今回ご紹介するケースはバス事故であると同時に、地滑りによるいわゆる「土砂災害」でもある。よって最初に、地滑りに関するちょっとした予習から入ることにしよう。
地滑りとは、傾斜のゆるい斜面で、地面が大きな固まりの状態でずり落ちるものである。
この「ずり落ち」の動きはとても遅く、1日に数ミリ程度が普通である。だが、地震やその他の要因で勢いがつくと一気に滑り落ちることがあり、それで家屋や交通機関が影響を受ける場合がある。またこの土砂が川をせき止めると、洪水や土石流が発生することもある。
ではこの地滑り、どのようなメカニズムで起きるのだろう?
地面には、硬さや性質の違う土・石などが何重にも積み重なっている。その中には、水か染み込まない粘度状の地層もある。よってそこに水がたまると、上の地層はプカ~ッと水に浮く形になり、傾きに合わせて滑り落ちるのである。こうして地滑りは発生する。
よって地滑りには、起きやすい場所とそうでない場所がある。いやむしろ地滑りとは、起きやすい場所で何度も繰り返して発生すると言ってもいい。
地滑りが起きやすい地層には、以下の3種類がある。
1・第三紀層(だいさんきそう)
2・破砕帯(はさいたい)
3・温泉(おんせん)
1番目の「第三紀層」というのは、今から約6500万年から約170万年前に形成された地層である。当時は海底だったため、ヘンなものが積み重なってできた地層だ。田中慎弥の作品に『第三紀層の魚』というのがあるが、その第三紀層である。
新潟県や長野県の北部で起きる地滑りは、大抵はこのタイプらしい。ゆっくり滑るのが特徴だという。
また2番目の破砕帯というのは、これは主に岩石で出来ている地層である。それがひび割れで砕けやすくなっているため、動いたり割れたりズレたりする。その力で地面が変質して粘土状になるのだそうだ(なんだか掴みどころのない説明で申し訳ない)。このタイプの地層で起きる地滑りは、動きが速い。
で、最後の温泉というのは、火山や温泉がある地域の地層のこと。土が温泉の熱やガスの影響で変質し、粘土状になることで地滑りが起きやすくなる。
とまあ、以上が地滑り災害の概要である。筆者も今までよく知らなかったのだが、いずれ研究室でも土砂災害のことは書くと思うので、これはその予習でもある。
さあ、バス事故の話である。
☆
時は1962(昭和37)年10月17日。
北海道の渡島半島西海岸に位置する爾志郡乙部村・豊浜から、熊石町・相沼までを結ぶ国道229号線がある。ここを一台のバスが走っていた。
これは函館バス(現在の「函館バス株式会社」と思われる)のもので、久遠郡大成村・久遠から江差へ向かう途中だった。
時刻は午前10時45分(資料によっては11時45分ともある)。この229号線は海岸に沿った形で敷かれており、隣には山の斜面が、そして反対方向には海が広がっているという状況だった。
最初の異常は、この路線の4号トンネルと3号トンネルの間で発生した。4号トンネルを通過した直後に、道路脇の山腹から小石が降ってきたのだ。
なんだなんだ、天狗つぶてか? ともあれバスは少し進み、3号トンネルに入ろうとした。しかしそこで5人の見張員の男性にストップをかけられてしまう。
「今、ここは雨で地盤が緩んで警戒中です。下がって下がって!」
彼らは函館開発建設部・江差出張所の者だった。
そう。当時、現場の山腹には、土砂崩れの兆候がいくつも表れていたのだ。山腹の畑に入った亀裂は日増しに大きくなっており、道路への落石も著しく、さらに海岸に設けられた擁壁にもひびが入っていたのである。
見張員の指示に従い、バスは後退した。
ところが、これがもう最悪のタイミングだった。20メートルほどバックしたあたりで、くだんの山腹から「ゴーッ」という音と共に土砂が押し寄せてきたのだ。
この時の土砂は、幅300メートル、奥行き800メートルに及ぶものだった。北海道での地滑りとしては、珍しく大規模なものだったという。
バスはこれに巻き込まれ、4、5メートルほど押し流された。だがすぐには海へ落下せず、一度はストップしたようだ。
この間に、乗客たちは急いで避難を始めた。
しかし長くはもたず、そのままバスは土砂に押し流されて海へ。乗っていた人たちはもちろん、避難した人の一部も、それに救助を手伝っていたのだろうか、監視員の1人も巻き込まれてしまった。
事故発生直後では死亡者が5名、行方不明者9名(このうち1名が見張員)、そして重軽傷者が25名という内容になっている。だが程なく行方不明者も遺体で見つかり、資料で確認できる限りでは死亡者11名、行方不明者3名となった。
大事故である。すぐに救助と捜索活動が行われ、これには地元消防団、陸上自衛隊、海上保安庁、北海道開発局函館開発建設部が出動した。
だがネット上の資料によると、11月1日の時点でも、なお2名の行方不明者とバスの車体そのものが行方不明、とあった。これらがその後ちゃんと見つかったのかは不明である。
ちなみに、これは本稿を投稿したあとで読者の方からいただいたエピソードなのだが、当時は、事故に巻き込まれたバスとは逆に、江差から大成村へ向かうバスも近くを走行していたという。
これは幸いにして土砂崩れには巻き込まれなかった。だが間一髪のタイミングだったようで、目の前のトンネルを土砂で塞がれる形になり、進めなくなったという。それで一部の人は家族を連れて山越えをする羽目になってしまったらしい。
さてそれで、この地滑りが起きた現場の地層は第三紀層であった。よってこの土砂災害は「第三紀層地滑り」に分類されることになる。
もっとも、この地滑りの原因は地層の性質のせいばかりではなかった。この年は夏から秋にかけての雨の量が異常に多く、もともと地層が浮き上がりやすい状態だったようだ。また、山を切り崩して道路を作ったのも、土砂崩れの要因となったのかも知れない。
ここでは以前から小規模な地滑りが頻発しており、山側には落石防止のためにコンクリ製の防壁も設けられていた。しかしこの度の土砂はそんな防壁はものともせず、さらに海側の波よけも粉砕し、国道上の3号トンネルを埋めてしまった。あげく海へ向かって100メートルも流出したというから、これはほとんど地形が変わったといえよう。
【参考資料】
◆ウェブサイト『誰か昭和を想わざる』
◆『北海道渡島半島西海岸の乙部村豊浜地域に発生した地滑り』
◆特定非営利活動法人砂防広報センターホームページ
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