◆秩父夜祭事故②(1947年)

 埼玉県秩父町(現・秩父市)の秩父神社を中心として、毎年123日に行われる秩父夜祭。

 このイベントで1935(昭和10)年に17名の死傷者が出る事故が起きたことは、先に「秩父夜祭事故①」で簡単に説明した。

 もともとこの秩父夜祭は、小規模な事故が起きることは珍しくなかったらしい。

 確かに、山車を担いで町内を練り歩く系のお祭りでは、ぶつかって壊しただのケンカになっただの、下敷きになって死傷者が出ただのという話はよく耳にする。

 よって秩父夜祭でも小規模な事故はたくさん起きているのだが、今回ご紹介する「②」は、この祭りがらみで発生した事故の中でも最悪のものだ。

 1947(昭和22)年123日、いつもの秩父夜祭の日のことだった。

 この年は、どんな理由からなのか、笠鉾・屋台の曳行は行われていなかったらしい。後述するが、前年にトラブルが起きていたので自粛していたのかも知れない。

 だが祭りの最後には、毎年恒例の仕掛け花火が打ち上げられた。

現在も行われる秩父夜祭の花火
現在も行われる秩父夜祭の花火

 この花火には数万人ほどの見物人が集まったらしい。資料に載っている数字がまちまちなのだが、とりあえず三万人~十五万人くらいは会場の秩父公園に集まったようだ。

 そして花火が終わったのが2245分頃。終了と同時に来場者たちはぞろぞろと動き出し、ほど近い御花畑駅を目指して一斉に団子坂を北へと進み始めた。

現場周辺の現在の位置関係。✖印が事故現場

 しかしこの途中、駅の東側にあった踏切の遮断機が下りてしまった。ちょうど、御花畑駅の周辺で電車が出入りするタイミングだったらしい。

 これによって群集の流れがせき止められてしまった。遮断機が下りているのだからと、そこで気持ちよく人の波がストップすればよかったのだが、押し寄せてくる人々は押し合いへし合い。ついに将棋倒しになってしまったのだった。

 行き場を失った人たちは道端の商店へ雪崩れ込み、店内を破壊してしまったという。

 とりあえず、踏切に人が押し込まれてそこへ電車がやってきて……などという大惨事にはならずに済んだようだが、結果としてこの事故によって6名が圧死し、20名ほどが重軽傷を負った。

 遮断機が下りているのに、どうして群集は大人しくストップせずに押し合いへし合いに至ってしまったのだろう? その点だけ疑問が残るが、まだ終戦から二年しか経っていない頃である。これは想像だが、現在のように踏切に警報機がついておらず、後ろから押し寄せてくる人々が、前方で人の流れがせき止められていたことに気付かなかったとしても不思議はない。

事故が起きた踏切

 なんとも不運な事故だが、祭りそのものにとってもこの事故は不運なものだった。

 実は、秩父夜祭の花火大会はもともとは秩父公園で行われていたのだが、1936(昭和11)年に一度会場を羊山公園に変更したという経緯があった。仕掛け花火で家屋が焼失したり死者が出たりする騒ぎになってしまい、秩父公園での花火の打ち上げが禁止されてしまったのだ。

 で、変更後の羊山公園で十年間ほど花火大会が行われたのだが、今度は1946(昭和21)年の祭りの際、公園付近の農作物が荒らされるという事件が発生。これを受けて、翌年1947(昭和22)にはまた会場が秩父公園へと戻ったのだった。

 そうしたら、秩父公園に会場を戻した途端に今度のような事故が起きてしまったのだ。事故防止のために会場を変えたのに、また事故が起きたのだから実に不運な話である。

 というわけで、主催者側も「やっぱり秩父公園はイカン」という結論に達したのだろう。この事故が起きた翌年の1948(昭和23)年には打ち上げ場所が再び羊山公園に移り、現在に至っている。

 なんかもう、ここまでくると会場がどこだろうと何かしらの事故は起きるのでは? と心配になるのだが、それでもその後、このお祭りで目を覆いたくなるような惨劇は起きていないようだ。

【参考資料】
秩父まつり会館
秩父夜祭の基礎知識「事故と規制」

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