◆ヘイゼルの悲劇(ベルギー・1985年)

 1985(昭和60)年5月29日。この日、ベルギーの首都ブリュッセルで起きた、通称「ヘイゼルの悲劇(Heisel Stadium Disaster)」は、世界のサッカー史上に残る大惨事として知られている。

 この年の「欧州チャンピオンカップ(現チャンピオンズリーグ)」決勝戦の会場がヘイゼル・スタジアムだった。

 決勝進出を決めたのは、当時イタリアで最強と言われていたチーム「ユヴェントス」と、イングランドの「リヴァプール」。この2チームの試合が、くだんのスタジアムで開催されることになった。

 決勝戦とあって、サポーターたちも超興奮。彼らは前日からブリュッセル入りし、街中で気勢を上げていたという。実際に何をしていたかは不明だが、後から考えてみれば、この盛り上がりっぷりが惨劇の予兆だったのかも知れない。

 ここで、「フーリガン」について説明しておこう。

 サッカーのサポーターの中には、時として暴力的に熱狂する者がいる。そういう連中はフーリガンと呼ばれ、1960年代頃から、彼らのやんちゃぶりは問題視されていた。なにせこ奴らは試合にかこつけてスタジアム内外で大暴れし、破壊活動を行うのだ。もはや存在自体が社会問題である。

 で、このフーリガンの中で特に厄介なのが、イングランドのサポーターたちだった。彼らは通称“コップ”と呼ばれ恐れられ、当時すでにフーリガンの代名詞的な存在でもあった。選手に危害を加えることもあり、奴らが来るとなると相手チームも震え上がったという。

 さあ大変、今回は彼らがブリュッセルに遠征だ。

 イングランド国内では、こういうならず者への対策がきちんと取られていた。だが、国外の試合ではさすがにどうしようもない。奴らは、旅の恥はかき捨てとばかりに暴れるだろう。イギリスの警察は、事前にベルギー側に協力を申し出ていた。

「うちのフーリガンどもが暴れ出したら大変だ。国民の不始末は国家の不始末。協力しますよ!」

 ところが、ベルギー側はこれを断った。理由は不明である。当研究室のルポを読み慣れた方にとっては、「あ、このへんから暗雲が立ち込めてきたぞ」といったところだろう。

 不安要素はこればかりではなかった。試合当日、スタジアムの応援席は、ユヴェントスとリヴァプールのサポーター席、そして一般向けの応援席が整然と分かたれていた。ところがダフ屋や偽造チケットの横行のため、実際には無秩序状態になっていたのだ。

 特に、両サポーターの応援席をあらかじめ区別しておき、その間に中立の一般応援席を挟みこむことには大きな意味があった。サポーター同士が隣り合ってしまえば喧嘩になるからだ。

 それなのに、実際には一般応援席やリヴァプール応援席に、ユヴェントス側のサポーターが多く入り込む事態になっていた。その結果、両チームのサポーターが、フェンス一枚を隔てて隣り合う場所が出てきた。これが悲劇を呼ぶことになる。

 一応、少しだけ補足すると、「一般応援席」は中立のベルギー人のためのものだった。だがベルギーにはイタリア系移民も多い。よってユヴェントスびいきの観客も多くいたと思われる。応援席の混乱がなくとも、こういう火種はもともとあったのだ。

 さて、イベントスタートである。

 時刻は午後6時。まずはエキシビジョンマッチだ。ベルギー人の子供チームによる紅白戦が行われた。

 この時の、ユヴェントス側のゴールキーパーの証言。

「試合数時間前までは何もかもいつも通りだったんだ。ピッチでは子供たちが何かパフォーマンスをやっていて、そのときはフェスタの雰囲気さえ感じていた」――。

 応援席で不穏な空気が漂い始めたのは、紅白戦が後半戦に入った午後7時頃のことだった。一部のサポーターが、相手側のサポーターに嫌がらせを始めたのだ。

 場所は、例の、両チームのサポーターが隣り合ってしまったあたりである。酔っ払ったリヴァプールサポーターが、隣のユヴェントスサポーターに爆竹やビン・缶を投げつけたり、フェンスを揺さぶったりしたのだった。

 もちろんユヴェントス側も黙ってはいない。なんだコラ、やんのかコラとばかりに応戦し、投擲合戦が始まった。一体何しに来たんだ、こいつら。コートでは本戦もまだだというのに、こちらは既にキックオフである。

 話の途中でなんだが、ジョークをひとつ思いついたので披露しておこう。サッカーの試合の前に、応援席のサポーターたちに運営側がアナウンスをひとつ――。「会場の皆さんにお知らせします。試合時間は7時からです。喧嘩はそれまでに済ませて頂きますようお願いいたします」。

 ――なんていうジョークで済めばいいのだが、事態はさらにエスカレートしたから、やっぱり悲劇である。小競り合いの果てに、リヴァプールサポーターがお約束の暴徒化と相成った。フーリガンの面目躍如である。彼らは警備の隙をついて、応援席を隔てていたフェンスを破壊。レンガや鉄パイプを手に、一斉にユヴェントスサポーターの側になだれ込んだ。

 漫画のような話である。レンガや鉄パイプって、そんなものいつどうやってなんの意図があって持ち込んだのだろう? 最初からやる気満々じゃないか。

 乱闘が始まった。ユヴェントスサポーターをはじめ、多数の観客が驚いて逃げ出した。

 しかしスタジアムは超満員で壁に囲まれており、逃げ場はほとんどない。一部の観客は壁をよじ登ったり、フェンスを乗り越えたりしてグラウンドへ脱出した。だが残された数千人(!?)の観客は、壁際へ追いやられ包囲されてしまった。 

 ここで壁が倒壊した。

 場所を具体的に説明すると、それはメインスタンドと一般観客席の間にある、高さ3メートルのコンクリート壁だった。追い詰められ、押し寄せたユヴェントスサポーターの圧力に耐え切れなくなったのだ。

 この倒壊により、多くの人々がメインスタンドへ転落。落下しただけなら怪我で済んだかも知れないが、壊れた壁の破片や、後から落下してきたサポーターたちの下敷きになる人が続出した。

 もはや試合どころではない。グラウンドや、陸上競技用のトラックは、数百人の負傷者や避難者で溢れかえった。重傷者はロッカールームへ運び込まれ、心肺蘇生措置が行われたのち病院へ搬送。すでに息絶えた者については、さしあたりスタジアム正面入口の仮設テントに並べられた。

 先に結果を述べておくと、この騒ぎによって負傷者は400人以上、死者は39名に及んだ。死傷者の大多数はイタリア人、つまりユヴェントス側のサポーターである。死因は主に圧死や、物を投げつけられた外傷だった。

 さて、凄惨な事故が起きたというのに、暴動は収まらなかった。サポーターたちは興奮して衝突を繰り返す。両チームの監督が呼びかけようが、場内放送で冷静になれとアナウンスしようが、焼け石に水。警官隊も出動したが、人数が少なく多勢に無勢、逆に石をぶつけられるなどの憂き目に遭った。
 
 また資料によっては、警官たちはフーリガンの扱いに不慣れで、暴動をただ傍観するしかなかった――とも書かれている。どうやら総括して、警官たちは「手も足も出なかった」と表現して間違いなさそうだ。

 騒ぎが鎮圧されたのは、約1時間後のことだった。警官隊700人と軍隊1,000人が動員され、やっとこさ落ち着いたらしい。これは翌日の話だが、ベルギー内務省は、この騒ぎでイギリス人12人を含む15人を逮捕したと発表した。

 ところで、気になる試合の結果だが……。

 え? 何を馬鹿なことを言っているのかって?

 こんな騒ぎの後で、試合が行われたはずないだろうって??

 ところが、行われたのだ。

 それを聞いて目を丸くする読者もいそうだ。実際、資料を読んでいて筆者も驚いた。

 だが、この期に及んで試合を続行したのには理由があった。試合が中止になれば、サポーターたちがまた街中で暴れかねない。だから主催者側は、スタートを大幅に遅らせながらも試合を決行したのだ。

 当時の会場の空気を想像すると、実にやり切れない。大勢の死傷者が出たばかりなのだ。それなのに、スカポンタンの頭を冷やすためだけに、試合は行われたのである。

 勝ったのはユヴェントスだった。優勝カップは、人目につかない更衣室で渡された。

 最後にPKを決めたユヴェントスの選手の一人は、「もうサッカーやりたくねえ」と話し、罪悪感にさいなまれながら2年後に引退している。

 ついでに言えば、この人こそ、サッカーファンから「将軍」と呼ばれ、2015年12月現在、欧州サッカー連盟(UEFA)会長、国際サッカー連盟(FIFA)副会長、フランスサッカー連盟(FFF)副会長を勤めているミシェル・プラティニである。

   ☆

 さて、このヘイゼル・スタジアムでの事故が、これ程の大惨事になったのは何故だったのか。

 もちろん、一番悪いのはフーリガンの連中に決まっている。だが競技場の老朽化も看過できない。当時リヴァプール側のキャプテンだったフィル・ニールはこう話している。

「あのスタジアムの設備は最悪だった。両サポーターを隔てる壁は、10歳の子供でもよじ登れるほど貧弱なものだった。当時のイングランドのスタジアムは今のように近代的ではなかったが、それでもあのヘイゼルに比べれば数段良かった」。

 これは、崩落した壁そのものについての証言ではないのだが、まあ老朽化についての傍証と言えるだろう。

 事故が起きた当時、ヘイゼル・スタジアムは建設から55年が経過していた。その間、改修がどのくらい行われたのかは不明だが、いくつかの資料の文脈から察するに、ほとんどほったらかしだったのではないかと思われる。

 またこのスタジアムは、非常口の数も極端に少なかった。いざというときに、咄嗟に逃げることができない造りだったのだ。

 過去には国際大会の会場になったこともある、収容人員6万人を誇る実績あるスタジアム――。しかしそれは、実際にはいつ事故が起きてもおかしくない状態だったのだ。

 このたびの大会を主催していたベルギーのサッカー協会には、「カップ戦の決勝戦の開催地となる権利の剥奪」という処分が下されている。

 また、処分ということで書いておくと、この事故により――事故というよりもはや「事件」だと思うが――イングランドのクラブは、国際大会への出場の無期限停止を食らった(※)。

(※筆者はまるきりサッカーに疎いので申し訳ないのだが、この「クラブ」というのは、選手チームのことなのかなんなのか、いまいちよく分からない。とりあえず別の資料には、リヴァプールチームも無期限の出場停止となって、この停止期間はその後7年に、そしてさらに5年に変更された――とも書いてあるので、クラブ=チームのことなのかも知れない。だがそれとは別に、別の資料には「欧州サッカー連盟 (UEFA) は制裁措置としてリヴァプールに対して6年間の」UEFA主催の国際試合への出場停止処分を下した、とも記されていた。)

   ☆

 さてその後、リヴァプールとユヴェントスは、親善試合の機会はあったものの(それも企画倒れだったとする資料もある)、しばらくの間、公式戦で顔を合わせる機会はなかった。

 因縁の両チームの対戦が再び実現したのは、事故からちょうど20年後の2005(平成17)年のことである。スイス・ニヨンの欧州サッカー連盟(UEFA)本部で3月18日、「欧州チャンピオンズリーグ」の準々決勝の抽選会が行われ、そこでこの組み合わせが決まったのだ。

 もちろん、事故のことは記憶に新しい。関係者はサポーターたちに冷静な対応を呼びかけ、また両クラブ(チーム?)も「友好的な試合にする」ことを誓ったという。

 引退したミシェル・プラティニも、この時は欧州サッカー連盟(UEFA)の次期会長と呼ばれる存在になっていた。この試合について彼は、「あの時の犠牲者の冥福を祈るために、2試合とも現地で観戦するつもりだ」と話したという。

 そしてさらに5年後、2010(平成22)年5月29日には、会長の座についたプラティニさんは、トリノで行われた記念式典に出席。犠牲者たちに教会で祈りを捧げた。またこの日はブリュッセルとリヴァプールでも同じく追悼式典が開かれた。アンフィールドでは、追悼の記念碑の除幕式も開催されている。

 で、さらに書くと、事故から30周年となる2015(平成27)年3月には、リヴァプールとユヴェントスの記念試合が開催された。場所はトリノのユヴェントス・スタジアムである。

 この時、イングランドサッカー協会は、30周年を記念するモニュメントとして、リース(花輪)の設置を提案した。しかしユヴェントスはそれを拒否。試合開催だけに留める意向を示したという。

 想像だが、おそらくこれは恨みゆえの「拒絶」ではないだろう(と思いたい)。ユヴェントスとしては、そっとしておいてくれ、という気持ちだったのではないだろうか。

 30年である。生まれたばかりの赤ちゃんが、中年に差しかかる程の歳月だ。事故を忘れないようにするのは大切だが、節目のたびにやれ記念だウン十周年だと言われ続けては、逆に思い出しちゃって試合に差し障る部分もあるだろう。

 事故の現場となったヘイゼル・スタジアムは、その後は陸上競技のみに使用された。事故の10年後には再建・改修され、かつての国王の名を冠した「ボードゥアン国王競技場」という名称で蘇っている。これはサッカー用グラウンドと、陸上競技用トラック、フィールド競技用の設備を兼ね備えた施設であるという。

   ☆

 ヨーロッパ人にとって、サッカー競技にまつわる事故やアクシデントには、独特の意味合いがあるらしい。あっちの国の伝統だと思うのだが、試合中の選手の失敗から乱闘、暴動、事故に至るまで、多くが「○○の悲劇」という名称で呼ばれている。

 資料を読んでいて感じたのだが、この「ヘイゼルの悲劇」は、そうした数々の「○○の悲劇」の中でも、特に忘れがたい悪夢として今もサッカーファンの記憶に焼きついているようである。

 だが恐ろしいことに、悪夢はこれだけでは終わらない。欧州では、サッカー場の群集事故として有名な事例がもうひとつ存在する。それが、ヘイゼルの悲劇から4年後に発生した「ヒルズボロの悲劇」である。

 それについては、またいずれ。 

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
「サッカーで大切なこと」
「サッカー名言集」
ウィキペディア
「We Are Red's #リバプールを心の底から応援するブログ。」

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◆生駒山コンサート事故(1999年)

 奈良県生駒山の上にある遊園地「スカイランドいこま」で発生した事故である。

 と言っても、この「スカイランドいこま」は当時の名称である。現在は「生駒山上遊園地」で通っており、もともとこっちが正式名称らしい。スカイランドというのは、開園70周年にあたる1999(平成11)年以降、しばらく使われていた愛称だそうな。

 ここで行われたロックコンサートで、事故は起きた。

 1999(平成11)年8月28日のことだ。大阪のFMラジオ放送局「エフエムはちまるに」の主催でコンサートが行われた。これにはSNAIL RAMPなど、十代の青少年に人気のある3グループが出演していた。

 会場の敷地は1,500平方メートル、収容人員は二千人。これに対し当時の観客数は1,500人だったそうだから、まあ人数的には特に問題はない。例によって、前日から徹夜で待機していた若者たちが、会場には詰めかけていた。

 主催者側も、スタッフや警備会社のアルバイト20人を配置していた(資料によっては40人とも)。ステージと観客との間は、奥行き2メートルほどの植木と、さらに鉄柵で仕切られている。うむなるほど、これなら、日比谷のコンサート事故のような事態は起こりにくそうだ。

 ただ強いて難点を挙げるとすれば、芝生の観客席が、ステージに向かって低くなる緩い下り勾配だった点だろう。もっとも、コンサート会場なのだからそういう造りなのは当たり前だとも言えるが、とにかくこれが仇になった点は否めない。

 時刻は13時。資料によると「4人組のロックバンドが一曲目の演奏を始めた」直後に、高校生たちが総立ちになったらしい。そして彼らはステージ前の柵に殺到した。

 で、お約束のすっ転びである。最初の1人に合わせて、約40人が悲鳴を上げながらバタバタと将棋倒しを起こした。

 こういうシチュエーションだと、1人が転んで、さらに後続の者がつまずいて折り重なる――というイメージが頭に浮かぶ。だが資料によると前方の人も巻き込まれたそうだから、下り斜面で後ろから押されたため、体を支えきれずまさしく「将棋倒し」になってしまった人もいたのだろう。下り斜面が仇になったと書いたのは、そういう意味である。

 この転倒で、せっかく設置された仕切りの鉄柵も、15メートルに渡って倒された。会場は騒然、痛い痛いと悲鳴があがる。最前列にいた女性が鉄柵に挟まれて足の親指を骨折するなど、計11名(女性10名、男性1名)が負傷した。

 以下は、巻き込まれた高校生たちの証言である。資料から引っぱってきたのだが、文字や句読点などは少し手を加えさせてもらった。

 高校生A
「前方まで人が詰めかけていたので、大丈夫かと心配だった。倒れた時は、人に挟まれて身動きできなかった」。

 高校生B
「開演前からすごい盛り上がりで、一曲目の演奏が始まってすぐに、男性が舞台に向かって走り、つられるように多くの人が動いた」。

 コンサートは約30分中断したのち、再開された。

 それにしても、死者が出ないだけラッキーだった感のある事故である。

 他のジャンルの事故と違い、群集事故というのはちょっと特殊である。どんなに過去の事例に学ぼうとしても、どんなに策を凝らしても、起きる時は起きるのだ。大勢の人間、斜面や突起物などの足場の状況、熱狂的な空気、他人につられての行動…。当研究室の読者は、どうか外出する場合はくれぐれもこういった要素に気をつけてもらいたい。

 コンサート会場で、大ファンだからといって熱狂したあげく怪我をしても、バンドのメンバーが喜んでくれることはないのである。むしろ事故が起きれば、そのバンドは活動自粛の憂き目に遭うか、あるいは30分後にはビミョ~な空気の中でコンサートを再開するしかないのだ。どっちみちイヤな話である。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆朝日新聞
◆ウィキペディア

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◆日比谷音楽堂コンサート事故(1987年)

 1987(昭和62)年4月19日に起きた事故である。

 東京都千代田区、日比谷野外音楽堂は多くの観客でごった返していた。パンクロックバンド「ラフィン・ノーズ」のコンサートが行われるのだ。3千席が、ほとんど十代の若者で埋まっていた。

 今の若い人は、ラフィン・ノーズと言われてもピンと来ないかも知れない。筆者もそうだった。

 このバンドは、かつて有頂天、ウィラードと並び「インディーズ御三家」と言われていた。大槻ケンヂや銀杏BOYZの峯田和伸、タレントで歌手の千秋などにも影響を与えたとか。

 筆者は筋肉少女帯は好きだ。だがロック史はよく知らないので、「へー」という感じだ。

 当時は、売り上げでも日本のロックグループの十指に入る程の人気だったという。反権力的なイメージで、「80年代のキャロル」と呼ぶ向きもあったとか。熱狂的なファンも多かったようで、事故当日は2日前から野宿して開場を待っていたファンもいたという。

 事故はこのコンサートで起きた。

 演奏開始は午後6時半(7時という資料も)。しばらくの間は、何事もなかったようだ。

 だが4曲目に差しかかった時のことだった。一部のファンが写真を撮ろうとした。これを見た後方のファンが、自分も前に出ようとした。そして、熱狂していた彼らは、ステージ上にまで上がった……。参考資料の言葉をつなぎ合わせると、経緯はそんな感じだったらしい。

 それにしても、ファンが「写真を撮影しようとした」ことが、なぜ「熱狂してステージに上がる」ことにまで繋がるのかよく分からない。筆者はちょっとしたライブ程度なら行ったことがあるが(パーキッツのやつだ)、コンサートというのはよく分からない。きっとそういう場の独特の空気というものがあるのだろう。

 こうして、将棋倒しが発生した。

 コンサートは中断。ラフィン・ノーズのメンバーが、後ろに下がるように客席に呼びかける。それで人の波は引いたものの、ぐったりしたファンが何人かステージ上に担ぎ上げられていた。

 さすがに演奏どころではない。コンサートは7時15分に中止となった。

 この日の夜、男女2名が収容先の病院で死亡。その後、重態だったもう一人の女性も死亡し死者は3人となった。全員が十代だった。負傷者は26人に上った。

 会場の警備は、一応それなりに行われていたようだ。当時の新聞の速報を読むと、80人の警備員が組織され、観客の誘導や周辺警備がなされており、さらにステージ裏にある詰所で3人の職員も警戒にあたっていた――とある。

 しかし現在、ネット上の情報を拾い集めると、当日は主催者側のスタッフが配置されていただけで、いわゆる「警備員」はいなかったらしいという話もある。

 ラフィン・ノーズは、この事故をきっかけに活動を中止した。

 パンクロックバンドという肩書きゆえだろうか、当時は「お前たちのせいで事故が起きたんだから責任を取れ」という趣旨のバッシングもあったようだ。活動を中止したというよりも、中止に追い込まれたと言えるかも知れない。

 現代の目線で見ると理不尽な気もするが、彼らが観客を煽った部分もあったのだろうか? 今となっては想像するしかない。

 その後は、ファンの希望で復帰して、解散したり活動を再開したり、メンバーがトラブルを起こしたりと、色々あったようだ。今も活動はしているみたいである。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
インディーズ御三家のひとつラフィン・ノーズが起こした事故と現在
Laughin' Nose伝説13 - So-net
ラフィン・ノーズHP
◆ウィキペディア

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◆松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)

 1961(昭和36)年1月1日、元日のことである。

 岩手県岩手郡松尾村(現八幡平市)の、松尾鉱山小学校でその事故は起きた。

 この日は午前9時から校内で新年祝賀会が開催されていた。例年、その後は映画会を開くことになっており、祝賀会が終了した9時30分頃には、児童たちが早く映画を観たい一心で廊下を駆けていた。

 会場は、学校から300メートル離れた場所にある鉱業所内の会館である。児童たちは外に出ようと、校門に近い西昇降口を目指していた。

 そして9時40分頃。彼らが2階の階段を下りたところで惨劇は起きた。

 きっかけは、階段を下り切った先頭の児童が、靴を履き替えるために立ち止まって腰をかがめたことだった。そこへ後続が押しかけたため、全体の流れが一瞬だけ詰まり、そのまま折り重なって倒れたのだ。

 後ろの方では何が起きたのか分からず、面白半分に階段の上から飛び降りる児童もいたという。こういうのが群集事故の恐ろしいところだ。

 教諭たちが駆けつけた時には既に10人が呼吸停止の状態で、13人が負傷していた(負傷は10人という資料も)。死者のほとんどは圧迫窒息死だったという。

 現場は、事故が起きてみると「なるほどこれは危ないわ」と納得してしまうような状況だった。この地域は豪雪地帯で、正月とあって校舎は雪に埋もれていた。そのため利用できる出入り口は限られており、その数少ない入り口の一つに児童が殺到した形だったのだ。

 また、現場の昇降口は暗かった。読者諸君は「雪囲い」というものをご存知だろうか。雪国では、建物や樹木が積雪でダメージを受けないように、板で覆ってロープでくくるなどして防護壁を作る習慣がある。現場の校舎でもそれが行われていたというから、おそらく窓などが覆われていたのだろう。咄嗟には状況が把握しにくい状態だったという。

 まして、子供たちは映画を楽しみにして廊下を走っていたのだ。薄暗い階段の下の状況などには思いが及ばなかったに違いない。

 この事故がどのように処理されたのかは不明である。

 ここから先は、この松尾村という地域について少し書いておきたい。事故災害ルポとして見ると完全に余談なので、興味のない方は読み飛ばしてもらっても大丈夫である。

 現場の小学校の名前からも分かる通り、この地域は鉱山町だった。その中心にあったのが松尾鉱山である。硫黄鉱石が採れるということで、当時は栄えに栄えた場所だったのだ。

 この鉱山が発見されたのは1882(明治15)年のこと。一時、その採掘量は「東洋一」とまで呼ばれるほどだった。

 さらに戦後、朝鮮特需で景気が良くなった昭和20年代には需要が増し、硫黄鉱石は「黄色いダイヤ」とまで呼ばれるほどになった。

 そこで、労働力確保の必要性もあって、松尾村は一気に整備された。公団住宅が一般的ではなかった時代だったにも関わらず、集合住宅は水洗トイレにセントラルヒーティング完備。また小中学校や病院も建てられ、福利厚生もばっちり。実に近代的な都市だったのだ。

 雪国東北の山間部で、当時こんな場所があったのか――。山形在住の筆者などは、資料を眺めてそんな風に驚いたものだ。実際「雲上の楽園」などと呼ばれたこともあったらしい。

 事故が起きた松尾小学校も、立派な鉄筋コンクリ製の近代的な造りで、最盛期は児童数1,800人に達したマンモス校だったという。

 だが人が増えれば、それだけ群集事故の危険性も高まる。群集というものの発生が近代特有の現象だと考えると、急速に近代化が進んだ松尾村という場所でこういう事故が起きたのは、暗示的だなという気もする。

 そして、この松尾村の「その後」である。

 そもそも、硫黄の採掘で栄えた鉱山町があった……などという歴史的事実そのものが、現代に生きる多くの人にとっては初耳か、あるいはすっかり忘れられた話に違いない。

 1960年代後半(昭和40年代)を境に、硫黄の価値は急落した。資源の枯渇、輸入の増加、需要減、そして安価に硫黄が生産されるようになったことなどがその理由である。国内の硫黄鉱山はどんどん閉山に追い込まれた。

 こうした流れで、松尾鉱山も1969(昭和44)年に強制的に閉山。翌年の1970(昭和45)年には住民も退去した。当時のアパートは現在は心霊スポットとして有名だそうだ。

 いくつかのサイトでざっと調べてみたが、事故の現場となった小学校は今は取り壊されたようだ。
 
【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆ウィキペディア

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◆日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)

 まず最初に、1952(昭和27)年当時の日暮里駅の状況を説明しておこう。

 と言っても、もちろん筆者は実際に見てきたわけではないし、現在の日暮里駅も行ったことがないので当時と今の比較もできない。ただ、当時の図面を説明するだけだ。

 ざっくり書こう。東から順に「京成電車ホーム」「常盤線ホーム」「東北線上りホーム」「東北線下りホーム」「電車線(山手線のこと?)ホーム」の5つのプラットホームが並んでいる。それぞれ南北に延びており(南が上野方面、北が大宮方面)、当然各ホームの間を、線路が走っている。

 このうち、常磐線ホームから電車線ホームまでを横断する形で繋いでいる「南跨線橋」で事故は起きた。

 1952(昭和27)年6月18日、午前7時40分頃のことである。

 国鉄・日暮里駅構内の南跨線橋は、どうしたことか、朝っぱらから超満員のすし詰め状態になっていた。

 なんだなんだ、一体全体何が起きた。朝の通勤時間で、混雑自体は珍しいことではない。だがこの日の人の量はちょっと異常だった。

 実はこの日、日暮里駅では臨時停車や運行停止の電車が相次いでいたのである。

 最初のきっかけは、未明に起きた上野駅の信号所での火災だった。これによりポイント操作ができなくなり、京浜東北線の上り電車が臨時停車したのだ。

 さらに他の電車でも、車軸が破損して運行中止というトラブルが発生した。

 正直このへんの経緯については、ちょっと分かりにくい。資料によって路線の書き方がまちまちなので、どの路線の列車がどういう理由で停止したのか、鉄道の素人にはうまく読み取れないのだ。とにかく結論を言えば、上記の事情から合計4本の列車がストップしていたのである。

 もちろん乗客たちは、ストップしたからハイそのまま待機、というわけにもいかない。出勤時刻は迫っている。しかも季節は梅雨で、車内は冷房もなく暑苦しい。さしずめチャイルズクエストで言えば、フマンドパラーメータ90%といったところだ。

 そこで駅は判断した。

「乗客をいったん下ろそう!」

 こうして乗客たちは蒸し暑い車両から解放されたわけだが、もちろん涼んでいる余裕などない。今動いている電車はどれだ、山手線か、じゃあそっちに乗り換えよう――! というわけで、あっちのホームに移動すべく、みんなで南跨線橋に押し寄せたのだった。

 こうして、跨線橋は尋常でない状態になった。この稀有な密集ぶりはさすがに駅も放っておけず、駅長自らが現場に赴いて人の整理に当たったという。

 しかしそれでも、幅2.5メートルの通路は押し合いへし合い。木造の跨線橋の壁に不穏な圧力がかかり始める……。

 ところで読者諸賢は、『岸和田博士の科学的愛情』というギャグマンガをご存知だろうか。あれで、実験台にされそうになって逃げ回る助手の安川君が、複数人で研究所の壁を突き破るシーンがあった。午前7時45分、ここで起きたのはまさにそういう事態だった。

 跨線橋の一番端っこである西側(電車線ホーム側)の壁が、群集の圧力でボガーンと吹っ飛んだのである。そして十数名が7メートル下の線路に落下した。

 それだけなら、死者は出なかったかも知れない。だが、そこへ京浜東北線の浦和行き(大宮行との資料もあるのだが…)電車が通りかかった。現場手前には急カーブがあったため、運転士が気付いた時にはもう遅い。これに撥ねられ6名が即死、8名が重軽傷。うち2名が後に死亡し、合計8名が死亡という結果になった。

 大惨事である。電車の運行ストップの事態といい、電車の通りかかったタイミングといい、この日の日暮里駅は呪われていたとしか思えない。

 壁が破られた跨線橋は、1928(昭和3)年に作られたものだった。資料を見ると、老朽化していたとか破損箇所があったとかいろいろ書いてある。

 それだけ読むと「ああやっぱりか」と頷きたくなるところだ。しかし実際にはそれほどヤワでもなかったようだ。主要な部分は鉄筋コンクリ製だったというし、耐用年数は40年くらい想定されていたそうだ。

 やはり当時の混雑、ぎゅうぎゅう詰めの状態が異常だったのだろう。そんな印象もあり、ウィキペディアでは鉄道事故のカテゴリで括られているこの事故は、ここでは群集事故の一種とさせてもらった。

【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
参議院会議録情報 第013回国会 運輸委員会 第31号
◆ウィキペディア

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◆菊富士ホテル火災(1966年)

 1966(昭和41)年3月11日、夜明け前の午前3時30~40分頃のことである。

 群馬県利根郡、水上温泉「菊富士ホテル」の従業員宿舎に、一人の男性が駆け込んできた。ホテル新館の控え室で寝泊りしているはずの夜間警備員だった。

「大変だ、新館が火事だ!」

 一大事である。叩き起こされた従業員たちが、宿舎からそう遠くない新館へ駆け付けてみると、すでに玄関ロビーは火の海。中へ入るのは不可能だった。

 彼らは、すぐに近隣の旅館へ火災発生を知らせて回った。ただ、通報は誰も行わなかったという。火災の知らせを受けた釣り堀の店員が、加入電話(※)を使って役場へ通報したのが3時58分のこと。この時点で、火災発生から少なくとも18分程度は経っていたと考えられる。

(※)加入電話…普通の電話回線のこと。かつての逓信省、電気通信省、電電公社、そして現在のNTTによって管理される。全国即時自動交換網が完成したのが1979(昭和54)年で、それまでは、地域の協同組合などで独自に敷いた電話などもあった。これと区別する意味で「加入電話」という名称が使われていた。近年、携帯電話やIP電話などNTT本体以外の事業者の回線が増えてきたことから、呼称としてまた蘇りつつあるとか。

   ☆

 菊富士ホテルは、運輸省によって指定される「国際観光旅館」あるいは「国際観光ホテル」としてランキング入りするほどの一流宿泊施設だった。国際観光客や、海外からのお客を泊めるのにふさわしいと国によって認定されていたのだ。

 規模も大きかった。木造3階建ての「渓流閣」、4階建ての「秀嶺閣」、地下1~地上3階建ての新館、木造の離れ2棟、大浴場などで構成されていた。

 先述の通り、火災が発生したのは新館である。最初に従業員宿舎へ駆け付けた警備員が、仮眠中に灯油ストーブを倒してしまったのが原因だった。

 彼が目を覚ました時には、辺り一面が火の海だったという。

 もともと室内は、ひとたび火がつけば、たちまち燃え広がるような状況だった。不要な段ボールや新聞が積まれていた上に、内壁も天井もベニヤ張り。最初、警備員はジャンパーで叩いて消火しようとしたが、かえって火勢は拡大した。

 彼は、消火器も使ってみた。だがダメだった。何が「ダメ」だったのかは資料によって書き方がまちまちなのだが、どうも消火器自体になんらかの不備があった節がある。

 次に、彼は火災報知器へ手を伸ばした。これにより、新館全体へベルが鳴り響いた――はずだった。だが実際には、当時、このベル音に気付いた宿泊客はほとんどいなかったようだ。人によっては「遠くで電話が鳴っている」程度にしか聞こえなかったという。

 ともあれ、火災報知器を鳴らしたのだから、これで宿泊客は避難してくれるはずだ。警備員はそう考えたのかも知れない。彼は次に、加入電話で役場へ通報した。

 しかし、なぜかこの時、役場では誰も電話に出なかったという。この後、釣り堀からの通報でやっと電話がつながったわけだが、ここで時間のロスが発生してしまった。

 それにしても当時、この地域では、火災の場合は消防署ではなく役場へ通報することになっていたのだろうか。

 実際、消防法第24条第1項には、火災の発見者は「消防署又は市町村長の指定した場所」に通報すべしと定められている。この「市町村長の指定した場所」は役場とか警察署でもいいらしい。今、我々にとって火災の通報といえば119番で消防署が当たり前だが、昔はいろいろ違っていたのかも知れない。

 火の手は拡がっていく。費用節減のためにと、このホテルでは夜間警備に十分な人数を割いておらず、他に頼れる仲間もいない。彼は避難することにした。

 さらに、この避難時にまたミスがあった。新館から脱出した際、玄関のドアを開けっ放しにしてしまったのだ。当時の風速は4~5メートル。建物の中は風通しがよくなってしまい、火勢はますます拡大した。こうしたいくつかのミスと不運が重なり、鎮火した3月11日の夜9時頃には、この警備員は失火で逮捕されている。

 菊富士ホテル新館は、1964(昭和39)年の春には鉄筋造りへと造り変えられていた。だがまだ木造の部分が残っていたことから、火元となった部屋を出発点に、ロビー、従業員通路へと延焼。さらに天井と階段を伝って、二階と三階へと炎は伝播していった。

 防火区画は存在していた。だが、防火シャッターが開けっ放しだったため意味なし。さらに床下のカーペットの下地には、「速燃性」という、字面を見ただけで致命的と分かる性質のクッション用フェルトが使われていた。また可燃性の内装材も使われていた上に、床などの貫通部の埋め戻しは不完全。これらの要因が、火の手の拡大を許してしまった。

 この夜の、菊富士ホテル全体の宿泊者数は213名(資料によっては225名とも)。このうち、火災が起きた新館にいたのは83名。彼らが火災に気付いた時には、すでに新館内は停電していた。

 彼らの大半は、火災報知機のベルではなく、館内にあふれる煙と慌ただしい物音によってようやく目を覚まし、事態を察したという。

 新館が、地下1階つきの3階建てだったことは先述の通りだ。火災は地上1階で発生したため、火炎と煙によって2・3階の宿泊客は追い詰められる形になった。もはや、廊下や階段を通って1階へ下りられる状況ではなかった。

 ここからが、取り残された者たちによる決死の脱出と、それが叶わなかった者たちの悲劇の岐路となる。

 まず2階は、205~208号室が、幅5メートルのバルコニーに面していたのが幸いした。その部屋の宿泊客24名は、従業員の指示で、隣のホテル「白雲閣」の石垣の上に避難したり、近所の旅館が持ってきた布団をクッションにして飛び降りたりしている。結果、2人が軽傷を負った程度で、全員が救助された。

 だが201~203号室にはバルコニーがなかった。202・203号室ではなすすべなく計10名が死亡した。201号室の客5名は廊下に出て、すぐそばの南側の非常口へ向かっている。だが、いわゆるモノロックタイプの扉の開け方が分からず、3名がその場で死亡した。残る2名は部屋に戻ったが、その場で1人が死亡。残る1人は飛び降りて助かったものの、重傷を負った。

 次は3階である。こちらは、305~307号室が2階のバルコニーに面していたので、宿泊客は布団を投げ落とし、これをクッションにする形で飛び降りた。総勢28名。大半がこの飛び降りで重軽傷を負い、また1人が死亡した。

 301~303号室では15名の宿泊客全員が亡くなった。煙を吸ったのだろう。室内も衣類も焼けておらず、布団の中に入ったままの人もいたという。

 最終的に、死者は30名、負傷者は29名に上った。死亡したのは、多くが茨城県のタバコ耕作組合のメンバーだった。

 ホテル新館は2,640平方メートルが半焼。先に名前を挙げた、隣接するホテル「白雲閣」もとばっちりを受けて1,650平方メートルが類焼した。

 一方で、新館と渡り廊下でつながっていた「渓流閣」と「秀嶺閣」の建物は被害ゼロ。こちらは警報ベルが鳴り、従業員がきちんと誘導したことで、宿泊客たちも身支度を整えて非常口などから避難できたという。

   ☆

 この火災で、消防隊は午前4時に出動している。当地のほぼ全ての消防団と、周辺地域の消防署が結集して消火活動にあたった。しかも消火設備は当時のものとしては最新鋭、水利も悪くなかったことなどから、約2時間後の午前6時には鎮火している。かなり早い。強いて難点を挙げれば、温泉街ということで道路が狭く、起伏も激しいことから、到着に手間取ったことくらいだった。

 だがその分、短時間でこれ程の死者が出たのかと驚かされる事例でもある。この火災は、一酸化炭素中毒による死亡事例としても注目されたらしく、ひょっとすると、大規模な宿泊施設での火災の恐ろしさを世に知らしめた最初の事例だったのかも知れない。

 ところで、当時の基準に照らし合わせてみると、菊富士ホテルの消防用設備に不備はなかった。それに火災発生から鎮火までの間には、死者が出た新館以外の建物では避難誘導もきちんと行われている。新館にしても、火災を起こした警備員は、初期消火、火災報知、通報を一応「試みて」はいる。

 消防用設備や防災体制に目立った落ち度はなかったものの、現実に発生した大規模火災に対しては不十分だったということなのだろう。

 実際、消防計画の作成や消防訓練は行われていなかった。また消火設備のほとんどは使われないままで、そもそもそうした設備の存在を宿泊客は知らされていなかった。

 もちろん現代に生きる我々も、どこかのホテルに泊まるたびに、消火設備について教わったりはしない。だが特に当時は、温泉宿などを含む多くの施設で、そういう非常用の設備をあまり強調すると無粋に思われる…とされた空気があったようだ。今ではさすがにそこまでは思うまい。人々の意識からして、ちょっと違っていたのである。

 この火災がきっかけで、防火管理関係の法令が改正された。防火管理者の義務強化や、ホテルなどの施設では難燃性の材質のものを用いるべし、などと定められたのだ。ちなみに言えば菊富士ホテルの場合、防火管理者は、前の担当者が辞めてからは法的資格のない人が名ばかりの後任になっていたとか。

 戦後の大規模施設火災の黒歴史の幕開けである。大火災の発生と法令強化のイタチごっこの歴史はここから始まった。菊富士ホテル以降、似たようなタイプの火災は数え切れないほど発生して社会問題化していく。これが解決を見るまでは、何百人もの犠牲と数十年の時間を要することになるのである。

【参考資料】
消防防災博物館-特異火災事例
サンコー防災株式会社「ホテル・旅館火災の特徴と事例」
国会会議録検索システム 第51回国会 衆議院 災害対策特別委員会 第3号 昭和41年3月17日
◆ウィキペディア
何かのサイト

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