◆三島ビル火災(1984年)

 いきなり個人的な話で恐縮だが、この間、家の掃除をしていたらタンスの中から1984(昭和59)年の古新聞が出てきた。昔、家人が引き出しの底に敷いたものらしく、それに「8人死に11人重軽傷 3階建て雑居ビル全焼」という見出しで火災の記事が載っていた。

 事故災害の話となると、無視はできない。なんだか奇妙な縁を感じて、さっそく詳細を調べて記事を書くことにした。それが、今回ご紹介する三島ビル火災である。

 1984(昭和59)年11月15日、午前1時34分のことである。愛媛県松山市内を流していたタクシーの運転手から、消防に通報が入った。

「大変です、三島ビルが燃えている!」

 これが第一報だった。三島ビルというのは、同市大街道にあった雑居ビルで、所有者は食品会社の三島会長という人だったらしい。通報したタクシー運転手は、ビルのそばを走っていて、建物から煙が出ているのを見つけたのだった。

 現場周辺のことをもう少し詳細に書こう。そこは、松山市中心部の松山城城山のふもとで、通称「ロープウェー通り」という場所である。松山市の一番町口から、ロープウェー東雲口駅舎までの約500メートルの間がそのような名前で呼ばれていたのだ。検索してみると分かるが、今でもそこは「ロープウェー商店街」「ロープウェー街」という名前で親しまれているようだ。

 出火した三島ビルは鉄筋コンクリート3階建てで、1階には美容院や小料理屋など5つの貸店舗が入っていた。また2・3階は居住空間になっており、合計21の部屋に計16世帯、約24名が住んでいた(資料によっては、住んでいたのは18世帯26名とも)。雑居ビル兼貸アパートといったところか。

 通報を受けて、松山消防局から消防車など約20台が出動した。しかし火の回りは早く、現場に到着すると、すでに炎と煙は全館に広がっていた。一刻を争う状況である。放水による消火活動を行いつつも、消防は人命救助を最優先に動き始めた。

 しかし、この救助作業が難航した。消防は、二連ハシゴなどを駆使して上階から逃げ遅れた人を助けようとしたのだが、要救助者がハシゴの方に飛びついてきたり、うまくハシゴに乗れても転落して怪我をする者が出たり、窓から飛び降りる人が続出したりで、かなり大変だったようだ。

 もちろん火災なのだから、人々が必死で逃げるのは当たり前である。ただ、こうなってしまったのには三島ビルの構造そのものにも原因があった。

 もともと、このビルは缶詰会社の倉庫として1966(昭和41)年3月に建てられたものだった。それが1970年代初頭に雑居ビルとして造り替えられたのだが、この用途変更の結果として、建物の内部は、非常時に避難が難しくなる造りになってしまったのだ。

 また出火当時は、ひとたび火災が起きれば大惨事になりかねない状態でもあった。どういう点がいただけなかったのか、以下に列挙しておこう。

・ビル内の各部屋には、約40センチ四方の小さい窓があるだけ。
・出入口は、幅約70センチの細い階段があるだけ。
・非常階段やスプリンクラーはなし。
・ビル内の部屋は、ベニヤ板などで仕切ってあるだけだった。
・天井裏などの区画も不十分で延焼しやすかった。
・リフトの竪穴は塞がれており、ますます延焼しやすかった。
・屋上のドアが解放されており、炎と煙の通り道になった。
・2階のすべてと3階の一部の部屋の窓には、鉄格子がはまっていた。

 今の時代から見れば「ひでえ建物だなあ」と言いたくなるところである。だが当時は、これでも法律上は問題がなかった。ビルには、防災設備として、非常ベル、誘導灯、消火器もきちんと備え付けられていた。

 もっとも消防計画は策定されていなかったし、避難訓練も行われておらず、消防署からは改善指示を出されていたようだが――。

 そんな三島ビルの火災が鎮火したのは、通報から約3時間後の午前4時50分のこと。全焼した建物の中からは、子供1名を含む7名の焼死体が見つかった。飛び降りによる怪我や一酸化炭素中毒の12名が病院に運ばれたが、1名が死亡、2名が意識不明、9名が重軽傷という結果になった。

 運良く自力で逃げ出した人もいた。かなり早い段階で火災に気付いた家族4人は階段から外に出られたし、3階に住んでいた配管工の男性は、窓から水道パイプを伝って脱出している。しかしそんなのは例外中の例外である。出火当時は2・3階のほとんどの人が就寝中で、火災に気付いた時にはすでに逃げ道を失っていた。

 ちなみに、第一報がタクシーの運転手からもたらされたのは先述の通りだが、ビル内から通報した者はいなかった。誰もが自分のことで精一杯だったのだ。

 火災の原因は、放火だった。当時三島ビルに住んでいた女性に言い寄った男がいたのだが、女性は他に付き合っている相手がいたためフラれ、それで腹を立てて段ボールに火をつけたとか。

 この男、11月15日の時点で犯人隠匿容疑で逮捕され、さらに26日には恐喝容疑で再逮捕。そして12月14日は放火を自白、という流れになっているので、最初の段階で目星がついていたところで別件逮捕からどんどん追い詰めていった流れだったのだろう。

 10人も亡くなっているのだから、死刑でおかしくない気もする。だがその後の経過は不明である。

【参考資料】
◆山形新聞
◆『山形新聞 縮刷版』1984年(昭和59年)12月15日~1986年(昭和61年)12月31日
◆『読売新聞 縮刷版』1984年(昭和59年)12月15日~1986年(昭和61年)12月31日
◆『毎日新聞 縮刷版』1984年(昭和59年)12月14日~1990年(平成2年)12月31日

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