◆ささやかなる被災

 2011年3月11日、14時47分。

 その地震がやってきた時、筆者は仕事中であった。

 仕事上の用事があり端末機を操作していたのだが、その時にユラユラと揺れ始め、すぐにその揺れ方が大きく長くなっていったのである。いかんこれはかなりの大地震だ、という直感が働いた。

「机の下に!」

 筆者はそばにいた同僚に声をかけ、自分も急いでそのようにした。

 電気はたちまち消え、事務所はやけに静かになった。薄暗い静けさの中で、ユサユサ、ガタガタと音を立てながら、随分と長い時間揺れていたように思う。さすがに根源的な恐怖を感じた。

「あれっ? きうり君、みんな外に出てるよ」

 揺れが鎮まると、さっき声をかけた同僚は、机の下から出てきてそう言ってきた。

 後で知ったのだが、最近は「地震の時は机の下に隠れる」というのは若干時代遅れらしい。とにかく建物が倒壊するほどの地震も多いということで、今は素早く外に出られるならそのようにするのが王道なのだとか。

 そこは臨機応変に対応すべし、ということなのだろう。まあ実態としては、「他の人が外に出たから自分も出る」というのが多かろうとは思うが。

 さて揺れはおさまったものの、全ての電気が完全にストップしもはや仕事にならない。電話もメールも通じなくなった。固定電話だけは何かのはずみでたまに繋がるが、それもあてになるほどじゃない。

 とりあえずはそのまま職場にて、機械関係の復旧と故障の有無の確認などを行った。

 だがとにかく、電気が通らないことには、そこから先へは進めない。暖房も切れたので、皆で厚着をして、少しでも状況が進展しないものかと待った。

 そのうち、外に出ていた同僚たちも帰ってきた。

「いやあ、揺れた揺れた。大丈夫かって? 大丈夫んねず。停電だ停電。信号も全部ストップしったっけずー」

 なんだって。デカい地震とは思ったがそんな酷いことになっているのか――。

 そうこうしているうちに、他の部署からは、ワンセグ携帯で確認された情報がいろいろと聞こえてくる。どうも震源は東北の太平洋側らしい。津波が来るらしい、あるいは来たらしい、等々。

 筆者は早く帰りたかった。仕事なんざどうでもいい。そういうのは、地震が起きても仕事を優先にする人がやってくれればいいのだ。筆者にとっては家族や友人知人の安否のほうが一大事だった。

 その気持ちを察してくれたのか、上司の一人が「きうり君、帰ったらいいんねが」と声をかけてくれた。助かった。

 さてそれで帰路に着いたものの、その頃には道路はおそるべき状況だった。

 とにかく信号が完全にストップしているし、誰もかれもが筆者と同じように帰路についているので渋滞も渋滞、大渋滞である。中には交通整理の人がいる交差点もあったが、基本的には人々の善意と譲り合いでもって順繰りに少しずつ通過できる、そんな場所が大半だった。

 寒かった。雪もちらついていたと思う。

 まずは無事にアパートに着いた。

 筆者は、妻と義母の2人と生活している。玄関口に最初に顔を出したのは妻のほうだった。

「あっおかえり」

「ただいま。怪我は?」

「ないよ」

 どうやら2人とも無事らしい。それは良かったのだが、食器棚が倒れていた。そのうちやろう、と考えて転倒防止器具をの取り付けをさぼっていたのが悪かった。

 食器棚を元に戻そうか……という話になったが、やめておくことにした。床には割れた食器が何枚か散らばっており、停電はまだ続いている。暗い中で破片でも踏んだらことだ。

 妻と義母は、地震の時には近所の風呂屋にいたという。湯船がプチ津波のように揺れたそうだ。それで帰ってきたら、食器棚が倒れていたのだった。

 それはそれで幸いだったかも知れない。食器棚が倒れる瞬間なんて、目の当たりにしたらそれはそれで心臓に悪い。

 他にも幸いなことはいくつかあった。まず、停電はしているものの水道は無事だった。また我が家には反射式ストーヴがあり、これなら電気がなくとも電池と燃料さえあれば寒さは凌げる。繰り返すが、これは本当に幸いだった。

 とりあえず、筆者はもう一度外に出て、実家へ行ってみることにした。

 外は薄暗く雪もちらついていた。それで信号も民家の明かりも消えておりスーパーもコンビニも真っ暗なものだから、なんだか街全体が灰色がかっているように見えた。

 実家でも怪我人はなかった。ただ反射式ストーヴがないためやはり寒そうで、非常用のカンテラを囲むようにして、両親はもこもこ厚着をしていた。いつもはやんちゃな実家の飼い猫も、今日ばかりはおとなしい。やはり何かただならぬ気配を感じているのだろう。

 ともあれ無事は確認できたので、再びアパートへ帰宅した。

 まだ少し明るかったので、部屋の状況を改めて確認してみた。

 まず食器棚が倒れていたのは先述の通りで、それが一番大きな被害だが、さらに棚の中にあった家電製品も外に飛び出し、ひっくり返っているのが嘆息ものだった。

 例えば炊飯器と電気ポットは逆さまになっており、ポットからはお湯がぶちまけられている。また電子レンジも、倒れた勢いで扉が開いており、ぎりぎりの位置で落下せず踏みとどまっていた。

 食器棚はただ倒れたのではなく、下に椅子なども挟まっていた。そこに家電などがはまり込み、なんだか複雑な散らかり方をしていたのだった。

 それから、筆者の部屋も決して無事ではなかった。机の上に、100円ショップで買った小さなアクリル製の本棚があり、そこに辞書や電卓などを立てているのだが、それが落下して散らばっていたのだ。

 携帯電話も通じない。とにかく今夜は、なんとか暖を取ってやり過ごすしかない。筆者たちは家族三人で反射式ストーヴの前に集まり、暖を取りながらどうでもいいことを話して時間をつぶした。

 明かりは、さっき実家から借りてきた懐中電灯が一本だけ。それを頼りに時計を見たり、トイレに行ったりした。

 素直にすごいなと思ったのが、ワンセグ携帯の威力である。とにかく、電気が一切通じていなくとも、電池さえもてばテレビが見られるのだから大したものだ。

 カミさんの携帯にワンセグ機能がついていたのである。それで、ときどきテレビを見てみると、例の信じられないような映像が次から次へと流れてくるものだから慄然とした。世界の終わり、というほど大げさではないけれど、自分が今いるアパートは非日常的で、唯一外の世界と通じているワンセグの画面からも、まるでこの世の終わりのような情景が送られてきているのである。「只事じゃない」「何かとんでもないことが起きている」そんな間抜けな言葉が頭の中で何度も繰り返された。

 しかしワンセグもいつまでも観賞しているわけにはいかない。電池の問題がある。

 思えばこの時から、もう燃料や電池などの問題は始まっていたのである。反射式ストーヴだって灯油がなくなればお手上げだ。街中が停電している状態がこのまま続けば、給油も充電もできなくなる。まさかそんなことはないと思いたいが、大丈夫なのだろうか? 多かれ少なかれ、この頃誰もが感じていたことだろう。

 夜の10時頃になると、さすがに空腹が著しくなってきた。

「ちょっと外に行って来る」

 筆者はカミさんと義母にそう断って、街の様子を見がてら、どこか開いているところがあれば食糧を調達してくることにした。

 住宅街はとにかく真っ暗だった。街灯も、商店の明かりも、家屋の電灯も全てが消えている。たまに、住宅の中で懐中電灯の明かりらしきものが蠢くのが見える程度だった。

 さらに言えばこの夜は曇りときどき雪、といった按配の天気で、月明かりすらなかった。

 筆者が外出したのは、「だめもと」であったが、やはりホームセンターもスーパーもコンビニもドラッグストアも全て真っ暗。閉店状態である。

 実は職場から帰って来る時、こういった商店には凄まじい台数の車が停まっていたのだった。皆、地震の大きさに恐れをなして、慌てて食料や燃料や電池の類いを買い占めにかかったのであろうことは容易に想像がつく。おそらく停電ばかりではなく、単純に商品の売り切れのため閉店した店もあっただろう。

 信号も相変わらず仮死状態である。

 とはいえ、状況を興味深く観察する程度の余裕はあった。街中が真っ暗なんて、こんなのは二度とお目にかかれないかも知れない。様子を見がてら少しドライブしてみよう――という気持ちがあった。

 果たして、少し車を走らせていると、ローソンの駐車場に何台も車が停まっているのを見つけた。まさか、と思って筆者もそこに入ると、なんとそこはまだ営業していた。

 もちろん停電している。だが多分店員の車だろう、駐車場の車がライトでもって店内を照らしており、それでなんとか買い物ができるようになっていた。

 大勢の人が買い物をしていた。サラリーマン風の人、赤ちゃんを連れた若い夫婦、派手なカップル、大学生らしい男子二人連れ……。みんな意外に元気で、暗い顔をしている者はいなかった。わりとさばさばした明るい表情で、「みんな逞しいな」と思いつつ、奇妙な連帯感を感じた。ここにいる誰もが、今夜のこの苦労を分かち合っている仲間なのだという気持ちが湧いた。

 そんな中で、筆者もとりあえず適当なものを買った。

 おにぎりや弁当、パンなどは完全に売り切れていたので、買ったものはといえばじゃがりこ、おつまみよ用らしい砂肝、チョコ、冷え切って隅っこで売れ残っていた中華まんくらいのものだった。

 買い物を終えると、さらにぐるりと街を回ってみた。ローソンが開いているのだから他にもやっている店があるかも知れない、という甘い見込みもあった。だがさすがにそこまで幸運ではなかった。

 もう本当に何度でも繰り返し書くが、街中が真っ暗だった。数十年を過ごして、身体に馴染み切ったこの街が、これほどの闇に包まれているのは観たことがなかった。

 ただ一件だけ明かりのついている建物があって、それは市役所の2階だった。非常用の電源でもあるのだろう。

 見ものなのは、筆者のアパートから程近い歓楽街である。温泉施設と風俗営業店が立ち並ぶごちゃごちゃした場所なのだが、いつもは「不夜城」であるここも完全に真っ暗。夜こそ賑やかになるこの場所の静けさに、僕は思わず車内で笑った。心から楽しくて笑ったのではない。悲しいくらいに不条理で滑稽なものを目にすることでこみ上げてくる「笑い」というものもある。

 ときどき、試しに車を停めてライトを消してみたりすると、極めて原始的な恐怖が湧いてきた。筆者は暗い場所が苦手なのだ。

 車のラジオは聞くことができた。だが何を聞いたかはよく覚えていない。

 雪がちらついてきた中でアパートに帰宅し、部屋に戻ると、とりあえずローソンで買い込んだ食糧――というより「おやつ」――を胃に入れた。ほんの少しでも、身体がほっとした。

 それで、筆者はとりあえず寝ることにした。

 じっとしているしかないのなら、布団にくるまって寝た方が体力も回復するし建設的である。「大きく揺れたらすぐ起こしてくれ」とカミさんに言っておいて、自室で布団にくるまると目を閉じた。カミさんと義母は眠れなさそうなので、そのままストーヴの前で夜を明かすしかなさそうだった。

 とはいえ、筆者も気持ちが高ぶってなかなか寝付けない。そして、目を閉じてなんとか休もう休もうと思っていたその時、突然携帯が鳴り出したので飛び上るほど驚いた。

 メールが届いたのである。それは、ネット上でずっとお世話になっているribataさんからで、筆者の安否を問い合わせる内容だった。

 もしかしてメールのやり取りはできるのだろうか? そう思い、返事を何度か試してみたが駄目だった。

 しかもこの時には筆者の携帯の電池はもう残り僅かで、メール送信で無駄に電池を使ってもいけない。一か八か、ここはツイッターで無事を報告しておこうと思った。

 ツイッターなら、フォローし合っているribataさんに対する返事にもなる。また翌日にはブログにまとめ投稿されるので、ブログ読者に対しても無事を報告できるはずだ。

「とりあえず無事です。停電でひたすらヒマしてます。皆様また後ほど!」

 この文章を送信してみたところ、これがうまくいった。

 だがそこまでで、携帯の電池は切れてしまった。

 後から考えてみても、電池が切れる直前にメールを送受信できたのは実に幸運だったと思う。 

 これでネット上では無事を報告できたはずだ。それだけで少し安心して、なんとか眠ることができた。何度か余震を感じることもあったが、とにかく寝た。

 そして翌朝は、たしか7時頃に目が覚めたと思う。

 妻と義母は、反射式ストーヴの前でほとんど一睡もできなかった様子だった。

 地震の翌日は、晴れたいい天気だったと思う。

 だがしかし、まだ停電は続いているし余震も止まない。

 それでもやれることはやっておこうと思い、筆者はとにかく片付けられるものは片付けることにした。

 まずは自室からである。昨日は帰宅して以降は一気に日が沈んだので部屋も暗くなり、脱ぎ捨てた服や、荷物などを片付けることができなかった。それを整理した。

 それから、いよいよ割れた食器と、倒れた食器棚の後始末である。これが面倒臭かった。

 食器棚の倒れ方も中途半端なら、棚の中身の飛び出し方も中途半端である。とにかく動かさないことにはどうにもならん、そう思い、ちょっと力を加えてみたら、中の食器が何枚か飛び出して割れてしまった。

 ついでに電子レンジもおっこちて、中の耐熱皿も割れてしまった。

 今ここではあっさりした書き方になっているが、その時の惨状たるや凄まじかった。棚をちょっと動かしただけでガチャンバリングワシャーン! といった感じだったのだ。耳をふさぎたくなる、目を覆いたくなる、目もあてられない、そんな状況だった。そこだけが紛う方なき「被災地」という感じである。

 棚を動かすのは、一人では無理に思われた。それで筆者は一度実家へ行き、父親に頼んで来てもらい、なんとか片付けを済ませたのだった(ちなみに実家には反射ストーブはなく、実に寒そうだった)。

 状況に進展があったのは、この直後である。

 父親が帰っていった直後のことだった。冷蔵庫が動き出す、ブウウーンという音が聞こえたのだ。

 それは実に何気ない音だったが、それが聞こえた瞬間、筆者と妻は思わず「あっ!」と叫んで顔を見合わせたものだ。電気が復旧したのだ! それで家中の電化製品の状態をみたところ、確かに通電している。時刻は午前10時頃だったと思うが、この時は本当にほっとした。

 さて、妻はこの直後にこう言った。

「食器の割れた破片が、まだ床に残ってるかも知れない。踏むと危ないからスリッパを買ってきてほしい」

 電気も通ったし、天気もいい。少しはましな気分になったので、筆者は歩いてホームセンターへ向かった。

 歩いていったのは、理由があった。さっき実家へ行き、父に助けを求めた際、念のためスーパーとホームセンターの様子を確認したのである。どちらも店の前に大大大行列ができていたのだ。電池や懐中電灯、それに食糧を買い求めに来た人たちだろう。よって駐車場も満車で、車で行っても停める場所はなかろうと考えていたのだ。

 だがさすがに、スリッパを買いに行った時にはもう行列は解けており、そのかわりホームセンターの店内は客でごった返していた。

 店の中は暗い。どうもスイッチを切った状態にしているらしく、店員に聞いてみたら、現在は発電機を回してなんとかレジだけを稼働させている状態だという。なるほど。念のため、自分のアパートには電気が通ったということを、この店員には話しておいた。

 そして帰宅し、ようやくインターネットにも接続することができ、ネット上での無事の報告を改めて行った。さらにメール送信を試してみたところ、5回に1回くらいの割合でうまくいったので、友人知人にも安否の確認と無事の報告をしておいたのだった。

 テレビから流れてくる地震の情報と、ネット上の混乱ぶりに、ようやく改めて「これはやはりとんでもない災害なんだ」という認識を新たにした。

 以上、ここまでが、地震当日の被災体験である。

 とはいえ岩手や宮城、福島や茨城などに比べれば、山形は「被災」などと言うのもおこがましいような平和さだった。だから筆者はなんとなく遠慮して、他県の人に話す時は「地震で被災した」とは言わずに「地震の影響があった」という言い方を選んでいる。

 だがこの「影響」が、精神的にはけっこう響いた。

 なにしろ、東北の流通や商業の中心地である宮城県が思い切り被災したのである。また高速道路も使えなくなってしまい、その後の燃料と物資の不足にはほとほと悩まされた。

 以下、そうした「不足物」ごとに項目を作って、お話ししようと思う。

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