◆天竜川バス転落事故(1951年)

 1951年(昭和26年)7月15日、午後1時頃のことである。

 場所は静岡県磐田郡浦川町川合の県道だった。一台のバスが道路から20メートル下の天竜川へ転落し、死者21~30名、負傷者4名という大惨事が発生した。

 この事故の経緯は、どことなく後年の飛騨川バス転落事故と似ている。きっかけは悪天候で、国鉄飯田線の浦山-佐久間間の列車が不通になったことだった。浦山で足止めを食ってしまった乗客を、2台のバスに分乗させて運んでいる最中の悲劇だった。

 2台あったうちの国鉄臨時バスのうち、1台が急カーブを曲がり切れなかったのである。しかも地盤が脆くなっていたのも災いし、先述の通り天竜川へ転落。その上当時の天竜川は雨で増水しており、水深も10メートルに達していたというから実に間が悪い。バスはたちまち流され、水没し、ずいぶん長い間行方不明だったそうで、発見されるまでには3年の月を俟たなければならなかった。

 さてこの事故、最初に「死者21~30名」というひどく曖昧な書き方をしたが、それは上記のように事故車両がしばらく発見されなかったこととも無関係ではない。とにかく何もかもが水没してしまったせいで正確な乗客乗員数も犠牲者数もまったく分からず、報道機関はそれぞれ勝手に「推理」を働かせて犠牲者数を報じたのである。

新聞記者「編集長、犠牲者数が分からないっす!」
編集長 「バカお前、当時バスは満員だったんだろ。定員プラス乗員2名てことで37人乗ってたってことじゃないか。生存者は何人だ? 7人? じゃあマイナス7で犠牲者は30人だな」
新聞記者「ええーマジっすか、それでいいんですか? 生存者9名なんて情報もあるっすよ。乗員ふたりも助かったそうですし」
編集長 「だったら死んだのは28人か。いや26人? えいくそ、ややこしいな」

 ――翌日――

新聞記者「編集長、国鉄の発表がありました!」
編集長 「おう、それで正確な犠牲者は何人だ」
新聞記者「死者2名、生存者8人、行方不明15人、乗車未確認10人だそうです!」
編集長 「よしじゃあ決まりだな。やっぱり定員35人ぶんか!」
新聞記者「でも名鉄局の事故対策本部は死者1人、生存者7人、身元不明の行方不明者23人って報告を受けてるそうです」
編集者 「身元不明の行方不明者って、なんか論理的におかしくないか? まあいいや。で、どの発表が正しいんだよ」
新聞記者「分かりません」

 ――翌々日――

編集長 「引っぱるなあ。で、今日の発表ではどうなった?」
新聞記者「国鉄によると死者2名、行方不明19名、行方不明1人だそうです」
編集長 「なんだ昨日とずいぶん変わったな」
新聞記者「警察は死者2名、行方不明26名、行方不明4人って言ってますね」
編集長 「もうどうでもよくなってきたよ」
新聞記者「まったく、マスコミなんていい加減なものっすね!」
編集長 「お前が言うな」

 などというやり取りがあったかどうかは不明だが、けっきょく本ッ当に最終的に収容された遺体は21名分。これは間違いないようだ。そして行方不明者はまあ7名というのが妥当なところらしく、犠牲者は28名ということでここでは「定説」としておこう。

 ついでに言っておくと、行方不明者のうちの2名は、後に発見されたバスの中から見つかっている。

 バスは不明、死者数は不明と、なんとも混沌とした事故である。

 現在は、現場になった道路の脇に「供養之碑」が建てられているという。

【参考資料】
◆各種ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/takeshihayate/14429335.html
http://yama-machi.beblog.jp/sakumab/2008/12/267-1436.html
http://63164201.at.webry.info/200904/article_13.html

back

スポンサー