時は1954年(昭和29年)1月26日のこと。
事故が起きた場所は、福井県福井市、和田中町弁天である。
参考資料によると、この現場は同じく福井県の足羽郡「酒生村」にある「稲津橋」という橋のさらに下流にある地域なのだそうだ。だからどうした、とも思うのだが、とにかくそう書いてあった。その位置関係になんの意味があるのかは不明である。
朝の午前8時30分頃だった。福井県営のバスが、65人の通勤客を乗せて走行していた。上池田村の稲荷発・福井行きの始発である。
ところがこのバス、一体なにを急いでいたのか、前方を走っていた車に対して猛然と追い越しをかけた。きっと「ちんたら走ってんじゃねえ!」という感じだったのだろう。だが1月といえばまだまだ冷えも厳しい。道路は9センチほど雪が積もっていた上にマイナスの気温で凍結しており、本当はちんたら走るほうが正解だったのである。バスはたちまちスリップし、ハンドルも利かなくなってしまった。
さらにこの時の乗客数は65人。定員は42人だったというから無茶な話で、それではひとたびスリップすればブレーキは利きにくくなるだろうし、またバランスを崩せば元に戻れなくなるのも当然である。バスはあっという間に、3メートル下の川だか排水溝だかに落下していった。
おそらく坂になっている土手で横転する形にでもなったのだろう、1回転半したという。
死者は11人。中には車掌も含まれていた。
問題は運転手が何を急いでいたのか、である。だがこの事故はこれ以上の詳細は不明で、とにかく雪道での無茶な追い越しといい定員オーバーの状況といい、「なにかあったんだろうな」と推測するしかない。話によると、当時の乗客の中には、翌日に高校の学力試験を受けるために10名ほどの中学生も乗っていたという。運転手が急いでいたのはそれと関係があるのかも知れないし、ないのかも知れない。
【参考資料】
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』