◆日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)

 まず最初に、1952(昭和27)年当時の日暮里駅の状況を説明しておこう。

 と言っても、もちろん筆者は実際に見てきたわけではないし、現在の日暮里駅も行ったことがないので当時と今の比較もできない。ただ、当時の図面を説明するだけだ。

 ざっくり書こう。東から順に「京成電車ホーム」「常盤線ホーム」「東北線上りホーム」「東北線下りホーム」「電車線(山手線のこと?)ホーム」の5つのプラットホームが並んでいる。それぞれ南北に延びており(南が上野方面、北が大宮方面)、当然各ホームの間を、線路が走っている。

 このうち、常磐線ホームから電車線ホームまでを横断する形で繋いでいる「南跨線橋」で事故は起きた。

 1952(昭和27)年6月18日、午前7時40分頃のことである。

 国鉄・日暮里駅構内の南跨線橋は、どうしたことか、朝っぱらから超満員のすし詰め状態になっていた。

 なんだなんだ、一体全体何が起きた。朝の通勤時間で、混雑自体は珍しいことではない。だがこの日の人の量はちょっと異常だった。

 実はこの日、日暮里駅では臨時停車や運行停止の電車が相次いでいたのである。

 最初のきっかけは、未明に起きた上野駅の信号所での火災だった。これによりポイント操作ができなくなり、京浜東北線の上り電車が臨時停車したのだ。

 さらに他の電車でも、車軸が破損して運行中止というトラブルが発生した。

 正直このへんの経緯については、ちょっと分かりにくい。資料によって路線の書き方がまちまちなので、どの路線の列車がどういう理由で停止したのか、鉄道の素人にはうまく読み取れないのだ。とにかく結論を言えば、上記の事情から合計4本の列車がストップしていたのである。

 もちろん乗客たちは、ストップしたからハイそのまま待機、というわけにもいかない。出勤時刻は迫っている。しかも季節は梅雨で、車内は冷房もなく暑苦しい。さしずめチャイルズクエストで言えば、フマンドパラーメータ90%といったところだ。

 そこで駅は判断した。

「乗客をいったん下ろそう!」

 こうして乗客たちは蒸し暑い車両から解放されたわけだが、もちろん涼んでいる余裕などない。今動いている電車はどれだ、山手線か、じゃあそっちに乗り換えよう――! というわけで、あっちのホームに移動すべく、みんなで南跨線橋に押し寄せたのだった。

 こうして、跨線橋は尋常でない状態になった。この稀有な密集ぶりはさすがに駅も放っておけず、駅長自らが現場に赴いて人の整理に当たったという。

 しかしそれでも、幅2.5メートルの通路は押し合いへし合い。木造の跨線橋の壁に不穏な圧力がかかり始める……。

 ところで読者諸賢は、『岸和田博士の科学的愛情』というギャグマンガをご存知だろうか。あれで、実験台にされそうになって逃げ回る助手の安川君が、複数人で研究所の壁を突き破るシーンがあった。午前7時45分、ここで起きたのはまさにそういう事態だった。

 跨線橋の一番端っこである西側(電車線ホーム側)の壁が、群集の圧力でボガーンと吹っ飛んだのである。そして十数名が7メートル下の線路に落下した。

 それだけなら、死者は出なかったかも知れない。だが、そこへ京浜東北線の浦和行き(大宮行との資料もあるのだが…)電車が通りかかった。現場手前には急カーブがあったため、運転士が気付いた時にはもう遅い。これに撥ねられ6名が即死、8名が重軽傷。うち2名が後に死亡し、合計8名が死亡という結果になった。

 大惨事である。電車の運行ストップの事態といい、電車の通りかかったタイミングといい、この日の日暮里駅は呪われていたとしか思えない。

 壁が破られた跨線橋は、1928(昭和3)年に作られたものだった。資料を見ると、老朽化していたとか破損箇所があったとかいろいろ書いてある。

 それだけ読むと「ああやっぱりか」と頷きたくなるところだ。しかし実際にはそれほどヤワでもなかったようだ。主要な部分は鉄筋コンクリ製だったというし、耐用年数は40年くらい想定されていたそうだ。

 やはり当時の混雑、ぎゅうぎゅう詰めの状態が異常だったのだろう。そんな印象もあり、ウィキペディアでは鉄道事故のカテゴリで括られているこの事故は、ここでは群集事故の一種とさせてもらった。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
参議院会議録情報 第013回国会 運輸委員会 第31号
◆ウィキペディア

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