その日の夜、ホステスのA子はボックス席につき、お客の中年男性と一緒に盛り上がっていた。
その客は今までにも2、3回この店に来たことがあった。今では立派な御馴染みさんである。
地上7階にあるアルバイトサロン「プレイタウン」でのことである。
プレイタウンの週末の夜は盛り上がる。週休二日制など夢のまた夢という時代、土曜の夜は仕事帰りのサラリーマンたちで賑わうのだった。
ステージ上では、この日最後のショウが終わったところだった。バンドマンと踊り子が、拍手を受けながらいったん舞台の奥へと引っ込んでいく――。
だがプレイタウンの人々にとってはまだまだ宵の口である。この後にもバンドの演奏は続き、プレイタウンの夜は更に盛り上がる、はずだった。
時刻は22時40分のことである。ふと、バンドマンの演奏が止まった。
それと併せて、店内もどことなく奇妙な雰囲気に包まれる。ステージの近くのキッチンあたりで、数名の人間がうろうろしているのだ。
「なんや?」
プレイタウンの人々は、そちらに目を向ける。
よく見れば、男性従業員たちは消火器を持ってきたり、バケツで水をかけているようだった。
さらに、異変はそれだけではなかった。
「焦げ臭くないか」
「なんか匂うぞ」
煙の匂いが、店内に漂い始めたのである。
「火事やないかしらん」
まだ客とボックス席にいたA子は、思わずそう口にした。
「えっ火事、そらあかん。わても帰ろか」
お客は慌てて立ち上がろうとする。一応A子はそれを引き止めた。
「わて見て来ますねん……」
そして席を立ったが、やはりよく分からない。男性従業員達は消火活動をしているように見えるが、なぜ消火器やバケツの水で消えないのだろう?
火のないところに煙は立たぬ。何かが燃えて煙が上がっているのは確からしいが、そもそも何が燃えているのか? 火事の現場はどこなのか? しかしA子はその答えを得ることはできなかった。炎などどこにも見えない。
彼女はもとのボックス席に戻った。
「やっぱり、帰ったほうが無事やわ」
「ほなそうするか。おあいそしまひょ」
中年のお客は、そう言うと改めて席を立った。
A子に付き添われながら、お客はレジへ向かう。だがそこは既に人でいっぱいで、お勘定は簡単に済みそうになかった。
ざわざわ。ざわざわ。
(様子が変や)
誰もがそう思ったに違いない。この時、多くの人が異変を感じており、プレイタウンからの「脱出」を考えていたのである。
だがこの時までは、少なくともパニックはなかった。事態が急展開し始めたのはこの直後からである。店の出口から、突如として黒煙が進入してきたのだ――。
それは、さっき白煙が漂ってきていたキッチンとは正反対の方向だった。プレイタウン内部はあっちからも煙、こっちからも煙という状況に陥ったのだ。
「火事や!」
「助けて!」
黒煙に追われるようにしてプレイタウン内に戻ってきたのは、さっき店から出たばかりの一群だった。どうやら黒煙はエレベーターの竪穴を伝って上ってきたらしく、もはやエレベーターからの脱出が不可能なのは明らかだった。
非常階段もあるにはあるが、煙で充満しているエレベーターホールの奥にある。そこに辿り着くのは到底無理だ。
そうこうしている間に、キッチン方向からの白煙も、いよいよ本格的な黒煙に変わっていた。プレイタウンの温度も高くなってきている。
依然として炎はどこにも見えない。しかしとにかく、この建物のどこかが燃えているのは明らかだ。
「こっちや、こっちにベニヤの仕切りがある。それを破れば逃げられるはずや!」
その時そう叫んだのは、古参のボーイだった。彼はたった今、お客たちをエレベーター方向へ誘導したはいいものの、けっきょく黒煙に追われプレイタウン内に戻ってきたのだった。
ベニヤ板を破るというのは、この場合苦肉の策だった。当時プレイタウンの隣では、千日激情という施設の改装工事が行われていたのだ。両者の間はベニヤ板一枚で区切られているはずだったので、それを破れば逃げられると考えたのである。
ところが、壁を覆っていたカーテンを開けたボーイは驚愕した。ベニヤ板だったはずの仕切りが、いつの間にかブロックに変わっていたのだ。
「なんやこれ、これじゃ逃げれへん!」
しかし彼の後ろに続いていた人々は、すでに冷静な判断力を失っていた。
「こっちから逃げられる言うたやないか!」
げに恐ろしきはパニックの心理である。多くの者が、そのブロック積みの壁を壊しにかかったのだ。しかも素手で。
なんや何やっとるんや、そないなことでブロックの壁が壊せるかい! ボーイは突っ込みを入れようとするが、もはや煙のせいで声も出ない。たまらず、他の数人と一緒に群集の中から脱出した。
こうしてプレイタウンは恐慌と混乱に陥った。どこかに突破口はないかと、人々はすがるものを探して右往左往し始める。その顔には一様に恐怖が貼り付いていた。
そこで、中央階段に通じるシャッターを開けようとしている者がいた。プレイタウンのマネージャーである。
なるほど、中央階段は屋上へ通じている。そのシャッターが開けば首尾よく脱出できるはずだ。
よっしゃ協力したろ。パニック集団から脱出したばかりのボーイは手を貸してやった。シャッターは電動式で、開閉ボタンを押してやるとすぐに開いた。
そしてゆっくりとシャッターが開いた……のだが、その向こうから現れたものを見て人々は悲鳴を上げていた。黒煙である。さらに大量の黒煙が、中央階段から流れ込んできたのだ。
出入口という出入口から流入してくる煙、煙、煙。もう逃げ場はない。
時刻は22時49分。ここで停電が起き、プレイタウンは暗闇になった。
ある者は怒号を上げ、またある者は何事かを叫んだ。しかしその誰もが、次の瞬間には呼吸とともに一酸化炭素中毒の餌食になっていった。煙の中、人々は倒れ、室内はたちまち静かになっていく。
さてA子である。彼女はこの猛煙の地獄の中で、窓へ向かっていった。
あの馴染みの中年客も一緒である。
人々がパニックに陥っている中を、二人は必死にくぐり抜けた。とにかく外気を吸わなければいけない、でなければ死んでしまう――。
何枚かの窓は、すでに破られていた。幾人かが外に顔を出して助けを求めている。
先述した通り、プレイタウンは7階にある。窓があるからと言って簡単に飛び出せるはずもない。人々は上半身を外へ突き出し、外気を吸おうとするので精一杯だった。
A子も、馴染み客も、もちろんそうした。
しかし煙はとてつもなかった。身を乗り出して外気を吸った途端、そうはさせまいと、背後から煙が覆いかぶさってくるのだ。目が痛い。喉も痛い。意識は朦朧とし、それでもなんとか空気を吸い、それで覚醒したかと思えばまた猛煙で失神しそうになる。この繰り返しだった。
もうアカン、と言わんばかりに窓枠を乗り越えたのは、A子と一緒にいた馴染みの客だった。
飛び降りる気か!?
ところがそうではない。なんと彼は、煙を避けるために建物の外の壁に張り付いたのだった。
A子にはそんな芸当はとても無理だ。窓から身を乗り出して失神寸前で助けを求め続けるしかない。
この時には、眼下の道路には消防車と野次馬が集まっていた。救助に来てくれている――! プレイタウンの人々は手やハンカチを振る。
「これや、これを使うといいはず」
一人の従業員が、思い出したように「救助袋」に取り付く。窓際に据え付けられたそれを外すと、地上へ投げ下ろした。
「救助袋」とは、長い袋状になった救出器具である。袋にもぐり込むと、そのままトンネルの滑り台のように地上に到達するという仕組みだ。
ところがこの火災では、この救助袋がかえって仇となった。従業員がこの袋の正しい使用法を知らなかったのか、人がもぐり込むための穴が開かれなかったのだ。せっかくの救助袋も、これではただの布の紐である。
それでも煙にまかれている人々にとっては、これが唯一の命綱だ。多くの者がこれにしがみつき、ぶら下がって、脱出を試みる。しかし使用法が正しくないのだからまともに脱出できるわけもなく、ほとんどが途中で墜落した。
「あかん、あれはダメや。あれやったら死んでしまうだけや」
A子のこの判断は適切だった。
この時、地上からは、野次馬たちが救助袋の下の部分を支えて必死に叫んでいたという。「袋にぶら下がるな! 中にもぐり込め!」と。
だが地上7階で意識朦朧となっている人々には、彼らが何を言っているのかは全く分からなかった。中には、野次馬から笑われているように聞こえて腹が立ったという者もいたほどだ。
救助袋による落下が引き金になったのか、この辺りから、煙に耐えかねて墜死する者も大勢出てきた。
ものの本によると、人はこういう時には高さの感覚が分からなくなるという。眼下に見える町の明かりがやけに近くに見えて、今この地獄にいるよりは……、と身を躍らせてしまうのだとか。
また地上7階からは、飛び降りた者がどうなったのかははっきりと分からない。あるいはそれで助かるのかも知れない、という一抹の期待が窓枠を乗り越えさせてしまうのだ。
こんな状況の中で、A子はとにかく耐えた。
彼女の足元では、煙によって昏倒した人々が何十人も横たわっている。ついさっきまで酒宴で盛り上がっていたはずの同僚のホステスやお客たちだ。また意識のある者も、次々に地上へ向けて飛び降りていくのである。まったく、悪夢以外の何物でもない状況だった。
やがて、待望の梯子車が、彼女のそばへ梯子を伸ばしてきた。
このルポで先に登場したボーイやマネージャーは、この梯子によって助け出されている。
しかし困ったことにこの梯子、なぜかA子のいる窓にはなかなか来てくれなかった。隣の窓で止まったままだったのだ。
ここで彼女は最後の試練を与えられたのだった。あの窓へ移動すれば助かる――。
しかし、たかが隣の窓への距離と言っても、室内は煙と熱気に満ちた地獄である。彼女にはこれは何よりも長い距離のように思われたに違いない。床の上を転がり、あがいて、もがきながら、彼女はようやくそこへ辿り着いた。
そしてようやく助け出されて梯子を降りようとする時、彼女はあることに気付いた。
あの馴染みの中年男性客が、まだ窓のところにしがみ付いていたのだ。
この男性客の体力も大したものだが、A子の気丈さにも舌を巻く。彼女は、煙を吸ったためほとんど声が出ないというのに、しわがれた声でこう叫んだのである。
「あんさんも来なはれ。このままでは死んでしまう」
2人は無事に生還した。
☆
これは1972年(昭和47年)5月13日の出来事である。
この日の夜、大阪・ミナミで発生したこの火災は、その煙の恐るべき威力によって118名もの人々を死に至らしめた。
さらにこの翌年には大洋デパートで103名が死亡する大火災が発生し、ついに消防法は大きく改正されることになるのである。
こうしてこの建物は、日本の火災史を語る上で欠くことのできない悪名を歴史に刻み込むことになったのだ。
その名は千日デパート。
ここでの死者数は、日本の高層建築物の火災としては、今でも右に出るもののない数字である。
【参考資料】
◆安倍北夫『パニックの心理』講談社現代新書
◆岸本洋平『煙に斃れた118人』近代消防ブックレットNo.7
◆ウィキペディア
◆失敗知識データベース
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