◆二又トンネル爆発事故(1945年)

 事故が起きたのは終戦直後だが、戦争のおまけみたいな大惨事である。

 事故が起きたのは1945(昭和20)年11月12日。

 場所は福岡県田川郡、添田町落合地区。日田彦線という鉄道路線がこの部落を通っているのだが、その路線上に二又トンネルは存在した。ただしトンネル自体は貫通して完成していたものの、戦争のため工事は中断されており、トンネルの手前で鉄路が途切れている状態だったという。

 戦時中、日本軍はこの二又トンネルに大量の火薬を隠すことにした。

 当時、北九州市の小倉には軍事施設が多く存在し、膨大な量の火薬や弾薬が備蓄されていた。だが、なんか当時軍事施設の一部が焼失したせいで火薬の置き場所がなくなってしまったらしい。またこの頃、日本軍は「来たるべき空襲や本土決戦に備えて、火薬類を分散させて隠しておかねばならない」と考えており、必要に迫られての火薬移動となったのだった。

 移送先として選ばれたのは、二又トンネルと吉木トンネルという二つのトンネルである。搬入作業は1944(昭和19)年から1945(昭和20)年の2月にかけて行われた。地元の婦女子が駆り出されて、トロッコを用いてこの二つのトンネルに火薬を詰め込んだという。

 よーし、これでいつ本土決戦が起きても大丈夫! ――と、軍の人々が本心から安心したのかどうかは定かでない。とにかくこの後、8月15日に終戦と相成ったのは周知のごとくである。

 さて、第二次世界大戦が終結すると、この大量の火薬はアメリカ軍に引き渡されることになった。具体的に言えば「連合国福岡地区占領軍」である。

 8月末には、さっそく在庫の確認が行われた。願いましては火薬が532,185キロ、爆弾の信管が185キロときたもんだ。凄まじい量である。筆者は最初、女性たちが手作業で運び込んだと聞いた段階で、火薬の量はそう多くなかったのかなと考えたものだ。だから、この具体的な数字を目にした時は目が点になってしまった。

 内容物についてもう少し詳しく述べよう。前述の火薬というのは「三号帯状火薬」である。綿に硝酸と硫酸を染み込ませ、アルコールとエーテルで練り合わせたものだ。これを25グラムぶんだけ亜鉛管に詰め込んだものがぎっしり木箱に入っており、これが先述の約53トンぶんというわけである。

 さあ、それでは米軍は、この厄介なブツをどう処理することにしたのだろう? 答えはこうだった。

「ヘイ、こんなもん燃やしちまえばいいのさHAHAHA!」

 このへんから暗雲が立ち込めてくる。まず11月8日、添田警察署で、火薬の数量が書かれた書類が米軍に引き渡された。これで実質、あのトンネルの中の危険物は全部米軍の管理物となったわけだ。

 そしていよいよ、運命の11月12日がやってくる。この日、占領軍のH・ユルトン・ユーイング少尉は部下を引き連れてジープで添田警察署に到着。火薬の焼却作業を行うので、手伝いに何人か寄越すよう要請してきた。

 はいはい、アメリカ様にゃ敵わねえ。警察官らも同行し、一行はまず吉木トンネルへと向かった。最初に述べた二つのトンネルのうちの片方である。こちらにも爆発物が詰まっている。

 ユーイング少尉率いる米軍の皆さんは、この吉木トンネルで、まず火薬への着火を実演してみせた。トンネル内の箱から火薬を取り出し、火をつける。当然火薬は燃える。爆発はしない。

「ヘイ、分かるか日本人諸君。火薬は火をつけたからって爆発するわけじゃない。てゆうか爆発の危険性は絶対ないから大丈夫」

 へえ、そうなんだ。でもそれじゃ火薬の意味ないんじゃないの? 絶対安全てことはないだろう――と筆者は素人なりに考えてしまうのだが、とにかくこれを鵜呑みにした警官たちは、付近の住民にもそのように知らせた。地域住民の皆さんもひと安心である(点火した時だけ住民を避難させた、という記録もある)。

 こうして、まず吉木トンネルの火薬が焼却処分された。導火線を仕掛けて着火すると、一同は移動を開始。次は二又トンネルのほうである。

 到着したのは、例の線路が途切れている北口のほうだ。入口から10メートルほど離れた場所から導火線を伸ばし、点火したのが15時頃。しばらく見守っていたが、これも爆発の危険性はなさそうだった。

「ヘイ、後は任せたぜ日本人。オレたちは帰るぜ」

 ユーイング少尉一行は、見張り作業を警官へ任せてジープで立ち去った。これが15時30分頃。

 見張りというのは、つまり付近の住民が近寄らないように……という趣旨である。ところがこのおよそ1時間後、もはやそれどころじゃない事態が発生した。トンネル内から火が吹き出してきたのだ。

 この火炎、最初はチロチロと細いものだったらしい。だが、これが次第に拡大して火柱のようになり、ついには付近の民家に燃え移った。

 おいおい、なんだこれ。爆発はしないって言ってたけど、火事になるなんて聞いてないぞ――!

 火災だヨ全員集合! というわけで火の見の警鐘が乱打され、住民たちが集まってきた。働き盛りの男性30余名である。

 後からはなんとでも言える。それは分かっている。だがあえて考えてみるなら、被害を最小限にとどめるチャンスがあったのはおそらくこの時だったのだろう。ここでなすべきは消火活動ではなかった。トンネルから火炎が吹き出した段階で、警官たちは住民を避難させるべきだったのだ。

 もうお分かりであろう。二又トンネル内の火薬が大爆発を起こしたのはこのタイミングであった。

 どぼずばああああああああああああああああああああああああん。

 はい、いつもより余計に回しております。この時の爆発音は、60キロ以上離れた福岡市や別府市でも聞こえたらしい。それどころかウィキペディアによると、地元の人々にとってそれは「大きすぎて聞こえない」ほどの轟音だったそうな。なんか、人間の聴覚の限界を超えるような音だとかえって聞こえないんだとか? そんなこと本当にあるのかね。

 こうなっては、直前に起きた火災などもはや瑣末事である。爆発によって巻き上げられた土砂が、岩石が、瓦礫が、降ってくる降ってくる。爆風で吹き飛ばされて命を落とす者、飛来物が命中して絶命する者、土砂により逃げる間もなく生き埋めになる者が続出した。周辺の建物は全壊、田畑は埋没、消火作業にあたっていた連中も、見張りに立っていた警官も、またどんぐり採集の帰り道だった落合小学校の児童なども巻き込まれて死亡。もうめちゃくちゃだ。

 最終的な被害状況は、以下の通りである。

●爆発日時 昭和20年11月12日17時20分(地元では15分と言われている)
●被害地 福岡県田川郡大字落合二又 丸山のトンネルを中心に約2キロ内外
●死傷者数145名(147名とも)
●負傷151名(149名とも)
●家屋被害 埋没9戸 全壊25戸 半壊28戸 破損70戸

 次第に土煙が収まっていく中、一命を取り留めた住民たちはトンネルのあった方向を見た。そして驚愕した。そこにあったはずの山がなくなっていたのだ。二又トンネルがあった場所を境にして、山は二つに割れたような形になっていた。

 添田警察署に連絡が入ったのは、爆発から5分後のことである。署長は署員を総動員し、救助活動を開始した。しかしこんな惨状では人手がそうそう足りるはずもなく、隣接の各部落にも応援を要請。よっしゃ任せろとばかりに救助隊がやってきたものの、救助も遺体収容も難航を極めた。

 最初、遺体や負傷者は小学校へ運ぶ予定だったらしい。だが校舎もおそらく爆風のためだろう、ガラスが割れまくっており人が入れる状況ではなかった。仕方なくむしろを敷いて道の傍らに並べたり、なんとか役場出張所の中庭あたりに置いておくしかなかった。

 無事で済んだ地元住民や、駆け付けた占領軍は手分けして怪我人を病院へ搬送。しかし終戦直後で物資不足の状況ではいかんともしがたく、カンフルはすぐにタネ切れ。病院へ担ぎ込まれた重症者たちは次々に息絶えていった。

 翌日、13日の早朝には県警の救援隊も到着。国鉄も職員を派遣し、ただちに線路の復旧作業にあたったという。こんな時に線路直してる場合かという声が聞こえてきそうだが、周辺の駅や線路が全てお釈迦になっていたのだ。救援活動のためにも、鉄道の復旧は最優先課題だった。

 記録によると、事故の翌日には雨が降ってきたという。降雨の中での土砂の除去と、増水した河川に浮かんだ遺体の収容は実にやり切れないものだったろう。

 米軍も、この爆発は自軍にも責任があると早い段階で判断したようだ。米軍小倉司令部のウォッチ中佐は、負傷者の入院している病院を訪問し、菓子の見舞いを贈るなどして慰問を行っている。また現場の視察も行ったという。

 そうそう、二又トンネルの爆発に対する米軍反応ということでいえば、報道管制のことを書かないわけにはいかない。はっきりしたことは不明だが、この事件は当初、完全に報道が規制されたらしい。なにせNHKや中央の新聞でもこれは一切報じられず、ようやく最初に報道されたのが事故発生から2日後の14日、それも地元の九州だけでのことだったのだ。

 おそらく米軍のスキャンダルになりうるということで、報道の仕方についてチェックが入ったのだろう。先述した中佐の慰問というのは、その管制が解かれたタイミングでのものだったのだ。

 さて。気になる爆発の原因だが、これは「爆弾の詰め込み過ぎ」だった。

 トンネルの容量に対して、搬入した爆弾が多すぎたのだ。火災発生から爆発に至るまでの化学的なメカニズムはよく分からないが、おそらくトンネル内の酸素が足りなくなってくすぶった状態だったのではないだろうか。それが酸素と結び付いて急激に燃焼、要するに爆発に至ったということだろう。

 ちなみに、同様に爆弾処理が行われた吉木トンネルは、40日間燃え続けてついに爆発は起こらなかった。こちらはトンネルの全容量中2割程度までしか爆弾が詰められていなかったが、二又トンネルは7割までいっちゃっていたのだ。

 これ、明らかに米軍のチェックミスだよなあ。2発の原爆に続いて、国内最大級の大爆発事故もアメリカさんによって引き起こされていることを、日本人は覚えておいてもいいと思う。アメリカ非難とかそういう意味ではなくて、歴史的事実として。

   ☆

 ここからは、その後の話である。

 敗戦からわずか3カ月。戦火に巻き込まれずに済んだ平和な田舎町が、まさか今になってこんな事故でほぼ全滅という憂き目に遭うなんて、あまりにも理不尽だ。福岡県は11月15日はさっそく戦時災害保護法の適用を決定、死者1人につき500円(現在の400万円相当)を支給した。

 また被害者たちの一部が復興委員会を結成、地元の復興を目指した活動を行い、国と県にさらなる救済要請を求めている。

(ちなみに当時、アメリカに対しては、こうした被害の補償を求めないのが一般的だったらしい)

 この復興委員会の活動の成果は、なかなかのものだったようだ。佐世保援護局から旧軍人の古着4,000点を譲り受けるなどし、昭和23年4月には慰霊碑を建立。合同慰霊祭も行っている。しかし金銭的な補償についてはふるわないまま、この委員会は解散した。

 さらに動きがあったのは、昭和23年の11月のことである。地元出身の弁護士の勧めがあり、被害を受けた16世帯が国を相手取って損害賠償請求を行ったのだ。

 訴えの趣旨は、こんな感じである。

「トンネル内の爆弾の量の危険性について、警察官はアメリカ軍の将校に伝えなかった。そのせいで爆発が起きたのであり、これは警察官の注意義務違反である」――。さあ、判決やいかに。

 1952(昭和27)年4月12日の第一審判決では、訴えは棄却された。「悪いのは警官じゃなくて占領軍だよ」という判決だった。

 しかし1953(昭和28)年5月28日の控訴審判決では、逆転勝訴。「責任は旧陸軍と警察官たちにある」とされた。

 そして最後の1956(昭和31)年4月10日には、最高裁判所は国の上告を棄却。住民の勝訴である。

 またこの裁判とは別に、1954(昭和29)年3月には日本政府の特別調達庁(のちの防衛施設庁)から全ての被害者に対して見舞金が支給されている。

 良かったじゃん、言うことないじゃん! ――と思われそうだが、ところがどっこい。この事故の補償についてはまだ紆余曲折があった。

 先述の裁判に参加できなかった遺族がいたのである。不参加の理由は簡単で、裁判費用が工面できなかったのだ。彼らは独自に遺族会を結成して、国に陳情を運動を行ったが、これは実を結ばなかった。なにせ日本国内で占領軍が狼藉を働きまくったせいで、当時日本は2,000件以上の陳情案件を抱えていたのだ。これだけ特別扱いするわけにもいかない。

 というわけで致し方ない。民事調停である。

 これは1957(昭和32)年1月25日に行われた。そして3月20日には調停が成立。遺族たちは裁判所から慰藉金を受け取り、遺族会も解散となったのだった。

 今度こそ良かったじゃん、言うことないじゃん!

 ――と思うだろうか。今そう思ったでしょ? と・こ・ろ・が、この後にトラブルが発生した。1961(昭和36)年11月11日に施行された「連合国占領軍等の行為による被害に対する給付金」の支給に関する法律のせいである。読んで字のごとく、戦後にアメリカ軍によって被害を受けた人々にお金が支給される法律だが、二又トンネル事故の被害者たちはこの対象にならなかったのだ。

 理由は、訴訟も調停も解決していたからだ。しかも調停に関しては、裁判所は遺族会に「申立人は今後本件についていかなる名義を以ってするも何ら要求をしない」という一札まで差し入れさせており、これをそのまま解釈すれば、もうお金はもらえないことになる。そんなのってありか。

 というわけで遺族会は再結成。地元の有力者の協力も得て国に請願と陳情を繰り返した。だが当然というべきか、国はなかなかウンと言わなかった。

 だが最終的には遺族会の粘り勝ちだった。1963年、国は防衛施設庁長官や法務省の訴訟課の意見などを踏まえて、法律の適用を決定した。すべての遺族たちが救済金を受け取れることになったのだ。まったく天晴れな話である。

 しかもしかも、1967(昭和42)年1月18日にはこの法律が改正され、遺族たちは1970(昭和45)年にさらに追加金の支給まで受けている。よかったよかった。もっとも、ここまでで支給されたお金の総額は、爆発事故の被害総額の3パーセントにも満たないものだったそうだが――。そしてこの遺族会に協力した弁護士や地元の有力者たちというのも、この支援活動には全くの無給であたったというから大したものである。

   ☆

 さて、二又トンネルを吹き飛ばし、そして添田集落を見事に壊滅させてくれたH・ユルトン・ユーイング少尉はどうなったのか。

 軍法会議が行われたのは、事故直後の1946(昭和21)年2月4日のこと。場所は小倉である。かつて旧陸軍将校の集会所だったという建物で少尉の処遇は決められた。

 実はここで、情報に食い違いがある。ウィキペディアでは「降格・不明除隊」になったとあるが、『事故の鉄道史』によると「免官降等」で一兵卒の身分になり本国へ送還されたともある。こんな調子なので、本当のところがどうなのかは不明である。

 ちなみに、事故の被害者たちに対して、アメリカは現在まで一切の補償を行っていない。

   ☆

 こんな凄まじい事故であるが、ようやくその詳細が明らかになったのは18年後の1963(昭和38)年のことだった。よく分からないが、最初の報道管制の影響が続いていたのだろう。10月に発行された「サンデー毎日」でトップ記事として扱われたことで、福岡県外の人々もやっとこの大惨事のことを知るに至ったのだった。

 今でも、JR日田彦山線彦山駅には、爆発で受けた傷跡が残っているという。また当時、二又トンネルの手前までしか敷かれていなかった鉄道も1956年には開通し、かつてトンネルのあった場所は今でも一日数本の列車が行き来している。吹っ飛んだ山の形もそのままだそうな。

 ちなみに彦山駅からトンネル跡を経て、さらに進むと「爆発踏切」という笑うに笑えないネーミングの踏切があるらしい。このあたりの情景については、ネットで検索すると結構見つかるので興味のある方はどうぞ。

 二又トンネルと同じ日に火薬処理がなされた吉木トンネルは、今も残っている。ただし名前は深倉トンネルとなっており、なかなか当時の面影を探すのは難しそうである。もっともこの周辺地域では、今でも工事などで地面を掘り返すと、爆発で飛び散った砲弾の破片やら信管やらが見つかるらしいが――。

 かように知る人ぞ知る事故であるが、これを題材にした文芸作品も存在する。ひとつが、作家の佐木隆三が書いた「英彦山爆発事件」。それから佐々木盛弘氏の書いた『三発目の原爆』という絵本で、佐々木氏はこの事故で全身を負傷、家族を失った方だという。

 これが日本最大の爆発事故である。二又トンネルは当時の運輸相の所管に関わるため、これを鉄道事故のカテゴリに分類することも可能かも知れないが、やはり当研究室では爆発事故として記録しておきたい。

【参考資料】
◆『続・事故の鉄道史』佐々木 冨泰・網谷 りょういち
◆ウィキペディア

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