◆松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)

 1961(昭和36)年1月1日、元日のことである。

 岩手県岩手郡松尾村(現八幡平市)の、松尾鉱山小学校でその事故は起きた。

 この日は午前9時から校内で新年祝賀会が開催されていた。例年、その後は映画会を開くことになっており、祝賀会が終了した9時30分頃には、児童たちが早く映画を観たい一心で廊下を駆けていた。

 会場は、学校から300メートル離れた場所にある鉱業所内の会館である。児童たちは外に出ようと、校門に近い西昇降口を目指していた。

 そして9時40分頃。彼らが2階の階段を下りたところで惨劇は起きた。

 きっかけは、階段を下り切った先頭の児童が、靴を履き替えるために立ち止まって腰をかがめたことだった。そこへ後続が押しかけたため、全体の流れが一瞬だけ詰まり、そのまま折り重なって倒れたのだ。

 後ろの方では何が起きたのか分からず、面白半分に階段の上から飛び降りる児童もいたという。こういうのが群集事故の恐ろしいところだ。

 教諭たちが駆けつけた時には既に10人が呼吸停止の状態で、13人が負傷していた(負傷は10人という資料も)。死者のほとんどは圧迫窒息死だったという。

 現場は、事故が起きてみると「なるほどこれは危ないわ」と納得してしまうような状況だった。この地域は豪雪地帯で、正月とあって校舎は雪に埋もれていた。そのため利用できる出入り口は限られており、その数少ない入り口の一つに児童が殺到した形だったのだ。

 また、現場の昇降口は暗かった。読者諸君は「雪囲い」というものをご存知だろうか。雪国では、建物や樹木が積雪でダメージを受けないように、板で覆ってロープでくくるなどして防護壁を作る習慣がある。現場の校舎でもそれが行われていたというから、おそらく窓などが覆われていたのだろう。咄嗟には状況が把握しにくい状態だったという。

 まして、子供たちは映画を楽しみにして廊下を走っていたのだ。薄暗い階段の下の状況などには思いが及ばなかったに違いない。

 この事故がどのように処理されたのかは不明である。

 ここから先は、この松尾村という地域について少し書いておきたい。事故災害ルポとして見ると完全に余談なので、興味のない方は読み飛ばしてもらっても大丈夫である。

 現場の小学校の名前からも分かる通り、この地域は鉱山町だった。その中心にあったのが松尾鉱山である。硫黄鉱石が採れるということで、当時は栄えに栄えた場所だったのだ。

 この鉱山が発見されたのは1882(明治15)年のこと。一時、その採掘量は「東洋一」とまで呼ばれるほどだった。

 さらに戦後、朝鮮特需で景気が良くなった昭和20年代には需要が増し、硫黄鉱石は「黄色いダイヤ」とまで呼ばれるほどになった。

 そこで、労働力確保の必要性もあって、松尾村は一気に整備された。公団住宅が一般的ではなかった時代だったにも関わらず、集合住宅は水洗トイレにセントラルヒーティング完備。また小中学校や病院も建てられ、福利厚生もばっちり。実に近代的な都市だったのだ。

 雪国東北の山間部で、当時こんな場所があったのか――。山形在住の筆者などは、資料を眺めてそんな風に驚いたものだ。実際「雲上の楽園」などと呼ばれたこともあったらしい。

 事故が起きた松尾小学校も、立派な鉄筋コンクリ製の近代的な造りで、最盛期は児童数1,800人に達したマンモス校だったという。

 だが人が増えれば、それだけ群集事故の危険性も高まる。群集というものの発生が近代特有の現象だと考えると、急速に近代化が進んだ松尾村という場所でこういう事故が起きたのは、暗示的だなという気もする。

 そして、この松尾村の「その後」である。

 そもそも、硫黄の採掘で栄えた鉱山町があった……などという歴史的事実そのものが、現代に生きる多くの人にとっては初耳か、あるいはすっかり忘れられた話に違いない。

 1960年代後半(昭和40年代)を境に、硫黄の価値は急落した。資源の枯渇、輸入の増加、需要減、そして安価に硫黄が生産されるようになったことなどがその理由である。国内の硫黄鉱山はどんどん閉山に追い込まれた。

 こうした流れで、松尾鉱山も1969(昭和44)年に強制的に閉山。翌年の1970(昭和45)年には住民も退去した。当時のアパートは現在は心霊スポットとして有名だそうだ。

 いくつかのサイトでざっと調べてみたが、事故の現場となった小学校は今は取り壊されたようだ。
 
【参考資料】
◆岡田光正『群集安全工学』鹿島出版会、2011年
◆ウィキペディア

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