◆夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)

 前代未聞のケースである。炭鉱内の火災を消し止めるため、坑内に取り残された安否不明の人々を「見殺し」にする形で水を流し込んだのだ。

   ☆

 1975(昭和50)年に出炭が始まった、北海道の夕張新炭鉱はまさに鳴り物入りの炭鉱だった。

 石油危機を背景に、エネルギー政策上の起死回生を狙って国も援助を注ぎ込んだのである。いわゆる「ビルド炭鉱」だ。最新の設備と規模の大きさは、斜陽化が進んでいた石炭産業にとっても、また夕張市にとっても大きな期待を寄せるに充分なものだった。

 国内最後の、最有望炭鉱――。そんな風に呼ばれもしたものの、労働環境は劣悪だった。夕張北炭鉱の坑内はもともと断層が多く、さらに地圧も高いので坑道の悪化が早い。さらに高温多湿で、気温が常に36度以上、湿度が100パーセント以上という地点も数多くあったという。

 よって脱水症状で倒れる者が頻発した。結果、生産はいつまで経っても計画を上回らない。しかし会社側は早く掘れ、もっと掘れと急き立てる。まあよくある悪循環である。目標である「年産2千万トン体制の維持」に貢献できなければ援助しないよ、という国の脅しもあったというから、会社側も必死だった。

 こうした利益優先、人命軽視の傾向の中で起きた事故である。経過を見ていくことにしよう。

 1981(昭和56)年10月16日、昼の12時40分頃である。昼休み時だった集中監視室で警報ブザーが鳴った。炭鉱内でガス漏れが発生したのだ。ここで言うガスとは、メタンガスのことである。

「北五盤下だ!」
「連絡を急げ、何人いる!?」

 のんびりしていた監視室が、瞬時に緊張に包まれる。

 北五盤下というのは、「北部第五区域」の地表約千メートルの地点を指す。そこからは来年1月より出炭する予定で、95人の作業員が7箇所に分かれて掘進作業に当たっているところだった。

 当時、坑内で作業をしていた電気係員の男性は以下のように証言している。彼は現場から少し離れた場所にいた。

「最初、耳鳴りがしたのでおかしいと思っていたら約5分後、太鼓のような音と地響きが数回続いた。排気側に逃げようとしたら炭塵が吹き付けてきたので、そばにあった救急バルブの中に頭を突っ込み、新鮮な空気を吸いながらガスの薄まるのを待った。

「午後3時過ぎ、ガスが晴れたようなので、仲間16人と斜坑から自力で脱出した。救急バルブは通常一人用だが、3、4人が一緒に頭を突っ込むなど、生きた心地がしなかった」

 坑道では、メタンガスは壁面の目に見えない程の小さな割れ目から突然噴き出してくるという。炭鉱夫たちはその前兆として、坑内に大きな音が響き渡るのを「やま鳴り」と呼んでいた。

 30年前の事故である。坑内と外を繋ぐ連絡手段は無線だけという、今の時代から見れば驚くほど不便な通信状況だった。炭塵で顔を真っ黒にした作業員達がエレベーターで地上に避難して来るたびに、安否確認のために集っていた家族達はどっと駆け寄ったという。

 だが同時に、タンカに乗せられ毛布をかけられた遺体も次々に運び出されてきた。

 監視室からは、坑内の全箇所に避難命令を発令。会社側では直ちに救護隊を出動させ、負傷者の救出に当たり始めた。

 最初のガス噴出から約10時間後たった午後10時20分の時点では、作業員160名中77人が脱出し、32人の遺体が収容されている。坑内にはまだ行方不明者、生存者、死傷者、救護隊の面々が残っていた。

 だが――

「坑内に煙が出た!」

 これが、坑内に残っていた救護隊員の最後の言葉となった。ガスに引火し火災が発生したのだ。

 この炭鉱では、機械の電気については保安対策上の対策が施されていたから、引火の原因は静電気であろうと言われている。直前まで生存が確認されていた15人も、救護隊10名も、ここで無線が途絶えたことで完全に安否不明になった。

 この後はもう、どうしようもなかった。坑内ではガス濃度や温度は上昇するわ、新たな小爆発は起きるわ、煙は噴き出してくるわで、まともな消火活動や救出活動などとても考えられないような状況に陥ったのだ。

 そんな中、会社側はさり気なく方針を「救助」から「鎮火」の優先へと切り替え、坑道への通気を遮断する作戦に出た。だがこれも大した効果はなく、鎮火のためには坑内へ水を注ぎ込む他に方法はないように思われた。

 実は会社側の社長は、かなり早い段階で「あまり手が付けられないなら水を入れることも考えている」と発言していたため、被害者家族の怒りを買っていたところだった。だがこうなってくると「注水作戦」もいよいよ現実味を帯びてくる。

 想像するだに憂鬱な話である。注水を許可する同意書にハンコをもらうため、会社の人々は家一件一件を回った。「注水を許可する同意書」とは言っても要するにそれは「見殺し許可証」みたいなもので、未だに家族が安否不明のままの人々にとってはたまったものではない。ひと悶着もふた悶着もあって、ようやく注水の段取りは整った。

 10月23日、午後1時半。サイレンが鳴り響く中、坑内への注水は開始された。雷鳴とみぞれの中での注水作業だったという。

 前夜の豪雨で夕張川の水は汚れており、赤茶けた水が海面下800メートルの炭鉱に注ぎ込まれて行く。1分間サイレンが鳴り響く中、夕張市とその周辺の住民達は、大人から子供までが黙祷を捧げた。

 この時、坑内に取り残されていた安否不明者は59人。注水と排水を交互に行った後、遺体がようやく全て回収されたのは、事故発生から163日後の1982(昭和57)年3月28日のことだった。死者数93人。日本の炭鉱事故としては史上3番目の規模である。

 注水という決断を下した当時の社長は、その後手首を切って自殺を図った。一命は取りとめたものの、その後人知れず退社したという。

   ☆

 ガス突出の直接の原因ははっきり分からないが、恐らくガス層を発破で破壊してしまったためだろうと言われている。当時の夕張は天気の変化も目まぐるしく、急激な気圧の変化でガスが出やすかったようだ。会社は平素からガス抜きの作業を怠って採掘を優先させていたというから、これは起きるべくして起きた大惨事だったと言えそうである。

 なんにせよ会社側への責任追及は免れ得ない。全ての遺族に対して弔慰金を払い、さらに裁判では原告側と和解したものの、和解金も払うことになった。

 だが刑事でも民事でも、会社側がそれ以上の責任を問われることはなかった。民事は今書いた通り和解に漕ぎ着けているし、刑事でも84年には証拠不十分で業務上過失致死傷の適用はならず、と結論づけられている。

 最終的に、夕張新炭鉱は閉山した。最後の遺体が回収されてからおよそ半年後の82年10月のことである。この鉱山を管理運営していた「北炭」は、その前には会社更生法を申請していたが、95年には管理していたほかの炭鉱も全て閉山となり倒産している。

 だがこの事故は、いち鉱山会社が人命軽視と利益優先のために引き起こした単純な事故、とは言い切れないところがある。

 普段からガス抜きの作業を行っていれば事故は未然に防げた――というのは事実その通りだと思うのだが、ガス抜きの穴を開ける1本のボーリング費用でも数千万円から一億円はかかるという。保安対策と採算性のバランスをどう保てばいいのかは極めて難しい問題であっただろう。しかし国は無駄をなくせ合理化を図れ、採算が合わなければもうお金貸さないよ、と迫ってくるのである。

 そう、問題は国の政策である。

 事故が起きる直前には、国は制度融資として200億円以上を貸し付けることを決めていたという。だがこの頃は国の政策も「脱石炭」へと舵切りがなされていた時代でもあった。事故後、最初は「再建可能」と見なされていた夕張新炭鉱だが、国は不採算の不良炭鉱として切り捨てにかかったのだった。手の平返しである。かくして生き残った炭鉱夫たちも職を失い、それをきっかけにして全国の「不採算炭鉱」は潰されていったのである。

 こうした国の方針を後押ししたのは、原子力の活用を推進する電力業界や鉄鋼業界の声であった。

 このように、国のエネルギー政策の変遷を背景として見ないと、この夕張新炭鉱事故の事故の相貌というのは分からないのではないかという気がする。

【参考資料】
◆ウィキペディア
◆朝日新聞
◆北海道新聞ウェブサイト
◆増谷 栄一『昭和小史 北炭夕張炭鉱の悲劇』彩流社

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