1980(昭和55)年)8月16日、筆者が生まれて三日後のことである(蛇足)。
場所は静岡県紺屋街葵区、すなわち静岡駅前のあたりである。そこは宝石店などが立ち並ぶ繁華街で、さらにその地下街は通称「ゴールデン街」と呼ばれていた。
最初の爆発が起きたのは、そのゴールデン街にあった飲食店「菊正」である。それは従業員が湯沸かし器に点火しようとした時のことだった。
どぼずばあーん。
この爆発が起きたのは午前9時31分。爆発と言っても小規模なもので、怪我人もなかったらしい。
とはいえ、現場の菊正と、さらにその隣にあった「ちゃっきりずし」という店の床と機械室は大破してしまったらしい。それで怪我人がゼロというのもちょっと驚きだが、たぶん大破したのは壁越しとかだったのだろう。
これらの商店は、地下街の一角であると同時に、地上6階・地下1階建ての「静岡第一ビル」の地階でもあった。先述の菊正やちゃっきりずしは、このビルの地下1階で営業していたのである(※資料によっては「静岡第一中央ビル」とも)。
このビルは1964(昭和39)年に建てられた。全国的に高層建築物が次々に建てられ、それでも飽き足らず地階まで掘り進んでいった時代の産物である。収容人員は712人、テナント数は88店舗という規模で、ゴールデン街は、こうしたビルの地階が複数、地下で連結する形で、1960年末から70年代にかけて形作られていったのだった。
さて菊正とちゃっきりずしで爆発事故があったということで、さっそく消防に通報が入った。ちなみにこの通報は、爆発現場のちょうど上階にあった靴屋「ダイアナ」から行われている。
事故を検証するため、すぐに消防士や消防団員、警察官、ガス会社の担当者が駆け付けた。また報道関係者も一緒に地下街へ入っていった。
出火のおそれもあるので、放水態勢もばっちりだ。消防隊は人命検索を行い、9時35分には火災警戒地区を設定。「火気厳禁」と「現場周辺からの退去」の広報活動を実施した。
当時、地下の現場へ同行したテレビ静岡の記者A氏は、「それほどの被害ではないな」と感じたという。パニックになる者もおらず、現場にいた全員が冷静だった。
と、嘉門達夫風に言えば「ここまではエエねん」である。
ところが事態は急変する。現場検証を行っていた消防士が高濃度の可燃性ガスを検知したのだ。そこはビルの屋内階段の、一階に通じる踊り場である。爆発で大破したちゃっきりずしの機械室とはコンクリートの壁一枚で隔てられた場所だった。
「大変だ、みんな逃げろ! 脱出だ!」
危険な可燃性ガスが充満する中で、消防士たちは、現場とその周辺にいた人々へ地下街からの脱出を促す。もちろんガスそのものへの対応も必要だ。一体どれくらいの濃度でどこまで広がっているのか。出どころはどこなのか。急いで排気しなければ――。
余談だが、漫画『め組の大吾』を思い出す。
あの作品にはさまざまなタイプの事故災害が登場するが、「ガス爆発の危険が迫っている中で人命救助に向かう」というシチュエーションは二回あった。
もちろん作品内では無事に全員が生還するのだが、では間に合わなかった場合はどういう結果になるのか…という実例が、まさにこれなのである。
時刻は午前9時56分。全員が地下街から脱出する前に、大爆発が起こった。
どぼずばああああああん。
この2回目の爆発の火元は、先にも名前を挙げた靴屋さんだったとされる。
先に登場した、記者A氏も、この二度目の爆発に巻き込まれた。彼は一命を取りとめ、命からがら地上へ脱出している。この時、既に地下街の商店は軒並み全半壊していた。
そしてA氏が地上に脱出して目にしたのは、信じられない光景だった。静岡駅前の通りは、瓦礫だらけの廃墟と化していたのだ。
爆発は地下街のみならず、地上にまで大きな災禍をもたらしていたのである。路上には爆風で吹き飛ばされた大勢の人が倒れ(爆風は、地下から約60度の角度で道路に噴き出したとされている)、現場となった静岡第一ビルは1階と2階が大破し煙を噴き上げていた。
ビルの周囲も大きな被害を受けていた。真向かいにあった西武百貨店静岡店や周囲の商店、雑居ビルは壁面やガラスが吹っ飛んでおり、現場から半径100メートルの範囲で火災が発生していた。
またこの時、現場に駆け付けたところで二度目の爆発に遭遇したNHK記者も、この時の駅前通りの様子について「髪が灰色、全身血だらけの人がさまよっていた」と証言している。
地下街で起きたガス爆発が、地上にこれほどの被害を与えたのには理由があった。
この事故では、一度目の爆発でガスの配管が破損し、そこから都市ガスが漏れて二度目の爆発を起こしたとされている。都市ガスは空気よりも軽いことから、エレベーターの昇降路などを通って上へ上へと充満していったのだろう。
また「乱流現象」というのがあるらしい。爆発によって、炎は一瞬でブワッと拡大するわけだが、この時、中途半端に障害物があると、逆に爆風や火炎の勢いが増すらしいのだ。床やら壁やらが存在する建築物の地下での爆発は、その構造ゆえに、地上階での被害を拡大させたのだった。
さて、現場には消防や救急車など43台が駆け付け、消火と救助活動が行われた。動員人数は消防長や消防団員など708名。彼らは延焼拡大の防止とビル内の避難誘導、はしご車による救出、がれきの下敷きになった人の救助などにあたった。ビルの屋上からは3名が助け出された。
爆発でめちゃめちゃ、しかも火災が続いている現場である。消防士らによる活動が困難を極めたことは容易に想像がつくが、困ったことに爆発はその後も繰り返し起きた。おかげで火災は収まらず、危ないことこの上ない。とことんひどい状況だった。
現場のビルではガスが漏れ続けていたのだ。現在だったら、異常事態が起きると自動的に、あるいは遠隔操作でガス管を閉じられるようになっている。しかし当時の安全基準では、こうした設備をビル内のガス管に設置する義務はなかった。
なので、現場でいつまでも続いているガス漏れを何とかしなければならない。そこで採られた方法が――これは資料ではさらっとしか書かれていないが――よく考えてみるとかなりドラマティックである。
ガスの供給を完全に止めるには、マンホールの中の遮断弁を手動でいじる必要があった。だが爆発によってマンホールの上には瓦礫が積み重なり、静岡ガスの職員たちは手も足も出ない。そこで道路を掘削し、ガス管に穴を開けてバルーンを入れ、ガスが外に出ないようにして遮断したのだ。知恵と創意工夫の賜物である。
このガス遮断作業が完了したのが14時10分のこと。つまり、二度目の爆発が起きてから4時間もの間、現場ではガス漏れが続いていたのである。
15時30分には、火災も鎮火した。
結果、消防士4名を含む15名が死亡、223名が重軽傷を負うという結果になった。資料の現場見取り図を見ると、地下街で4人が亡くなっているのでこれが殉職した消防士だったのかも知れない。また、建物への被害も163件あった。
死傷者のほとんどは、地上にいた人だったという。お盆の時期の土曜日だったため買い物客が多かったのも、負傷者が増えた原因だろうと言われている。
ちなみにだが、二度目の爆発のあと、大勢の通行人が写真撮影をしたり救助活動を行ったりしていたらしい。救助活動をするのはまあ良い心がけなのだが、現場ではガス漏れが続いていたという事実や、大勢の野次馬が巻き込まれた天六ガス爆発事故のことなどを思い出すと、ますます被害が拡大した可能性もあったのではないかとゾッとする。
この事故は、ガス爆発による都市災害としては、天六ガス爆発事故に次ぐ規模である。どうでもいいが、資料に使ったテレビ番組の動画では「史上最悪」とあったがあれは嘘だ。どうしても最悪にしたいのなら史上最悪「級」とすべきだろう。
さて裁判である。
事故が起きてから16年後(長っ!)の1996(平成8)年に、静岡地裁は、事故の経緯について次のように認定した。
まず一度目の爆発は、これは地下に溜まったメタンガスが原因だった。
この爆発で、今度は都市ガスのガス管が破損した。そして、漏れたガスはダクトなどを通じて地下街およびビル一階の店舗に流れ込み、致命的な二度目の大爆発を起こしたのである。
これについては、静岡ガスの社員2名が業務上過失致死傷で書類送検されたが、不起訴処分となった。
またそれとは別に、ビル管理会社と入居者と静岡ガスの三者で、誰が責任を負うかをはっきりさせる裁判も行われている。ビル側と入居者側は、ガス会社の責任を追及するために、現場となったビルを長い間そのままにしておいて一般にまで公開していたという。
こっちの裁判は結論がどうなったのか不明である。それにしても、現場のビルを長い間一般公開していたというのは聞き捨てならない話だ。ホテルニュージャパンのように、誰か写真撮ったりしていないかな……というのは、マニアならではの独り言である。
この事故は大きな教訓を残した。少し時系列が前後するが、事故の翌年の1981(昭和56)年には消防法施行令が一部改正され、地下街などの施設でガス漏れを検知する火災警報設備を設置することが義務付けられている。
事故当時、ゴールデン街のような地下街は全国に78ヶ所あったという。しかし上述の通り保安基準が一挙に厳しくなったことから、その後しばらくの間は、地下街の新設がなかなか認められない状況が続いたとか。神奈川県川崎市の川崎アゼリアは開業まで1986(昭和61)年までの年月かかったし、また仙台市では地下街の開発計画そのものが中止となったという。
ゴールデン街は、その後復旧した。そして幾度かの改称を経て、現在は地下街を「紺屋町地下街」、地上を「紺屋町名店街」と呼んでいるようだ。ちょっと検索したらすぐに街の様子を見ることができて、実に明るく良さげな雰囲気なのでホッとした。こんなブログで黒歴史をほじくり返すのはちょっと気が引けるほどだ。
とはいえ、事故の記憶は今も生きている。2019(令和元)年11月22日には、紺屋町名店街と市消防局葵消防署による合同訓練が行われた。これは、震度6弱の地震でガス漏れや火災が発生した場合を想定したものだった。
【参考資料】
◆ウィキペディア