2015年7月26日日曜日

◆菊富士ホテル火災(1966年)

 1966(昭和41)年3月11日、夜明け前の午前午前3時30~40分頃のことである。

 群馬県利根郡、水上温泉「菊富士ホテル」の従業員宿舎に、一人の男が駆け込んできた。ホテル新館の控え室で寝泊りしているはずの夜間警備員だった。

「大変だ、ホテルが火事になった!」

 なんだと、一大事だ。叩き起こされた従業員たちは、宿舎からそう遠くない新館へ向かった。だがこの時、建物の玄関ロビーはすでに火の海。中に入るのは不可能だった。

 彼らは、すぐに近隣の旅館へ火災発生を知らせて回った。通報は誰も行わなかったという。火災を知らされた釣堀の店員が、ようやく加入電話を使って役場へ連絡したのが3時58分のこと。この時点で、火災発生から少なくとも18分程度は経っていたと考えられる。

 火炎は、みるみるうちに菊富士ホテル新館を呑み込んでいった――。

   ☆

 菊富士ホテルは、国際観光旅館としてランキング入りを果たすほどの一流ホテルだった。

 規模も大きかった。木造3階建ての「渓流閣」、4階建ての「秀嶺閣」、地下1~地上3階建ての新館、木造の離れ2棟、大浴場などで構成されていた。

 火災が起きたのは新館である。深夜に仮眠していた警備員が、灯油ストーヴを倒してしまったらしい。目が覚めた時は、辺り一面が火の海だったという。

 もともと、火がつけばたちまち燃え広がるような部屋だった。室内には不要の段ボールや新聞が積まれていた上に、内壁も天井もベニヤが張られている。警備員はジャンパーで叩いて消そうとしたが、かえって火の手は拡大した。

 消火器を使って、初期消火も試みたようだ。だが駄目だった。この「駄目」の理由は資料により書き方がまちまちなのだが、どうも消火器自体に何らかの不備があったフシがある。

 警備員は、次に火災報知機へ手を伸ばした。新館全体へベルが鳴り響く――。

 だが、このベル音に気付いた宿泊客はほとんどいなかった。人によっては「遠くで電話が鳴っている」程度にしか聞こえなかったらしい。

 警備員は、この措置によって、宿泊客は避難してくれると考えたのかも知れない。彼は次に「加入電話」なるもので役場へ通報した。なんで119番にかけないの? 加入電話って何? と、約50年後の時代に生きている我々としては首をかしげるところだが、資料にそう書いてあるんだから仕方がない。ともあれ、いくら待っても役場は電話に出なかった。

 そうこうしているうちに火の手は回る。悠長に構えている場合ではない――。

 全体としては、こういう流れだったのだろう。最終的に、初期消火はブッブー、火事ぶれも避難誘導もブッブー、消防への通報もブッブー、という結果になってしまった。

 さらに、火元となってしまったこの警備員が、逃げた時に新館の玄関のドアを開けっ放しにしたのも良くなかった。風通しが良くなったのだ。当時の風速は4~5メートルだったといわれており、火勢がますます拡大したのである。

 この警備員は、鎮火した3月11日の夜9時頃には失火で逮捕されている。

 さて、火炎に包まれていく菊富士ホテル新館は、1964(昭和39)年春に鉄筋造りになっていた。だが出火場所の周辺には木造の部分もあり、炎はまずホテルロビーと従業員通路へ延焼。さらにロビー天井と階段を伝って2~3階にも伝播した。

 防火区画は存在していたが、防火シャッターが開放されていたので意味なし。さらに、内装材には可燃材が使用され、床材のカーペットの下地には「速燃性」のクッション用フェルトが使われていた。また床などの貫通部の埋め戻しも不完全で、これらの要因が、火の手の拡大を許したと思われる。

 宿泊客が火災に気付いた時には、既に館内は停電していた。

 当時の、菊富士ホテル全体の宿泊者数は総勢213名(225名という資料もある)。うち、火災が起きた新館には83名がいた。

 中には、警報ベルの鳴動によって火災に気付いた者もいたらしい。それが、警備員があの申し訳程度に火災報知機を鳴らした時のことを指すのか、あるいは異常に気付いた宿泊客が鳴らしたものなのかは不明だが、いずれにせよ、宿泊客の大半は、煙と慌しい物音によってようやく事態を察したようだ。

 先述の通り、新館は、地下1階つきの3階建てである。地上1階で発生した火炎と煙が、廊下も階段も覆い尽くしたため、2階と3階の宿泊客は追い詰められる形になった。火事に気が付いた時には、もう1階へ下りられる状況ではなかったのだ。

 まず2階では、205~208号室が、幅5メートルのバルコニーに面していたのが幸いした。その部屋の客24名は、従業員の指示によって、隣のホテル「白雲閣」への石垣の上に避難したり、近所の旅館が持ってきた布団をクッションにして飛び降りたりしている。結果、2人が軽傷を負った程度で、全員が救助された。

 だが201~203号室にバルコニーはない。まず202・203号室ではなすすべなく計10名が死亡した。201号室の客5名は廊下に出て、すぐ近くにあった南側の非常口へ取り付いている。だが不幸なことに、いわゆるモノロックタイプの扉の開け方が分からず、3名がそのまま廊下で死亡。残る2名は部屋に戻ったが、おそらく煙を吸ったのだろう、その場で1人が死亡。残る1人は飛び降りて助かったものの、重傷を負った。

 次は3階である。こちらは、一部の部屋――305から307号室――が2階のバルコニーに面していたので、宿泊者は投げ落とした布団をクッションにする形で飛び降りている。総勢28名。大半がこの飛び降りで重軽傷を負い、また1人が死亡した。

 301から303の15名は全員が亡くなっている。煙を吸ったのだろう。室内も衣類も焼けておらず、布団の中に入ったままの人もいたという。

   ☆

 鎮火したのは午前6時。意外と早い気がする。だがその分、短時間でこれだけの死者が出たのかと驚かされる事例でもある。実際、一酸化炭素中毒による死者が注目を浴びる大きなきっかけにもなったそうだ。おそらく歴史的に見ても、この菊富士ホテルの事例は、大規模な宿泊施設での火災の恐ろしさを世間に知らしめた最初の事例だったのではないか。

 ホテル新館は半焼2640平方メートルが半焼。先に名前を挙げた、隣接するホテル「白雲閣」もとばっちりを受けて1650平方メートルが類焼した。

 死者は30名、負傷者は29名に上った。死亡したのは、多くが茨城県のタバコ耕作組合のメンバーだった。

 新館から渡り廊下でつながっていた「渓流閣」と「秀嶺閣」の建物は、被害がなかった。そちらの宿泊客についても、従業員がきちんと誘導したことで、しっかり身支度を整えて非常口などから避難できたという。警報ベルもちゃんと鳴らされたそうだ。

 当時の基準で言えば、このホテルの消防用設備に不備はなかった。問題は、それが活用されないまま終わってしまった点である。

 実際、全体的に見てみると、まあやることはそれなりにやっているという印象を受ける。逮捕された警備員は、初期消火も火災報知も通報も「試みて」はいるし、新館以外の建物では宿泊客の避難誘導も行われたというのだから。

 ただ、消防計画の作成や、消防訓練は行われていなかった。

 この事例がきっかけとなって、防火管理関係の法令が改正されている。具体的には、防火管理者の義務強化や、ホテルのような施設では難燃性の材質のものを用いるべし、といった内容が定められたのだった。

 だが――戦後の大規模施設火災の黒歴史は、まだ幕を開けたばかりだった。頻発する火災と法令強化とのイタチごっこの歴史はここから始まる。これ以降、このタイプの火災は数え切れないほどの件数発生して社会問題化し、それが終息するまでには、さらに何百人もの犠牲と数十年の時間を要することになるのである。

【参考資料】
 ◇消防防災博物館-特異火災事例
  http://www.bousaihaku.com/bousaihaku2/images/exam/pdf/a037.pdf
 ◇サンコー防災株式会社「ホテル・旅館火災の特徴と事例」
  http://www.safeland.co.jp/kouza/hotel/hotel_005.html
 ◇ウィキペディア
 ◇何かのサイト
  http://aph.jp/?55827#111