昭和30年代は、とにかく花火事故が頻発していたらしい。
武藤輝彦『日本の花火のあゆみ』によると、その中でも特に多いのが花火工場での事故であるという。記録では、昭和30年代は毎年10件以上も花火工場が爆発しており、年間10人前後が死亡、負傷者もひどい場合には200人以上に上っていたらしい。
んで、今回ご紹介する上郷村(かみさとむら)花火工場爆発事故も、そんな事故の一例である。
時は1959(昭和34)年5月29日。長野県、下伊那郡上郷村の別府地区で事故は起きた。午後2時25分、花火を製造中だった「内山煙火製造所」がいきなり大爆発を起こしたのだ。
どぼずばああああああん。
この爆発で、まず工場の敷地内にあった建物9棟があっという間に吹き飛ばされた。内訳は木造の作業場6棟、土蔵の火薬保管庫2棟、経営者の自宅1棟である。
これにより工場の経営者の妻と、それに4名の従業員が死亡。さらに爆発地点を中心に、半径数百メートル以内の民家は、どれもこれも全壊あるいは半壊、もしくはガラス窓が割れるなどの被害をこうむった。
後の飯田署の調べで、以下のことが判明した。どうやら爆発当時は、12名の作業員が打ち上げ花火を製造中だったらしい。なんでも花火玉を金型に入れて加圧成型していた……と言われても素人にはさっぱり分からないのだが、とにかくその作業中に、どういうきっかけか花火玉が爆発してしまったのだ。しかも他の火薬にもどんどん引火し、大爆発に至ったのである。
ところで、事故があった内山煙火製造所だが、これは上郷村と飯田市の境に位置していた。そして工場から50~100メートル程の飯田市側には、2つの学校校舎があった。飯田市立浜井場小学校と長野県飯田風越高等学校である。
事故当時、この2つの学校ではちょうど授業中だった。記録を読んでいると、特に不運だったのは小学校の方である。6年6組の児童たちが外で体操をしていたところで爆発が発生し、全員が吹き飛ばされたのだ。これにより女子児童1名が死亡している。
記録をざっと見た限りでは、高校の方では、こういった形での大きな人的被害はなかったようだ。この規模の爆発が近所で起きたわりには、ラッキーだったと言えるかも知れない。この高校は1976(昭和51)年には風越山の山麓に移転し、跡地には現在の飯田警察署が建てられたという。
死者1名を出した小学校は、かるく検索してみると今でもちゃんと存在している。この学校のシンボルである円筒形の校舎は、事故当時はほぼ全ての窓ガラスが爆発により窓枠ごと破壊されたらしい。しかし、今でもこの校舎自体は健在であるようだ。
最終的に、この事故による被害者数は死者7名、負傷者266名に及んだ。
現場となった上郷村は、1974(昭和49)年にいったん「上郷町」となったものの、1993(平成5)年には飯田市に編入されている。
【参考資料】
◆ウィキペディア
◆武藤輝彦『日本の花火のあゆみ』あずさ書店・2000年
◆飯田市立浜井場小学校ホームページ
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