◆菊富士ホテル火災(1966年)

 1966(昭和41)年3月11日、夜明け前の午前3時30~40分頃のことである。

 群馬県利根郡、水上温泉「菊富士ホテル」の従業員宿舎に、一人の男性が駆け込んできた。ホテル新館の控え室で寝泊りしているはずの夜間警備員だった。

「大変だ、新館が火事だ!」

 一大事である。叩き起こされた従業員たちが、宿舎からそう遠くない新館へ駆け付けてみると、すでに玄関ロビーは火の海。中へ入るのは不可能だった。

 彼らは、すぐに近隣の旅館へ火災発生を知らせて回った。ただ、通報は誰も行わなかったという。火災の知らせを受けた釣り堀の店員が、加入電話(※)を使って役場へ通報したのが3時58分のこと。この時点で、火災発生から少なくとも18分程度は経っていたと考えられる。

(※)加入電話…普通の電話回線のこと。かつての逓信省、電気通信省、電電公社、そして現在のNTTによって管理される。全国即時自動交換網が完成したのが1979(昭和54)年で、それまでは、地域の協同組合などで独自に敷いた電話などもあった。これと区別する意味で「加入電話」という名称が使われていた。近年、携帯電話やIP電話などNTT本体以外の事業者の回線が増えてきたことから、呼称としてまた蘇りつつあるとか。

   ☆

 菊富士ホテルは、運輸省によって指定される「国際観光旅館」あるいは「国際観光ホテル」としてランキング入りするほどの一流宿泊施設だった。国際観光客や、海外からのお客を泊めるのにふさわしいと国によって認定されていたのだ。

 規模も大きかった。木造3階建ての「渓流閣」、4階建ての「秀嶺閣」、地下1~地上3階建ての新館、木造の離れ2棟、大浴場などで構成されていた。

 先述の通り、火災が発生したのは新館である。最初に従業員宿舎へ駆け付けた警備員が、仮眠中に灯油ストーブを倒してしまったのが原因だった。

 彼が目を覚ました時には、辺り一面が火の海だったという。

 もともと室内は、ひとたび火がつけば、たちまち燃え広がるような状況だった。不要な段ボールや新聞が積まれていた上に、内壁も天井もベニヤ張り。最初、警備員はジャンパーで叩いて消火しようとしたが、かえって火勢は拡大した。

 彼は、消火器も使ってみた。だがダメだった。何が「ダメ」だったのかは資料によって書き方がまちまちなのだが、どうも消火器自体になんらかの不備があった節がある。

 次に、彼は火災報知器へ手を伸ばした。これにより、新館全体へベルが鳴り響いた――はずだった。だが実際には、当時、このベル音に気付いた宿泊客はほとんどいなかったようだ。人によっては「遠くで電話が鳴っている」程度にしか聞こえなかったという。

 ともあれ、火災報知器を鳴らしたのだから、これで宿泊客は避難してくれるはずだ。警備員はそう考えたのかも知れない。彼は次に、加入電話で役場へ通報した。

 しかし、なぜかこの時、役場では誰も電話に出なかったという。この後、釣り堀からの通報でやっと電話がつながったわけだが、ここで時間のロスが発生してしまった。

 それにしても当時、この地域では、火災の場合は消防署ではなく役場へ通報することになっていたのだろうか。

 実際、消防法第24条第1項には、火災の発見者は「消防署又は市町村長の指定した場所」に通報すべしと定められている。この「市町村長の指定した場所」は役場とか警察署でもいいらしい。今、我々にとって火災の通報といえば119番で消防署が当たり前だが、昔はいろいろ違っていたのかも知れない。

 火の手は拡がっていく。費用節減のためにと、このホテルでは夜間警備に十分な人数を割いておらず、他に頼れる仲間もいない。彼は避難することにした。

 さらに、この避難時にまたミスがあった。新館から脱出した際、玄関のドアを開けっ放しにしてしまったのだ。当時の風速は4~5メートル。建物の中は風通しがよくなってしまい、火勢はますます拡大した。こうしたいくつかのミスと不運が重なり、鎮火した3月11日の夜9時頃には、この警備員は失火で逮捕されている。

 菊富士ホテル新館は、1964(昭和39)年の春には鉄筋造りへと造り変えられていた。だがまだ木造の部分が残っていたことから、火元となった部屋を出発点に、ロビー、従業員通路へと延焼。さらに天井と階段を伝って、二階と三階へと炎は伝播していった。

 防火区画は存在していた。だが、防火シャッターが開けっ放しだったため意味なし。さらに床下のカーペットの下地には、「速燃性」という、字面を見ただけで致命的と分かる性質のクッション用フェルトが使われていた。また可燃性の内装材も使われていた上に、床などの貫通部の埋め戻しは不完全。これらの要因が、火の手の拡大を許してしまった。

 この夜の、菊富士ホテル全体の宿泊者数は213名(資料によっては225名とも)。このうち、火災が起きた新館にいたのは83名。彼らが火災に気付いた時には、すでに新館内は停電していた。

 彼らの大半は、火災報知機のベルではなく、館内にあふれる煙と慌ただしい物音によってようやく目を覚まし、事態を察したという。

 新館が、地下1階つきの3階建てだったことは先述の通りだ。火災は地上1階で発生したため、火炎と煙によって2・3階の宿泊客は追い詰められる形になった。もはや、廊下や階段を通って1階へ下りられる状況ではなかった。

 ここからが、取り残された者たちによる決死の脱出と、それが叶わなかった者たちの悲劇の岐路となる。

 まず2階は、205~208号室が、幅5メートルのバルコニーに面していたのが幸いした。その部屋の宿泊客24名は、従業員の指示で、隣のホテル「白雲閣」の石垣の上に避難したり、近所の旅館が持ってきた布団をクッションにして飛び降りたりしている。結果、2人が軽傷を負った程度で、全員が救助された。

 だが201~203号室にはバルコニーがなかった。202・203号室ではなすすべなく計10名が死亡した。201号室の客5名は廊下に出て、すぐそばの南側の非常口へ向かっている。だが、いわゆるモノロックタイプの扉の開け方が分からず、3名がその場で死亡した。残る2名は部屋に戻ったが、その場で1人が死亡。残る1人は飛び降りて助かったものの、重傷を負った。

 次は3階である。こちらは、305~307号室が2階のバルコニーに面していたので、宿泊客は布団を投げ落とし、これをクッションにする形で飛び降りた。総勢28名。大半がこの飛び降りで重軽傷を負い、また1人が死亡した。

 301~303号室では15名の宿泊客全員が亡くなった。煙を吸ったのだろう。室内も衣類も焼けておらず、布団の中に入ったままの人もいたという。

 最終的に、死者は30名、負傷者は29名に上った。死亡したのは、多くが茨城県のタバコ耕作組合のメンバーだった。

 ホテル新館は2,640平方メートルが半焼。先に名前を挙げた、隣接するホテル「白雲閣」もとばっちりを受けて1,650平方メートルが類焼した。

 一方で、新館と渡り廊下でつながっていた「渓流閣」と「秀嶺閣」の建物は被害ゼロ。こちらは警報ベルが鳴り、従業員がきちんと誘導したことで、宿泊客たちも身支度を整えて非常口などから避難できたという。

   ☆

 この火災で、消防隊は午前4時に出動している。当地のほぼ全ての消防団と、周辺地域の消防署が結集して消火活動にあたった。しかも消火設備は当時のものとしては最新鋭、水利も悪くなかったことなどから、約2時間後の午前6時には鎮火している。かなり早い。強いて難点を挙げれば、温泉街ということで道路が狭く、起伏も激しいことから、到着に手間取ったことくらいだった。

 だがその分、短時間でこれ程の死者が出たのかと驚かされる事例でもある。この火災は、一酸化炭素中毒による死亡事例としても注目されたらしく、ひょっとすると、大規模な宿泊施設での火災の恐ろしさを世に知らしめた最初の事例だったのかも知れない。

 ところで、当時の基準に照らし合わせてみると、菊富士ホテルの消防用設備に不備はなかった。それに火災発生から鎮火までの間には、死者が出た新館以外の建物では避難誘導もきちんと行われている。新館にしても、火災を起こした警備員は、初期消火、火災報知、通報を一応「試みて」はいる。

 消防用設備や防災体制に目立った落ち度はなかったものの、現実に発生した大規模火災に対しては不十分だったということなのだろう。

 実際、消防計画の作成や消防訓練は行われていなかった。また消火設備のほとんどは使われないままで、そもそもそうした設備の存在を宿泊客は知らされていなかった。

 もちろん現代に生きる我々も、どこかのホテルに泊まるたびに、消火設備について教わったりはしない。だが特に当時は、温泉宿などを含む多くの施設で、そういう非常用の設備をあまり強調すると無粋に思われる…とされた空気があったようだ。今ではさすがにそこまでは思うまい。人々の意識からして、ちょっと違っていたのである。

 この火災がきっかけで、防火管理関係の法令が改正された。防火管理者の義務強化や、ホテルなどの施設では難燃性の材質のものを用いるべし、などと定められたのだ。ちなみに言えば菊富士ホテルの場合、防火管理者は、前の担当者が辞めてからは法的資格のない人が名ばかりの後任になっていたとか。

 戦後の大規模施設火災の黒歴史の幕開けである。大火災の発生と法令強化のイタチごっこの歴史はここから始まった。菊富士ホテル以降、似たようなタイプの火災は数え切れないほど発生して社会問題化していく。これが解決を見るまでは、何百人もの犠牲と数十年の時間を要することになるのである。

【参考資料】
消防防災博物館-特異火災事例
サンコー防災株式会社「ホテル・旅館火災の特徴と事例」
国会会議録検索システム 第51回国会 衆議院 災害対策特別委員会 第3号 昭和41年3月17日
◆ウィキペディア
何かのサイト

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