECONDS」
◆ウィキペディア
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