◆日比谷音楽堂コンサート事故(1987年)

 1987(昭和62)年4月19日に起きた事故である。

 東京都千代田区、日比谷野外音楽堂は多くの観客でごった返していた。パンクロックバンド「ラフィン・ノーズ」のコンサートが行われるのだ。3千席が、ほとんど十代の若者で埋まっていた。

 今の若い人は、ラフィン・ノーズと言われてもピンと来ないかも知れない。筆者もそうだった。

 このバンドは、かつて有頂天、ウィラードと並び「インディーズ御三家」と言われていた。大槻ケンヂや銀杏BOYZの峯田和伸、タレントで歌手の千秋などにも影響を与えたとか。

 筆者は筋肉少女帯は好きだ。だがロック史はよく知らないので、「へー」という感じだ。

 当時は、売り上げでも日本のロックグループの十指に入る程の人気だったという。反権力的なイメージで、「80年代のキャロル」と呼ぶ向きもあったとか。熱狂的なファンも多かったようで、事故当日は2日前から野宿して開場を待っていたファンもいたという。

 事故はこのコンサートで起きた。

 演奏開始は午後6時半(7時という資料も)。しばらくの間は、何事もなかったようだ。

 だが4曲目に差しかかった時のことだった。一部のファンが写真を撮ろうとした。これを見た後方のファンが、自分も前に出ようとした。そして、熱狂していた彼らは、ステージ上にまで上がった……。参考資料の言葉をつなぎ合わせると、経緯はそんな感じだったらしい。

 それにしても、ファンが「写真を撮影しようとした」ことが、なぜ「熱狂してステージに上がる」ことにまで繋がるのかよく分からない。筆者はちょっとしたライブ程度なら行ったことがあるが(パーキッツのやつだ)、コンサートというのはよく分からない。きっとそういう場の独特の空気というものがあるのだろう。

 こうして、将棋倒しが発生した。

 コンサートは中断。ラフィン・ノーズのメンバーが、後ろに下がるように客席に呼びかける。それで人の波は引いたものの、ぐったりしたファンが何人かステージ上に担ぎ上げられていた。

 さすがに演奏どころではない。コンサートは7時15分に中止となった。

 この日の夜、男女2名が収容先の病院で死亡。その後、重態だったもう一人の女性も死亡し死者は3人となった。全員が十代だった。負傷者は26人に上った。

 会場の警備は、一応それなりに行われていたようだ。当時の新聞の速報を読むと、80人の警備員が組織され、観客の誘導や周辺警備がなされており、さらにステージ裏にある詰所で3人の職員も警戒にあたっていた――とある。

 しかし現在、ネット上の情報を拾い集めると、当日は主催者側のスタッフが配置されていただけで、いわゆる「警備員」はいなかったらしいという話もある。

 ラフィン・ノーズは、この事故をきっかけに活動を中止した。

 パンクロックバンドという肩書きゆえだろうか、当時は「お前たちのせいで事故が起きたんだから責任を取れ」という趣旨のバッシングもあったようだ。活動を中止したというよりも、中止に追い込まれたと言えるかも知れない。

 現代の目線で見ると理不尽な気もするが、彼らが観客を煽った部分もあったのだろうか? 今となっては想像するしかない。

 その後は、ファンの希望で復帰して、解散したり活動を再開したり、メンバーがトラブルを起こしたりと、色々あったようだ。今も活動はしているみたいである。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
インディーズ御三家のひとつラフィン・ノーズが起こした事故と現在
Laughin' Nose伝説13 - So-net
ラフィン・ノーズHP
◆ウィキペディア

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