2014年4月10日木曜日

◆函館大火(1934年)

 函館大火――。この巨大火災についてお話しするにあたっては、白木屋火災と同様に、まずは寺田寅彦先生にご登場頂くことにしよう。彼が『函館の大火について』という文章を書いているのだ。

「昭和九年三月二十一日の夕から朝にかけて函館市に大火があって二万数千個を焼き払い二千人に近い死者を生じた。実に珍しい大火である。」

 ここで思わず「は?」と聞き返したくなるのは筆者だけではあるまい。なんだその「二千人」って。二十の間違いじゃないの? あるいは、多くても二百とかじゃなくて――?

 ところが間違いではないのである。正式な死者数は2,166名で、いくら大火とはいえ目を疑うなという方が無理な話だ。どうしてこうなった。一体この日、函館で何が起きたのだろう?

   ☆

 改めてご説明しよう。時は1934(昭和9)年3月21日のことである。場所は言うまでもなく、北海道の函館市だ。

 当時は、日本列島付近で巨大な低気圧が渦巻いていた。午前6時の時点ではまだ日本海の中央に腰を据えており、大きな動きはなかったのだが、これが午後6時頃には東北地方から北海道南部までの範囲に接近。猛烈な風を吹き募らせ始めたのだ。北海道では、最大瞬間風速39メートルを記録したという(ちなみにこの風速は、目安として、身体を45度に傾けないと立っていられず、小石も吹き飛ぶ程のものである)。

 函館でも、火災が起きる前からこの強風による被害が相次いでいた。家屋は倒壊するわ屋根は飛散するわ、あげく電線まで切れる始末で、すでにして街は滅茶苦茶だったのである。

 火災が発生したのは午後6時35分。函館市の南端の地区で一軒の住宅が半壊し、屋内にあった囲炉裏の火が風で散った。これが、街中に火をばらまく結果になったのだ。

 この辺りの経緯を、寺田はこう書いている。

「この時に当たってである、実に函館全市を焼き払うためにおよそ考え得らるべき最適当の地点と思われる最風上の谷地頭町から最初の火の手が上がったのである。」

 一応ひとつ書き添えておくと、筆者の手元にある資料では、最初に火の手が上がったのが「住吉町」となっている。寺田が文章を書いた時点ではまだ火災の全貌が明瞭でなかったそうなので、情報も整理されていなかったのだろう。

 まあでも、この直後に街全体が焦土と化した事実に比べれば、些細な記述の違いなどちっぽけなものである。函館市内で発生した炎は猛烈なつむじ風に乗って次から次へと燃え移り、街はたちまち火の海となった。

 しかしなんでまた、そんなに簡単に街が焼けてしまったのだろう?

 ここでまた寺田による説明なのだが、まず風の強さの問題があったという。火災の場合、風は強ければ強いほどいい。なぜならそれで吹き消されるからだ。だがこの時に函館で吹いていた風の勢いは、炎を消すほどでもない微妙なラインのものだったのだそうだ(筆者としてはどうも腑に落ちない説明なのだが、本当なのだろうか?)。

 それから第二の問題として、「延焼の法則」とでも呼ぶべきものがあった。

 大火の場合、発火地点からどのような形で延焼するかは、これはもうある程度は自然法則的に確定するものなのだそうだ。例えば江戸時代に発生した複数の大火の焼失地域を調べると、ほとんど決まって火元から「半開きの扇形」に延焼しているという。

 ではこれらの法則に照らし合わせてみた場合、当時の函館というのはどうだったのか。これについては寺田曰く、

「これはなんという不幸な運命の悪戯であろう。詳しく言えば、この日この火元から発した火によって必然焼かれうべき扇形の上にあたかも切ってはめたかのように函館全市が横たわっていたのである。……(中略)……要するに当時の気象状態と火元の位置とのコンビネーションは、考え得らるべき最悪のものであった」。

 要するに、運が悪かったのだ。

 それにしても寺田先生、やけに楽しそうな文章である。「およそ考え得らるべき最適当の地点」とか「あたかも切ってはめたかのように」とか「考え得らるべき最悪のもの」とか、妙にわくわくさせてくれる言葉使いだ。今こんな文章を書いたりしたら、たちまちマスコミの下らない失言狩りの餌食になること請け合いだ。

 とにかくこんな理由もあって、火焔はみるみる拡大していった。先述したように烈風のため電線も切れており、街全体が停電している中での火災である。これもまた寺田の言う「最悪のコンビネーション」であろう。

 さらに、街全体に吹き付けていた風が時計回りにころころと進路を変えやがったせいで、延焼範囲はそっちこっちに及んだ。消防はこの火炎の流れに翻弄されながら、ほぞをかむ思いだったことだろう。

 函館市は、もともと風が強い港町である。よって昔から大火は頻発しており、変な言い方だがそれで「大火慣れ」していた部分もあったらしい。100や200の家が焼けた程度では大火とは呼ばない……という言い方はさすがに大げさかも知れないが、とにかくそういう感覚に加えて、消防施設や街並みが近代的になったがゆえの油断、というのもあったようだ。

 翌朝、ようやく鎮火した時には、街はまるで空襲の後のような有様だった。当時の写真がネット上でも結構見られるのだが、本当に爽快なくらいに何も残っていない。文字通りの焼け野原である。

 人的被害については、最初に述べた通り犠牲者が二千人にも及んだわけだが、これは火災のせいばかりでもなかった。避難した先の海岸で波浪に襲われて大勢が溺死したとか、避難先で百人近くが凍死したとか、気象による被害も大きかったのだ。

 ここまで来ると、ほとんど天変地異である。この日函館を襲ったのは大火というよりも、純然たる「自然の猛威」だったのだ。

 負傷者は9,485人、焼失家屋は11,105戸に上った。

   ☆

 これが世に言う「函館大火」である。

 先述した通り、函館で火災が発生すること自体は珍しいことではなかった。現に寺田も「この原稿を書いている時にまた函館で火災が起こった」という趣旨の文章を書いている。しかしそれら数ある火災の中でも大火中の大火、まさに「ザ・函館大火」と呼ぶにふさわしいものは、この1934(昭和9)年3月21日に発生したものなのだ。

 いくら忘れっぽい日本人でも、さすがにこの大火を忘れてしまえという方が無理な話だろう。函館では、今でも火災が発生した日には慰霊祭が執り行われているという。

 また、比較的最近のニュースでも話題にされていたことがあった。例の東日本大震災の後、函館の市民有志が被災地の子供たちへ児童書を寄付したのだ。

 実はこれは「恩返し」でもあるのだった。函館大火の直後、当時の函館図書館の館長が、被害に遭った子供の心を癒すためにということで、全国からの児童書の寄贈を募っていたのである。その結果、図書館・出版社・学校などから12万冊が寄せられたのだ。

 東日本大震災における函館市の支援は、これにとどまらない。例えば岩手の沿岸地域には舟を寄贈するなどしている。

 おそらく本州の人間にとって、函館大火は「忘れられた災害」でしかないことだろう。だが地元の人々にとってこの災害は、今でも生きた記憶として残っているのである。

 実は、筆者が本稿を最初にものしたのは、東日本大震災が発生するよりも前のことだった。その後、ニュースでこの函館市の支援活動を見た時には思わず目頭が熱くなったものだ。よってこうした記録も書き添えておく次第である。

【参考資料】
◇『寺田寅彦全集』岩波書店(1976年)
◇函館市消防本部ホームページ
◇ウィキペディア他