◆大日本セルロイド工場火災(1939年)

 先に、白木屋火災の項目で「燃えやすいセルロイド」と書いた。

 で、セルロイドとは一体何なのかというと、これは合成樹脂の一種である。プラスチックの親戚というかご先祖様にあたる代物で、過去にはアニメーション作成でも使用されていた。「セル画」というのがそれだ。

 このセルロイドが、実はとても燃えやすいのである。現在では消防法上の危険物の一種と見なされており、その扱いには相当の注意を要するという。

 今回ご紹介する事例は、そのセルロイドのせいで発生した火災である。しかもその規模は、はっきり言って白木屋の比ではない。セルロイドの危険性ここに極まれり、開いた口も塞がらない大惨事をご覧あれ。

   

 1939(昭和14)年59日、午前923分頃のことである。

 場所は東京都板橋区、志村小豆沢(しむらあずさわ)。大小様々の工場が立ち並ぶ工業地域である。

 もともと、板橋区周辺というのは火薬にまつわる施設が多かった。例えば江戸時代には和光市の花火屋があり、江戸末期には高島平の大砲試射場があり、そして明治には下板橋の火薬工場があり……といった塩梅である。これがこの地域の伝統産業だったらしい。

 そして1939年といえば、二年前に日中戦争が勃発したばかり。小豆沢には、軍需生産にひと役買っていた工場も複数存在しており、大日本セルロイド工場㈱東京工場もそのひとつだった。

 火災のきっかけになったのは、この日工場に入ってきた一台の貨物自動車だった。

「まいどーっ! セルロイドの屑を持ってきました~」

 この時持ち込まれたセルロイドの屑が何に使われる予定だったのか、それは定かでない。とにかくここで、運転手がなんの気なしに煙草をポイ捨てしたからさあ大変。気が付くと、荷台の麻袋が火を噴いていた。中にはセルロイドが詰まっている。

「わあ大変だ、消せ消せ!」

 ところがこの日の風速は9メートル。しかも工場内の防火設備はお粗末そのものだった。一応、防火水槽も設置してあったが、あっという間に構内が火に包まれたので利用する暇もない。また悪いことに、当時の工場の多くは木造建築で、ほとんど為す術もなく火焔は飛び火した。

 その飛び火した先もまずかった。お隣の日本火工㈱は火薬や照明弾を製造しており、なんとこの日は火薬の加工品を露天で乾燥させていたのだ。当時は強風とはいえ天気は快晴で、天日干しにはちょうどいい環境だったのだろう。

 ポン、ポポン。最初は小爆発で済み、工員たちが消火活動を行なう余裕もあったようだ。

 だが、この直後に大量の火薬に引火したことで、この火災は最終的に「戦前四大火災」の一つに数えられる程の大惨事となったのである。

 大爆発を繰り返すこと三回。この時の爆発音は東京市内全域に響き渡り、爆発と共に照明弾があちこちに飛散するお祭り騒ぎになったという。

 消防隊が駆けつける。しかし、水利もとんでもなく悪かった。消火栓は近くの中山道に点在していたのだが、これは火災現場からはあまりにも遠すぎた。付近には河川もなく、少し離れたところに自然水利を求めるべく、ホースを63本も延長した消防隊もあったという。

 想像するだにやるせない話だ。モタモタと63本ものホースを接続している間にも火災は拡がる。当時の消防隊員の気持ちや如何に。

 火災現場では、飛び火が留まるところを知らなかった。周囲の複数の工場からも続々と火の手が上がる。

 特にひどいのが大日本軽合金㈱への延焼で、ここには大量のマグネシウムがあった。マグネシウムは燃えやすい上に、水をかけても消えない。むしろ水によって激しく燃焼するため、火災においては化学消防の技術を要するのである。

 ようやく鎮火したのは午後五時のことだった。

 爆発の範囲は半径500メートルの範囲にまで達し、うち150メートル以内は、なんかもう、空襲が一足先にやってきたような状態だったという。死者は32名、負傷者245名、全焼88戸、半焼6戸、焼失面積は10,890平方メートルに及んだ。

 この火災への対応で出動したのは、板橋警察署と隣接警察署、警視庁特別警備隊それに「赤羽工兵大隊」「近衛一連隊」そして各憲兵隊などだった。また事後処理においても東京市の「社会局」と「市民動員部」なる組織だか部署だかが、被害者に対して弔慰金や見舞金を出したそうだ(時代が時代なので、見たことも聞いたこともない組織名ばかりである)。

   

 セルロイドは当時から危険物と見なされていた。1938(昭和13)年9月には「セルロイド工場取締規則」が定められるなど、現場での厳重な管理が求められていたのである。

 だが、それでもセルロイドによる火災は頻発していた。現場ではルールが必ずしも遵守されていなかったか、あるいはルールが現実に合っていなかったのだろう。

 またこの頃は、重工業を中心とした軍需産業が大盛況を迎えていた。時代の要請に追われて急ピッチで生産作業が進められていた現場では、色々と無理もあったのではないか。

 例えば、この年の31日には大阪の枚方(ひらかた)陸軍倉庫でも火薬庫が大爆発し、800家屋が全焼、死者10名・行方不明者38名という事故が発生している。また翌年には西成線(今のJR桜島線)で、工業地域への出勤者を乗せた列車が脱線転覆するという惨事が起きており、これは国内の鉄道事故史上ではトップクラスの死者数である。

 事故災害のことばかり調べていて気付いたことがある。この、昭和10年代から東京オリンピックまでの数十年間というのは、驚くほど多くの日本人が人災で命を落とした時代だったのだ。

 考えてみれば、例の戦争だって敗戦した以上は国家レベルでの過失・人災、つまり事故災害だったと言えなくもないわけで、なるほど大量死の時代だったのだなと思うのである。

【参考資料】
ウェブサイト「消防防災博物館」
『東京の消防百年の歩み』東京消防庁(1980年)


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